禁断の惑星 ★★☆
(Forbidden Planet)

1956 US
監督:フレッド・M・ウィルコックス
出演:レスリー・ニールセン、ウォルター・ピジョン、アン・フランシス、アール・ホリマン



<一口プロット解説>
レスリー・ニールセン率いる宇宙捜査隊は、ある惑星に前回の探検で生き残ったウォルター・ピジョンとその娘アン・フランシスが暮らしているのを発見する。
<雷小僧のコメント>
 この前「スピード」(1994)についてのレビューを書いた時に、「2001年宇宙の旅」(1968)を例として挙げ、映画の抽象度について言及したのですが、それについてつらつらと思いを馳せていたところ思い出しました。既に1950年代の半ばに抽象度ということに関しては目茶苦茶に高いやつがあることをです。それがこの「禁断の惑星」です。この映画は、いわばカルト的な人気があるので知っている人も多いのではないかと思いますが、抽象度という点に関しては群を抜いていたように思います。この映画の中に現れる転送装置や光線銃やロボットが後の「スター・トレック」シリーズや「スター・ウォーズ」シリーズ等に影響を与えたのではないかと言われているようにも思いますが、私目はそういう側面よりも抽象度の高さという点において「2001年宇宙の旅」等の映画との関連性の方がより高いのではないかと思っている程です。ここで抽象度が高いと私目が言っていることの意味をもう一度再定義しておきますと、要するに現実生活で我々が体験する体験の様式とは乖離されたような次元でその映画が構成される度合が大きい場合に、その映画は抽象度が高いということとします。従って、映画自体の性格としても抽象度が増すとそれだけ観念的な色彩が濃くなるわけであり、その最良の例が「2001年宇宙の旅」に見ることが出来るのですね。こういう映画は、見る人に解釈の自由度を大きく与えるが故に見る人によって全然異なる見方が出来るわけであり、そもそもそういう曖昧性というか多義性というものが映画全体を支配しがちになる傾向があります。実を言えば、現在でも抽象度の高い映画というのは、そうは多くはないのであり、「2001年宇宙の旅」以降であると、たとえば「未来世紀ブラジル」(1985)を始めとするテリー・ギリアムの作品、「アルタード・ステーツ」(1980)等のケン・ラッセルの作品、「未来惑星ザルドス」(1974)、「ブレードランナー」(1982)、「トータル・リコール」(1990)、それから「スピード」のレビューで挙げた「マトリックス」(1999)くらいしか私目には思い浮かびません。「トータル・リコール」辺りはあまり抽象度が高いようには見えないかもしれませんが、映画全体が夢か現実か最後迄分からないような構成になっているわけであり、やはりかなり高抽象度を有しているのではないかと思います。
 高い抽象度を有する映画が現在でもそれ程多くはない理由の1つとして、やはり映画には商業的な目的が優先するという要因があるように思います。すなわち、抽象度を高くするとギャンブルしなければならないわけです。何故ならば、映画の内容が現実的な様式から乖離すればする程、下手をすると観客にそっぽを向かれる可能性が高くなるからです。たとえば、「2001年宇宙の旅」が商業的に成功したか否かはよく分かりませんが、あの映画を本当に面白いと思って何度も何度も繰り返して見る人はそれ程多くはないのではないでしょうか(私目も2度しか見ていません)。この映画に関しては最近の映画ではないにもかかわらずインターネットをサーチしても結構色々とレビューがあるようなので、かなり人気があるのではないかと思われても不思議ではないかもしれませんが、そのレビューにしたところで多くは非常に思弁的な解釈を競い合うという性質のものなのではないかと思います。そういう解釈というのは、普段一般的に娯楽として映画を見る人にとってはどちらかというとそれ程大きな関心を寄せることが出来るような類のものではなく、やはりカルト的な色彩が非常に濃くなってしまうという方が真に近いのではないでしょうか。それから、映画ではなくてテレビのSF番組の傾向を見るともっとこの辺がはっきりするのではないでしょうか。何故なら、内容的には基本的には1回限りの映画とは違って、スポンサーを持って毎週放映し続けなければならないシリーズ化されたテレビドラマでは、視聴率を失うギャンブルなどそうは犯せないであろうはずだからです。たとえば「タイム・トンネル」、「スター・トレック」、「猿の惑星」、「ビジター」等どれを取り上げてみても抽象度が高いものはまずないように思います。またシリーズ化された映画の場合も同様なことが言えるように思います。「猿の惑星」シリーズ、「スター・ウォーズ」シリーズ(何しろテレビですらどの一作も見たことがないので、あまりこの映画に関しては詳細に言及することは出来ないのですが)、「エイリアン」シリーズ等全て抽象度はそれ程高くはないように思います。確かに「2001年宇宙の旅」には、「2010年」(1984)という続編らしきものがありますが、この映画の評判があまり芳しいとは言えないとするならば、それは単に映画の出来うんぬんということよりも(まあそれもあるかもしれませんが)、あの「2001年宇宙の旅」の観念的側面を見事に削ぎ落としてそれをまさに地に落としてしまったところに不評の原因があるのかもしれません。
