情婦 ★★★
(Witness for the Prosecution)

1957 US
監督:ビリー・ワイルダー
出演:タイロン・パワー、マレーネ・ディートリッヒ、チャールズ・ロートン、エルザ・ランチェスター



<一口プロット解説>
弁護士チャールズ・ロートンの元に、殺人容疑で逮捕されるタイロン・パワーがやって来て彼の弁護を依頼する。
<雷小僧のコメント>
アガサ・クリスティ原作ということですが、必ずしもクリスティのいつもの探偵物ではなくてむしろ法廷物の映画と言うべきでしょう。あちらでは、ミステリーまでもが法廷に持込まれるところが、非常に面白いところです。けれども、この映画はむしろ法廷物ではあるとはいえども、明らかにミステリーというジャンルがどういうジャンルであるかを認識させてくれる作品であるとも言えるように思います。映画、小説を問わずミステリーというジャンルに属する作品を鑑賞する時、私目がいつも感じてしまうのがミステリーという分野が持っている決定的な特殊性についてです。すなわち、ミステリーというジャンルに属する作品はその程度が大きいか小さいかは別として、その作品を鑑賞するオーディエンスがどのようにその作品を鑑賞するかという、いわば作品の内容自体とは直接関連を持たないマクロ的側面を作者の方が常に先取りして作品の中に意図的に組込むという側面を持っており、それが如何に巧妙であるかどうかがその作品の優劣を決定する1つの大きな要素となってしまうということです。それに対し、たとえば通常のストーリーを持つ映画や小説であれば、作者はただ自分の描きたいストーリーを映画や小説を通じて具体化するだけであり、殊に商業目的の作品であれば書いているストーリーが一般受けするかどうかというような考慮をすることは勿論あるかもしれませんが、オーディエンスが鑑賞する時のプロセスを先取りするなどというようなマクロ的操作をストーリー自体に組み込んだりはしないはずです。この度合いが極端に大きな作品が、映像化不能とまで言われるアガサ・クリスティの「アクロイド殺人事件」でしょう。エラリー・クイーン等の他のミステリー作家の多くがこの作品をミステリーではないと見做しているようですが、私目は全くその逆に考えていて、この作品はミステリーの持つ構造的本質を極端に誇張した作品であり、ある意味においてミステリーそのものであるとも考えています。むしろこの作品をミステリーでないと見做すミステリー作家は自己欺瞞に陥っているとも言えるわけであり、その点クリスティは自分の立場がよく分かっているからこそ「アクロイド殺人事件」のような極端な作品を物したのではないかと思われます。
さて、この「情婦」は前述したように法廷物ですが、前段で述べてきた意味においては決定的にミステリー的なのですね。何を言っているかというと、この映画を一度でも見たことのある人ならばすぐに分かるように、勿論ラストシーンについてです。実を言うと私目は、最初に見た折りに既にこのラストのどんでん返しはかなり以前のシーンから予想出来ましたが、逆に言えば予想出来た理由とは、この映画はアガサ・クリスティが原作であり、勿論その具体的な内容は知りませんでしたがミステリー的に意外な結末が存在するということは知っていたからです。いわばミステリーとしてのこの映画がマクロ的に仕組むであろう仕掛けを私目自身がメタレベルで予期していたが故にラストが予想出来たということであり、そうでなければ絶対にラストを予想することなど出来なかったはずです。最近見た映画ではミステリーというジャンルに分類されるわけではないかもしれませんが「シックス・センス」(1999)などもこの部類に入るでしょう。但しこの「情婦」という作品がそのような仕掛けに依拠した部分があるにもかかわらず凡庸な作品に終っていないのは、この仕掛けそのものが単にオーディエンスに向けられているわけではなく、ストーリーの進展自体とも有機的に絡んでいるからであり、プロット自体と自然にフィットしているからであると言うことが出来ます。それに対し、前述「シックス・センス」などはそれ程悪い方の例ではありませんがかなり無理があるように感じられてしまうのですね。いずれにしても、この類の作品が持つ危険性とは、ただワンカットに過ぎないラストシーンが、遡及的にそれまでの全てのシーンの意味合いを決定或いは変えてしまうことであり、また有機的関連性が希薄な状態でそのようなトリックが配置されると作品自体の統一性が雲散霧消してしまうことです。