風の遺産 ★★★
(Inherit the Wind)

1960 US
監督:スタンリー・クレイマー
出演:スペンサー・トレイシー、フレドリック・マーチ、ジーン・ケリー、クロード・エイキンズ

<一口プロット解説>
進化論をパブリックスクールで教えることが州法により禁じられていたテネシー州で進化論を教えたハイスクール教師の審理(モンキートライアル)を描く。
<入間洋のコメント>
 当作品のレビューは、テレビ放映時の「聖書への反逆」というレビュータイトルで10年ほど前から当ホームページ上に長く掲載されていましたが、当作品がようやく日本国内でも「風の遺産」というタイトルでDVDバージョンで発売されたこともあり、この機会に内容を大幅に書き直すことにしました。勿論、内容を大幅に書き直した理由は他にもあり、それは、2001年に発生した同時多発テロ事件後、アメリカにおける宗教度の高さに対する関心が日本でも高まる中、個人的にもアメリカにおけるキリスト教ファンダメンタリズムの歴史に関する書物を何冊か新たに読んだこともあり、それらの新たな情報を付け加えようと考えた為です。我々日本人にはたとえ意外であっても、「風の遺産」のテーマでもある進化論と聖書の天地創造説の対立に関するアメリカ国内での関心は、後述するように21世紀に入ってますます大きくなりつつあります。従って、進化論と天地創造説の対立の1つの頂点をなす裁判、すなわち「風の遺産」のモデルでもあり「モンキー・トライアル」とも称される、1925年にテネシー州で行なわれたスコープス裁判を生み出した当時の状況が、今日とどのようなつながりを有するかについての説明を大幅に加えることにしたのです。一般に「evolutionism(以下進化論と呼び、進化論を支持する人々を進化論者と呼びます)」と「creationism(聖書に記述された神による天地創造説のことで、以下当レビューでは創造論と呼び、創造論を支持する人々を創造論者と呼びます)」として知られる両者の対立を純然たる二項対立として図式化して取り出すと、進化論者は聖書の権威を真っ向から否定し、創造論者は進化論を真っ向から否定したということになり兼ねませんが、必ずしもそれ程単純明快に両者を区分できるわけではありません。「風の遺産」の被告弁護士(スペンサー・トレイシー)がそうであるように、聖書をドグマティックに文字通り解釈するのではなく1つのアレゴリーとして解釈するのであれば、聖書信奉者であると同時に進化論者でもあり得たのです。但し、そのような人々を厳密な意味で創造論者と呼べるかについては議論の余地が残ります。また、「theistic evolution(有神論的進化論)」を唱える一派のように創造論者の中にも進化論の正当性をかなりの程度認めつつ、それを聖書の解釈に適合させようと努力していた人々もいたのです。更に注意しておく必要があるのは、聖書に書かれている内容を全て文字通り解釈し、それを歴史的な事実であると見なすガチガチのファンダメンタリストにおいてすら、公立学校で進化論が教えられることに反対したのは、必ずしも彼らが宗教的なドグマを一方的に振りかざし科学の存在を等閑視しようとしたからではなく、科学的に見ても進化論は「単なる仮説」に過ぎず、あまつさえ仮説に過ぎない1つの見方が公序良俗を乱す原因になる可能性があれば、そのような見方は少なくとも公共施設で教えられるべきではないと見なしていたからなのです。すなわち、さすがのファンダメンタリストも、20世紀の世の中にあって、少なくとも公的な立場では、科学を露骨に無視するような真似はできなかったということです。ロナルド・L・ナンバーズという人の書いた「The Creationists」(Harvard University Press)という本によれば、バリバリの創造論者で、後述する「flood geology」の大御所であったジョージ・マクレディ・プライスのような人物ですら、進化論を否定する根拠の一環としてフランシス・ベーコンの提唱する経験主義的な科学観を援用したそうです。また、創造論者によって創立された「Creation Research Society(CRS)」という組織は、1970年代に入ると従来型の強硬なアンチ進化論を繰り広げるよりは、むしろ進化論と創造論を同じ土俵の上で捉えた上で、後者の科学性を強調し、門外漢の不必要な反感を避ける為に聖書に対する言及をなるべく控えた上で創造論を普及させる柔軟な戦略に方針転換します。そこで彼らが利用したのは、なななんと!ウィーン生まれのイギリスの有名な科学哲学者カール・R・ポパーの提唱する反証可能性という概念であったそうです。ポパーはある説が科学と呼ばれるに値する資格を有するには、それが実験などの経験的な手段で反証可能でなければならないことを強調しますが、それを適用して進化論は反証可能ではないが故に科学ではないと主張するわけです。勿論、彼らが支持する創造論も反証可能であるはずがない為、ポパーの強引な援用は諸刃の剣であり、要するに進化論、創造論の両者に否定の刃を適用して、科学的な尺度において進化論を創造論の背丈にまで切り詰めようとしたことになります。しかしいずれにせよ、かくして創造論者は科学を全く無視したというわけではなく、むしろその逆であり、科学的な言説を利用して創造論を補強しようとする意図を持っていたと考えるべきであり、その証拠に、彼らは博士号を持つ科学者を自陣営になるべく多く取り込もうとしていたのです。

