旅情 ★★☆
(Summertime)

1955 US
監督:デビッド・リーン
出演:キャサリン・ヘプバーン、ロッサノ・ブラッツィ、イザ・ミランダ、ダレン・マクギャビン



<一口プロット解説>
キャサリン・ヘプバーン演じるオールドミスは、今まで溜めてきた貯えを使って一生に一度のイタリア旅行を実行するが、そこで中年紳士のロッサノ・ブラッツィと出会う。
<雷小僧のコメント>
意外にアメリカ人は、自分達がビジネスライクな四角四面な国民であると考えている節があって、映画を見ているとそれがよく分かる時がしばしばあります。この「旅情」などもその内の一つであると言えます。監督のデビッド・リーンは勿論英国人なのですが、この映画がリーンの出世作として広範に受け入れられた背景の1つには、アメリカ人(何せ世界最大の映画消費国と言えるでしょうから、商業的には彼らに受けないことにはどうしようもないでしょう)のメンタリティにもこの映画の内容がうまくフィットしていたからではないでしょうか。ある意味において、この映画の中で描写されているイタリアという国は全くイタリアなどではなくて、米英人の目から見た場合イタリアという国から浮き立ってくるシンボリックな側面が強調されたイタリア或はもっとはっきり言ってしまえばイタリアという鏡に自分達の姿を反射させて回帰的に自らを省察している彼らの姿そのものの置換的な表現であると言ってしまってもそう間違いはないのではないかと思われます。一般にある国の人達(これはある個人と言い換えても構わないでしょう)が自分達はどういう民族であるかということを考える場合、自分達は一般にコレコレこういうキャラクターを有していると肯定的に定義するよりも、自分達自身が所属していると考えているカテゴリーとは別のカテゴリーに所属するものと考えている人々と比較して自分達はコレコレこういうキャラクターは有していないと定義する方が遥かに容易である場合があります。エドワード・サイードの有名な書物「オリエンタリズム」に書かれていることの主旨の1つがまさにこれであると言えるでしょう。
のっけから話が錯綜してきましたが、要するに言いたい事は「旅情」という映画はイタリアが舞台になっていながらもここに描かれているのは決してイタリアではなくて、アメリカ(或はリーンの国イギリス?)であると見做されるべきではないかということです。そうでないと、たとえばキャサリン・ヘプバーンが突然アメリカへ帰ると言い出すシーンが動機不十分に思えて全く理解出来なくなってしまうのです。私目が最初にこの映画を見た時、ヘプバーンがロッサノ・ブラッツィとロマンティックな一時を過ごした後、いきなりアメリカへ帰ると言い出すシーンで「へ?なんで??????」とハテナマークが嵐のように発生したのを覚えています。この点については後でもう一度触れますが、それは別としてもこの「旅情」という映画はこの映画さえ見ればわざわざイタリアのベニスまで観光に出かける必要がないとすら言われた程ベニスの風景が見事にカメラに捉えられているのですが、これが意味するところの1つはこの映画が描写するのがまさに観光客のカメラに写るベニスであり、外側の視点から写し出されたベニスであると言うことです。私目は最近英語圏以外の映画をほとんど見ていないので(これは日本映画についても当て嵌まります)はっきりとは言えないのですが、イタリア人はベニスや他のイタリアの街々をこの「旅情」のような視点から撮ったりはしないのではないでしょうか。すなわちアメリカ人の目から見てこれはアメリカ的ではないとはっきりと定義可能な媒体を通して自分達自身がどういう民族(ちょっと多民族国家たるアメリカについて語る時に民族という言葉はよくないのですが他にいい言葉が思い浮かばないので取りあえず民族と言っておきます)であるかを逆に(否定的に)浮き彫りに出来るようなそういう光景がここには捉えられているのであり、それはイタリア人の視点から捉えられたイタリアの姿とは全く一致しないのではないかと言うことです。ここでイタリア人が見た米英人の性向をイタリアという国を舞台として捉えた、イタリアという舞台は同じであってもパースペクティブが全く逆方向を向いた最近の映画「ムッソリーニとお茶を」(アメリカ映画ですが監督のフランコ・ゼフィレッリはフィレンツェ生れのイタリア人ですね)が非常に興味深かった点の1つが、この映画でのイタリアという国のプロジェクションが米英人の製作したこの「旅情」のような映画のそれとはやはり相当違うなと思ったことを付け加えておきます。勿論こちらの映画は、ファシスト政権下のイタリアを描写しているが故ということもあるのかもしれませんが、第一にそういう時代をバックグラウンドとしてそのようなテーマの映画を製作しようとする発想そのものが「旅情」などの純粋に米英産の映画のそれとは決定的に違うということが言えるように思います。すなわち、自分達にないものをイタリアに代弁させることによって自己確認をしようとする「旅情」のような映画が、米英人達がそもそもネガティブな視点からしか見られないような時代をバックグラウンドとして製作されることはまずあり得ないであろうと考えられるのに対し、もともとそういう視点で米英人を捉えようとしているわけではないイタリア人の観点からすれば当然のことながらイタリア自体が何か自分達にはない特殊な存在であると見做す必要は全くないわけであり、それ故ファシスト政権下というような時代がバックグラウンドとして選択されたとしても、それは他の時代がバックグラウンドとされた場合と比較してこの点に関して大した違いが発生するわけではないということです。