 さてかくして一般的に大衆娯楽としての商業映画には、抽象度が高いものがそれ程多くはないのですが、既に1950年代の中頃にこの「禁断の惑星」程に高抽象度を有した映画があるとはかなり驚くべきことです。まず、タイトルクレジットの部分で流れる電子音楽からして何やら異様な雰囲気に充たされます。映画音楽でこの手の音楽というか音が使用されたのは、ちょっと分かりませんがどうなんでしょう始めてでしょうか?ただ、ではこの手の音楽が音楽自体として画期的であったかというと別にそうではないのです。おそらくこの時点で既にミュージックコンクリートと言われる分野は存在していたであろうし、クラシック界(ポピュラーと比べてのクラシックという意味です)にはメシアン、ケージ、ベリオ、シュトックハウゼン、リゲティ等の名前はあったはずですから何ら新しくはなかったはずです。しかし、そういう類の音楽を大衆娯楽たる映画に持ち込むことはまた別の話で、普段聞きなれた音楽ではないということがこの映画に大きな抽象性をもたらす結果になるのであり、この映画の製作者も電子音楽を持込むことのそういう意味合いがよく分かっていてわざとそうしたのではないかと思います。
 それから、この映画の舞台となる惑星上で栄えていた高度に発達した文明が、一夜にして滅びるのは、憎しみ等のエモーショナルなものが実体化してうんぬんかんぬんというようなくだりは、実に観念的な要素が色濃く出ています。それは、たとえば「スターウォーズ」等の宇宙戦争的なモチーフと比べて見ればよく分かるのではないかと思います。それから、この「禁断の惑星」はあまり細部にこだわっていないような側面があって、たとえば先程述べたようにこの映画には憎しみが実体化したモンスターが出てくるのですが、このモンスターが後年のドレビン刑事ことレスリー・ニールセンの率いる宇宙捜査隊を攻めてきます。ところが、これがまた何とまあアニメーションするモンスターなのですね。いくら当時は、特撮技術が発達していなかったとはいえ、それはないだろうと言いたくなるようなモンスターなのですが、これは逆にこの映画の製作者達がモンスターの実体などどう見せようがあまり関係ないやと思っていたからなのではないかと思えます。これがたとえば、この映画のしばらく前に製作された「宇宙戦争」(1953)のような映画であったとしたらどうでしょう。「宇宙戦争」も間違いなく抽象度の低い映画であり、たとえ火星人など存在しないことが分かっていたとしても映画自体はいかにも現実的に見せる必要があるわけであり、この映画に「禁断の惑星」のようなモンスターを出現させたら間違いなく映画がぶち壊しになってしまうでしょう(でも「宇宙戦争」の火星人も今から見ればかなり噴飯物なのですが当時としてはあれはマジで現実的に見せかけようとした火星人なのだと思いますよ)。
 それから「禁断の惑星」の何やらカードボードにかかれた風景のようなバックグラウンドがあります。勿論、今でもはるか宇宙の果てにある惑星がどういう景色をしているかなど誰にも分からないといえば分からないのですが、それにしてもどうしたら宇宙の彼方の惑星が宇宙の彼方の惑星らしく現実的に見えるだろうかというような顧慮など全くどこにもないような風景なのですね。これもこの映画が現実感というものにほとんど依拠していないことを示しているように思います。このような点は、この当時の有名なSF映画「縮みゆく人間」(1957)と比較して見るとより一層はっきりするのではないかと思います。「縮みゆく人間」も、ある1人の男(グラント・ウイリアムズ)が怪しげな放射能を浴びてどんどん縮んでしまうというようなこれ以上ない程有得ないプロット(まあそれがSFのSFたる由縁なわけですが)を持っていますが、抽象度は極めて低いというか、決定的にゼロに近いのです。何故なら、この映画はそういうあり得ない状況をいかにしたら現実的に見せることが出来るかという点にその力点の1つがあるからです。従って、この縮みゆく男のグラント・ウイリアムズが、たとえば家の飼い猫に襲われるシーンや、蜘蛛と裁縫用の針で闘うシーンなどは、もしそういう不運の奴がいたならば決定的にこういうように見えるであろうという現実感を持って微に入り細を穿って描写されるわけです。まあ、この映画は最後の最後で一種の救済の思弁に走りますが、まさにリアリティにリアリティを積み重ねた上で、そのリアリティからの救済として一種の観念論に走るところがご愛嬌といえばご愛嬌なのですね。まさにこの正反対なのが「禁断の惑星」なわけであり、たとえば宇宙の彼方の惑星はこんなにも厳しい世界なのだというような現実感をクリエートするのが、この映画の意図では全くないように思われます。このような点が、後年のキューブリックの「2001年宇宙の旅」によく似ているように思います。すなわち、どんなものであれ現実感をクリエートすることがその意図として存在するわけではなく、逆に高度な抽象性を演出するのがその目的なのではないかと思える点においてです。こういう映画は、前段でも述べたように解釈の自由度を許すが故に(但し「禁断の惑星」は「2001年宇宙の旅」程ではまだないのですが)、見るのにかなりクリエーティブなマインドを要求する映画であると言えるように思います。そういう意味において、未知の魅力があると同時にちょっと難しいなという側面もこれらの映画にはあるわけであり、それが一般客の疎遠化及び並行してこれらの映画のカルト化ということにも関係しているのではないかなと思います。最後に一言、アン・フランシスがキュキュキュキュキュキューーーーーーーーーーートじゃあ!!!!!!

2000/10/14 by 雷小僧
ホーム:http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_actress.htm
メール::hj7h-tkhs@asahi-net.or.jp