 のっけからこのような話を述べると、21世紀の、しかも宗教的背景が希薄で「俺の祖先はエテ公だってか!それならば俺も秀吉並だな、結構!結構!」などとほくそ笑みつつダーウィンの進化論など何の苦もなく朝飯前で平らげて晴々としている我々日本人にしてみれば、そもそもそのような進化論の是非を巡る論争が、宗教を背景として大真面目に行なわれていること自体が別世界の出来事であるように見えるのも無理のないところでしょう。しかしながら、アメリカが極めて宗教的な国であることは、殊に同時多発テロ事件以後、日本でも大きな話題の1つとなったことは冒頭で述べた通りです。しかもガチガチのファンダメンタリストを含め宗教的保守主義者が、同時多発テロ事件以後突然出現したわけではないことは、ロナルド・イングルハートの統計データを駆使した「Modernization and Postmodernization」(Princeton University Press)や「Culture Shift」(Princeton University Press)など、或いは日本でも小生の出身校である同志社大学の森孝一氏による「宗教からよむ「アメリカ」」(講談社選書メチエ)などで夙に主張されていました。ガチガチのファンダメンタリストとはどのような人々かというと、たとえば旧約聖書に書かれている「神が6日間で天地を創造した」という記述を、実際にそのようなイベントが文字通り史実として発生したとマジもマジ大マジで信じる人々のことです。そのように述べると、無神論者天国に住む我々日本人の多くは「ウッソー!」と思うかもしれませんが、全く冗談などではありません。前述したロナルド・L・ナンバーズの「The Creationists」の序文によれば、2005年のギャロップ調査で、「God created human beings in their form exactly the way the Bible describes it(聖書の記述と正確に同じように神が人間を創造した)」と思うかという質問に対して、なななななんと!53パーセントのアメリカ人が肯定的な回答をしたそうです。この数字は同時多発テロ事件より10年前の1991年でも47パーセントを示していたそうなので、もともとアメリカ人の半数近くがそのような宗教的な信念を持っていたことになります。但し、聖書と進化論に関する一般アメリカ人の認識を調査するある別のアンケートでは、「人間は神によって無から創造されたと思うか」及び「人間は猿から進化したと思うか」という2つの質問に対して、すなわちそれ程頭をひねって考えなくとも論理的に相互排他であることが分るはずの2つの質問に対して、両方ともYESと回答した人が数パーセント存在した実例もあることなどに鑑みると、質問の意味を正しく理解していなかった人も中にはいたであろうし、またたとえば都会部では圧倒的に保守傾向が低下し、地方、特に南部の地方ではその逆になるなど、調査が行われた場所によっては多少は結果を割り引いて考えなければならないかもしれません。とはいえ、いずれにせよ、もし同様な調査が日本で実施されたならば、多くの人はそもそもそのような項目が質問の対象になること自体信じられず冷笑的な反応をするか、或いはもしかするとドッキリカメラではないかと左右を見廻すのが関の山ではないでしょうか。それに比べればアメリカでは、生活の中で宗教がどれほど大きなウエイトを占めているかが分かります。ファンダメンタリズム(原理主義)と云えば、何となくイスラム過激派原理主義というイメージがあり、コカコーラとマクドナルドに溢れたプラグマティズムの国アメリカには相応しくないように一見思われるかもしれませんが、もともとファンダメンタリズムとはキリスト教の超保守的な右派を指す用語であったのであり(キリスト教右派が発行する雑誌の名前であったという話があります)、そもそもコカコーラとマクドナルドの方がむしろ世を忍ぶ仮の姿であったのかもしれません。因みにアメリカにおけるファンダメンタリズムの流れについては、日本語で読みやすい本としては前出森孝一氏の「宗教からよむ「アメリカ」」を始めとして殊に同時多発テロ事件以後は新書類でもいくつか出ています。また、本場もので個人的に読んだものの中ではジョージ・M・マースデンの「Fundamentalism and American Culture」(Oxford University Press)や或いは進化論と聖書創造説の火花散る対立の歴史に関しては前述のロナルド・L・ナンバーズの「The Creationists」などが大いに参考になりました。残念ながらアマゾンジャパンの和書検索では検索されないので日本語訳は今のところないのでしょう。

