タワーリング・インフェルノ ★★★
(The Towering Inferno)

1974 US
監督:ジョン・ギラーミン
出演:ポール・ニューマン、スティーブ・マックイーン、フェイ・ダナウエイ、ウイリアム・ホールデン


<一口プロット解説>
オープンしたばかりの超高層ビルが火炎に包まれ、セレモニーに招待された有名人が最上階に取り残される。
<入間洋のコメント>
思い出しますね、公開当時この映画をいそいそと映画館へ見に行ったことを。あれから30年以上が経過しましたか。現在から振り返ってみても、この作品が1970年代パニック映画の最高峰であることは明らかであるどころか、それ以後に製作されたこの手の映画を含めてもベストであるとが分かります。現代の技術を持ってすれば、この基本的には昔ながらの方法で撮影された映画を凌駕することはいとも簡単であるように思われますが、結局映画とは単に特殊効果だけではないのですね。1990年代の後半あたりから再びパニック映画がしばしば製作されるようになりましたが、まず第一にそれらの作品は現実感が希薄であり、それを糊塗するかのようなお涙頂戴的ヒロイズムに走ることしばしばであり、それが余計に現実感を希薄にしているという悪循環に陥っています。というよりも、もともとそれが意図ではないということかもしれませんが、それとは異なり「タワーリング・インフェルノ」の素晴らしい点の1つは現実感に満ちているが故に、ドラマ的迫真性が際立っているところにあります。これは半分ジョークですが、1990年代のパニック映画においてはたとえばブルース・ウィルスのように「俺が犠牲になって・・・」などという展開になることがしばしばですが、「タワーリング・インフェルノ」のヒーローであるスティーブ・マックイーンはボスの命令でラストシーンの命がけのミッションを実行するのですね。

いずれにしてもこの作品は、FoxとWarnerという2つのスタジオが共同で製作した映画であり(多分ハリウッド映画史上初でしょう)、また当時のトップスターであったポール・ニューマンとスティーブ・マックイーンがほぼ同等の主演格の資格で出演しているという破格な作品でした。確かにたとえばこの当時で言えば「遠すぎた橋」(1977)のような作品もオールスター映画ですが、「タワーリング・インフェルノ」は単なるオールスター映画ではないのです。オールスター映画には通常2種類あって、1つはオールスターとは言えども結局は主演格のスターが一人いてそれ以外のスターは皆サポート役に廻っているというケースであり当然ギャラの取り分も主演とそれ以外では同じスターでも違うはずです。たとえば、出演俳優の格は「タワーリング・インフェルノ」に比べると遥かに劣るとはいえパニック映画の嚆矢となったという意味においては「タワーリング・インフェルノ」同様エポックメイキングな作品であった「ポセイドン・アドベンチャー」(1972)はオールスター映画であると言えますが、ジーン・ハックマンが主演でありそれ以外のスター達はサポート役であったことは明白でしょう。2種類目は「遠すぎた橋」が典型的にそうですが実体的な主演は存在しないオールスター映画があります。「史上最大の作戦」(1962)等の戦争巨編映画や「西部開拓史」(1962)のような数世代を扱うエピックムービーにはこのパターンの作品が時に見受けられます。ところが「タワーリング・インフェルノ」は主演が二人、それも男の主演が二人いるオールスター映画でありこのパターンはほとんど存在しないと言って良いかもしれません(勿論エンターテイニングであることを狙ってオールスターキャストされているわけではない通常の映画の場合には二人のビッグスターがたとえばライバル的関係の役で出演しているケースはノーマルケースとして存在します)。「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」の「レアル・マドリードのようなオールスター画《大脱走》」の最後に「ポール・ニューマンとともに彼(マックイーン)が1960年代に出現したニューヒーローであったことに異論を差し挟む者はいないだろう」と書きましたが、そのニューヒーローが二人とも出演しているわけです。つまり「タワーリング・インフェルノ」はメインの視点となる人物が二人いることになり、恐ろしく贅沢な映画であったということになります。但し少し残念なのは、女優陣がやや手薄であり、フェイ・ダナウエイとこの映画がラストになるジェニファー・ジョーンズ(彼女はこれを書いている時点ではまだ存命中かもしれませんがまさかもう映画に出演したりはしないでしょう、エレベータから落ちるのが彼女のキャリアのラストとは少し悲しいものがありますね)は良いとしても、スーザン・ブレイクリー(リチャ−ド・チェンバレンの妻役)やスーザン・フラナリー(哀れ煙に巻かれて窓から飛び降りるロバート・ワグナーの秘書役)がその次ではやや物足りなさがあると言わざるを得ないところです。まあそれは大目に見るとして、いずれにしてもこの作品はエンターテインメント性という意味でも恐らくは映画史上5本の指には確実に入るでしょう。8部門でオスカーにノミネートされ、その内3部門を受賞していますが、コンピュータグラフィックなどという道具がなかった当時においてこれだけのビジュアル効果が達成されているのを見るのは驚嘆すべきことでもあります。また、「ポセイドン・アドベンチャー」の「The Morning After」同様この作品においてもジョン・ウイリアムズの主題歌「We May Never Love Like This Again」がオスカーに輝いていますが、子供の頃映画を見た後でサントラ盤を買ってきて何度も何度も聞いていたのを現在でも覚えています。素晴らしい曲でした。

