去年の夏突然に ★★☆
(Suddenly Last Summer)

1959 US
監督:ジョセフ・L・マンキーウイッツ
出演:エリザベス・テイラーキャサリン・ヘプバーン、モンゴメリー・クリフト、メルセデス・マッケンブリッジ


<一口プロット解説>
ビネブル夫人(キャサリン・ヘプバーン)は、著名な医師であるクックロウイッツ(モンゴメリー・クリフト)に、自分の姪であるキャサリン(エリザベス・テイラー)にロボトミー手術を施すよう依頼する
<入間洋のコメント>
 ジョセフ・L・マンキーウイッツお得意の会話主導の作品であり、テネシー・ウイリアムズの戯曲が原作です。マンキーウイッツの監督作であることもあり、室内を舞台の中心に据える会話劇が繰り広げられますが、彼の代表作の1つである「イヴの総て」(1950)などの同傾向の作品に比べても、かなり異様な印象を受ける作品です。個人的にテネシー・ウイリアムズの原作を読んだことはありませんが、「Variety Movie Guide」には、原作では「同性愛(homosexuality)」と「人食い(cannibalism)」がテーマとして取り入れられているのに対して、映画バージョンでは後者に関しては捨象されている(dropped)か、あるいは沈黙させられている(muted)と書かれています。「人食い」に関していえば、映画の中でも、主人公の一人であるキャサリン(エリザベス・テイラー)が、去年の夏の忌まわしい記憶を、抑圧された無意識の底から苦労して思い起こしながら語るストーリーの中で言及され、明らかに捨象されてはいません。とはいえ、語りとして言及されるのみで、映像としては提示されないので、視覚的には捨象されていると見なせ、「Variety Movie Guide」でもそのような意味で「人食い」が捨象されている(dropped)と述べられているのでしょう。しかし、「沈黙させられている(muted)」の方はどう考えても誤りであり、事実はむしろその逆です。つまり、オーディエンスには、聴覚情報としてのみそれが与えられているという方が正解です。また、作品の舞台となるビネブル夫人(キャサリン・ヘップバーン)の住む屋敷に付随するジャングルのような奇怪な庭は、後述するように「人食い」の象徴として捉えることも可能であり、その意味では、むしろ映画バージョンにおいても、象徴的な意味ではあるにせよ「人食い」が大きなテーマの1つとして取り上げられていると見なしても全く差し支えはないはずです。それよりも、お目々をしっかりと見開いていないと簡単に見逃してしまうのは、「人食い」よりもむしろ「同性愛」の方であり、キャサリンの回想の中でのみ登場するビネブル夫人の息子が、実はホモセクシャルであったとする設定は、作品を余程注意して見ていないと分からない、あるいは場合によっては注意して見ていたとしても気付かないことすらあるのではないかと思われます。というのも、ビネブル夫人の息子がホモセクシャルであったという事実は、キャサリンとビネブル夫人がクックロウイッツ医師(モンゴメリー・クリフト:恐ろしくケッタイな名前ですが、誰もがそう思うであろうことを予期してか、クックロウイッツとはポーランド語で砂糖を意味するなどと自分で言い訳のような説明をしています)の前で互いに罵り合いをするシーンからしか分らないはずであり、しかも、そこでも明示的に彼がホモセクシャルであったとは言及されておらず、示唆されているのみであり、注意深く会話を追っていないと簡単に聞き逃してしまうはずだからです。そのシーンでは、「attract(惹きつける)」、「procure(調達する)」、「bait(餌)」、「decoy(囮)」などの意味深な用語が使用されていますが、「ビネブル夫人の息子は、いとこのキャサリンや自分の母親のビネブル夫人を餌(bait)、あるいは囮(decoy)として美青年を惹きつけ(attract)、同性愛の相手を調達(procure)していた」とする設定は、散漫に眺めていたならばいとも簡単に見逃してしまうはずです(※)。実は英語の「procure」という単語には、売春婦を斡旋するという特殊化された意味もあるようであり、つまりビネブル夫人の息子は、何と!自分のおかあちゃんといとこを女ポン引きとして利用していたことになります。しかしながら、少なくとも映画バージョンに関していえば、記憶に誤りがなければ、それ以外のシーンでは彼がホモセクシャルであったことは暗示すらされていないはずなので、かつてこのシーンを散漫に眺めていた小生は、「同性愛」ではなく「近親相姦」がテーマではないかとすら思っていました。というようりも、後述するようにビネブル夫人の住む屋敷に付随する庭が象徴するものについて考慮し、抑圧から解放されたキャサリンとは反対に、妄想の世界に埋没して譫妄状態でうわ言を繰り返すだけのビネブル夫人の様子などを見ていると、テーマとしては「同性愛」よりも「近親相姦」の方が、遥かに前面化されているようにも思われます。また、ビネブル夫人の息子がマキャベリ的にビネブル夫人を利用していたと考えるよりは、いかにもマキャベリ的なビネブル夫人の世界から彼女の息子は全く自立できず、共生的な関係から離脱することができなかったと見なす方がより自然であるようにも思われます。