 さて、「風の遺産」に描かれている、一般に「モンキー・トライアル」と揶揄される裁判は、1925年にテネシー州のデイトン(気になったのでWikipediaで調べたところ、ユーゴスラビア内戦の停戦に関するデイトン合意で知られるデイトンはオハイオ州のデイトンであり別の町のようです)で実際に行われた裁判であり、被告の名前を取って「スコープス裁判」として知られています。以前レビューを書いた時点では、セリフの内容のあまりの途方なさから考えても、作品に描かれる裁判シーンは、それほど事実が反映されたものではなかろうと思っていましたが、その後関連する書籍を読み、現実にもかなりこれに近い議論が展開されていたことを知り思わず唸ってしまいました。但し、人物の名前については史実とは変更されており、被告のジョン・スコープスの名前も変えられている上、原告弁護士(フレデリック・マーチ)は、史実ではウィリアム・ジェニングス・ブライアンであるのに対し、映画ではマシュー・ハリソン・ブレイディであり、また被告弁護士(スペンサー・トレーシー)は、史実ではクラレンス・ダローであるのに対し、映画ではヘンリー・ドラモンドです。面白いことに、映画では被告弁護士の名前として使われているヘンリー・ドラモンドについては、同名の高名な有神論進化論者が歴史上実在したようです。但し、この人物は20世紀に入る直前に亡くなっているので、スコープス裁判が行なわれた当時は既にこの世にいなかったことになります。死人の名前をちょっくら借りたということでしょうか。しかしながら、登場人物の名前は変えられていても、人物像は大きくは変えられていないようです。たとえば、マシュー・ハリソン・ブレイディは映画の中で、夕食後の束の間の平和なひとときに、何度か大統領選に破れた思い出をヘンリー・ドラモンドにしみじみと語りますが、対する史実のウィリアム・ジェニングス・ブライアンも民主党から大統領選に3度立候補していずれも破れています。また、彼は映画の中で判決が下った後突然ポックリと死にますが、これもおよその事実です。1970年に亡くなった被告のジョン・スコープスを除けば、関係者の多くは映画が製作される頃までには既にこの世の人ではなかったにも関わらず、わざわざ名前を変更した理由はイマイチよく分かりませんが、いずれにせよ名前以外はかなり史実に忠実であるようです。但し勿論、ハリウッド映画の御多分に漏れず、一部細部に誇張はあるようです。たとえば、クー・クラックス・クランの装束に身を包んだ地元民がデモパレードするシーンなどは、鵜浦裕氏の論文によれば全くの創作のようです。ところで、作品を見ていて不思議に思われることが1つあります。それは、スコープス裁判が行なわれたテネシー州ではパブリックスクールで進化論を教えてはならないという「反進化論法」が既に成立しており、それ故に公立ハイスクールで進化論を教えたジョン・スコープスは逮捕されますが、それならば、少なくとも作品中ではお猿さんの絵を前にして、いままさに進化論を教えんとしたところを現行犯で逮捕されたのだから、作品で描かれているような仕方で進化論の是非を問う論議が法廷でいくら行なわれても、州法が正当であることが前提にされる限り、絶対に被告が無罪になることはないのではないかと思われることです。「反進化論法」自体が合衆国憲法に抵触していること、すなわち「特定の理論を教えることを禁ずる州法を発布することは合衆国憲法違反」であることを証明するのが本来の弁護側の筋であるはずです。にも関わらず、そのような議論が行われる気配は微塵もなく、進化論の正当性に関する論議が延々と続くのです。これは法律に疎いことからくる個人的な誤解であるかもしれませんが、ストレートに考えると裁判シーンで議論されている内容はいささかズレているのではないかとどうしても思えてしまうのです。しかし、実はそこにこそ「スコープス裁判」が持っていた歴史的な意味が浮き彫りにされるのです。すなわち、「スコープス裁判」は、単に州法に違反したハイスクール教師を裁くに留まらず、進化論者と創造論者の、そしてそれと同時に都会に住むリベラルな人々と田舎に住む保守主義者の代理戦争のような様相を呈し、全国的な注目を浴る一大イベントと化してしまったのです。いずれにせよ、スコープス裁判が行なわれた時代は、アメリカにおける保守反動ファンダメンタリズムが1つのピークを迎えていた頃であり、スコープス裁判の姿を借りて、リベラルと保守反動の対立が図式的に明瞭化して出現したのです。