またそれが下手な形でインプリメントされると、作者のオーディエンスを騙そうとするしょうもない意図が丸見えに透けて見えてしまう場合が多々あります。余談ですが、「How to Do Things with Words」という興味深い著作で知られる言語学者J・L・オースティンを拝借するコミュニケーション理論のユルゲン・ハーバーマスならば、こういう意図はperlocutionaryであるとして、コミュニケーション上最も問題のある意図だと言うでしょうね(まあ映画は純粋なコミュニケーションとは言えないでしょうが)。意外性を持つと称する昨今の多くの映画が陥っている症候群がまさにこれであり、そもそもミステリーでもない分野の作品にまで何故ミステリー的な意外性を付加しなければならないのか疑問に思うことがしばしばあります。最新の例ではスティーブン・ソダーバーグの「オーシャンズ11」(2001)など決定的にこれが当て嵌まります(この作品に関して何かの宣伝で「見事に11人に騙されました」というのがありましたが、11人に騙されたのではなくソダーバーグに騙されたんだよと言いたくなってしまいましたね)。また、ミステリー小説における「アクロイド殺人事件」同様、徹底的に誇張することによりこの傾向を逆手に取ったのがデビッド・フィンチャーの「ゲーム」(1997)であろうと推測されます(推測されるとは製作した本人ではないので実際のところは分からないという意味ですが)。
かくしてミステリー的な構造を本質的に有するこの「情婦」という作品は、前段で述べたような危険性を常に孕んでいるとはいえ、そこは原作のアガサ・クリスティも監督のビリー・ワイルダーもそんじょそこらの凡人とは異なるわけであり、見ている者にミステリーが持つ本質的な要素を強烈に印象付けながら(ある意味で最後のどんでん返しは一種のカタルシスを構成すると言っても言い過ぎではないのかもしれません)、尚且つ作品としての統一感を全く失っていないのですね。クリスティと言えば「アクロイド殺人事件」のような作品を書く程にこのミステリーの本質を意識的に熟知していたわけであるし、ワイルダーと言えばストーリーテリングの巧妙さは人後に落ちないわけであるし、いわばこれら二人の結婚が見事なまでにうまく機能したと言えるのがこの作品でしょう。また、ミステリー作品を映像化しようとするとどうしても映画全体の表現自体にかせを嵌めなければならなくなるケースがあります。たとえば、「アクロイド殺人事件」が映像化不能と言われるのも、この作品が映像上に与えるであろうかせがMAXになることが容易に予測出来るが故にこのように言われるわけです(あまりネタをばらしたくないのでこの作品を読んだことはない人にはよく分からないような表現しか出来ませんが、非常に面白いミステリーなのでこの作品は是非読んでみて下さい)。他の例としては、「オリエント急行殺人事件」(1974)が挙げられます。この作品の構造的な問題点の詳細に関しては「ナイル殺人事件」(1978)のレビューに書きましたのでそちらを参考にして頂くとして、では「情婦」ではこれと同じことが言えるかというとノーです。これに関してもまたネタをばらしたくないのであまりはっきりとは言えませんが、この作品のラストシーンがこの映画に与えるかせはタイロン・パワーとマレーネ・ディートリッヒが単独同時に現れる時に発生すると言えるでしょう。小説の場合は意外にそういうかせは胡麻化せる場合が多いのですが(でなければ「アクロイド殺人事件」など存在出来ないことになります)、状況が全て必然的に画面上にクリアになってしまう映画というメディアにおいては、胡麻化しがなかなか効かないのですね。けれどもこの作品は舞台をうまく法廷というパブリックなスペースに置いているが故に、全体的な流れ自体がこのかせに嵌まらないようにうまく構成されているわけです。勿論この二人が単独で登場するシーンはありますが、それは現在とは関係のない過去のフラッシュバックシーンにおいてのみであり、それ以外のこの二人のインタラクションは全て法廷というパブリックの場で彼らが話すストーリーを通してしか発生しないわけです。すなわち法廷で彼らが語るストーリーが真であるか偽であるかが、必ずしもこの映画のオーディエンスが映画に対して下す真、偽の判断(というか誠実性に対する判断)と一致する必要はないわけであり、法廷という場を利用することにより巧妙にこのマテリアルから発生するかせから逃れることが出来るわけです。言い換えると、法廷で偽証するのは罪であるとは言え、映画中の登場人物が偽証することが、映画がそのオーディエンスに対し欺いていることを意味することには当然ならないということであり、この映画はそういう状況を巧みに利用しているということです。そんなことは当たり前であると思われるかもしれませんが、設定する状況によってはそれがそうではなくなってしまうことがあるわけであり、前出「オリエント急行殺人事件」が躓いているのがこの点に関してであるということになります。一言で言えば、ステージングとミステリーとしてのマテリアルが悪い方向に干渉し合ってしまうというトラップに陥っているのが「オリエント急行殺人事件」であるのに対し、「情婦」はそのトラップからうまく免れているということです。
