渓流ウォッチング---その1:川面を叩くフライマン `96

 いつのことだったか覚えていないが(`92年頃か...)、近所の若者が渓流釣りをやりたいというので近場の丹沢の早戸川へ繰り出した日のことを書いてみよう。

 休日だったので、結構な釣り師の姿が川縁に見えていた。でも、自分がメインの釣りじゃないので、人が多くてもあまり気にもならない。流れが緩んだ淵のところで、若者に餌の流し方を教えていた。我々以外にも流れの上と下で竿を出している人が居る、じつにのんびりした雰囲気であった。

 余談だが、ふつう釣り師というと、せこい連中が多い。しかし、ここいらに来る渓流釣り師は釣りを始めたばかりの素人さんなのか、それともはなから釣果を諦めて、雰囲気だけを楽しみに来ているのか、どちらかというと、穏やかな人が多いのだ。
 なんてったって渓流釣りなのに、並んだまま動かないでポイント釣りしているからだ。
 
 もちろん、この裏丹沢辺りでも、いかにも釣り師らしい、せこい奴がかなり居る。

 例えばこうだ。

 明日から禁漁期間という最終日の明け方に林道を上がっていくと遅い車が走っている。遅いので抜こうとすると、その車は途端にスピードを上げて道のまん中を走り、通せんぼする。そういう車は決まって釣り師の車だ。そして、車止めに着くと、その準備の早いこと。荷物を担ぐと林道を駆け出し、いつの間にか姿が見えなくなっている。

 また、東北など地方に行くと、隣県の釣り師が団体で来て、細かい魚まで数人で百何十尾も根こそぎ捕っていくとか、年季の入ったジモッティの後ろから遡行していくと、ガンガン釣り上がって絶対に抜かせてくれないなんてのも居る。秋田の川では、ウェットスーツを着てシュノーケル付けて、ヤスで突いているおじさん二人がいた。
 勿論、親切な人も多い事も書き添えておくが、釣り師にはとんでもない常識外れの奴が多いのも事実だ。
 ---閑話休題---

 さて、話を元に戻すが、そののんびりした都会人御用達の川で、数人の餌釣り師(エッサマンという愛称とも蔑称ともとれる言い方をする人もいる)たちが釣り堀みたいに並んで静かに竿を出していた。
平和だなあ。。。
 そこに、下流から次第に釣り上がってくる頭のてっぺんから爪先まで妙にコントラストの効いた釣り師の姿。遠目にも、服装に投資しているのが解る。そして動作はフライフィッシングのそれである。
 
 あの辺はエゴ(魚のかくれ場所)がないし、あまりいい流れじゃないのになあと思ってみていると、どんどん釣り上がって近づいてくる。
 
 そして、近づいてきたフライマンの動作を見ていると、竿先からから繰り出されるラインが、フライが着水するよりも早く、鞭くれるようにライン全体で川面をピシャピシャ叩いている。こりゃ困った、「あの調子で上流に行かれちゃ、魚が引っ込んじゃう!」と思っていたら、それどころではない、なんと我々の横にまで近づいて来て、みんなが竿を出している淵の緩やかな流れの上をピシピシとラインではたいてくれるではないか。思わず全員で横顔を睨んでしまう。

 でも、我々は満員電車にもまれて通勤している都会人、変態も沢山居る中央線沿線の住人である。だから、そんな人にも優しい視線を投げかけ、「何か辛いことでも有ったのかい?」と心で囁きかける。
 しかし、そんな視線に反応もせず、ただロボットのように水面に鞭をくれるフライマン。その後ろ姿をただ見送るのは愛情に溢れた都会人釣り師の我々だ。
 
 そこでふと気がついた。「そうか!彼は下流にある釣り堀(50cmくらいの色々な種類のトラウトがうじゃうじゃ居る超有名なリバスポット何とかという高級釣り堀)で練習をして、その得た自信を試すために、外の世界にチャレンジしに来たんだ!」「そうかあ、そういうことであれば、マナー以前の未熟な精神性を非難するよりも、その勇気を讃えるのが大人の行動である。」
 今日は自分の釣りじゃないので随分と余裕があることを考える。

 しかし、そう自分に言い聞かせる私の右脳と左脳は、双方で納得していたのかどうか? じつは、この後のシーズン後半の出来事であった。ある日、わたしが一人で釣っているすぐ脇の踏み跡を、挨拶もせず頭をたたいて(追い越しての意味)行く釣り師を捕まえて文句を言ったのは、この時のことをどちらかの脳が納得していなかったせいかも知れない。どうも、この時の出来事を単にコンプレッションしていたのであろうことが推測される。
 まだまだわたしは未熟者。他人は逆鏡と自分に言い聞かすのである。

 そう、渓流釣りでは、魚が敏感で賢いため、人が通った後は当分の間、釣れなくなってしまうのはご存知の通りだ。だから先に行きたいときは、挨拶して、かなり遡行してから竿を出すか、沢割りして互いに別の沢にはいるのが望ましいのだ。
 また、そういうことが出来るところでなければ、我慢して暫く時間をおいて釣り上がり、竿抜けのところを狙うしかない。これが渓流での先客へのマナー、釣り師同士の暗黙の了解だ。知らなくても自分のせこい心を振り返ってみれば解る。自分がされたら嫌なことをするときは、相手にコミュニケーションをとって了解を得るのだ。
 
