二十六. 地獄の新聞紙
我々二人は連れ立って、成るべく目立たぬように市を通過した。折々呑んだ暮れ連が酒亭から街路へ跳び出して来る。中には知らん顔をしているのもあるが、中には又一緒になって騒ごうと、しつこく自分達を引っ張るのもある。又たまには、我々の周囲に輪を作って踊り狂う奴もある。一番手こずったのは四人連れの乱暴者で、同伴の婦人をとっ捕まえて、嫌がるのを無理に連れて行こうとしやがった。吾輩は後を追いかけて、忽ちその中の二人を殴り倒してやると、他の二人はびっくりして女を放り出して逃げた。ついでに言っておくが吾輩の連れの女の名はエーダというのである。

段々歩いて行くと、ある所では一群の盗人が一軒の家に押し入ろうとしていた。又とある人混みの市場を通ると、其処では一人の男がしきりに大道演説をやっていた。何を喋っているのかと思って足を停めて聞いてみれば、地獄から天国までの鉄道を敷設するのでこれから会社を起こす計画だと言うのであった。

聴衆の多くは天国などがあってたまるものかと罵っていたが、それでも中には、他愛もなくその口車に乗ってこれに応募する連中も居た。

ある所には又一つの新聞社があった。折から丁度朝刊が発行されたところなので、念の為に一枚買い取って眼を通して見ると、先ず次のような標題が目についた――

△二人の宣教師の捕縛――これは他の地方から入り込んだ間諜の動静を書いた記事で、平和のかく乱者として厳しく弾劾してあった。

△地獄の侵入者――これは死んで地獄に送られた人々の名簿で、特に知名の人達につきてはその会見記事が掲載してあった。

△徳義の失敗――これはエスモンドという作者の新作劇で、近頃大評判であるとの紹介記事。其の外競馬だの、新会社の設立だの、駆け落ちだのの記事が掲載されていた。

いよいよ市を脱出するとエーダは急に心細がり出した。

「まぁ何て寂しいところでしょう!」彼女は戦慄して「あたし怖いわ! 戻りましょうよ」

「馬鹿な!」と吾輩が叫んだ。「こんな所で兜を脱ぐようなことでどうなります! 一緒にお出でなさい。アレあすこに光明が見えるじゃないか!」

休憩所から漏れる一点の光明はいくらかエーダの元気を引き立てるべく見えた。

「ホンに何て綺麗な星でしょう! 私死んでからただの一度も星を見た事がありませんわ」

彼女は震えながら言うのであった。「早くあすこまで行きましょうよ」

我々は一歩一歩にそれに近付いたが、やがてその光が烈しくなると彼女は又も躊躇い出した。

「アラ痛くてたまらないわ! 近寄れば近寄る程痛くなるわ」

「なんの下らない。これ位の我慢が出来なくてどうなります! 吾輩などはまだまだ百層倍も辛い目に遭って来ている。あの光のお蔭で体の塵埃が少しずつ除かれて行くのだ。有り難い話だ・・・」

吾輩が一生懸命慰め励ましたので、彼女もやっと気を取り直し、とうとう休憩所の入り口まで辿り着いた。

その光の為に我々は一時盲目になったが、しかし親切な天使達の手に握られて無事に室内に導かれた。

それから彼女と引き離され、吾輩だけただ一人その建物の中で一番暗い部屋に入れられた。後で調べてみると、この部屋の暗いのは窓が開け放たれ、其処から戸外の闇が海の浪のように、ドンドン注ぎ込むからであった。

二十七. 守護の天使との邂逅(上・下)
●守護の天使との邂逅 上
その時闇を通して強く明らかに何やら聞き慣れぬ不思議な音声が響いて来た。それは何処やらラッパを連想させるような一種の諧調を帯びたものであった。耳を澄ますとこう聞こえる――

「我が兒(こ)よ、余は汝が一歩一歩余に近付きつつあるを嬉しく思うぞ。多くの歳月汝は余に遠ざかるべく努めていた。されど余は暫しも汝を見棄てる事なく、何時か汝の心が再び神に向かう日のあるべきをひたすらに祈っていた――ただ余の姿を汝に見せるのはまだ早きに過ぎる。余の全身より迸(ほとばし)り出る光明は余りに強く、とても現在の汝の眼には耐えられそうにもない」