 そのような対立図式に鑑みると、「風の遺産」の中で保守反動を代表するのが、フレドリック・マーチ演ずるマシュー・ハリソン・ブレイディです。保守反動というネガティブな意味合いを持つ用語を気安く使用しましたが、実際には保守反動であるには保守反動であるべき理由があります。一般に日本では、宗教とは信仰の問題に過ぎないと考えられるケースが多いと思われますが、たとえばピーター・L・バーガーの「聖なる天蓋」(新曜社)などを読むとよく分かるように、アメリカでは共同体の基盤として実は宗教が重要な位置を占め、必ずしも宗教は個人の信仰にのみ関わる問題ではなく、共同体維持の基盤として社会に深く係わっているのです。また、個人の生活も共同体の存在抜きにはあり得ないとすれば、個人の生活の基盤も深く宗教に根差していることになります。では、ダーウインの進化論がなぜそれほど重要な論争の焦点になり得るかというと、「風の遺産」を見ても分かるように、神が神の次に至高の存在として人間を創造したのであり、その「事実」によって人間の神に次ぐ至高性が証明されるとする宗教の持つ根本的な前提を、進化論はなし崩しにし、それと同時に宗教を基盤として成立する共同体の崩壊に、さらには個人生活の崩壊にも導くはずだと見なされるからです。あるシーンで、マシュー・ハリソン・ブレイディの奥さんが、被告のガールフレンドに対して、「私には、寄る辺となる世界があるけれども、あなたにはあるの?」と詰問するシーンがありますが、まさにその寄る辺となる世界が、進化論によって危殆に瀕することが恐れられているのです。つまり、宗教に生活の基盤が置かれる社会においては、科学的に正しいか正しくないかという論点に進化論問題が還元されることは決してないということです。それに対してリベラルを代表するのが、スペンサー・トレイシー演ずるヘンリー・ドラモンドです。原告側が守ろうとしているのが共同体の安寧であるとするなら、被告側が守ろうとしているのが、個人は個人の考え方を持つことが許されるとする個人の権利なのです。「十二人の怒れる男」(1957)のレビューで述べたように、このような権利の重要性いやそれどころかそのような権利の存在そのものに気付くことにすら人類は長い歴史スペースを費やしてきたのです。ここでは詳細に述べませんが、ジョン・ロールズのようなポリティカル・リベラリズムをひっさげた政治哲学者がアメリカに登場するのも故なしとしないのです。個人が自由に考える権利が奪われてしまったならば中世への逆戻りであると力説するヘンリー・ドラモンドの思想的背景には、そのような長い人類の開明の歴史が控えているのです。しかしながら、リベラリズムを唱えるには相応の犠牲が必要なのです。そうでなければ、最初から保守主義には何の意味もないことになります。「風の遺産」には、唄って踊ってのジーン・ケリーが珍しく新聞記者というシリアスな役で登場しますが、彼は宗教とは全く無縁な皮肉な実利屋のように描かれており、都会にはびこる徹底的に相対主義的な考え方を極めた超リベラルな人物として登場します。要するに彼は、ラストシーンでヘンリー・ドラモンドに指摘されるように、自分が死んでも誰一人葬式に参列しないような、自己の共同体的基盤が完全に崩壊した根無し草なのです。そのような彼の姿を通して、共同体の維持を基調とする保守主義と個人主義を基調とするリベラリズムを調停させることがいかに困難であるかが極端な誇張により示されているのです。作品の原タイトル「Inherit the Wind(風を相続する)」とは旧約聖書の「箴言(the Proverbs)」の中にある一節だそうであり、要するに我が家に騒擾をもたらす者は結局風を相続することになる(すなわち相続するものが何もなくなる)という伝統破壊を戒める訓戒なのです。一言で云えば、我が家に騒擾をもたらす者は、結局ジーン・ケリーキャラクターのような根無し草になるであろうということです。確かにこのセリフは、地元の牧師(クロード・エイキンズ)が進化論者を糾弾することに熱中するあまり、ヒトラーも裸足で逃げるアジ説教(演説?)を行っているのを傍聴していたマシュー・ハリソン・ブレイディにより、あまりに熱中し過ぎると自分が救済せんとする人々まで失う結果になるという警告の意味で述べられているとも取れるとはいえ、この言葉はむしろ返す刀で伝統を破壊する言辞を弄する進化論者やジーン・ケリーキャラクターによって代表される都会のシニカルな連中を糾弾しているとも考えられます。

 このようなリベラリズムと保守主義の対立は、進化論者と創造論者の対立に典型的に重ね合わせられます。そもそも進化論者は、生物の進化の理由を、何らかの統括的な合目的パワーに帰するのではなく偶然的な事象の集積の中に見出そうとします。すなわち、個がそれぞれ自由意志で振舞っていても、環境に起因する適者生存の選択原理によって全体的には生物系が進化の系統を辿るであろうとする、いわばアダム・スミスエスクな非合目的な見えざる手の存在を前提とします。しかもアダム・スミスの場合には単に均衡論に留まるのに対して、進化論者はそれによって進化的な発展を説明しなければならないという重荷を背負っています。実際、現代の急進的な進化論者の中には進化が偶然によってもたらされるまさにその点に進化論の美しさがあると語る人もいるようですが、ここまで来ると、裏返った神無き原理主義信仰であるようにすら思えます。これに対して創造論者は全体を統括する神様という意匠の存在をまず前提にし、そのような意匠の存在の下にあって個人はそれに従属しなければならないと考えるわけです。大雑把に云えば、進化論者は一(いつ)である全体よりも多である個を優先した上で、多である個に対して選別的に機能する偶然の力を強調するのに対し、創造論者はその逆に多である個よりも一である全体を優先させた上で、一である全体の持つ合目的パワーによる多である個の統制を強調するのです。従って当然のことながら経済効率という意味では創造論者の考え方の方が極端に有利になるわけであり、従って創造論者は以下に述べるように地球と生命の誕生から現在までの経過時間を恐ろしく小さく見積もることが可能になるのです(これを「Young Earth Theory」と呼びます)。ここで進化論はよしとしても、我々日本人には馴染みの薄い創造論者の考え方の特徴がどのようなものであるかについて、くだんのロナルド・L・ナンバーズの「The Creationists」を参照して列挙してみましょう。