※この点については、日本語版ではどのように訳されているかも問題になりますが、まだ確認はしていません。

 かくして、「去年の夏突然に」には、少なくとも当時のオーディエンスの目にはキワモノに見えたはずの「人食い」、「同性愛」、「近親相姦」などの素材が山のように盛り込まれていたことになりますが、それに輪を掛けて現代のオーディエンスの目にも当作品を異様に見えるようにする要因は、題材の1つとして精神疾患、それもロボトミー手術が取り上げられていることです。ある精神病患者に、クックロウイッツ医師がロボトミー手術を施す開始早々のシーンからして、当作品の描く魑魅魍魎の世界が予示されているようでもあり、オーディエンスに強烈な違和感を与えます。説明の必要はないかもしれませんが、ロボトミー手術とは勿論架空の手術ではなく、当作品が製作されていた頃に実際に実施されていた脳外科手術の一種であり、その手術においては重度の精神病を緩和するために精神病患者の脳の一部を切断するようです(詳細はよく分かりませんが、ネット上でもかなりの情報が得られるはずです)。要するに、精神病理学的な症状を、分析療法によってではなく外科手術によって矯正しようとした、言い換えれば、精神に関する障害を解剖学的な手段によって除去しようとしたということであり、その点からも容易に推察されるように、付随する倫理的な問題に関してはひとまず棚上げしたとしても、実際に様々な問題が噴出して現在では実施されていないはずです。かくして現在から見れば恐ろしくエグい、珍奇ともいえる素材が取り込まれているため、当作品を始めて見るオーディエンスは、必ずや戸惑わざるを得ないのではないかと考えられます。実をいえば、実際にロボトミー手術が実施されていた70年代中盤頃までは、よく引き合いに出される「カッコーの巣の上で」(1975)など、このようなロボトミーを素材として取り上げる作品が時々製作されています。他に思い出すところでは、ジェームズ・ボンドを演じて乗りに乗っていた頃のショーン・コネリーがロボトミー手術の餌食になる「素晴らしき男」(1966)という作品がありました。そちらは、「去年の夏突然に」や「カッコーの巣の上で」とは全く異なってコメディであり、面白いことに主演のショーン・コネリーが演じているのは天才的な詩人であり、彼の分裂症的な凶暴性を抑える為にロボトミー手術が施される点です。狂気が天才の源泉である点が示唆されているという意味では、「去年の夏突然に」とは反対に、「素晴らしき男」ではある意味で狂気がポジティブに捉えられているとも見なせます。考えてみれば、ブレイク、ニーチェ、ヘルダーリン、ゴッホなどの天才達は、狂気と紙一重だったのであり、実際に狂気の淵から戻ってこない天才もいました。それは余談として、「去年の夏突然に」では、エリザベス・テイラーが精神病患者、あるいは精神病的な気質を持つキャサリンを演じていますが、そもそもロボトミー手術を受けるべきか否かが問われなければならないような精神病患者であるようにはとても見えず、何度か当作品を見ていると、ロボトミー手術うんぬんよりもむしろその方が気になってきます。キャサリンの記憶の底に抑圧されて残存している忌まわしい過去の事実を抹消しようとして、すなわち息子がホモセクシャルであり自分がその為にポン引きとして利用されていたことを示す証拠を湮滅しようとして、ビネブル夫人がキャサリンに無理矢理ロボトミー手術を施そうと画策しているとする前提があり、従って、ロボトミー手術は、単にビネブル夫人の残酷さを強調する為に持ち出されているに過ぎず、ストーリーの意図としてもキャサリンは精神病などではないとする前提があると見なせることは確かです。しかしいずれにしても重度の精神障害者にしか適用されないロボトミー手術を、それなりの兆候を全く示さない人に強要することは常識的に考えてもあり得ないことであり、ビネブル夫人よりも遥かに冷静沈着に現実世界を見ているキャサリン(たとえばビネブル夫人とは違ってキャサリンは自分がポン引きとして利用されていることをはっきりと認識しています)が、ロボトミー手術の対象になり得るとはどうにも考えにくいところです。映画の中では、突然卑猥な言葉を吐く癖が彼女にはあることに言及されたり、クックロウイッツ医師にいきなり抱きつくシーンが挿入されたりと、彼女が普通ではない印象をオーディエンスに与える努力が払われているのは確かであるとしても、端的にいえば、色情狂はロボトミー手術の対象ではないのです。勿論、本当にロボトミー手術が必要であるような人物が登場すれば、エンターテイニングな商業映画としては成立しなくなるであろうことは自明であるとしても、いずれにしても「イヴの総て」のような超一級の作品と比べてしまうと、設定やストーリー展開にかなり不自然で無理なところがあるというのが正直なところです。それにも関わらず、折に触れてこの手の精神病を題材とする作品が出現するのは、いわゆる精神分析的な治癒プロセスが映画の語り(ナラティブ)の題材として相応しく見えるところがあるからでしょう。つまり、抑圧された過去を思い出すことによって精神病から回復するとする展開は、肯定(純粋無垢な自己)→否定(純粋無垢な自己の抑圧)→再肯定(自己の再統合)という、いわゆる1つの弁証法的プロセスがアナロジカルに示されていると見なすことが可能であり、ナラティブの展開形式として極めて魅力的な素材がそこに存在するように思われたとしても何の不思議もないということです。「去年の夏突然に」もそうですが、「イブの三つの顔」(1957)などが、そのような図式に忠実に従う典型的な作品であると見なせます。