「ああ天使様!」と吾輩は叫んだ。「私が神の御前にまかり出ることが出来ないのは、神の御光の強過ぎる為でございましょうか?」

「その通りじゃ。何人も直に神の御光の前に出ることは出来ぬ。されど何事にも屈せずたゆまず飽くまで前進を続けて行かねばならぬ。余の声をしるべに進め! 進むに連れて余の姿は次第に汝の眼に映るであろう」

そうする中に休憩所の天使の一人が室内に歩み入り、吾輩の手を取りて入り口とは別の扉を開けて戸外に連れ出してくれた。ふと気が付くと、遙か遙か遠い所にささやかな一点の星のような光が見え、次の声が其処から発するように感ぜられた――

「余に従え! 導いてやるぞ」

吾輩は少しの疑惑もなしに闇の中をとぼとぼとその光を目当てに進んで行った。すると守護神――これは後で判ったのですが――は間断なく慰撫奨励の言葉をかけてくださった。路は険阻な絶壁のような所についていて、吾輩は何回躓き倒れ、何回足を踏み滑らしたか知れないが、それでも次第に上へ上へと登って行った。丁度路の半ばに達したと思われる所に、とある洞穴があってその中から一団の霊魂共が現れて、吾輩目掛けて突撃して来た。そいつ等は下方の谷間に吾輩を突き落とそうとするのである――が、忽然として救助の為に近付いて来たのはかの道標の光であった。それを見ると襲い掛かった悪霊共は悲鳴を挙げて一目散に逃げ去った。

最早心配なしと認めた時に吾輩の守護神はいつしか元の位置に帰っておられたが、その為に吾輩もほっと一息ついたのであった。何故かというに、吾輩の体も敵程ではなかったが、光に射られていくらか火傷をしていたのであるから・・・。

その中に路はとある大きな瀑布(滝)の所へ差し掛かった。地上のそれとは違って、地獄の瀑布はインキのように真っ黒で、薄汚いどろどろの泡沫が浮いている。そしてその付近の道はツルツル滑って事の外危険である――が、何人かが人工的にそこえらに足場を付け、しかもひっきりなしに手入れしているらしい模様なのである。吾輩はその時まで成るべく口をつぐんでいたが、とうとう思い切って守護神に訊ねてみた――

「一体ここの道路を誰が普請するのでございますか? どうしてこんなに手が届いているのでしょう?」

すると守護神は遠方からこれに答えた――

「それは地獄の中に休憩所を設けておらるる天使達が義侠的にした仕事じゃ。ここの道路は地獄の第四部と第五部とを繋ぐものでこれを完全に護るのが彼等の重大なる任務の一つじゃ。下の境涯に居る霊魂共は隊伍を組んで、飽くまでもこの道路を壊しにかかっているから油断などは少しも出来ない・・・」

●守護の天使との邂逅 下
吾輩が続いて訊ねた――

「そんな悪い事をするのは真の悪魔なのですか、それとも普通の人間の霊魂なのですか?」

「それは普通の人間の霊魂なのじゃ。彼等は地上の悪漢同様自分達の仲間が彼等を離れて正義の道に就くことを嫌うのじゃ。汝の今述べたような真の悪魔などというものは、地獄の最下層以外には滅多に居るものではない。地獄の上層にいるのは先ず大抵人間の霊魂であると思えば間違いはない」

「それなら自殺した者は何処に居るのでございますか?」

「そんな者は大抵地獄の第三部、憎悪の境涯に行っているが、たまに第四部にいるのがあるかも知れん。又幽界にいる時分に、その罪を償ってしまって地獄に堕ちずに済む者も少なくない」

「それはそうと天使様、何やら光明が段々強く、行き先が明るくなってまいりました。これはどうしたのでございます?」

「我々は段々光明の地域に近付きつつあるのじゃ。のみならず休憩所の天使達が、我々の近付くのを知って、我々の為に神に祈願を込めてくださるのじゃ。光というものは実は信念そのものである。故に我々の為に祈りを捧げてくれる者があれば、その信念が光となって我々を導いてくださる」

次第次第に光は強さを加え、終いには眩しくてしようがなくなった。が、幸いにも吾輩の人格にこびりついた最劣悪部は既に燃え尽くしてしまったものと見え、この前よりも痛みを感ずることが少なかった。

間もなく我々は休憩所に辿り着き、その入り口の階段を登り詰めて扉の前に立った。守護神は手さえかける模様もなくするすると扉を突き抜けて内部へ入ったが、しばしの後扉は内部から開かれ、吾輩も誰かに導かれて室内に歩み行った。