1.宇宙、エネルギー、生命の無からの突然のクリエート
(Sudden creation of the universe, energy, and life from nothing)
2.単一組織体からの全ての生物種の発展を変異と自然選択によって説明することの不十分性(の主張)
(The insufficiency of mutation and natural selection in bringing about development of all living kinds from a single organism)
3.最初にクリエートされた植物種、動物種からの固定範囲のみでの変化(の許容)
(Changes only within fixed limits of originally created kinds of plants and animals)
4.人類と猿の間での祖先の分離
(Separate ancestry for man and apes)
5.世界規模の洪水の発生を含む天変地異による地球地質学の説明
(Explanation of the earth's geology by catastrophism, including the occurrence of a world wide flood)
6.地球と生物種の発端は比較的最近(に見出されるという主張)
(A relatively recent inception of the earth and living kinds)


勿論これらは一般化されたものであり、創造論者の間でも考え方にバラツキがあります。たとえば「地球と生物種の発端は比較的最近(に見出されるという主張)」と言っても、文字通り神が24時間×6日間で天地を創造したと見なし、「風の遺産」でもマシュー・ハリソン・ブレイディによって言及される有名なアッシャー卿の聖書の解釈による計算、すなわち宇宙の誕生を正確に紀元前4004年であるとする説を固く信ずる人もいれば、ヘンリー・ドラモンドが論証するように6日間の各日は必ずしも現在のように24時間であると考える必要はないと考え、従って地質学的な発見による地球の古さをその中に吸収して科学との折り合いを図ろうとする人々もいます。原理主義的な立場に立つ前者は、後者の見解を進化論への譲歩であると見なす傾向があります。また、前者の中には、時代毎に各地層帯に分かれて埋没する化石が示す進化論に有利な現象の説明を、たった一度のノアの洪水により説明しようとする人々が存在し、そのような説を提唱するジョージ・マクレディ・プライスのような創造論者を特に「flood geologist」と称しますが、同じ創造論者であってもヘンリー・ドラモンドのような見方を取る人々は彼らをえせ科学者であるように見なしていたようです。また、原理主義的立場に立つ前者には、セブンスデーアドベンティストと呼ばれるペシミスティックな終末論を信奉するプロテスタントセクトに属する人々が殊に初期の頃は多く、彼らはReligion and the Science Association(RSA)、Deluge Geology Society(DGA)などの組織を牛耳り、それに対抗するかのようにそれ以外のセクトに属し比較的リベラルな見方を許容する人々はAmerican Scientific Association(ASA)と呼ばれる組織を立ち上げます。要するに、創造論者の中にも、ほとんど進化論を肯定するも同然であるような見解を採る人々から、聖書に書かれていることは一言一句まで史実であると見なすガチガチの原理主義者まで様々であった(そしてこれから説明するように今日でも様々である)ということです。

 さて、そのような創造論者の活動は、スコープス裁判で1つのピークを迎えますが、「風の遺産」を見れば分る通り、原告側すなわちパブリックスクールで進化論を教えたことを弾劾した創造論者達は裁判自体には勝つとはいえ、その大将格であるマシュー・ハリソン・ブレイディ(=ウィリアム・ジェニングス・ブライアン)自身が、ヘンリー・ドラモンド(=クラレンス・ダロー)によって証言台に立たされ、それこそ猿芝居と呼べるような失態を演ずることによって人々の信頼を失う結果を招きます。前述の通り、判決はそもそも最初から有罪以外であり得なかったと考えられ、従って裁判の帰結よりも裁判という形を借りたスリリング且つエンターテイニングなワイドショーが与える効果の方が遥かに大きな重要性を帯びてしまったのです。つまり弁護側は試合に破れて勝負に勝ったようなものであり、「風の遺産」ではそのような成り行きが見事に描かれています。自らの墓穴を掘るにも等しいそのような出来事が発生し、それが更に当時勃興しつつあった新聞やラジオなどのマスメディアを通じて全米規模のインパクトを持つ程までに拡大されて喧伝されたこともあってか、殊に原理主義的な創造論は以後暫くは鳴りを潜める結果になります(尚、公平を期しておくと、「風の遺産」などの娯楽メディアによってそのような誤った認識が流布されたと見なす鵜浦裕氏などの研究者もいるようです)。しかし、やがて彼らは不死鳥のように復活して現在に至るのです。アメリカにおけるこのような歴史経過は、これまで何度も取り上げているロナルド・L・ナンバーズの「The Creationists」に詳しく書かれているので、簡単にそれを紹介しましょう。まず、スコープス裁判で原理主義的な勢力が退潮した後は、創造論者であってもほとんど進化論者と表面上は大差がない人々すら含まれるリベラルなASAのような組織が誕生します。このような小康状態が1950年代一杯くらいまで続いた後、1960年代初頭にCreation Research Society(CRS)という組織の成立を持って、再び原理主義的な創造論の復興の兆しが見られるようになります。従って「風の遺産」は、原理主義的な創造論の復活前夜に製作された作品であることになり、当作品が奇しくもそれを予示したと考えられるかもしれません。但し、この時点では活動はまだ極めて限定的なものでしたが、やがて1970年代の後半になると完全復活の兆候がきざし始めます。そのきっかけになったのは、イェール大学の法律専攻のある学生が、以下のような提言をしたことです。

