十二人の怒れる男 ★★★
(12 Angry Men)

1957 US
監督:シドニー・ルメット
出演:ヘンリー・フォンダ、リー・J・コッブ、エド・ベグリー、E・G・マーシャル



<一口プロット解説>
父親殺しの容疑で逮捕された少年の審理が12人の陪審員の間で始まり、予備投票では一人(ヘンリー・フォンダ)を除いた全員が有罪であるとする判断を下すが、評決は全員一致でなければならない為に侃侃諤諤たる議論が始まる。
<入間洋のコメント>
 「十二人の怒れる男」は21世紀になっても現役で活躍するシドニー・ルメットの監督作であるが、密室の中で繰り広げられる会話劇がこれ程面白いものであることを知ったのもこの映画によってであった。そもそも役者に支払う出演料を別にすると一体どのくらいの予算で製作されたのか興味があるところで、机と椅子と若干の小道具だけでこれ程の映画を製作してしまうとは驚くべきことである。いずれにしてもこの映画は個人的には確実にオールタイムベスト5に入る映画であるが、但し日本のオーディエンスはこのたぐいの法廷劇を敬遠する傾向があり、必ずしも万人向きであるとは言えないことも確かである。この作品は12人の陪審員達がある殺人事件を巡って討議する様子が冒頭からラストまで続く。最初はヘンリー・フォンダ演ずるただ一人の陪審員が無罪を主張するのみであるが、一人また一人と徐々に有罪から無罪へと主張を変えていくプロセスが極めて整合的且つスリリングなストーリー展開によって描かれており、しかもそのプロセスがそっくりそのまま陪審員達が織り成す人間ドラマでもあるという点が極めてユニークな作品である。この作品に関するあまたのレビューでよく言われるように、殊に12人の陪審員達の個性が実に見事に描き分けられている点に関しては脱帽する他はない。

 しかしながらこの映画が素晴らしいのはそのようなストーリー展開の妙や、個性溢れるパフォーマンスに関してのみではなく、ベトナム戦争開戦より遥か以前の当時のアメリカが持っていた自負を明瞭に見出せる点にもある。それは一言で言えば民主主義の理念を貫くという信念であり、また何を差し置いても個人の尊厳を最優先させねばならないという信念である。このことは言うは易し行うは難しであり、爾来伝統的な共同体社会においては個の尊厳よりも共同体全体の安寧を維持する方がより重要であると考えられていたのである。たとえば、ある人に悪い噂がたてばその噂が真であるか否かを確かめるよりも、その噂が真であろうが偽であろうがそれが社会全体に及ぼす悪影響をまず考慮してその人物を排斥してしまうというようなことが普通に行われてきたのである。陶片追放などということが古代から行われてきたのであり、石川啄木は石を持って故郷を追われたのである。要するに疑わしきは罰せずではなく、疑わしきは十派一絡げに罰してしまおうというのが基本的な原理であり、悪名高き魔女裁判などはその最たるものであったと言えよう。1950年代には、そのような共同体社会がテーマとして扱われた映画がしばしば製作されていたことは、「ピクニック」(1956)のレビューで述べた通りである。また、このような閉鎖社会では新しい考え方は伝統を破壊する恐れがある故に、それらをなるべく排斥しようとする力学が働くのが常である。「十二人の怒れる男」からは離れるが、そのようなからくりが見事に描かれている映画としてスタンリー・クレイマーの「風の遺産」(1960)が挙げられる。「風の遺産」はモンキートライアルすなわち「人間は猿から進化した」というダーウインの考え方を学校で教えた為に逮捕されたハイスクールの先生を巡って行われる裁判が舞台となる映画だが、伝統的な宗教的心情を逆撫でするダーウインの考え方を学校で教えた教師を厳罰に処することを町の住民の多くが望むのに対し、スペンサー・トレイシー演ずる弁護側弁護士はダーウインの考え方が正しいか否かという観点よりも、個人が自由に考える権利が奪われてしまったならば中世への逆戻りであるという点に焦点を置いて論陣を張る。すなわち、村人達は一個人を犠牲にしてでも共同体社会の安寧を計ることが大事であると考えているのに対し、スペンサー・トレイシー演ずる弁護士は、ある程度のリスクがあったとしても個人が自由に物事を考える権利を擁護する方がより重要であると考えているのであり、「風の遺産」におけるスペンサー・トレイシー演ずる弁護士のこのようなスタンスは、後述するように「十二人の怒れる男」におけるヘンリー・フォンダ演ずる陪審員のスタンスと全く同様である。