言うまでもなく室内は極度に光線が強いので、吾輩は一時すっかり盲目となってしまったが、それでも慣れるにつれて次第に勝手が判って来た。聞けばここに駐在する天使達の任務というのは、一つには例の瀑布の付近の道路の破壊されるのを防ぎ、又一つには第五部の居住者がうっかり道に踏み迷い、第四部の方に落ちて来るのを監視する為でもあった。

ここで一言付け加えておきたいのは、第五部の住民から排斥された者が、時とすればその境界線にある絶壁から第四部に突き落とされることである。第五部は大体に於いて大変に格式を重んずる所で、規則違反者と見れば、決して容赦しない。この休憩所はそんな目に遭う連中をも出来るだけ救うことにしているのである。

なおこの休憩所の前面にはインキ色の真っ黒な川が流れているが、その川に掛かっている橋梁の警備もまたこの休憩所の天使達の手で引き受けているのであった。

二十八. 第五部の唯物主義者
さて吾輩は又も守護神に導かれて、橋を渡って対岸の哨所に入った。が、ここではちょっと足を停めただけで、再び濃霧の立ち込めた闇の戸外に歩みを運んだ。

しばらく一つの大きな汚い河流の岸を歩いて行くと、やがて一大都会に到着した。これは世にも陰湿極まる所で、見渡す限り煙突ばかり、製造所やら倉庫やらがゴチャゴチャと建ち並んで、その間にはゴミだらけの市街が縦横に連なっている。何処を見てもむさ苦しく、埃くさく、そして工場の内外には職工がゾロゾロ往来している。吾輩は足を停めて職工の一人に訊ねた――

「一体君達は何をしている?」
「工業さ、無論・・・」
「製造した品物はどうするかね?」

「売るのだね無論・・・。しかし妙なことには、幾ら売っても売っても其の品物は皆製造所へ戻って来やがる。こんなに沢山倉庫ばかり並んでいるのはその為だ。ここではひっきりなしに倉庫を建てていなけりゃ追っつきゃしない。邪魔でしようがないから一生懸命に売り飛ばしているんだが、それでも何時の間にやら一つ残らず品物が戻って来やがる」

「焼いてしまったらよかろう」と吾輩が注意した。

「焼いてしまいって・・・。そりゃ無論焼いている。一遍に大きな倉庫の十棟も焼くのだが、しかし矢張り駄目だね。直ぐに全部がニョキニョキと戻って来る。こいつばかりはしようがない・・・」

「それなら何故製造を中止しないのかね?」

「ところがそれが出来ない。不思議な力がここに働いていて、どうしてもひっきりなしに働いて働いて働き抜かなければならなく出来ている。休日などはまるでない。馬鹿馬鹿しい話だが、これも性分だから何とも仕方がない。生きている時分だってこちとらは労働以外に何にも考えたことなんかありゃしなかった。のべつ幕なしに糞骨折って働いたものだ。その報酬がこれだ。せっせと同一仕事を繰り返し繰り返しして、一年、二年、五年、十年、百年・・・。何時までも休みっこなしだ」

「君達は生きてる時分にはただ物質のことばかり考えていたに相違ない。そのせいで地獄に来ても同じような事をさせられるのだ」

「なに地獄だって! 地獄だの、極楽だのというものがこの世にあってたまるかい!」

「それなら此処は何処だと思うのかね?」

「知るもんか、そんなことを・・・。又知りたくもねえや。此処には寺院がありゃ僧侶もある。お前みたいな阿呆に話をする時間はねえ。どりゃ仕事に取り掛かろう」

そう言ってその男は工場へ入って行った。

吾輩はやがて大きな広場に来たが、そこには寺院が三つもあった。一つは英国国教、一つはローマカトリック、他の一つは反英国国教の所属であった。吾輩は先ず英国国教派の寺院に入ってみた。一人の僧侶がしきりに説教を試みていたが、随分面白くない説教で、要点は主として他宗の排斥と寄付金の募集とであったが、それを社会の改良だの、下層社会の救済だのという問題に結び付けて長々と述べ立てるのであった。

会衆はと見るとお説教などに頓着している者は殆どない。隣席の者を捕まえて、ベラベラと他人の悪口を並べるのもあれば、近所に来ている人の衣服の批評を試みるのもある。その他商売上の相談をやる者、議論をやる者等種々雑多で、僧侶の声などは殆ど聞き取れない。