「科学的な創造論は科学であって宗教ではない。よって、それを教えることは宗教教育を禁ずる合衆国憲法の制限を侵害するものではない。その一方、それを教えないことは、創造論を信奉する学生の自由行使権を侵害する」
(Scientific creationism is science, not religion, and teaching it did not violate the constitutional restrictions against religious instruction, while not teaching it violates the free-excercise rights of creationist students.)


創造論者はこの頃になると、より巧妙な手段に訴えるようになり、モロにアンチ進化論をゴリオシするのではなく、上記提言のごとく法的根拠に訴え少なくとも表面的には進化論と創造論を同等に扱う要求を掲げるようになり、やがてアーカンソー州とルイジアナ州でこの提起が採択され、更に他の州にも拡がる勢いを見せます。1980年代以後の創造論の復興と、スコープス裁判当時の創造論の隆盛の間には1つの大きな違いがあります。それは、スコープス裁判当時の創造論の隆盛はその範囲が主に北米に限定されていたのに対して、アメリカの威光がスコープス裁判当時よりも遥かに強大になった1980年代においては創造論はワールドレベルでの拡がりを見せたことです。考えてみるまでもなく80年代といえば大根役者(失礼!)上がりのレーガンが大統領を務めていた時期であり、彼のバックには保守連合の存在がありました。森孝一氏の「宗教からよむ「アメリカ」」によれば1980年にレーガンが大統領に選出された当時、彼のバックについていた保守連合は以下の5つのグループから構成されていたそうです。
@ゴールドウォーター上院議員に代表される伝統的保守主義
A共和党のエスタブリッシュメント
B中産階級、知識人の危機意識を代表するネオ・コンサーバティブズ
Cニューライト
D新宗教右翼

Dの新宗教右翼に属する人々が、まさに聖書を文字通り解釈する人々の代表セクトであり、要するに1980年代における創造論の復興は明らかにこのような政治的な動きとも連動していたと考えられます。

 1990年代に入ると新しい考え方が注目を浴びます。それは、「インテリジェント・デザイン(Intelligent Design)」と呼ばれる考え方であり、この考え方は、生命組織の生成を偶然により説明することは不可能であると考え、そこにはたとえば「ブループリント」、「プラン」、「パターン」のような何らかの非物質的な要因が働いていたと考えます。インテリジェント・デザインがそれまでの創造論と異なるのは、このような非物質的な要因は、必ずしも神である必要はないと考え、従って神の手による6日間の天地創造やノアの洪水などの聖書に関する言及は戦略的に避ける点です。インテリジェント・デザインの考え方を生み出すことになった2冊の著書の内の1つ「The Mystery of Life's Origin」にフォワードを寄せた生物学者のディーン・H・ケニョンは以下のように述べます。

「単純な生命システムにすら見出される信じられないような複雑性を、原始の大気と海洋の中で生み出される方向性のないエネルギーの流動によって説明することは、目下のところ嘆かわしいほどに不適切であり、また恐らく間違いであろう」
(The undirected flow of energy through a primordial atmosphere and ocean is at present a woefully inadequate explanation for the incredible complexity associated with even simple living systems, and is probably wrong.)


またあるインテリジェント・デザイン支持者は半ばウイットを混じえた以下のような見解を述べて、彼らの心情を興味深く代弁しています。

「カール・セーガン(1934-1996)や他の高名な科学者達が、科学の名の下に地球外知性体の探索(SETI)を行なうことができるのならば、どうしてインテリジェント・デザイン理論家による生分子の世界における知性体の証拠探索が非科学的として却下されねばならないのだろうか」
(If Carl Sagan(1934-1996) and other reputable researchers could undertake a Search for Extra-Terrestrial Intelligence(SETI) in the name of science, why should intelligent-design theorists be dismissed as unscientific for searching for evidence of intelligence in the biomolecular world.)