 「十二人の怒れる男」の冒頭で、ヘンリー・フォンダを除く11人の陪審員が被告を有罪であると主張するのは、彼らは被告を個として見るよりも状況の中の1つの関数値としてしか見ていないからである。状況とは、微妙な平衡の上に成り立つ共同体的側面を強く持つものであり、彼らにとってはその平衡が失われる可能性がある要素は出来得る限り排除されなければならない。最初はただ一人個の立場に立って物事を見ようとするヘンリー・フォンダ演ずる陪審員ですらそのことは十分に認識しており、被告を無罪にすれば場合によっては有罪である人物を野放しにする可能性があることを自ら認めている。しかしながら重要なことは、そのようなリスクを犯してでも個の尊厳は守らなければならない、すなわち共同体の安寧を維持する為にただ単に疑わしいという理由だけで個が罰せられてはならないという確固たる決意を彼は持っていることであり、この決意と信念が一人また一人と他の陪審員達の判決を変えていく。共同体よりも個人を優先させる彼のこの信念は、「風の遺産」におけるスペンサー・トレイシー演ずる弁護士が、個人が自由に考える権利を擁護するのと全く同一であり、これらのシーンを見ているとこの頃のアメリカが自分達の何を誇りにしていたかが手に取るように伝わってくる。

 被告の無罪が最終的に満場一致で決定した後、法廷の外でジョゼフ・スイーニーがヘンリー・フォンダに名前を尋ねるシーンがあるが、このシーンが示唆することは、これまで議論してきた12人の陪審員は互いに名前すら知らなかったということであり、特定の利害関係には関与しない人々が集って、出自や地位或いは各人が所属する地域社会というような特定のコンテクストには依存せず純粋に抽象的な議論を通して公正な判決が行われたということである。この映画を見ていると、アメリカの政治哲学者ジョン・ロールズのポリティカル・リベラリズムに関する議論を思い出すが、人間とは基本的に多様であり各々が信ずる価値観や宗教観は必然的に異なり得ることを認めるとするならば、ではそのような多様な人々が集まる社会が公正たり得るにはどのような手続き(procedure)が必要になるかが大きな問題になるはずであり学者であるロールズはそれを説明するのに延々と何百頁も紙幅を費やすが、この映画にはその回答の1つが単刀直入に提示されていると言えば大袈裟になるだろうか。いずれにせよ、この作品はヘンリー・フォンダ演ずる主人公の信念により、この映画を製作したシドニー・ルメットの信念、また更に言えば製作当時のアメリカという国が持っていた信念を窺い知ることが出来る作品であり、ベトナム戦争やウォーターゲート事件等を経てその信念がぐらつき始めた時期の諸々の作品と比較すると極めてストレートに固い自信が伝わってくる。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

註:上記レビューは、10年近く以前に書いたものであり、現在ではかなり一面的であったと考えています。ことに「製作当時のアメリカという国が持っていた信念を窺い知ることが出来る作品」というコメントは、それのみを指摘すると相当に不適切であったと考えています。というのも、「十二人の怒れる男」が製作された時代は、50年代前半の赤狩りの時代から数年しか経っておらず、ローゼンバーグ夫妻の死刑執行を典型例として、司法面でも歪んだプロセスの大きな爪あとがいまだに残っていたはずだからです。そもそも、ヒステリックな言動や行動で充たされた、赤狩りの時代という泥沼に、ほとんどの国民が首までつかっている状態で、ローゼンバーグ夫妻のケースを筆頭として、陪審員達が適切な判断を下せる(心理)状態にあったかどうかについては大きな疑問を持たざるを得ないところです。「十二人の怒れる男」のストーリーは、共産主義のスパイとはまったく無縁であるとはいえ、リー・J・コッブやエド・ベグリーが演じている陪審員は、鵜の目鷹の目でスパイを摘発し、スケープゴートを見出さんとしていた赤狩り時代の偏見に満ちた人々の姿をまさに象徴しているようにも思われます。そして、そのような人物に司法プロセスが掌握された結果が、ローゼンバーグ夫妻のような悲劇的なケースを生んだとも見なせます。そのように考えてみると、「十二人の怒れる男」は、そのようなアメリカ社会の歪んだあり方に対する糾弾でもあったことが分かるはずです。いずれにしても、アメリカは、独立戦争当時から、君主や貴族による専制政治、寡頭政治に対する恐怖と、民衆によるアナーキズム、衆愚政治に対する恐怖の双方に対して敏感であったのであり、その間の揺れは1776年の独立宣言の発布から1787年の合衆国憲法の成立までの変遷に如実に見て取れます。一般市民から陪審員を選定する陪審制は、それが行われていない日本では(但し、それにやや近い裁判員制度は間もなく開始されるようですが)奇異に思える点が多いとはいえ、アメリカでそれが採用されているのはまさに建国時の紆余曲折の結果によるものでしょう。いずれにしても、陪審制については、どうしても、陪審員の客観性、すなわち陪審員の偏見の有無が問題にならざるを得ないのであり、それはことに時代そのものが赤狩りのような偏見で染められている折には(事後的にではあれ)大きな問題になります。因みに、アメリカ建国時の民主制に対する考え方の揺れに関しては、ゴードン・S・ウッドの大著「The Creation of the American Republic 1776-1787」(The University of North Carolina Press)に極めて平易に解説されているので、600ページを越える大著であるだけに残念ながら邦訳はないながら、英語の得意な向きは是非とも参照してみて下さい。(2009/05/13 追記)

2000/06/09 by 雷小僧
(2008/10/15 revised by Hiroshi Iruma)
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