余りに馬鹿らしいので、吾輩は其処を出て他の二つの寺院へ入ってみたが、何れも似たり寄ったりで、面白くもなんともなかった。

次に吾輩の出掛けたのは市の中で売店ばかり並んでいる一区画であったが、全体の状況は少しも製造場と変わってはいなかった。人々が買い物に来ることは来るものの、支払った金子は皆その買い主に戻り、又売った品物は皆その売り主に戻って行くのであった。

余りに不思議なので吾輩はとある商店の主人に向かって訊いた――

「あなたの売る品物は何処から来るのです? 製造所から仕入れて来るのですか?」

「いやこれ等の品物は皆私と一緒に此処へ付いて来たのです。何れも皆私が死んだ時に店に置いてあった品物ばかりですが、そいつがどうしてもこの店から離れません。見るのももうウンザリしますがね」

「それなら商売を辞めたらいいでしょうに」

「冗談言っちゃいけません。商売を辞めたら仕事が無くなってしまいます。私は子供の時分から品物を売って一生暮らして来た人間ですからね・・・」

彼は吾輩を極端な分からず屋と見くびって、プイと向こうを向いてしまった。そして一人の婦人に新しい帽子を売りつけたが、無論その帽子は右の婦人が店を出て三分と経たない内にキチンと自分の店へ舞い戻って来た。

その次に吾輩は市会議事堂へ入ってみた。そこでは議員達がしきりに市の改良策について火花を散らして論戦していたが、いくら喋々と議論したところで、いずれその結果は詰まらないに決まっているので間もなく又其処を出てしまった。

とうとう市街を通り抜けて郊外に出たが、相変わらずそれは一望がらんとした荒地で、廃物ばかりが山のように積まれ、草などはただの一本も生えていなかった。

二十九. 睡眠者
我々は暫く歩いて行く中に、やがて一つの洞穴に達した。見ればその内部には沢山の熟睡者がいた。試みにそれを呼び覚まそうとしてみたが、とても起きる模様がない。

この一事は少なからず吾輩を驚かした。今までの所では、地獄に住む者でただの一人も眠っている者を見掛けたためしがない――肉体がないから従って睡眠の必要はないのである。

で、不審の余りその理由を守護神に質問してみた。もうこの時には自分と先方との距離はそう遠くもなかったのである。

守護神は悲しげにこう答えた――

「我が兒(こ)よ、これ等は生時に於いて死後の生命の存続をあくまでも頑強に否定すべく努めた人々の霊魂なのじゃ。何れも意思の強固な者ばかりで、若しも信仰の念さえあったなら、相当に世を益し人を助けることが出来たであったろうに、ただその点だけ魂の入れどころが違っていたばかりに、人を惑わし、同時に自分自身も死後自己催眠式に昏睡状態に陥ってしまったのじゃ。この眠りは容易には覚めない。彼等は幾代幾十代となくこうして眠っているであろう。その間に器量から云えば、彼等よりも遙かに劣り、中には地獄の底まで沈んだ者でも前非を悔いてずんずん彼等を追い越して向上して行くであろう」

「こりゃ実に恐ろしい御話です。呼び覚ます方法はないものでしょうか?」

「多大の年代を経過すれば自然とその呪いの力は弱って来る。その時天使達が降りて来て何かと骨を折ってくだされば、彼等の長い長い夢も初めて覚めるであろう」

その内我々は断崖絶壁ばかり打ち続ける地方に到着した。暫く崖の下をさ迷うていると、行く手に一條の狭い、ツルツルした階段が見え出した――と、丁度その時唐突に一人の男が空中から舞い下がって来てすぐ自分達の前に墜落した。が、その人はそのまま飛び起きて闇の中に逃れ、何処ともなく行方を失ってしまった。

「あれは一体何者でございますか?」と吾輩がびっくりして訊ねた。

「あれは上の第六境で、規律を破った為に追放された者じゃ。第六境の居住者は大変風儀品格を尊重する人達で、若しもその禁を犯して彼等の怒りを買えば、忽ち追放処分を受ける。第六境の居住者の最大欠点は、自己ばかりが飽くまで正しいものと思い詰めることで、しきりに自己の隣人を批判して讒謗誹毀(ざんぽうひき)を逞しうする事が好きじゃ。いや然しもうあそこに休憩所の光が見え出した。いかなる種類の人間が第六境に住んでいるかは汝自身で調べるがよかろう」