 しかしながら、このようなインテリジェント・デザインの考え方は、一方では神や聖書抜きの議論を展開するが故に創造論者によって白眼視され、他方では偽装した創造論ではないかと進化論者によって疑いの目で見られる傾向を有しています。21世紀を迎えると、スコープス裁判の裏返しのような裁判が、ペンシルバニア州のドーバーで行われますが、この時に弾劾対象になるのは、スコープス裁判の時のような進化論ではなくインテリジェント・デザインです。インテリジェント・デザインをプロモートした最初の書とされる「Of Pandas and People」という本が高校の図書館に匿名で寄付されたことを知って驚いた父兄の訴えによって起こされた裁判ですが、結果は、弁護側の証人が資金元に関する審問に関して偽証したなどの不利もあり、超自然に言及するインテリジェント・デザインは検証可能性を持った科学ではなく、従って政教分離を規定した合衆国憲法修正第1条に違反するという判決が下されます。また、カトリックの総本山においてすらもこの件に関しては揺らぎがあり、前ローマ教皇のヨハネ・パウロII世が進化論は「単なる仮説以上のもの(more than just a hypothesis)」という、曖昧ではあるけれどもリベラルに解釈可能な表明をしたかと思えば、現教皇のベネディクトXVI世は「人類は偶然とエラーの産物ではなく、宇宙は暗黒と無秩序の産物ではない(Humans are not the products of chance and error. The universe is not the product of darkness and unreason.)」と表明しています。またアメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領はインテリジェント・デザイン、進化論双方の教育を承認するよう発言しています。ナンバーズの本は2006年に増補出版されたものなので2005年以後の動きについては書かれていませんが、いずれにせよアメリカではインテリジェント・デザインとして一部は形を変えているとはいえ(勿論、従来通りの創造論者も冒頭に記したギャロップ調査結果が示すように増えこそすれ減ってはいません)、「風の遺産」で描かれているような進化論に関する議論が今でも、いや一時期に比べると遥かに大きな重要性を持って議論されているのです。また、創造論といえばスコープス裁判当時は、ほぼアメリカの専売特許であるように考えられていたのに対して、グローバリゼーションの時代である21世紀においては、世界的な拡がりをみせています。たとえばアジアではキリスト教の影響が色濃い韓国は創造論のパワーハウスと化しているそうです。このような風潮に最も無関心な日本においてすら創造論を支持する組織の支部が存在するようです。それから、必ずしも創造論の浸透ということを意味しないかもしれませんが、イスラム世界におけるアンチ進化論の隆盛に関して、笑えそうで笑えない話があります。それは2001年にサウジアラビアの宗教裁判で日本のゲームキャラクターポケモンが摘発され、イスラム教の権威者によってポケモンを告発するファトワーが宣言されたそうですが、その理由はなななななんと!ポケモンがダーウィンの異端的見解に基いているように見えたからだそうです。この有名なアニメを恥ずかしながら一度も見たことがありませんが、実際に進化論的な側面が見出せるのでしょうか?

 ここまで述べると、それならばお前は進化論についてどう考えるのかと尋ねられそうなので、それに回答しておきましょう。といえども、小生は文系出身であり科学にはあまり詳しい方ではないこともあり、進化論の最新の科学的ステータスがどのようなものであるかよく知らず、また恐ろしくトンチンカンなことを述べるかもしれませんが敢えてトライしてみましょう。個人的には進化論は前ローマ教皇の見解とは違って仮説の域を出ていないのではないかと考えています。勿論、神様が6日間でこの世を創造したなどと考えているわけではないとしても、人類に至るまでの生物の進化を全て進化論のみで解決できるとは考えていません。確かに、猿から人間への進化くらいであれば、形態も似ているので進化論的に説明可能なのであろうとは思っても、よく言われるようにたとえば目のような精密な器官を、自然選択、適者生存或いは突然変異のような専ら偶然に依拠した理論のみで説明し切るのは、困難ではないかという印象を受けます。第一に適者生存という考え方をベースとして生物が進化し得るのだとすれば、最終的な環境が最初から全て一度に与えられていない限り、生物の進化は環境の進化に依存するというおかしな結論に至るのではないかとド素人ながらつらつらと考えています。適者生存とは生き残るのに相応しいヤツが生き残るというトートロジーに過ぎないのではないかと思われる点は別としても、そもそもシステム論的に考えれば環境とそこに住まう生物は一連托生と捉えるべきであり、そのような見地に立つならば環境が常に独立先行して存在することを前提とするかのような適者生存の概念は結局何も語っていないに等しいのではないかと思われます。このような点がクリアに示されない限りという条件がつきますが、どこかで合目的なパワーを導入する(すなわち多かれ少なかれインテリジェント・デザインの見解を採る)必要があるのではないかというのが個人的な見解です。或いは科学にあまり詳しくはないのでこれは単なる思い付きに過ぎませんが、内部と外部の自己言及的なフィードバックを基本とするシステム論的なアプローチやイリヤ・プリゴジンの散逸構造論などの非平衡系を説明しようとする複雑系科学により何らかの回答を見出せる可能性があるのではないかという期待も一方では持ってます。

