西園寺公経 さいおんじきんつね 承安元〜寛元二(1171-1244)通称:一条相国・西園寺入道前太政大臣など

太政大臣公季の裔。内大臣実宗の子。母は持明院基家女(平頼盛の外孫女)。子に綸子(九条道家室)・西園寺実氏(太政大臣)・実有(権大納言)・実雄(左大臣)ほかがいる。源頼朝の妹婿一条能保のむすめ全子を娶り、鎌倉幕府と強固な絆で結ばれた。また九条良経(妻の姉妹の夫)・定家(姉の夫)とも姻戚関係にあった。家集を残す西園寺実材母(さねきのはは)は晩年の妾である。
治承三年(1179)、叙爵。養和元年(1181)十二月、侍従。左少将・左中将などを経て、建久七年(1196)、源通親による政変に際し、蔵人頭に抜擢される。同九年正月、土御門天皇が即位すると、引き続き蔵人頭に補され、また後鳥羽上皇の御厩別当となる。同月、参議に就任。同年十一月、従三位。しかし翌正治元年(1199)、頼朝が没すると出仕を停められ、院別当を罷免され籠居を命ぜられる。同年十一月には許されて復帰した。その後は順調に昇進を重ね、建仁二年(1202)七月、権中納言。建永元年(1206)三月、中納言。承元元年(1207)には正二位権大納言に、建保六年(1218)十月には大納言に進む。この間、鎌倉と密接な関係を保ち続けた。
承久元年(1219)、三代将軍実朝が暗殺されると、幕府の要望にこたえ、外孫にあたる九条道家の第三子三寅(みとら)を後継将軍として鎌倉に下らせた。
同三年、院の倒幕計画を事前に察知し、弓場殿に拘禁されたが、その直前、鎌倉方に院の計画を牒報、幕府の勝利に貢献した。
乱終結後は時局の収拾にあたり、後継の上皇に後高倉院を擁立。幕府の信頼を背景に、関東申次として京都政界で絶大の権勢をふるった。同年閏十月、内大臣。貞応元年(1222)八月、太政大臣に昇る。貞応二年(1223)正月、従一位。同年四月、太政大臣を辞任。寛喜三年(1231)十二月、出家。法名は覚勝。
その後も前大相国として実権を掌握し続け、女婿道家を後援して天皇外祖父の地位を与えた。仁治三年(1242)、後嵯峨天皇が即位すると孫娘を入内・立后させ、自ら皇室外戚の地位を占める。寛元二年(1244)八月二十九日、病により薨去。七十四歳。
晩年、北山にかまえた豪邸の有様は『増鏡』の「内野の雪」に詳しい。権力を恣にしたその振舞は「大相一人の任意、福原の平禅門に超過す」(『明月記』)、あるいは「世の奸臣」(『平戸記』)と評された。
多芸多才で、琵琶や書にも秀でた。歌人としては正治二年(1200)の「石清水若宮歌合」、建仁元年(1201)の「新宮撰歌合」、建仁二年(1202)の「千五百番歌合」、承久二年(1220)以前の「道助法親王家五十首」、貞永元年(1232)以前の「洞院摂政家百首」などに出詠。新古今集初出(十首)。新勅撰集には三十首を採られ、入集数第四位。新三十六歌仙。小倉百人一首に歌を採られている。

  7首  2首  3首  2首  1首  3首 計18首

道助法親王家の五十首の歌の中に、初春

たちそむる霞の衣うすけれどはるきて見ゆる四方の山の端(続後撰13)

【通釈】立ち始めたばかりの霞はまだうっすらとかかっているだけだが、四方の山々の、空との境目はぼうっとして、いかにも春の衣をまとっているように見える。春が来たのだなあ。

【語釈】◇たちそむる 「たち」は霞があらわれる意だが、「裁ち」と掛詞になって「衣」の縁語になる。◇霞の衣 霞を、山がまとう衣に見立てる。◇はるきて 「きて」は着て・来ての掛詞。◇山の端(は) 山を遠くから眺めたとき、山の、空との境目をなすあたりをこう言った。今言う「山の稜線」に近いが、「線」として意識されていたのではない。

【本歌】在原行平「古今集」
はるのきるかすみの衣ぬきをうすみ山風にこそみだるべらなれ

建仁元年三月歌合に、霞隔遠樹といふことを

高瀬さす六田(むつだ)の淀の柳原みどりもふかく霞む春かな(新古72)