我々はそれで話を切り上げ前面の長い長い階段を一歩一歩に登りかけたが、イヤその苦しさと云ったらなかった。しかし灯台の光は次第次第に強く我々の前途を照らした。無論その光は身に滲みて痛いには相違なかったが、ここぞと覚悟を決めてとうとう天使達の設置してある休憩所まで辿り着いてしまった。

三十. 第六境(上・中・下)
●第六境 上
これは1914年9月5日に現れた陸軍士官からの自動書記式通信であります。

さて我々は暫く右の休憩所で一息入れてから再び前進を続けた。四辺は相変わらず霧の海、その中を右へ右へと取って行くと、間もなく一大都市の灰色の影がチラチラ霧の裡(うち)に見え出した。大絶壁に臨める側には高い城壁が築いてあったが先刻一人の男が第五境へ突き落とされたのは、右の城壁に築いてある塔の一つからなのであった。

市街の家屋は大部分近代風のもので、ロンドンの郊外の多くに見受けられるように、上品振ってはいるが然りまるきり雅趣に乏しいものであった。が、街路は割合に立派で、掃除もよく行き届いていた。地獄で清潔らしくなるのは此処から始まるのであった。

ふと吾輩はここに劇場のあることに気が付いた。入ってよいかと守護神に訊ねたところが、よいと云われるので早速入った。但し守護神の方では戸外に待っておられた。幸い入り口の所に一人の男が居たので吾輩は早速それに言葉をかけたが、先方はジロジロ吾輩の顔を見ながら言った。

「私はまだあなたのことをどなたからも紹介されていませんが・・・」

「べらぼうめっ!」吾輩が叫んだ。「こんなところで紹介もへちまもあるもんか!」

「これこれあなたはとんでもない乱暴な言葉をおききなさる。それでは紳士の体面を傷つけます・・・」

先方はいやに取り澄ましている。仕方がないから吾輩も大人しく謝って、どんな芝居がここで興行されているかを訊ねた。

「演劇は市民の風儀を乱さぬ限りどんなものでも興行しています。但し野卑なもの、不道徳なものは絶対に興行しません。これはひとり演劇に限らず、音楽その他も皆その通りです」

「イヤー」と吾輩は叫んだ。「風儀をかれこれやかましく言う所は、地獄の中では此処ばかりだ!」

相手の男は苦い顔をした――

「どうもあなたは口の聞き方が乱暴で困ります。この世に地獄などと云うものはありません。あっても此処ではありません」

「下らんことを仰るな。この界隈は皆地獄の領分の中です。立派に地獄に居るくせに、居ないふりをすることはおよしなさい。吾輩は憚(はばか)りながら地獄の玄人だ。そんな甘い手には乗りませんよ」

「もしもし」と彼が言った。「あなたは一体どちらの方で、何処からお出でなすったのです?」

仕方がないから吾輩は簡単に自分の身の上を物語った。すると先方は次第次第に吾輩から遠ざかり、やがて吾輩の言葉を遮って叫んだ――

「それだけ伺えばもう沢山です。あなたは大ほら吹きか、それとも余程の悪漢です。あなたが何と言ってもここは地獄ではありません。多分私達は地上の何処かに居るでしょう。何れにしても従来私は悪漢と交際したことがないから今更それを始める必要はないです。これで私はあなたに別れますが、ついでに好意上一片の忠言をあなたに呈しておきます――外でもないそれはあなたがここで下らない話を何人にもなさらぬことです。さもないとあなたはあの城壁の塔から下界へ投げ込まれますぞ!」

そう言って相手の男はプイと何処かへ行ってしまった。

そこで吾輩は兎も角も劇場に入った。内部では丁度一の喜歌劇を演じていましたが、イヤその下らなさ加減ときたらまさに天下一品、音楽は地獄の他の部分ほど乱調子でもないが、しかし随分貧弱なもので、俗曲中の最劣等なものに属した。脚本の筋などときてはまるきり零、全体が平凡で、陳腐で、無味乾燥で、たった一と幕見てうんざりしてしまった。他の見物人だってやはり弱り切っているらしかったが、それでも彼等は我慢して尻を据えていた。

其処を出かけてその次の一つ二つ音楽会を覗いてみたが、その下らないことは芝居と同様、とても聴かれたものではなかった。早速又逃げ出して今度は絵画展覧会を覗いてみた。もう大概相場は判っているので、最初から格別の期待もせぬから、従って失望もしなかった。が、子供の落書きにちょっと毛の生えた位の代物ばかりを沢山寄せ集めて悪く気取った建物の内部に仰々しく陳列してあった。

