カッコーの巣の上で ★★☆
(One Flew Over the Cuckoo's Nest)

1975 US
監督:ミロス・フォアマン
出演:ジャック・ニコルソン、ルイーズ・フレッチャー、ウイリアム・レッドフィールド、ダニー・デビート



<一口プロット解説>
ルイーズ・フレッチャー演ずる婦長を中心として管理主義を徹底する精神病院に、強制労働を免れる為に狂人を装うマクマーフィ(ジャック・ニコルソン)がやって来る。
<入間洋のコメント>
 「カッコーの巣の上で」は、精神病院が舞台となる映画だが、映画のテーマとして精神病院又は精神病患者が取り上げられるようになったのは、それ程昔ではない。そもそも、ドキュメンタリーを別とすれば、エンターテインメント性に大きな焦点がある映画というメディアにおいて精神病が取り上げられること自体がかなり破格である。それ以前の映画に関してはあまり詳しくはないので断定は出来ないが、精神病が映画の中で1つの題材として取り上げられた最初の例は、オリビア・デ・ハビランドがアカデミー主演女優賞に輝いた「蛇の穴」(1948)ではなかろうか。「イヴの総て」(1950)のレビューでも言及したように、ジョセフ・L・マンキーウイッツらによって新しい自由な表現が徐々に芽吹き始めたのが1940年代後半であり、一般的には映画のテーマにふさわしいとはとても思えない精神病のような題材も1940年代後半には徐々に扱われ始めたということだろう。「蛇の穴」が製作された後、1950年代及び1960年代を通じて精神病を題材とした映画が時折製作されるようになる。しかしながら、これらの映画は、オーディエンスを楽しませることが目的であるエンターテインメントの枠内で製作されていることは否定出来ない事実であり、決して精神病の臨床記録のようなものではないことはわざわざ指摘するまでもない。従って後述するように、殊に「イブの三つの顔」(1957)や「去年の夏突然に」(1959)のような1950年代に製作された精神病を題材とする著名な作品は、極めて演劇的な色彩が濃く、厳密に言えば精神病が扱われているとすら言い難い。

 このように言い切ると、随分と偉そうに聞こえるかもしれないが、実は情状酌量を請うだけの理由がある。というのも、小生は以前精神病理学関連に興味を持っていたことがあり、その関連の書籍をかなり読んでいたことがあるからである。勿論、自分は精神科医でもなければ、精神科医になることを夢見ていたわけでもないので、臨床記録のような生の資料を読んでいたわけではなく、名前だけを思い付くままに列挙するとR・D・レイン、ボス、ビンスワンガー、ミンコフスキー、ブランケンブルク、テレンバッハ、ヴァイツゼッカー、メラニー・クライン、木村敏というような精神病理学者の書いた著作を手当たり次第に読んでいたということである。何故そのようなITエンジニアとは全く釣り合わないように見える分野に興味があったかというと、その当時、言語学者ソシュールの世界的権威と言われ、魅力的且つ分かりやすい著書により多くの有意な青年達を哲学の道へと誘い込んだと言われる丸山圭三郎氏の著書や或いは動物学者ユクスキュルの本を読んで、自己が自己の周囲に拡がる環境世界を構成する仕方とは必ずしも絶対的なものではないということを知り電光のように蒙を啓かれたという経緯があり、それに関連するテーマを扱った書物を片端から読んでいたからである。すなわち、自己の周囲に拡がる環境世界を人はどのように構成するかというテーマに関しては、或る意味でそれに失敗した(R・D・レインやライヒのような精神分析学者であれば失敗という表現は妥当ではないと言うかもしれないがここではそれは問わないことにしよう)とも言える精神病患者と呼ばれる人々が、どのように自らの生きる世界を構成しその中で生きているかを知ることが大いに参考になるからである。

 1つだけ例を挙げると、ブランケンブルクという精神病理学者は「自明性の喪失」という著作の中で、ある種の分裂症患者にとっては、来るべき次の一瞬が現在のこの一瞬と同様な仕方で連続的に存続する保証が自明ではないような世界で生きているということを述べている。具体的に言うと、たとえば今自分の立っている床が次の一瞬には消失してしまう可能性が片時も消えない世界で彼らは生きているということである。重要なことは、たとえばブラックホールが瞬時に発生して足元の床が次の一瞬には消えてしまうことも論理的には可能であろうなどと考える正常人が行う論理的推論とそれとを混同してはならないことである。すなわち、彼らは推論的に考えているのでは全くなく、そのような世界の中で生きているということであり、論理的推論と実際にそのような世界で生きることの間にある相違が果てしなく大きいことを真に理解する必要がある。逆にこのことは、正常であると見なされている人々が、どのようなメカニズムを有しているが故に正常な生活が送れるかということを知る為のヒントにもなるわけである。余談になるが、そのように考えてみると、精神病理学は必ずしもITエンジニアと全く無縁であるとは言い切れない側面がある。何故ならば、コンピュータシステムの多くは人間のオペレーションが介在するのであり、人間が何を前提として自分達の環境世界を構成しているかについて知見を得ることは、人間工学的な意味からも大きな意義があるからである。小生はかつてリゾート関係のシステム開発に従事していたことがあるが、人間が一般的に取る行動が理解されることなく構築されたシステムがいかなる問題を引き起こすかについて興味深い体験をしたことがある。話が大きく本題から逸れてしまったが、このような精神病の本質を映画の中で扱うことは到底無理であり、仮にそのような作品が現れたならば、恐らくそれは精神病というテーマに馴染みがない人にはヌエのようなものになるはずである。従って、「イブの三つの顔」(1957)や「去年の夏突然に」(1959)では、題材となっているのは確かに精神病ではあるが、実際には演劇的なパフォーマンス以上のものが提示されているわけではないと考えるべきであり、精神病というシチュエーションが演劇的な素材として利用されているのはむしろ当然のことなのである。