【通釈】浅瀬に棹さしてゆく六田の淀――河原の柳は芽吹き、緑の色が濃く霞みわたる春の景色だなあ。

【語釈】◇霞隔遠樹 霞、遠樹を隔つ。この歌では、霞越しに遠くの柳を眺める景。◇高瀬 水底が高い瀬ということで、浅瀬に同じ。◇六田の淀 大和国の歌枕。奈良県吉野郡吉野町。吉野川が大きく淀み、砂泥地を形成する場所。◇ふかく 瀬の縁語。

【補記】建仁元年(1201)三月、新宮撰歌合。

【本歌】「万葉集」巻九
かはづ鳴く六田の河の川楊ねもころ見れど飽かぬ河かも
【参考歌】後鳥羽院「建保四年二月御百首」
みよし野やむつだのよどの川柳みどりをくくる春の岩なみ

千五百番歌合に

ほのぼのと花の横雲あけそめて桜にしらむみ吉野の山(玉葉194)

【通釈】春の曙――花の色合をした横雲がうっすらと明るくなり始め、吉野山は全山埋め尽くす桜によって白じらと姿を現してくる。

【語釈】◇花の横雲 花かと見える横雲。横雲は水平にたなびく低層雲。◇桜にしらむ 空が明るくなるにつれて、桜の白さによってが山の姿がしだいにはっきりと見えてくる様。◇み吉野の山 大和国(奈良県)の吉野地方の山々。「み」は美称(讃美や敬意をあらわす接頭辞)。「見佳し」(見て美しい)の意を響かせて詠んでいる場合が多いようである。

【補記】建仁二年(1202)の千五百番歌合。

建保六年内裏歌合、春歌

うらむべき方こそなけれ春風のやどりさだめぬ花のふるさと(新勅撰116)

【通釈】恨みたくても、文句を言うあてがない。春風が一ところに定まることなく吹いている、花の降る古里よ。

【語釈】◇やどりさだめぬ 宿り定めぬ。どこにも定住しない。主語は「春風」。◇花のふるさと 古里に「降る」を掛ける。

【補記】建保四年(1216)閏六月、順徳天皇の内裏で催された百番歌合、十三番左勝。題詞の「六年」は誤り。

【本歌】小野滋蔭「古今集」
葦引の山たちはなれ行く雲のやどりさだめぬ世にこそ有りけれ

暮山のこころを

今はとて桜ながるる吉野川水の春さへせくかたもなし(玉葉274)

【通釈】今はもう春の暮だとて、桜の散った花びらが浮かんで流れる吉野川――(おか)の上だけではない、水の上の春もまた、堰き止める方法はないのだ。

【語釈】◇吉野川 大台が原山地より紀伊水道にそそぐ紀ノ川の上流。吉野山は花の名所。◇水の春さへ… 「水の春」は、陸上の春に対する、水上の春。参考「浪の花おきからさきてちりくめり水の春とは風やなるらむ」(伊勢『古今集』)。

【補記】落花を止められなかったが、散った花びらが流れ去って行くことも止めることはできない。そのことを惜しむ。「洞院摂政百首」。

西園寺にて三十首歌よみ侍りける春歌

山ざくら峰にも尾にも植ゑおかむ見ぬ世の春を人やしのぶと(新勅撰1040)

【通釈】山桜の若木を、山の頂きにも尾根にも植えておこう。私は見ることが出来ないが、満開に咲き誇る春を、後の世の人々が賞美するだろうかと。

【語釈】◇西園寺 公経が北山に造営した寺。のち、足利義満が同地に北山第を建て、金閣寺となる。◇見ぬ世の春 私は見ることのない後世の春。

【補記】『増鏡』「内野の雪」で名高い歌。西園寺の豪奢な庭園や御堂の描写のあと、「めぐれる山の常磐木ども、いとふりたるに、なつかしき程の若木の桜など植ゑわたすとて、大臣うそぶき給ひける」としてこの歌を引用している。

【参考歌】慈円「堀河題百首」
我がやどに花たちばなをうゑおかむなからんあとの忘れがたみに

家に三十首歌よみ侍りけるに、花歌

白雲のやへ山桜咲きにけりところもさらぬ春のあけぼの(新勅撰61)