●第六境 中
もうこんなものの見物にはウンザリしたので吾輩は守護神の所に立ち返り、それに導かれて市街の中央部をさして出掛けた。すると、其処には煉瓦造りのゴシックまがいの碌でもない寺院があったので試みにこれに入ってみた。

丁度内部では祈祷が始まっている最中で、でっぷり太った一人の僧がねばねばした偽善者声を出して何か喋っているので先ず吾輩の癇癪に触った。お祈りの文句などはただベラベラと器械的の述べるのみで、熱は少しもない。全てがただ形式一遍、喋る方も聴く方もお互いにお茶を濁しているに過ぎない。

彼の説教の内で耳にとまった文句の二、三を少し紹介するとこうだ――

「親愛なる兄弟姉妹諸氏、あなた方は私を助けてこの大都市の裡(うち)に何ら悪徳の影も潜まぬように力を尽くして頂かねばなりません。若し裏面に於いて何らかの不倫の行為に耽っている者があらば、その真相を徹底的に暴き出すことが必要であります。たとえそれがあなた方の親友であり、又親族でありましても容赦なく弾劾することがあなた方の責務であります。若しあなた方がこの大事業に一臂(ぴ)の力を添えられようと思し召さるるなら何時でも私の所にお出でになり、疑わしいと思われるところを御遠慮なく私に密告して頂きます。悪事の跋扈横行ほど恐ろしいものはないのですから、常にそれを双葉の中に刈り取ることの工夫が肝要であります。私は常にあなた方の味方であります。悪徳駆除の為には如何なる手段も選びません。

ここに一例を申し上げておきます。あなた方の御友人の某夫人が近頃寺院に参拝しない。どうもその方がある紳士と姦通の疑いがある――そんな場合にはあなた方はその方に同情するフリをするのです。そうして成るべくその人をおびき出して自白させるのです。同時に彼女の夫には密かに警告を与え、なかんすぐ私まで一切の事情を報告して頂くのです」

こんな調子で暫く論じ立て、最後にこう結論した――

「兎にも角にも罪悪の証拠充分なりと見ればそんな社会の公敵に対して何らの慈悲恩恵を施すべきでありません。一時も早くかの城壁の塔より永久返ることのない大奈落に突き落とすべきであります―― つきましては明日皆様と一堂に会して大宴会を催し、その際寺院改良に宛つべき資金の調達を試みたいと存じます。何とぞ公共の為に皆様の御出席を希望いたします」

飛んだ説教もあったものだ。吾輩が寺院を出ようとすると、聴衆は密かにこんなことを語り合っていた――

「牧師さんはいつもいつも寺院改良の為だと云って資金の募集をやるが、一体あの金子はどうするのでしょうな?」

「そりゃ無論自分の懐中にねじ込むのでさ。少なくともその大部分を・・・」
「私もそう思いますね・・・。しかしあの金子は何に使うのでしょうな?」

「二重生活をすると金子がかかりますよ――御承知の通りあの人には妻君の外に囲い者がありますからね」

吾輩はそれだけしか聴かなかった。が、翌日の大宴会というものには是非出席してみようと決心した。で翌日は都合をつけて、少し早目に寺院に出かけて行ってみると、大会堂には牧師が控え、その周囲には彼を崇拝する婦人の一団が早やぎっしり集まっていた。牧師が何か一言喋れば、何れも先を争ってそれに調子を合わせ、そして隙間を見計らって誰かの告げ口をする。中には随分口にするにも耐えないような悪口も混じっていた。

ようやくのことで、吾輩はある機会を見付けて牧師に話しかけた――

「牧師さん、私は折り入って一つの簡単な問題についてお訊ねしたいのですが、一体あなたさまはキリスト教を心から御信仰なさいますか? それとも博学な高僧達の多くと同じくそれをただ一篇の神話と御考えになられますか? つまり神、天国、地獄などというものが果たしてあるものかないものか、御腹蔵のないところを伺いとうございます」