というわけで実に巧妙なステージングと実に巧妙なストーリー展開がこの映画にはあり、またそのようなバックボーンが厳然としてあるが故に最後のどんでん返しがまた有効に機能していると言えますが、勿論キャラクターに関しても非常に興味深いものがあります。実を言えば、主演のタイロン・パワーもチャールズ・ロートンもオーバーアクティングの気配がある役者さん達ですが、舞台が法廷であるだけにオーバーアクティングは逆に極めて有効であるとも言えます。チャールズ・ロートンのいかにもものものしい語り口は、いかにも法廷のもつものものしい雰囲気を誇張しているようでもあるし、タイロン・パワーの法廷での大袈裟なリアクションは、このストーリー上でも・・・と言いかけましたが、ネタが露出しそうなのでやめておきます。それから見物はマレーネ・ディートリッヒでしょう。やはりこの人コワソウですね。結局この映画で最もしたたかなのが彼女であり、最後の・・・と言いかけましたがこれもやめておきます。それからチャールズ・ロートンの実の嫁さんであったエルザ・ランチェスターが出演していてコメディタッチを加えています。チャールズ・ロートンなどコメディを演じているわけではないにもかかわらず存在自体がまるでコメディですね。他にも50年代から60年代の前半にかけて脇役で出演しては存在感を誇示していたジョン・ウイリアムズがこの映画にも出演していますが、さすがにここでは物理的にも演技的にもチャールズ・ロートンの陰になっています。敢えて難を言えばマレーネ・ディートリッヒが最後に自分から種明かしをするのは少し奇妙なのですが(勿論それは役者さんのせいではありませんが)、パーフォーマンスという点からも申し分のない映画であると言えるでしょう。
最後にどうも分からないのが邦題に関してなのですが、「情婦」とはいったいどの登場人物を指しているのでしょうか。普通に考えればマレーネ・ディートリッヒなのかもしれませんが、彼女はタイロン・パワーの奥さん役なので情婦とは言えないのではないでしょうか(手元に国語辞典がないのでこの語のはっきりした定義は良く分からないのは確かなのですが)。確かに彼女は、ドイツでの結婚を解消していないようなので重婚(bigamy)ということになりタイロン・パワーとの結婚は無効かもしれませんが、それはあくまでも手続き的な話でありその点につけ込んで情婦とはいかにも言い過ぎでしょう。それから殺されるおばさんがいますが、定義上彼女に対して「情婦」という語は確かに当て嵌まると思いますが、あのおばさんに対して情婦というのは何とも・・・・。しかもタイロン・パワーは、ただ彼女を・・・と言いかけましたがこれもネタバラシになりそうなのでやめておきます。それから最後の方で出てきてタイロン・パワーと駆け落ちしようとするおねえちゃんがいますが、語感から言えば一番「情婦」に近いのが彼女なのかもしれませんが、まさかあれだけしか出演していない人物をタイトルにしたりはしないでしょう。ということで「情婦」って誰のこと?
※「情婦」という邦題に関して後になって考え直してみると、ひょっとするこの日本語タイトルをつけた人は、情婦の本来の日本語の意味(すなわち英語で言えばmistressの意味)でこの語を使用していないのではないかという可能性に思いあたりました。すなわち情け深い婦人(妻)という程度の意味でこの語を使用していて、従ってマレーネ・ディートリッヒをターゲットとしてこの用語を使用しているのではないかということです。しかしそうであるとすれば、まさかその人が本来の日本語の意味を知らなかったということではないにしても、極めて誤解を招きやすいタイトルをつけたとしか言いようがないのではないでしょうか。


2002/03/16 by 雷小僧
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