【通釈】八重山桜が白雲のたなびくように咲いた。この美しい「春の曙」は、その場からいつまでも立ち去ることがないのだ。

【語釈】◇やへ山桜 山桜が重弁化したもの。あるいは八重山(重畳する山)の桜とも解せる。

【補記】連嶺の桜を春の曙の雲になぞらえた。実際の雲なら日が昇るとともに消え去ってしまうが、花の雲は峰に留まり続ける。『新三十六人撰』撰入歌。

【参考歌】凡河内躬恒「古今集」
風ふけど所もさらぬ白雲はよをへておつる水にぞ有りける

【主な派生歌】
あしがらの八重山ざくら咲きにけり春の嵐のせき守もがな(小沢蘆庵)

千五百番歌合に (二首)

時鳥なほ(うと)まれぬ心かな()が鳴く里のよその夕ぐれ(新古216)

【通釈】ほととぎすよ、古い歌には「おまえが鳴く里はたくさんあるので、疎ましい」と言うが、この夕暮、どこか別の里で鳴いているとしても、やはり私は疎ましく思えない気持なのだ。

【語釈】◇うとまれぬ 疎ましいとは思えない。本歌では完了の助動詞であるヌを、打消の助動詞に転じている。

【補記】遠くの里で鳴いている時鳥をなお慕う心。建仁二年(1202)の千五百番歌合、夏一、三百六十五番左、無判。

【本歌】よみ人しらず「古今集」、賀陽親王「伊勢物語」四十三段。
時鳥なが鳴く里のあまたあればなほうとまれぬ思ふものから

 

露すがる庭の玉笹うちなびきひとむらすぎぬ夕立の雲(新古265)

【通釈】雨の雫がたくさん取り着いている、庭の笹の葉――それが風になびき、夕立を降らせたひとむらの雲が過ぎて行った。

【語釈】◇露すがる 「露縋るとは、露の多く取り着きて有る義なり」(『新古今増抄』)。◇玉笹 「玉篠(たまざさ)は褒めたる詞に玉といふ事也。これは露が置き縋りて篠の玉を飾りたる様なるとの義もあるべし」(同上)。

【補記】千五百番歌合、夏三、四百八十五番左持。

【参考歌】源顕仲「永久百首」
露すがる小笹が下のきりぎりす乱れてかかるねをや鳴くらむ

七夕の心を

星逢のゆふべすずしき天の川もみぢの橋をわたる秋風(新古323)

【通釈】二つの星が出逢う七夕の夕べ、天の川も涼しげだ――鵲の渡すという紅葉の橋を、秋風が渡ってゆく。

【語釈】◇星逢(ほしあひ) 星合。彦星・織姫星が逢うこと。◇もみぢの橋 「紅葉の橋といふも鵲のはし也。もみじの木にてはなき也。たなばたの別をかなしみてなく涙がかかりてかささぎのはねあかくなり紅葉ににたれば紅葉の橋といふ也」(『正徹物語』)。『新古今増抄』も似たような伝説を引き合いに出すが、典拠は定かでない。

【補記】制作年などは未詳。『新三十六人撰』等にも採られた、作者の代表作の一つ。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
天の川もみぢを橋にわたせばやたなばたつめの秋をしも待つ

長月の頃、水無瀬に日頃侍りけるに、嵐の山の紅葉、涙にたぐふよし、申し遣はして侍りける人の返り事に

もみぢ葉をさこそ嵐のはらふらめこの山もとも雨と降るなり(新古543)

【通釈】「嵐山」というだけあって、紅葉をそれほど嵐が払い落とすのでしょう。この水無瀬の山麓にも、紅葉は雨と降り、私も涙を誘われています。

【語釈】◇水無瀬 摂津国島上郡。◇嵐の山 京都の嵐山。渡月橋の西の山。紅葉の名所。◇涙にたぐふ 涙と呼応する。涙を誘われる。

九月尽によみ侍りける

明日よりのなごりをなににかこたまし相も思はぬ秋の別れ路(新勅撰360)

【通釈】冬になる明日から、秋がどんなに名残惜しく思えることだろう。その不満を何に訴えればよいのか。私は去ってゆく季節をこんなに悲しんでいるのに、秋の方は、すげなく別れてゆく今日…。

【語釈】◇相(あひ)も思はぬ お互い思い合わない。こちらは強く思っているが、相手はそれほど思ってくれない。

【補記】秋に対する名残惜しさを、恋人との別れになぞらえるようにして詠んだ。

建保五年四月庚申に、冬夕を

山の端の雪のひかりに暮れやらで冬の日ながし岡のべの里(風雅835)