彼は両手を組み合わせ、例のねばねばした口調で答えた――

「そりゃ信仰という言葉の意味次第であります。牧師というものには大責任がありますから、滅多に心弱き者を躓かせるような事は言われません」

色々と言を左右に托して逃げを張ったが、吾輩が追窮して止まないので、とうとう彼は本音を吐いた――

「イヤ個人として言うならば、私はキリストの物語を一つの神話・・・甚だ美しき一篇の神話と考えます。聖ポールをはじめ、古代のキリスト教徒は恐らく皆そう考えたに相違ありません。キリストの事跡は一大真理を教えたところの一つの象徴であります。丁度エジプト人がオシリス神の死と復活とを説くようなもので、教育のあるエジプト人がオシリス神の実在を信じていたとはどうしても思えない。あれは単なる一つの寓言に過ぎません。不幸にも無智無学の徒はこれ等の寓言を字義通りに信仰し、中世時代に及んで、それが一般の信仰となってしまった。近頃になってから、我々は次第に真理に目覚め、迷信の滓(かす)の中から脱却しつつある――が、勿論我々は大きな声でこれ等の事実を一般人に聞かせることは出来ません。若しもそんなことでもしようものなら恐らく牧師の職を棒にふることになるかも知れません・・・」

「そうしますと、若しもキリスト教義の全体が単なる寓言に過ぎないとすれば、教会の必要は何処にございましょうか?」

「そりゃ大々的に必要があります。本来教育というものは偉大なる道徳的勢力の源泉であるべきで、今後は恐らく一切の迷信的分子から脱却することになりましょう。が、現在ではまだそうするのは早過ぎます。大多数の民衆の為には取るにも足らぬ寓言比喩をも政策上使用せねばなりません」

「では天国、地獄、神などは実際は存在せぬと御考えですか?」

「その点に関しては私は明答を避けたい。或る人々にとりては、神の観念を有することが必要である。さもないと道徳的法則を遵守せぬことになりますからな。が、私一個の私見としては、必ずしも神はないものと断定もせぬが、又神を必要かくべからざるものとも考えない。私はこの世界が幾つかの法則で支配され、なかんずく道徳的法則が何より貴いものであるように思います。道徳的法則を破る者は早晩その法則によって懲戒を受けますから、必ずしも万能の創造者が必要とは認められない――いやしかし私はこんな事を一般民衆には公言する訳ではありません・・・」

「けれども」と吾輩が彼の雄弁を遮って言った。「何も神を万能の専制君主と見なす必要はないでしょう。神は一切を見通すところの賢明なる審判者であって、あなたの所謂法則なるものはつまり神から発するもの、神が整理さるるものではないでしょうか?」

「それはそうかも知れない。しかし淡白に言うと、天国だの地獄だのというものはあれは皆嘘です。各人の受ける賞罰は、つまり疾病の有無、又は社会の待遇等によりて決まるもので、決して天国だの地獄だのがあって賞罰を与えるのではない。私の地位としては死後の生活がないと公言することを憚(はばか)るが、しかし実はあんなことは到底信じられない」

●第六境 下
吾輩は呆れて一瞬間牧師の顔を凝視した――

「それならあなたはどうして此処へお出でになっているのです?」

「イヤ私は何やら妙なことでここへ来たのじゃ。私は病気にかかり、やがて意識を失った。その間に頗る不思議な、そして気味の悪い夢を見せられたが、勿論ここに取り立てて述べるだけの価値はない。夢は五臓の疲れに過ぎんからな・・・。やがて回復してみるといつの間にか私は此処へ来ている。しかし妻は来ていません。人に訊いてみたが誰も詳しい事を知っている者がない。その内この教区の前任者が不思議なことでプイと行方不明になったので、私がその代わりに教区を預かることになって、今日に及んでいるのじゃ。何人も前任者は死んだものとしているが、兎に角この土地の生活状態には何やら不可解な点が多い。ここでは誰も死ぬ者がない。従って葬式の必要もない。ただ人の知らぬ間に体が消滅するのじゃな。多分衛生当事者が密かに死体を処分するものかと思うが、そんなことは私の職務外のことじゃから深く訊き出しもしません。何分私の受け持っている教区は市の中央部にあるので、朝から晩までかかり切りにかかっていても間に合わぬ位多忙でな・・・」

「あなたはこちらで結婚でもなさいましたか?」

「無論しました。元の妻は私の病中にてっきり死んだものとしか思われないから、私は何の躊躇するところもなく再婚しました。勿論私はもう老人で別に結婚はせずともよいのじゃが、しかし妻がいてくれんと教区の事務遂行に関して大変差し支えが生ずる。欲を言えば今度の妻がもう少し手腕があってくれればと思うが、まぁしかし人間は大抵のところで諦めるのが肝要でな・・・」