 ところがそのフライマンは、その何れかの選択の余地を我々に与えず、その上、悪気もなさそうに水面をまんべんなく、はたきながら上がっていったのである。
 彼の目は偏光レンズで覆われていたため、その表情は見えなかったが、顔の動きからして水面だけに集中していたようである。きっと、我々の姿が認識できないほど、真剣だったのに違いない。自分の世界に没頭しきっていたのであろう。

 それとも、我々が彼のことを“フライフィッシングかあ、格好良いなあ!”と思って見とれているのだと彼のエゴのフィルターを通して、現実とは違う認識をしていたのだろうか・・・(いつもそうやって現実とは違う自分勝手な解釈をする人っているよなあ。そのまま一生行けちゃえば本人は幸せなんだけど・・・周りの人間は迷惑このうえない)
 
 釣り堀と、外の世界はルールが違うことに気がつかない。外からの情報を受け取れない上に、自分から聞きにいったり、他人と合わせようともしない。もし、本当にそういう奴だったら、そんな調子じゃ魚も釣れなきゃ、女にももてないぞ、、、と私は言い切る。
 そんな奴に限って、今日は天気が良く無いだの、魚が居ないだの、すれた魚(女)ばかりだの、釣れない理由を自分以外のせいにするのは得意だ。
 
 魚釣りたきゃ魚の都合に合わせなければね。自然からの信号を繊細に受け取れなければね。じゃないと山から帰ってくることも出来なくなる場合もあるんですぜ。
 その前に、他の釣り師にボコボコにされるか、何かしらの嫌がらせを受ける可能性は高い。この丹沢辺りは、変人に鍛えられている都会人が多いから良いようなものの、地方では釣り師が喧嘩している話をよく聞く。釣り師は性格悪く気が荒い奴が多いんだぜ。


 渓流ウォッチング---その2:水遊びするフライマン

 また、そのシーズン後半(`92年頃?)で東北に釣り旅行に行ったときの話である。
 盛岡かどこかで、ルアーを調達しに入った釣具屋さんで、土地の情報を教えて貰おうと思い、「どこそこの川は、どんな感じですか?」などと話していたときである。

 そのときに地元の釣り師グループの人に言われた。「東京の人に情報教えると、川荒らすから教えらんねえ。」「特にフライマンはダメだあ、川の中に立ち込んでバシャバシャやって、釣れねえって、言ってんだから! 魚はオメエの足下に居るんだってば! カナダかどっかの川と勘違いしてるんでないかい? と言ってやりたいのがいっぱい居るよ。」と、くそみそでした。

 われわれは雑誌で情報を得て、そのままフィールドデビューしてしまうことが多いので、コミュニケーションの下手な人は、基本的な事柄を知らないまま、他人に迷惑をかけている事が多いですね。お互い、石を投げられる前に気づきたいものです。



 
 さてさて、これって、なにか海外に行って非難される日本人の典型的パターンに似てません?こんな人間が多い国民には、それなりの政治家しか生まれないし、バッシングに遭ったり、外交でいいようにされるのも当然ですよね。。。 
 おっと、また能書きを語ってしまった。でも、釣り堀で群れている奴等って、それの典型に思いませんか?
 おまえは違うのかって? 俺は違うよ!社会の機構の中に取り込まれない生きかたをしているよ・・・ なんちゃってね。冗談冗談 (^-^;;;

 まあ、自分にもあてはまるんだけど、大体偉そうに声高らかに言う時に限って、その言っている“ご高説は本人自身の課題”であることが殆どだ。知己だったら、その人が言っていることと、実際の行動を観察して照らし合わせ、考察してみれば、その人が常日頃言っているのと反対の行動をしていることが多いのを解るでしょ? 
 学歴があったり、社会的地位があったりしている奴でも、それに気がついていない人が多いのだから、自分がやっていることの矛盾に気がつく能力というのは、知能が高いとか、理論的に話が出来るとかは別の次元の問題であることは明らかですね。
 
 逆に世間一般で言う頭のいい人間ほど、無意識のうちに自己肯定の論理を組み立てて自分のプライドを守るように、訓練されているから、このことに気がつくことに縁遠い。
 人間、余裕があるときは、格好良いこと言ったりやったり出来るけど、追いつめられたときにその人の持っている本性ってちゃんと出るモンね。
 ようするに気づきというものは、今の世の中の価値基準となっている資本主義社会を生き抜くための能力とは別の次元の別の能力である。強いていえば素直さ謙虚さなのだろうか。
 
 話がずれちゃったけれど、釣り人の多くは、・・・どうなのでしょうねえ。恥知らずが多いからなあ。そういうレベルの人が集まりやすい遊びなのか、一部の人がやっていることが目立ちやすいのか。
 いや、日本人全体に言えることが、そのままシンボリックに分かり易く出でしまう、それが釣りという遊びなのでしょうね。
 