【通釈】山の端を覆う雪の反射する光の明るさに、いつまでも暮れきらず、冬の日も長く感じられる、岡のほとりの里であるよ。

【補記】建保五年(1217)四月、庚申会での作であろう。

建保六年内裏歌合、冬歌

つま木こる山路もいまやたえぬらむ里だにふかき今朝の白雪(新勅撰430)

【通釈】山人が妻木を伐って通る山道も、今頃は途絶しているのではないか。里でさえ深く積もっているよ、今朝の雪は。

【語釈】◇つま木 薪にするための小枝。

【補記】新勅撰集の詞書は誤りで、建保四年(1216)の内裏歌合に出された作。

建仁元年三月歌合に、逢不遇恋のこころを

あはれなる心の闇のゆかりとも見し夜の夢をたれかさだめむ(新古1300)

【通釈】あの人との逢瀬は、一夜の夢だった――あれはやはり悲しい心の闇のゆかり…分別をなくし混迷した心の生み出したものにすぎないのだろうか。私には判らない。誰に判るというのだろう。

【語釈】◇逢不遇恋 逢ひて遇(あ)はぬ恋。ひとたび思いを遂げたが、その後逢い難くなった状況にある恋。◇心の闇 下記本歌を踏まえた言い方。恋に盲目となり、混迷した心の状態を言う。◇ゆかり つながり・関係。仏教語では「縁」にあたり、因果という考え方において、結果を生じさせる必然的なつながりのきっかけとなること。

【校異】初句を「あはれなぞ」とする本もある。

【補記】建仁元年(1201)三月二十九日、後鳥羽院主催の新宮撰歌合。三十五番右勝。藤原俊成の判詞に「右歌殊に可勝之由、左右たがひに申之、判者同之」とある。なお『正徹物語』には俊成女の作としてよく似た歌を載せている。「あはれなる心長さのゆくへとも見し夜の夢をたれかさだめん」。

【本歌】在原業平「古今集」、「伊勢物語」六十九段
かきくらす心の闇に迷(まど)ひにき夢うつつとは世人さだめよ

道助法親王家五十首歌の中に野旅

草枕かりねの(いほ)のほのぼのと尾花(をばな)が末に明くるしののめ(玉葉1159)

【通釈】旅先で、草を刈ってこしらえた小屋で仮寝して――いちめんススキの生えた野の彼方に、ほのぼのと明けてくる東雲(しののめ)の空。

【語釈】◇かりねの庵 仮寝の庵。「かりね」には「刈り根」が掛かり、「草の根を刈って拵えた小屋」の意を兼ねる。「庵」は草や枝を編んで臨時に作った小屋。

建保百首歌奉りける時

いかばかり昔をとほくへだてきぬそのかみ山にかかる白雲(続拾遺1094)

【通釈】どれほどの年月を遥かな昔から遠く隔ててきたのだろう。往時の神山にもこのように掛かっていたであろう、白雲よ。

【語釈】◇そのかみ山 「かみ山」すなわち神山は賀茂神社の背後の山。往時を意味する「そのかみ」の意を掛ける。

【補記】続拾遺集巻十六雑歌上巻頭。建保百首は建保四年(1216)、後鳥羽院主催の百首歌。

落花をよみ侍りける

花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものは我が身なりけり(新勅撰1052)

【通釈】嵐が花を誘って散らし、庭に雪と降らせる――その降りゆくさまを見るにつけ、衰え、この世を去ってゆくのは、花よりも我が身のほうではないかと思い知るのだ。

【語釈】◇花さそふ 花を誘って散らす。◇ふりゆく 降りゆく・古りゆく、の掛詞。

【補記】「花さそふ嵐の庭の雪」は、花吹雪舞う庭園の光景を美しく描くが、「雪ならで」とその《美》を打ち消し、「ふりゆく」の意味が転換される(降りゆく→古りゆく)のに気づくと同時に、一首の眼目は外景から話手の内心へ――老・死という《苦》の認識へと急転回する。上句から下句への落差に、栄華を極めた作者の嘆きの深さが測られる。定家が百人秀歌の巻末に飾った傑作。出典・詠作年などは不明。

【他出】百人一首

【本歌】よみ人しらず「古今集」
世の中にふりぬる物は津の国のながらの橋と我となりけり

【主な派生歌】
吹きさそふ嵐の庭の花よりもわが身世にふる春ぞつもれる(正徹)
一とせの残る日数は雪ならでつもりもあへず年ぞくれける(後柏原天皇)


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日