 そこで、次にこの1950年代の2作品を取り上げ、それらがいかに演劇的な作品であるかについて簡単に述べてみよう。まず、1957年に製作されジョアン・ウッドワードがアカデミー主演女優賞に輝いた「イブの3つの顔」を取り上げてみよう。この映画では、多重人格が扱われており、実在の人物(DVDの特典によれば主人公のモデルとなった実在のイブは21世紀になった今日でもまだ著作活動などを続けているそうである)がモデルになっている。その事実だけを取り上げてみれば臨床記録であるように思われるかもしれないが、勿論前述の通りそう見るべきではなく、演劇的な特徴が際立っているという方が正しい。そもそも、淑女タイプのイブ・ホワイトと自由奔放に振舞うイブ・ブラックが最後にはジェーンという人格に統合されるという明解に過ぎる図式は、正−反−合という極めてフィクション的な構図が展開されていることを意味し、これが現実的な精神病の治癒プロセスと必ずしも符号するわけではないことは明らかだろう。その証拠に、DVDの特典によれば、実在のイブはこの映画が製作された年よりも遥か後の1970年代の後半になるまで、三重人格はおろか十数人格に悩まされ続けた後にようやく治癒するそうである。この映画は、ジェーンという人格に最後は統合されて目出度し目出度しで終わるが、もしこの映画を少しでも精神病の臨床記録のようなものとして見るならば、何故彼女は分裂した自己をジェーンという人格に統合することに成功したかが明確に示される必要があろう。何故ならば、臨床記録とは単なる日記ではなく、少なくともwhyに対する何らかの回答がそこには含まれていなければならないからである。しかし、この映画ではその点は全く不明である。昔被った精神的外傷となる体験を思い出すことが出来たのでそれが可能になったという回答が与えられているかのようにも見えるが、実は問題はその手前にある。つまり、大人になるまで記憶の彼方に固く閉じ込められたまま存在し続けるほどのポテンシャルを持って抑圧されてきた幼児期のトラウマティックな体験を、何故今まさに思い出せるようになったかが明瞭ではないのである。とはいえ、そのような目でこの映画を見ても仕方がないのであり、むしろジョアン・ウッドワードのオスカーパフォーマンスを、精神病患者を演ずるパフォーマンスとしてではなく演劇的なパフォーマンスそのものとして堪能するのが正しい見方であることは敢えて指摘するまでもなかろう。

 次は、「去年の夏突然に」であるが、この作品はジョセフ・L・マンキーウイッツの作品である。彼の作品ということで予想される通り、会話中心にストーリーが展開される。この作品では、ロボトミー(脳梁切断手術)が1つの話題になっており、主人公の一人キャサリン(エリザベス・テイラー)にロボトミー手術を施すか否かがストーリーの焦点になっている。しかしながら、この映画を見ていて誰しも気が付くことは、キャサリンは、今日では全面禁止されている程問題があるロボトミー手術が施される必要があるような精神状態にあるとは全く見えないことである。そもそもそのような危険な手術が本当に必要な人物が主人公の一人であれば、会話主体の映画としては全く成立し得ないだろう。つまり、この映画も「イブの3つの顔」同様或いはそれ以上に、精神病は、単に演劇的パフォーマンスの素材として扱われているに過ぎない。「イブの3つの顔」同様この映画のラストシーンも、キャサリンがそれまで抑圧してきた去年の夏の忌まわしい出来事を思い出すことにより精神病が回復したことが暗示されるラストで終わるが、「去年の夏突然に」の場合にはwhyが分からないというより以前に、そもそも最初から彼女が精神病であったようにはとても見えない。マンキーウイッツの名誉の為に付け加えておくと、実は、このように述べたからと言ってこの映画を本質的な面において貶したわけでは決してなく、会話主体の演劇的映画として見ればキャサリン・ヘップバーンを筆頭とした主演3人の好演もあって素晴らしい映画であることに変わりはない。