 自分自身の行動を客観的に見られない人間が多いから、ゴミを平気で捨てていったり、釣って単に殺すだけだったり、傷つけるだけだったりするのかも知れませんね。
 自分の家の庭にゴミ捨てられたら嫌でしょう?子供が通り魔にあって殺されたり、娘がレイプの対象として狩をされたら嫌でしょう?現実はそんなことが増えていますよね。
 
 でも、世の中のそういった事件はみな我々の心の反映です。人間の深層心理は必ず自分自身の行動を気がつかせるように、自分の想いを反射した内容の出来事を引き寄せます。誰の責任でもない、自分自身が引き寄せるのです。

 この意味が解らない人で、奇特にもご興味がある方は、深層心理の本や右脳左脳のことについて書かれた本を読んで勉強してみて下さい。
 そして、気がついたことを行動に移して、実験してみると、実際この我々が住んでいる世界が、如何に精妙に出来ているか、有機的なつながりによって成り立っているかが感じられると思います。

 それが解らないようでしたら、危険信号です。流されて生きているか、既得の知識や地位に脆弱なエゴがしがみついているか、真実を知るのが怖くて、現実から眼を背けているかです。
 また、自分のことを運が悪い人間と思っている人は、これらのことをよくよく考えた方が良いのではないでしょうか。見落としていることが沢山あるはずです。

 さてさて、余計なことを沢山書いてしまいました。じつはこの頁、フライとか渓流とか釣りなどのキーワードを餌にした、能書きをたれるページだったのです。(^-^;;;
 ここまで読んで下さってありがとうございます。

 でも、まだ鈎がかりが浅いでしょうから、もう少しお付き合い頂いて、がっぷり鈎を飲んでみませんか?

 よかったら、さらに欄外。気に食わない餌だったら、途中で吐き出して下さい。まあ、全部呑み込んでも特に差し障りはないと思いますが・・・

 


釣り堀の鱒達(トラウト)が反射するのは?の巻

 別にこれを書いている私は新興宗教をやっているわけでもなく、何かの団体に所属しているわけでもありません。公私ともにどこの組織にも属していません。今の世の中のあり方に合わせられない、ただの元渓流釣マンです。もっと違う世界があるはずだと思っている中年男です。
 ただ、分かち合える人の目にもしとまることがあったら良いなあと思って、考えていることを書いてしまいました。

 釣り堀の鰭の丸まった鱒にはお互いなりたくないものです。自力で雄々しく滝を遡上して行く生き方が出来れば嬉しいですよね。
 その為には、自分の中に閃く“気づき”というものを大切に育て、現実の中で行動として移していくことが肝要と思います。そういう方々が一人でも増えることを願って余計なことを書いてみました。
 
 考えてみれば、先に挙げたフライマンをはじめとして消費社会に生きる我々は、釣堀の養殖鱒に例えられるのではないでしょうか。
 
 マスコミに乗せられて、マニュアル通りの高いウェアや釣り道具を買い込み、大金を落とす。そして、渓流に行くが、雑誌に載っているような情報のイメイジ通りに行かないので、やがて飽きてしまい道具は捨てられるか押入の奥へ。
 これは完璧に消費サイクルに乗せられているわけですね。人と同じもの、人より良いものを持ったり、流行に乗った遊びをやることで、安心感を得て、小さな自尊心を満足させる。これは仕掛けられた罠にまんまとはまっている訳だけど、本人は自分が選択したと思い自由を満喫していると思う・・・いや、思いたい。
 
 でも、その実は、渓谷に似せた造りの釣り堀で、その中で泳いで見せるという仕事をしていれば餌が与えられる鱒と同じで、会社に勤めてルーチンワークをこなしていれば、餌が与えられる我々。鱒から見れば大した変わりがないそうですよ。

 その鱒さんの言い分を聞いてみましょうか。まずは、釣り堀の中で釣り人の鈎に掛からずに長年にわたり人間と付き合っているうちに、ヒューマンウォッチングのオーソリティになってしまったブラウントラウトの長老鱒さんから。

 『我々、鱒(トラウト)の世界じゃあ、棒に糸を付けた陸の上の変な動物、人間ってえやつが、食えない虫や、食えるけどちょっと痛い鈎付きの餌を流してくるんだ。最初は乗せられて、くわえたりして喜ばしてやったが、最近は学習して賢くなったので、やたらに食いつかなくなったんだけどよ。
 しかし、それさえも、その変な動物は喜ぶんだよなあ。手を変え品を変え、岩に隠れもせずインチキ虫を流してくる。こっちからは見えているんだぜ、バカな奴等だ、とわしら鱒達は思ってんだ。でも、生まれたときからプログラムされた条件反射で、解っていてもつい食いついてしまう自分が哀しいよ。』

 『でも、人間社会だって同じようなもんだね。投資や利殖だの、事業拡大、マルチビジネスなど、パチンコ競馬といったギャンブル、危なっかしい餌が流れてくるし、みんなこれに食いついて釣り鈎で痛い目に遭うが、それでも懲りないじゃあないか。今度は餌だけうまく採ってやろうとするのが心理だ。また、そういう奴が多いから、今の経済制度はうまく機能しているわけだ。』