 精神病や精神病院に関しては、前述の「イブの三つの顔」や「カッコーの巣の上で」のレビューなどでも取り上げているので、このくらいにしておきます。次に、「去年の夏突然に」の舞台の1つである「庭」について考察しましょう。冒頭で当作品を見ると異様な印象を受けること必至であろうと述べましたが、「人食い」、「同性愛」、「近親相姦」などのエグい素材(現在では「同性愛」をエグいと言うと張り倒される可能性がありますが)に関しては、会話の中で言及されるのみであり、視覚的なイメージとしての異様さは、冒頭のロボトミーの手術シーンを別とすれば、ビネブル夫人の住む屋敷に付属する奇怪な庭に専ら由来します。沼沢地に囲まれたニューオーリンズが舞台であることもあり、ジャングルのような庭があっても必ずしも非現実的ではないとしても、マンキーウイッツの監督作品の舞台設定としては、相当に異様であることに相違はありません。しかも食虫植物や骸骨のような小道具が散りばめられている点も極めて異様であり、これらの奇怪なオブジェは、明らかにラストのキャサリンの回想シーンで敷衍される「人食い(cannibalism)」テーマと呼応していると捉えられるべきです。実は、「去年の夏突然に」を見ていてふと思い出したのが、ナサニエル・ホーソーンの3つのゴシック小説を原作としたオムニバス形式のゴシックホラー映画「Twice Told Tales」(1963)の中の第2話、すなわちホーソーンの小説「ラパチーニの娘」を元にしたエピソードです(下掲画像参照)。このエピソードでは、天才オカルト科学者(ビンセント・プライス)が、エデンの園のようにビューティフルな屋敷の中庭で、自分の娘(ジョイス・テイラー)をビューティフルな毒娘(彼女の体内には猛毒が循環していて彼女に僅かでも触れる者は皆死んでしまうのです)として育てる様子が描かれています。実は、このエデンの園のような庭に生えているビューティフルな花々は、ラパチーニの娘と同様に体内に猛毒を宿しているのです。すなわち、このエピソードにおいては、エデンの園とは同時に堕罪の庭でもあることになります。ホーソーンは、ピューリタン世界を描いたかの傑作「緋文字」の作者であることは言わずもがなですが、「緋文字」の主人公達、すなわちヘスター・プリン、
ディムズデイル、チリングワースは、いわば楽園を追放された人物達であり、堕罪による楽園からの追放というテーマはホーソーンが得意とするところでした。因みに「緋文字」のこのようなピューリタン的な側面に関してはネット上でも甲南大学の青山義孝氏の読み応えのある面白い論文を読むことができるので興味がある人は是非参照して下さい。一言でいえば、「ラパチーニの娘」の庭が象徴しているのは、キリスト教的な楽園と、堕罪によるそこからの追放なのです。日本でも一般に庭園や箱庭のような風景が愛でられることが多いのは事実ですが、アニミズム的な側面が全くないわけではないとはいえ、日本では宗教的なコノテーションは換骨奪胎されているように見えるのに対し、あちらでは庭にもキリスト教的な観念が強烈に投影されているケースが少なからずあります。竜安寺の石庭など宗教的というよりもむしろ宇宙論的に抽象化されたイメージがあり、具体的なシンボルとして示される「ラパチーニの娘」の堕罪の庭とは、大きな懸隔があります。