ところでまた、「旅情」という映画はキャサリン・ヘプバーン演じるオールドミスが主人公なのですが、彼女がベニスで出会うのが如何にもヨーロッパ的伊達男(伊達中年おっさん)のロッサノ・ブラッツィです。こういう設定というのはこの頃のアメリカ映画には結構あって、その中でまるでホストクラブのホストのようにお相手を勤めるのが、アメリカ人がいかにもヨーロピアンであると見做しそうな俳優さん達、たとえばこのロッサノ・ブラッツィ、ルイ・ジュールダン、モーリス・ロネ達なのですね。これらの俳優さん達は、アメリカ人が自分達とは異なると見做す延いてはそれによって自分達はどういう性向を持った民族であるかがリフレクションを通してよりよく実感出来るようなそういう俳優さん達であると言うことが出来ると思います。まさにアメリカ映画御用達ヨーロッパ俳優であるということです。また彼らが演じる役というのがだいたい決まってアモラルなプレイボーイ(プレイ中年おっさん)であることに注意する必要があるでしょう。面白いことにアメリカ人はアモラルとインモラルを区別するのですね。前者は道徳的観念が最初から存在しないような人々の性向を指し、後者は道徳的観念が存在しながら敢えてそれを無視して行動する人々の性向を指しているのですが、アメリカ人は自分達がインモラルでは有り得てもアモラルでは決して有り得ないと考えている節があって、又それ故ヨーロッパ人の性向をアモラルであると捉えそれを自分達にはない何かアダムとイブの時代に戻ったような一種ピュアなクオリティであるように逆に見做す傾向があるように思われます。ここでも彼らアメリカ人がこれらのヨーロッパ俳優さん達を鏡のような位置において自分達が何でないかという定義を通じて、それが肯定的な像であれ否定的な像であれ自分達が何であるかを確認しようとしている姿を垣間見ることが出来るような気がします。
それからこの映画には何というかピューリタン的抑圧的傾向がキャサリン・ヘプバーンの行動を通じてよく分かるような側面があります。彼女がいくらイタリアの陽気さに同調しようと躍起になっても、最後には結局自分が自分はこうであると見做している人物像から逃れられないのですね。結局彼女は自分が何ではないと見做すことによって何であると考えている内のその何ではないと見做している部分に同化することが決して出来ないが故に(すなわちそれに同化してしまうということは、この否定を通じての肯定というプロセスそのものが無に帰するということを意味しているからです)、突然アメリカへ帰ると言い出すわけです。この映画の有名なラストシーンがいみじくも示しているように、彼女はイタリアという自分にとっては他者である国が差し出すプレゼントを掴めそうでいて結局掴めないで終ってしまうのです。デビッド・リーンという人は、映画にうつつを抜かすなど一種の罪悪だと見做すような厳格なクエーカー教徒の家庭で育てられたそうですが、何やらリーンにとっての映画というプライズ(勝ち取るべき景品)的存在が、この映画のヘプバーンにとってのイタリアのプライズ的な性格とダブっているのではないかという気さえしてきます。この映画でのヘプバーンは、イタリアというプライズについに手が届くことがなかったのですが、リーンはこの映画を足場として最終的には映画界における名声というプライズを手にすることに成功しますから、その意味でもこの映画は彼にとって予兆的な映画であったと言えるのかもしれません。自らが自分にはないものとして定義するイタリアという国に対して意識的にしろ無意識的にしろ必死に手を伸ばそうとするヘプバーンの姿は、自分に禁じられた映画というものに対して必死に手を伸ばそうとする若き日のリーンの姿そのものであったのかもしれません。心の底ではロッサノ・ブラッツィを受け入れたいと思っているはずのヘプバーンがストレートにそれを表現出来ない様子は何やら如何にもピューリタン的であり、リーンの育った英国の家庭の雰囲気と何とかそこから抜け出そうとするリーンの必死のもがきがそこには表現されているような気さえしてきます(うーーんちょっと我乍らオーバーですねこれは)。この後リーンは、「戦場にかける橋」(1957)での東南アジア、「アラビアのロレンス」(1962)での中近東、「ドクトル・ジバゴ」(1965)でのロシア、「ライアンの娘」(1970)でのアイルランド、「インドへの道」(1984)でのインドというように常に世界を股にかけて舞台設定を行っているのですが、このことはまさにリーンが自分の狭い出自を何とか抜け出そうとしていた証拠と見做すことが出来るのではないでしょうか。
とかなりややこしいことを述べてしまいましたが、でもやはりこの映画は兎に角画面が美しいのですね。この映画を見れば高いゼニを払ってイタリアまで出かける必要がないと評されても、本当にまんざら冗談ではないなと思える程にそうなのです。50年代中盤と言えばまだ白黒映画の方が多かった時代でしょうから、まさにこの映画こそカラーで撮られるべくしてカラーで撮られた映画であると言えましょう。加えてアレッサンドロ・チッコニーニのあの名曲「サマータイム・イン・ベニス」が全篇を彩っているわけですからもうエンターテインメント的な側面においては言うことなしと言ったとしても大袈裟には響かないでしょう。いやー、私目もヘプバーンのように屋外カフェに座っていたら、イタリアのビューーーーーーティフルなお姉ちゃんに声かけてもらえるかな。え!男ならてめーが声をかけろってか。雷坊やは小心者なのです。

2001/02/17 by 雷小僧
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