 『それに自分たちが作っている製品が世の中を汚し、自分たちが加工している食品が、自分たちや子供たちの身体を冒しているだろ。そんな話は並の頭を持っていれば理解できるはずだけど、そんなこと言い出したら仕事にありつけないから口が裂けても言わないよな。考えたくもない。まず食べなきゃならん、家族を養うことが最優先だって?あたりまえだよな。だから現実の責任から目を背ける事に終始しするような態度だって解るよ、ウン。大っぴらに抗議したり、購買拒否なんて出来るわけないもんな。』

 『そんなことをみんながやったら多くの会社も潰れるし経済もひっくり返っちまうだろうよなあ。いまは欲を煽ることで経済が廻るような仕組みに構造が変わってしまったからなあ。でも、そんな中で仕事している奴でも、もし追いつめられて自分の仕事が無くなるような逆風が吹いたらば、自分たちの生きる権利をどうしてくれるんだ、と途端に被害者に変身すればいいんだよな。会社が作れって命令したから、雇われ人の我々は仕方なく、害があるらしいけれど作っていたんです。でなければ誰が自分たちの面倒を見てくれるんですかってね。

 やる気も使命感も責任感もない“役人”とかいう善人の仮面を被った無駄な奴等を減らそうとすると、同じようにそうやって騒ぐらしいじゃあないか。人間ってようやるよなあ。わし達、鱒の世界じゃあそういうのって寄生虫って言うんだぜ。大きなモンに寄り掛かって役にも立たないくせに吸い取ることばっか考えてる存在のことさあな。でも、それが人間ってえ奴の仕事なんだってな。疲れる仕事だねえ。まあ、役所に入ろうなんてのは、最初から高い志があるわけじゃあないだろうし、安定を欲しくって行ったんだから、その程度よ。そういう役人に期待するほうがおかしいんだよ、そんなことも解らんのかねえ。』
 『わしら釣り堀の鱒の世界じゃあ、やる気のない智慧も使わない奴は、人間に釣り上げられて食われる位しか役に立ちゃあしねえ。それだって、鍛えられて精悍なピンシャンでもないヨレたような冴えない奴は、人間に気に入られないらしくて、鈎を外されて釣り堀に逆戻りよ。そん時は、鈎で傷だらけだし、下手すりゃ呑み込んじまっているんで、その内お陀仏さ。厳しいんだヨ、鱒をやって行くってのも。』

 『わしは鱒のくせによく知ってんだろ。付き合い長いからね。もっと知ってるぜ、何かあって痛い目に遭いそうなときには人間は平等なんだ生きる権利があるんだ、そう上手くごねると金になるからな。取れる内に取っておいた方がいいかもよ。もっともわしら鱒には人間で言うような平等はないんだけどね。』

 『他人より先ず自分だよな。今は何でも有りだから自由でいいじゃないか。他人を犠牲にしてでも頑張れば何でも手に入れられるぞ。能力がある人間が偉いんだ、早いもの勝ちだ。それが無い者は資格を沢山持っていれば、食いっぱぐれが無いぞ。人間としての義務、果たしてるかって?チャンと税金払ってるもんなあ。子孫によりよい環境を残す義務? そんな能書きばかりの美しいこと言ったって金がなきゃあはじまんねえって。金稼ぐのをサボっている奴が悪いんだよなあ。金稼いだら山を買って自然を保護してやればいいんだろってね。自然だ、アウトドアだ、環境保護だって騒いでいる奴だって、先ず自分たちが豊かに暮らしてからだもんな。不便や苦労を伴う自己犠牲なんてことを実践しているのは一部の物好きだけだものなあ。』


 『わしら?わしらは自分とかいう意識はないからなあ、鱒族の種でまとまった意思はあるけれどな。でも、よくわからないが、それも、すべては大いなる存在の意思みたいなのを反映しているだけなのではないかな?人間とは価値観が違うんだよ。それに死ぬことに対する恐れも無いからなあ。』

 『でも、そういえば日本の国って、この百年間で、国債をチャラねって尻まくったのが二回もあったっていうじゃないか?それで多くの財閥や企業が潰れたんだってか。そん時はしょうがないんじゃあないの、国もダメなときはみんなお仕舞いヨオ。赤信号みんなで渡れば怖く無いってね。そんな感じで、みんなで太平洋戦争突入したんでしょ。今の若いのは添加物や農薬で身体ボロボロだから戦争なんかなんないよ。平和平和・・・』

 『資本主義経済万々歳だよな。みろ共産主義なんて腐ってどんどん倒れているじゃねえか。なに?共産主義は裏でマルクスを操って能書き書かせた奴がいるって? それで資本主義と戦わせて拮抗状態を作り、どちらの軍需産業にも金が落ちる仕組みを作ったんだあ? 両陣営の裏でどちらからも儲かる仕組みを作った悪知恵の働く奴らがいるんだって? そんなことあるわきゃ無いだろ。民主革命が起こってから、人民がみんな自由になったんだって学校で教わったんだよなあ。俺達は自由なんだ、平等なんだよってね。それで、競争の結果、こうなっているだけだよ。学校で教わったしTVでもそう言っているモンな。何かあったら国が守ってくれるんだろう。』
 『裏で操っている連中の金融操作や情報操作の釣り堀の中に囲われて餌を貰っているだけだなんて悪いジョークを言う奴は誰だ。日本の政治家や大企業のお偉いさんも、魂売ってそういう裏の奴とつるんでいるんだとか。そんなのは聞きたくもねえや。くだらねえこと言う奴はぶっ飛ばしてやるってか? 神がいないのと同じで、そんな闇の組織なんて無いんだよねえ。いたら両方とも見せてみろい!ってね。見せたら信用してやるよって言うんだよな。わかるわかる、わしもそう思っているよ。』