そのように考えると、エデンの園のようなビューティフルな庭ではなかったとしても、「去年の夏突然に」の庭にも同様に堕罪の庭というイメージが付随しているのではないかと考えられます。しかも、「去年の夏突然に」の庭には異教的なシンボルが充満しています。それは、植物が動物を食らう、世の秩序が全く逆転されたカオスの世界を示す食虫植物や、「人食い」を想起させる骸骨によってのみではなく、豊饒な大地を象徴する錯綜したジャングルそのものによっても示唆されており、キリスト教以前の異教的な世界、より具体的な例では、近年の話題作「ダ・ヴィンチ・コード」(2006)の中でいみじくも示されていたような、長い歴史の中でキリスト教が抑圧しようとしてきた母権性に基く世界や大地母神崇拝が、そこにはシンボライズされているとも捉えられます。大地母神崇拝は、ユング派精神分析学者のエーリッヒ・ノイマンなどによれば、心理学的にはむさぼり食らう母親の形象でもあり、従って「去年の夏突然に」の庭には、自分の息子をむさぼり食うビネブル夫人の姿が投影されているとも見なせます。そこには象徴的な「人食い」が示唆されているのです。1つ注意すべき点は、このような「人食い」には、通常の殺人とは全く異り、常に共生的な依存関係が前提とされていることです。精神分析が目指すところも、このような共生的な依存関係を断ち切って、一個の独立した自己を確立するに十分なパワーを患者に回復せしめることであるはずです。そのように考えると、前述の通り、少なくとも映画バージョンの「去年の夏突然に」は、「同性愛」ではなく、母と息子の共生的な関係を断ち切ることができない息子には死が待ち受けているとするオイディプス的な「近親相姦」が、その主たるテーマであると考えた方が遥かに適切であるように思われます。また、前半のあるシーンで、ビネブル夫人がクックロウイッツ医師に、鳥が海亀をむさぼり食らう恐ろしくエグい話を聞かせる意味もそれによって理解できるのではないでしょうか。心理的な見地からすれば、「人食い」と「近親相姦」とはかなり近い関係にあるようにも思われ、その点においても「人食い+同性愛」という組み合わせよりも、「人食い+近親相姦」という組み合わせの方が興味深いように思われます。

 ということで、「人食い」、「同性愛」、「近親相姦」、「抑圧的な精神病」、「ロボトミー手術」、「異教崇拝」というように、よくこれだけおどろおどろしい素材をごった煮にしたものだと半ば呆れざるを得ませんが、オスカーにノミネートされたエリザベス・テイラーとキャサリン・ヘプバーン、当作品ではかなり控え目なモンゴメリー・クリフト、「オール・ザ・キングスメン」(1949)でアカデミー助演女優賞を受賞したメレセデス・マッケンブリッジの四人による会話主体のストーリー展開は、小生のごとく聴覚派を自認するオーディエンスには興味深い作品であるはずです。従って、★2つの評価としましたが、万人向きの作品ではないことも確かです。


2007/10/10 by Hiroshi Iruma
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