 1950年代が過ぎ1960年代に入ると、精神病を扱った有名な作品は知る限りでは存在しない。敢えて言えばヒチコックの「マーニー」(1964)が挙げられるかもしれないが、「」(1963)のレビューでも述べたようにこの作品が呈示する深層心理的な内容はむしろ演劇的と言う方が正しく、その意味では「イブの3つの顔」や「去年の夏突然に」と類似した展開を持つ。但し、日本未公開映画には精神病を扱った映画がいくつか存在し、ジーン・セバーグが精神病患者を演じた「Lilith」(1964)、ポリ・バーゲンが精神病患者を演じた「The Caretakers」(1963)、サミュエル・フラーの「Shock Corridor」(1963)等が挙げられる。日本劇場未公開のマイナーな作品ばかりなので詳述はしないが、1960年代の作品は、1950年代のそれよりもリアリスティックな側面が重視され、演劇的パフォーマンスに過度な比重が置かれることはない。但し「The Caretakers」冒頭のポリ・バーゲンが精神異常をきたすシーンとサミュエル・フラーの作品を除けば、映画的範疇を越えて精神病が取り扱われることはない。また、「The Caretakers」には、本題である「カッコーの巣の上で」に即して述べる精神病院という施設自体に対する批判の萌芽が見られることには注意を向けるべきだろう。

次はいよいよ肝心の「カッコーの巣の上で」であるが、この作品がこれまで紹介してきた1940年代から1960年代前半までの精神病を扱った作品と決定的に異なるのは、ミシェル・フーコーが聞けば必ずや感涙に咽ぶであろう強烈な官僚制度批判が込められていることである。そもそも、この作品においては精神病院に収容されている患者達の方が、病院のスタッフよりもむしろノーマルであるようにすら見える。この作品でアカデミー主演女優賞に輝くルイーズ・フレッチャー演ずる看護婦長は、あたかも強制収容所であるかのように患者を取り扱うが、この映画においては、精神病院はもはや精神病患者の治癒がその目的ではなく、社会に適合出来ない半端者達を社会から隔離する為の施設であるかのように描かれている。ジャック・ニコルソン演ずる自由なスピリットを持った主人公のマクマーフィは、最後にはその自由なスピリットを奪い取られてしまうが、本来精神病の治癒とは自己自身による自己自身の抑圧からの解放が大きな目的であることは、不十分であるとは言え「イブの三つの顔」や「去年の夏突然に」からも窺えるが、「カッコーの巣の上で」においては全くその逆に精神病院自体が強力な抑圧機関として機能しているという大きな矛盾が描かれている。「サイレント・ランニング」(1972)のレビューで述べたように、1970年代と言えば高度管理社会批判がテーマとなる映画が数多く製作されていたが、「カッコーの巣の上で」の舞台となる精神病院もまた、生命が本来的に持つ多様性を認めることが出来ない高度管理社会の縮図として見ることが可能だということである。

 また、「カッコーの巣の上で」が、それまでの精神病或いは精神病施設に関連する映画と異なるもう1つの点は精神病患者が全て男であることである。精神病院で殺人事件を調査する新聞記者が次第に狂っていくというサミュエル・フラーの異色映画「Shock Corridor」を除けば、それまでの映画においては必ず女性が精神病患者を演じていた。勿論男性患者も登場したが、主演格の精神病患者は、オリビア・デ・ハビランド、ジョアン・ウッドワード、エリザベス・テイラー、ジーン・セバーグ、ポリ・バーゲンというように全て女優に割り当てられていた。精神病とはさすがに言い過ぎかもしれないが、「マーニー」のティッピー・ヘドレンもこのリストに加えられる候補者の一人であろう。これは単なる偶然ではないと個人的には考えていて、社会における女性の位置と精神病患者の位置が相同的であるとかつては考えられていたからであるように思われる。すなわち、女性も精神病患者もともに社会のマージナルな領域に存在すると考えられていたのではないかということである。IT産業に従事する読者であれば意味が分かる人も多いのではないかと思うが、女性と精神病患者が一種ポリモルフィックな関係の中で捉えられていたのである。1975年に製作された「カッコーの巣の上で」においては、面白いことに少なくとも画面に現れる患者は男ばかりであるのに対して、絶対の権力を掌握して君臨するのが女性である。勿論これには1970年代に入って社会における女性の占める位置が変わったことの影響もあろうが、女性を精神病患者として扱ってきたこれまでの映画においては、そもそも製作者側が男性=支配者=中心=正常=医師、女性=被支配者=周辺=異常=患者という方程式に無意識に従っていたとも考えられるわけであり、「カッコーの巣の上で」によって意図されていたことの1つはこの方程式を完膚なきまでに破壊することであったようにも考えられる。すなわち、「カッコーの巣の上で」の批判の眼差しは、単に精神病院という1つの制度だけではなく、そのような官僚制度自体を生み出す社会的な力学そのものにも向けられているということである。これが、ミシェル・フーコーが聞けば必ずや感涙に咽ぶだろうと言った理由である。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

2005/07/09 by 雷小僧
(2008/10/18 revised by Hiroshi Iruma)
ホーム:http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_actress.htm
メール::hj7h-tkhs@asahi-net.or.jp