 『そんな風に人間は考えているんだろ、よく解ってるよ、強いモンが勝ちなんだよな。人間の宗教でいうような神が居たら、我々鱒達は釣鈎の入った餌なんて食わなくてもいいはずじゃよなあ。それも食べられて役に立つんだったら、死に甲斐もあるものを、ただ遊ばれて痛めつけられるだけではなあ。神は居なくとも、悪魔だけは居るのではないかい?』と、鱒の長老さんは哀しそうに言った。

 釣り堀では、俺のような大きくて賢い鱒がスターなんだ。養殖鱒の中のエリート、レインボートラウト(虹鱒)が続けて言う。

 「引きが強くてアクションの大きい俺達が居るから、この釣り堀に養殖アウトドア信者達が集まってきて、経営者に大金を落としていくって仕組みだ。俺達が稼いでやってんだよ。だから、経営者は我々鱒達を活かして大立ち回りが出来るように良い環境を提供するするのはあたりまえだ。旨い餌よこせよな、もっと餌の量(給料)を増やせ!ってね。ねえ、そう思うでしょ、おにいさん?」
 「人間だって同じだろうよ。会社という金看板背負っているから、どこに行っても大事にされるし、会社の名前が首からぶら下がっていれば、一人の人間として扱って貰えるんでしょ。だから初めてあった奴ともネゴしたりして、いっぱしのタメ口きけるんだもんな。それでもって実績を上げりゃあ、我侭も効くし、言い分も通る。えっ、カスみたいに扱われる奴だって居るって? そりゃそうだろうよ、鱒の中だって力が弱い奴は餌の採り分は少ないし、雌の側にだって寄れない。あたりめえだよ。鱒の社会には権利なんてものはないからなあ。尤も、俺達は遺伝子操作されちゃったらしいんで、雌をモノにしたってガキは出来ないかも知れないけどよ。まあ、派手にアクションかませば雇い主や客がチヤホヤしてくれるから満足してるさ。悪い仕事じゃ無いよ、ウン。まあ、アンタら人間とどっこいどっこいだろう。」


 鱒さん達はそう仰って、黒い砲弾のように凄いスピードで仕事に戻っていった。鱒さん達。なかなか、よく分析しているじゃあありませんか。ロッドを振り回しているメディアに踊らされているような養殖アウトドア信者よりましみたいです。鱒達からみると、釣り堀の中の鱒と、陸の上の人間と、大した違いは無いという認識みたいですね。
 
 しかし、増水したある日、上流の石積みを乗り越えてやってきた奴がいた。真っ黒くて痩せてはいるが元気の良さそうな尾鰭の大きい奴で、同じサケ亜科の仲間のニッコウイワナだ。そいつが言うには、石積みの向こうに超えればちょっとリスキーだけど、もっと明るくて生きがいのある自由な世界があるという。何でも1万年以上も前の氷河期から、この地で代々暮らしてきたんだから確かだということだった。
 餌は自分で探さなければいけないが、活きが良くて旨い、それにクスリも入ってないキンパクやクロカワ、バッタからトンボ、大ミミズまでが、ウヨウヨ居るらしい。

 そりゃーわし達だって、そんなのは増水したときに流れてきたのを食ったことがあるから旨いのは知っている。イワナの奴は、あのニョロニョロとした蛇まで喰らったらしい。やつはがっついているからな。お上品なわし達とは違うぜ。地面まで歩くイワナなんかとは付き合っていられねえぜ。なあ?』 と長老鱒。

 水が引かない前に戻るから、みんなで一緒に行かないか?」と、その噂の黒いイワナが言った。

 「興味は湧くけれど、若いうちだったら越えられそうだった石積みは、ホルモンや添加物の入った餌で贅肉がついてしまったこの身体では、もうジャンプして越えられないし、頑張って無理して行ってみるのも悪くはないかも知れないが、水の外のバカな人間とスリリングなゲームをやって一生過ごすのも良いかな。」と、レインボーが答える。

 イワナの言っていることが本当かどうかも解らないし、みんな他人様をだましていい思いをしようってのが、最近は多くなったからなあ、人間の世界でも、自分を神だとかメシアの生まれ変わりだとか言って、自分の考え方だけを押し付けるのが、多くなっているらしいからな、などと長老鱒も考える。

 若い鱒の中にはイワナの話に興味を示す奴もいたが、それを押し止めて「昔は知らないが今はみんなこうやって生きているし、まあ、中には身体に変な斑点が出来て、病気で死んでいく奴もいるけど、それは運の悪い奴だけさ。これも人生だし、外に出たって同じかも知れ