ところで、「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」の「パニック映画は宗教テーマの復活?《ポセイドン・アドベンチャー》」の中で「ポセイドン・アドベンチャー」とともにこの映画は、1950年代に全盛を迎えその後衰退していった宗教映画と同様、宗教的なコノテーションが多分に含まれているのではないかと書きました。しかしながら、「ポセイドン・アドベンチャー」とは異なり「タワーリング・インフェルノ」にはそれとは若干異なるコノテーションも含まれています。それは何かというと、結論的に一言で言えば「テクノロジー優先主義に対する不信感の表明」ということです。この映画の冒頭、フレッド・アステアが超高層ビルを下から上へとカメラがパンしながら見上げるシーンがあります。公開時に映画館でこのシーンを見た時、観客席で「おおっ!」というような歓声が上がったことを今でも覚えています。ビルを下から上へとカメラがパンしながら見上げるこのようなシーンは1950年代の映画にもしばしば見受けられます。しかしながら、1950年代の映画における高層ビル(高層と言っても1950年代当時のビルなので多くは2、30階というようなところですが)を見上げるシーンと「タワーリング・インフェルノ」のそれでは、同じビルを見上げるシーンであってもコノテーションが全く異なるのですね。それはどのような点においてであるかと言うと、1950年代の映画においては、高層ビルは都会の象徴すなわち未来の希望の象徴であったのであり(これに関しては「七年目の浮気」(1955)のレビュー或いは「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」の「50年代のおおらかな都会生活のシンボル、マリリン・モンロー《七年目の浮気》」を参照して下さい)、従って1950年代の映画でビルを見上げるシーンがあったとするとそれは主人公の将来に対する希望であるとかそのようなポジティブなコノテーションが強く象徴的に込められていたのに対して、「タワーリング・インフェルノ」におけるビルを見上げるシーンの意味はテクノロジーの優位性というコノテーションが含まれており(つまり、「おおっ!このような天にも届くようなビルを建てるとは現代のテクノロジーとは何と凄いことか!」というメッセージがそこには込められているのであり、人生の秋を迎えたフレッド・アステア演ずる詐欺師が「このビルには俺の輝く未来が宿っているぜ」などと考えていることがそれによって象徴的に示されているということであるはずはないのですね)、そのテクノロジーの優位性という砂上の楼閣がそれ以後の2時間半を通じて疑問に付され、次々に打ち砕かれていくのがこの映画の裏の意味なのです。

言い換えると、この映画は、現代に蘇るバベルの塔の物語とも言うことが出来、まあこれも一種の宗教テーマと言えるかもしれません。今はなき世界貿易センタービルがエンパイアステートビルディングの高さを凌駕したのが丁度「タワーリング・インフェルノ」が製作された頃であったわけです。確かにエンパイアステートビルディングは2、30階ではないかもしれませんが、しかしながらエンパイアステートビルディングは都会に未来の希望というコノテーションが付着していた時代の名残り、すなわち決定的に過去の遺物であり、たとえば「めぐり逢い」(1957)でケーリー・グラントとデボラ・カーがエンパイアステートビルの展望台で再会を約束するのは、それがバラ色の未来を約束する場所であると考えられていたからこそです。1970年代に入ってそれに取って代ったのが世界貿易センタービルであったのであり、そこには高さとしてのみではなく希望であるとかロマンスよりもテクノロジーが前面に突出する時代の到来というように時代性に関しても大きな転換が行われたのです。そのような時代的背景を考慮に入れると、世界貿易センタービルの完成と「タワーリング・インフェルノ」という映画の公開は無関係とは言い切れないのであり、すなわちこれらは共にその当時の時代性が見事に体現された2つのインスタンスであったと言えるかもしれません。世界貿易センタービルというテクノロジーの象徴(単に背の高さのことのみではなく、ハイテク時代における世界の商業や貿易の中心というような意味を含めてのことです)が2001年9月に倒壊した時、その原因が何であったにしろ、その悲劇 的な未来は既にそれが完成した当時「タワーリング・インフェルノ」という映画によってはからずも予兆されていたと言えば不謹慎になるでしょうか?また、「タワーリング・インフェルノ」の高層ビルの内部をなめ尽くすような制御不能な豪火はビルの内部のいずこからも発生し得る偏在的な性質のものであり、一度発生した後は癌細胞のように増殖していく様子は、現代のハイテクの世にあってコンピュータシステムがネットワークという巨大な内部の中でウイルスに癌細胞のように侵されることを髣髴すると言えば言い過ぎでしょうか。ハイテク情報化時代においては悪は外部に存在するのではなく内部に偏在的に存在するのであり、世界貿易センタービルというテクノロジーの象徴を倒壊させたテロリズムの特徴がまさにこれなのですね。現代のハイテク情報化時代の黎明期は丁度この映画が製作された頃であったことを考えてみると、色々な意味においてエポックメイキングな作品であったと言えるのではないでしょうか。そのような時代性そして未来予知性すら有していたこの映画が、センチメンタルな1990年代後半のパニック映画といかに異なっていたかが分かるのではないでしょうか。

2006/05/20 by Hiroshi Iruma
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