 ということで、これまで進化論と創造論に関して長々と述べてきましたが、最後に「風の遺産」そのものに関して簡単にコメントしておきましょう。これまで述べてきたように、「風の遺産」はダーウィンの進化論をめぐって審理が争われるシーンが、作品の大部分を占めます。すなわち、同じくスタンリー・クレイマーが監督した「ニュールンベルグ裁判」(1961)同様ガチガチの法廷劇です。現在の日本でこのタイプの作品が公開されても、劇場はガラガラになること請け合いです。ビデオパッケージの裏面の記述によると、この作品は世界で初めて機内上映された映画であり、ファーストクラス乗客の集客が目的であったそうです。集客目当てでこのような映画を上映するとは、現在の日本ではとても考えられませんが、少なくとも公開当時はヨーロッパを含めた海外で相当話題になった作品であるようです。にも関わらず日本で劇場公開されなかったのは、ある程度納得できるところであり、もともと法廷物は日本ではあまり受けない上に、テーマが進化論ときては一般客は頭を抱えて逃げてしまうこと必定だからです。アメリカの文化人類学者エドワード・T・ホールによれば、アメリカは低コンテクスト社会を代表する国であるのに対し、日本は高コンテクスト社会を代表する国だそうです。低コンテクスト社会とは、様々な規則、習慣等を可能な限り明文化しようとする文化であって、明文化されたドキュメントの存在を重要視する文化社会です。これに対し高コンテクスト社会とは、明文化されることのない習慣や常識等の状況的なコンテクストを重視する文化社会であり、低コンテクスト文化では明文化されねばならない事項であっても、悪い言い方をするとなあなあで暗黙の内に処理する社会なのです。日本で訴訟を起こせば、訴訟を起こした当人が白い眼で見られるようなことになり兼ねないのです。従って、このような高コンテクスト社会に暮らす人々は、そもそも日常生活から遥かにかけ離れた低コンテクストの権化のような法廷にほとんど興味を示さないのが普通であり、たとえ法廷で決定されるべきことがあったとしても、それは既に暗黙のうちに決定されている事項を法廷で再確認するに過ぎないと考えられがちです。それでは、わざわざ法廷にまで持ち込んでも新しいドラマが発生する余地はほとんどありません。それならば「風の遺産」は日本人には全く面白くない作品なのでしょうか。小生は、英国紳士顔負けの紳士なので正直にいえば、やはりこの手の会話主導の作品が苦手な人には全く向かないでしょう。けれども、この手の作品を少しでも好むようであれば、とにかくスペンサー・トレイシ−とフレドリック・マーチという二人の名優の壮絶なやりとりに魅了されること間違いなしであり、2時間などあっという間に過ぎてしまうこと請け合いです。いずれにしても、これまで長々と説明してきたように、「風の遺産」が描くアメリカの文化的政治的な状況は現在でも大きくは変わっていないのであり、それどころか同時多発テロ事件後ますます同様な状況が出現しつつあるのです。正直いえば、現在の日本の中学、高校で進化論がどのように扱われているか、或いはそもそも自分が高校生の時進化論がどのように扱われていたかすら既に記憶にございません状態であるとはいえ、少なくとも1つ確実に断言できることは、日本では今も昔も公立学校で進化論を教えることの是非が侃侃諤諤と議論されることはない或いはなかったはずだということです。その為、我々日本人にとっては宗教的な理由により進化論の是非が問われるなど中世の出来事ではなかろうかと疑いさえするのが普通でしょう。中世には進化論など存在しなかったことは別としても、進化論vs創造論論争はスコープス裁判が行なわれた当時の1920年代、「風の遺産」が製作された1960年代初頭はおろか、21世紀になった現在ですらワールドワイドなトピックなのです。1920年代は別としても、前述したように「風の遺産」が公開された1960年代初頭頃はアンチ進化論が低調であった頃であり、それに比べると進化論論争は現在の方がむしろホットなのです。何しろ21世紀の情報社会において科学の最先端を突っ走っているように見えるアメリカにおいて、宗教的要素を多分に孕んだ倫理的理由から最先端の胚幹細胞(ES細胞)研究に待ったがかけられたほどなのです。このようなことを考えても、日本ではいかに古めかしく見えたとしても、ワールドワイドな文脈の中では進化論論争は極めてコンテンポラリーなテーマなのです。「風の遺産」が日本国内でもDVD化されたのはそのような国際情勢に鑑みてのことか否かは不明ですが、いずれにせよ、たとえ専門の研究者が述べるように誤った情報が多く含まれるのが事実であったとしても、問題の所在を明瞭に認識する為に「風の遺産」はまさに今だからこそ見るべき作品であり、この手の会話主導の作品が苦手であったとしても一度は見ておくべき作品ではないかと思われます。


2008/03/28 by Hiroshi Iruma
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