ないからな。生まれたときから俺らはこうやって生きてきたんだ。それに、もうちょっと我慢していれば、またなにか新しいエキサイティングなゲームも始まるかも知れないからな・・・よそ者のイワナの言うことは聞かなかったことにしようぜ。」と、身体も態度もデカいが、鰭が小さく丸まった気位の高いレインボートラウトは決心し長老鱒や他の鱒に言った。

 長老鱒はレインボーの言うことに、ちょっと情けなさを感じたものの、長い釣り堀生活で気力が枯渇してしまったこともあり、大方は同意して、釣り堀の全部の鱒達にテレパシーでメッセージを伝えた。『行きたい奴は行ってもいいが、わし達はここに残り、養殖鱒の定めを受け入れることにする。でも、イワナの言うことは本当かも知れん。ものは試しだからやってみたいという者、大いなる存在の意思を感じるという者は自分たちで決めるがよい。そう思うものにはその役目があるのかもしれん。もしそういうことであったならば、すべての鱒族の種の意思を受け継いで、新たなる世界を拓けるよう健闘を祈る。』

 そして、殆どの鱒は残り、何尾か若いトラウトがイワナについて上流に登っていった。

 その年の秋に例年にない大出水があって、釣り堀ごとすべての鱒が堰堤の下に流されてしまったので、上流との交流は完璧に断たれてしまった。今となっては上流に行った鱒達がどうなったか誰も解らない。

 釣り堀の外では、どこに行こうが自由である。増水の影響の少ない支流に待避したか、石を飲んで、身体を重くして、水流の影響のない大きな岩の下に潜り込んだかも知れない。しかし、釣り堀で育った養殖鱒にそこまで出来たかどうか。それとも、イワナに教わって野生の血を取り戻したかも知れない。上流の魚達は堰堤下まで流されてこなかったのだから、そう考えるのが妥当であろう。

 なんてね。以上C級戯作はお仕舞い。

 上記の話はよくありそうな手口の例え話ですけれど、ちょっとゴチャゴチャと皮肉っぽく書きすぎたですね。言いたいのは何事も結局は順繰りで、自分がされていることは、じつは自分が弱いものに対してやっていることなのだということです。養殖鱒を釣って喜んでいるような奴は、資本主義経済のなかで養殖された人間かも知れません。よく居るでしょ、自分の不満を弱い奴にぶつける奴。そういう奴って、自分がやられたことと同じことを弱い奴にやるんですよね。

 じつは逆で、自分がそういうことをやってしまうような人間だから、そういう自分自身を抑圧するような人間関係や環境を引きつけてしまうだけなのかも知れません。原因となる要素は、必ず自分の中にあります。その発信するものによって、周りの環境を引き付けます。また、自分の理性が望まなくても、意識下が無意識のうちに自分自身をコントロールしているのですから、意識下に押し込められた抑圧意識の発信したイメイジのまま自分に返ってきます。よく言うでしょ、人を呪わば穴二つって。だから愛を送れば愛が返ってきます。それは、自分だけでなく自分に縁がある人も巻き込んでです。最終的には自分に返ってくるのです。今の時代は良い意味でも悪い意味でも増幅されやすい時代ですから、自分の行為の結果が直ぐに帰ってきます。もし、良いことしても、良いことが返ってきたことがないと言う人は、計算尽くでやっているか、過去の不徳という借金が多い人でしょう。そういう人は、ネガティブなことに関するレスポンスだけは早いのではないでしょうか。

 気がつかない人が多いけれど、家族や他人、動植物、環境や地球に対してしていることは、良いことでも悪いことでも、全部自分自身に返ってきています。ホロニックな関係ということになるのでしょうか。周りはみんな鏡です。自分の心がざわつくようなこと、摩擦が起こるようなことは、必ず自分の中に消化し切れていない自分自身が未熟であるが故の問題が潜んでいます。

 世の中を動かしているつもり、経済操作をしている側の人間のつもりでも、その連鎖の中から外れることはありません。

 ネガティブな連鎖が嫌だったら、自分が行っている思考・行動パターンを変えることです。ポジティブな連鎖になるように、場を創り変えることです。
 
 隣り合わせに同じように生きて居るようでも、受け取る結果が違うのは、あなた自身が発信しているものが違うからです。みな同じ世界で生きていると思ったら大間違い。
 計算づくでなく、心から自分の発信するものが変わったときに、周りの世界が変わることでしょう。

 先ずは気づくことから始まります。大事なのは、自分自身を知ることです。
 誰もが自分のことはわかっていると思い込んでいますが、実は全然わかっていないものです。右脳左脳の働きについてとか、深層心理を少しでも勉強したことがある人だったらこの意味はよく解っているはずですし、内省的なタイプの人だったら日頃の自分の言動とか行動を客観的に見ることで感じているはずです。

 エゴの働きは、自分自身を守るものです。そしてエゴが強い人は自分自身も騙します。特にエゴが強いということでなくとも、自分が批判されれば自己肯定の論理を意識的でも無意識的でも考えたり、または相手に対して、自分の正しさを証明しようとしたり、説得したりするでしょう。同様のことを自分自身に常にやっています。自分が傷つかないように一生懸命に、現実の認識を拒否したり歪めたりして、自分以外に悪者を作ろうとします。
 それが習い性になってしまい染み着いてしまった人は、正確な現実の認識が出来なくなってしまいます。同じ出来事を共有しても、受け取り方とその解釈が全然違うのです。それならまだしも、誰かが言った言葉でさえ歪めてしまい、正反対の内容で記憶してしまいます。

 そのような偏った思考論理を持っている人の心が穏やかなものである理由はどこにもありません。たいてい不満を漏らしています。自分は正しいのだけれど、誰がおかしいのだ、会社が、国が、世の中が、何かがおかしいのだと、おかしい理由を外に探しています。それは、確かにおかしなことが多い世の中ですから、理由を探せば幾らでも見つかります。

 でも、例え理由を見つけても、本人は何時まで経っても幸せになりません。不満をおこす原因は自分の中にあるのですから。そして、多くの人間がそういう状態であれば、世の中に平和が訪れるはずもありません。

 政治経済のシステムを変えるのも良いでしょうが、それ以前に人間の心の在り方が変わっていなければ、また同じことの繰り返しです。最初は高い志を持っている人であっても、今の世の政治経済のシステムにはいると、みるみる腐っていきます。
 だから、まず自分自身の心の状態、心癖、行動パターンを知り、意識下のプログラムのバグに気づくことが大切なのです。先ずそこからです。

 そして、システムや権威に頼るのでなく、いま自分自身が変わること、自分の行動が変わることが、一番簡単で近道なのです。
 そして勇気を持って行動することによって、次に進む道が見えてきます。そうして一旦転がり始めると、以前より心が穏やかになっていることに気がつくでしょう。もちろん、人生は気に食わないことが幾らでもありますが、もうその優先順位は低いものと対処できます。

 気づきは、目に見えないもの、愛、思いやり、宇宙の真理などの数字では測れないものを大事にするところから始まります。即ち霊性(スピリチュアリティ)の問題です。人間は心身霊から出来ています。人間は宇宙霊の分身なのです。宇宙霊は、宇宙の意思でもよいし、宇宙の理性でも良い、神でも、仏性でも大いなる存在でも、ハイヤーセルフでも何でも良いのですが、我々の奥底のベースの部分のものです。それに周波数を合わせることが大切です。これを切り捨ててしまったところから世の中がおかしくなったのです。

 自分が神だとしたら如何に考えどのような行動をとるか、そういう観点を持つことで自分のエゴも客観的に見えるようになってきます。神の視点に立つからといって別に偉そうな尊大な態度をとれということではありません。それはもう勘違い、ボタンの掛け違いが、始まっています。神の観点は、腰を低くすること頭を低く垂れることから見えるようになってきます。自分が神になったら、あの頭のおかしい彼奴を裁いてやる、なんてのは、エゴに乗っ取られてしまっている証拠でしょう。他人を裁くものは自分も裁かれます。そうするとループに陥って、争いの修羅の世界にはまってしまうでしょう。そんなことより、身近な足下から始めることが霊性を取り戻す第一歩です。

 いまの世の中を変えていく上で、まず我々が出来る簡単なことは、何かの犠牲の上に出来ているものは“買わない”ということだと思います。ゴミになるもの、身体を蝕むもの、環境を汚染するもの。直ぐに全部切り換えられませんが、みんなが少しづつでもやれば、やがて大きな自然な流れになるのではないでしょうか。
 もっともここまでお付き合い下さった方は既に実行している人ばかりでしょう。ご指導のほど、今後ともどうぞ宜しくお願い申しあげます。m(_ _)m
    
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 早戸川流域は割と植林が少な目で景色がいいので、水面や水中だけ見ていてはもったいない。これから行かれる方々は景色も見ながら、余裕を持って釣り上がっていただきたいと思うのです。こういった余裕が楽しみを拡げ、さらには渓流での事故の回避にもつながると思うのですが如何なものでしょう。
 それから、件の高級釣り堀は、ホントにでっかいトラウトがウジャウジャいます。それも見釣り出来るのだ。釣り券は高いけど、話の種に一回行ってみるのも良いかも。

 でも、台風が過ぎた後は、釣り堀下の堰堤下流は、明け方から車が満杯なのだ。そう賢いあなたは解りますよね。流されたトラウト目当ての釣り人が群がるのです。いまは宮ヶ瀬ダムが出来たし、いまにダム湖でトラウトフィッシングが出来るかも。それにしても逃げ出したトラウトがF1(ハイブリッド種)じゃあなければの話ですね。残念でした。

・F1ハイブリッド種:次世代を作れないよう遺伝子操作をされたもの
・トラウト:様々な鱒の総称。サケ科サケ亜科(サケ科にはグレーリング亜科、コレゴヌス亜科もある)には様々な属が居て、イワナ属(イワナ、オショロコマ、北極イワナ、ブルックチャー、レイクチャー)、大西洋サケ属(アトランティックサーモン、ブラウントラウト)、太平洋サケ属(サクラマス:ヤマメ&アマゴ、サケ、ギンザケ、ベニザケ、カラフトマス、マスノスケ、ニジマス)、イトウ属(イトウ)、ブラキミスタックス属(コクチマス)がある。
※「イワナ:その生態と釣り」山本聡著1992年つり人社刊 を参考にしました。同著によるとニジマスは以前は大西洋サケ属に分類されていたそうですが、現在米国魚類学会では太平洋サケ属に分類されているそうです。また同著の内容をお浚いしてみますと、染色体の研究からみたラウンズエル(1961)とニープ(1958)の説にしたがって考えてみると、サケ亜科の祖先がニシンやイワシと別れたのは200万年以前のことだろうといわれているそうです。そして、此のサケ亜科の祖先はイワナ属に近いタイプであったと思われ、此の祖先から大西洋サケ属が分化し、その一部が日本海に入り込んで特殊化し、ニジマス、サクラマス型を経て、約100万年前に太平洋サケ属が分化したと推察されているいます、と書かれています。そして、現存するイワナ属の魚たちは、サケ亜科共通のの祖先の中で、あまり姿を変えなかった一族と言えそうです、とも書かれています。また、イワナのことを、氷河期の生き残りと呼ぶ人もいますが、あながちオーバーな表現ではないようです、とも書かれていました。
 それから、同著には「まだ間に合う原種の保護」という項にも書かれていましたが、日本の各河川の源流域には上記の様な時代から分化した、それぞれの河川に存在する独特の紋様を持つイワナが生態系の中に遺伝的特徴をもって残っていて、厳しい自然環境の変化の中を生き抜いてきたことによって地球の歴史が刻まれているわけです。それを職漁師や山人、近年では趣味の釣り人達が移植放流をして、本来の原種にその土地に居ないはずの種が混血したものばかりになってしまっているのが現状なんですね。
 里川に漁協が放つアメマス系のイワナではなく、山奥の源流域に於いて生息する独特の綺麗な紋様や体色の尾鰭や鰭が大きくて獰猛な顔付きをした美しいイワナを釣ったときには得も言われぬ感動があるものです。其処には古代から生き抜いてきたイワナの種の持つ魂や意志を感じるものが放たれています。其れに触れるときには、大自然の中に神を観て、大いなる何かを畏れる気持が湧き起こってくるのは私だけでしょうか。そうではないでしょう。多くの人が大自然の奥に入っていくときに其処に存在する樹木や岩、山や滝、動物達を通して何かを感じているのだと思うのです。
 ところが、そういう感覚を無視して人間の小さいエゴで暴力的に自然をコントロールしようとしたときから、人の心の崩壊がはじまったのだと思います。畏れと感謝がない生活を営んでいく人達は、地球の資源の無駄な消費や自然破壊に自分達が如何に関わっているかという実感も無いでしょう。またそれらの人々は、一見自由を謳歌しているように見えても、実は魂は隷属的な質しかもっていなかったりします。もっとも、自分自身がそういった状況であることも自覚がないようです。人一人の命は地球よりも重いなんて言葉を昔聞いたことがありますが、誰がそんなことを言ったのだか知りませんけれど、気持ちの悪い言葉に思えます。今の地球に害為すばかりの寄生虫的魂を持った人間よりも源流域に居る気合いの入った面構えのイワナの方がよっぽど大事な魂を持っているような気持がします。
 同著では、氷河期からの生き残りの様なイワナにロマンを感じるというようなセンチメンタリズムだけでなく、そういった原種は、その土地で生き延びてきたものなので、漁協が病気に強く成長が早いイワナを養殖する場合にも原種は必要であろうとしています。ヤマメ、アマゴでは、経済効率優先の放流を行ってしまったために原種が居なくなってしまっている現状、イワナだけはその様にならないようにしたいと書かれておりますが、本当にそうあって欲しいものと願う次第です。


※今回はフライフィッシャの人が、続けて題材になってしまいましたが、私個人として釣りスタイルに偏見はない事を申し上げておきます。
 きっと、雑誌などをみて、その影響でいかにもアウトドアやってます、みたいなライフスタイルを演出したくて、フライをやる人が多いから、こんな人達が出てくるのだと思います。

 私?わたしは凝り性なのでフライはやりません。あっ、凝り性というのはのめり込むタイプの凝り性ではなく、肩や首が凝るという方なのです。肩凝りにブースト掛けそうなフライはご遠慮申し上げております。そんなわけで、餌とルアーとテンカラを少々やり?ます。

 もともと、始めた動機が不純なもので・・・、後日別のページに書きますが、山に入ったときの蛋白源確保(酒のつまみ?)の為に始めたものですから、あまり高尚なものまでは手が出ないだけなのです。テンカラも簡単なものしか巻きません。
 そんなわけで釣ったものは、手を合わせてありがたく美味しく頂きます。頂かないものは釣りません。でも、でかい魚は食べるのどうの以前に釣ってみたいです。
 では、皆さんの安全で楽しい釣行をお祈り申し上げます。かしこみかしこみ




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99/5/23 丹沢、神の川水系伊勢沢:ほとぼり冷めたかなあと思って載せたけど。またまた能書き満載

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