「して見ると、あなたは現在地獄に落ちておられる事にまだお気がつかれないのですか?」

「これこれあなたはとんでもないことを仰る!」

仕方が無いから吾輩はここが地獄の一部分であること、又死後吾輩が色々の苦い経験をなめたことを物語ってやった。彼は極めて冷ややかに吾輩の話を聞いていたがやがて口を挟んだ――

「イヤもうそれで沢山沢山! 私がもしただの人間であったならこのまま黙っては済まされないところじゃが、身分が身分じゃから、ただこれだけあなたに言って聞かせる――外でもない、それは私があなたの話を全部信用しないということじゃ。今日はとんでもない人に会って時間を浪費してしもうた! あなたは嘘つきか、それともあなたの人相から察して、余程の悪漢かに相違ない。一刻も早くこの市から立ち去って下さい。慈悲忍辱の身として私からは告発はせぬ事にするが、若しこれが他の人であったら決してあなたみたいな人物を容赦せぬに決まっている・・・」

彼は吾輩をうっちゃらかしておいて、やがて近付いた二人の婦人に吾輩のことをベラベラ説明し始めた。吾輩もこんな所に永居は無用と早速寺院から飛び出してしまった。

三十一. 死後の生活の有無
1914年9月7日の霊夢に、ワード氏は陸軍士官と会ってその物語の続きを聞きました。

陸軍士官はその際例の調子で次の如くに語ったのであります――

地獄の第六境の都会をぶらついている内に、吾輩は一の学術協会らしい建物を見つけた。内部を覗いて見ると、其処には何やらしきりに討論が行なわれていた。討論の議題は『死後の生活の有無』というのでした。

一人の弁士は左の如く論じ立てた――

「人間が死後なお生存するということにつきては其処に何らの確証がない。成る程或る人々はこう論ずる――我々は一旦死んだ。然るに今尚かく生きているのであるから、死後生命が存続することの証左であると。が、これは論理的でない。我々は今なお生きている。故に我々は初めから死なないのである。我々は皆重い病気に罹った。病気から回復してみると、辺りがこんなどんよりと曇った世界に一変していた――単にそれだけである」

「それだから」と他の一人が言葉を挟んだ。「我々は死んで地獄に居るに相違ない」

「もっての外の御議論です」と最初の弁士が叫んだ。「我々は病気以前と同様気持ちよくここに暮らしている。私は地獄の存在などは少しも信じない。よし一歩を譲りて地獄が存在するとしても、此処が地獄であり得ないと云うことには諸君も賛成されるに相違ない。牧師達は我々に告げます。地獄は永久の呵責の場所で、ワシも死する能(あた)はず、火も消えることがないと。然るにそのような模様は微塵も此処にないではないか。成る程下らない心配、下らない仕事が連日引き続くので退屈ではあります。けれどもそれは地上生活に於いても常に見出すところである。我々は所謂天国の悦楽をここに見出し難いと同時に、所謂永久呪われたる者の苦痛も見出し得ない。この点が我々の死んでいないことの最も有力なる証左である。若し死後の生活などと云うものがあるならば、それは地上の生活と全然相違しているべき筈である。此処の生活は我々の若かりし時の生活とは相違しているに相違ないが、肉体を離れた霊魂の生活としては余りに具体的であり、実質的である。諸君、我々は死後生命の存続を証明すべき何ら有力なる確証を持たぬという私の動議に御賛成を願います」

それに続いてその反対論が出た。が、それは随分つまらない議論で、至極平凡な論理を辿り、自分達は確かに一旦死んでいる。現在の住所が何処であるかは不明だが、多分煉獄であろうなどと述べた。すると清教徒(ピューリタン革命)達はそれに大反対で煉獄などというのはカトリックの寝言だと反駁し、議場は相当に混乱状態に陥った。

やがて次の弁士が立ち上がって一の名論? を吐いた――

「私は自分の死んだことをよく死っております。そして現在我々の送りつつある生活をただ一場の夢と考える者であります。人間の頭脳なるものは生命が尽きたと称せられる後に於いても、暫時活動を持続する。しかし最早肉体を完全に統御する力はなく、その期間に於いて一種の夢を見るのである。従ってその状態は永久続くものとは思えない。我々が地上にいる時でも、随分長い夢を見ることがあった。夢の中に幾日、幾週を経過したように考えた。しかし、覚めてみるとたった五分間ばかりの転寝に過ぎなかった。かく述べると諸君は言うであろう――それなら我々は単に頭脳の生み出した一の幻影に過ぎないのかと――その通りです。ここには都会もなく、議場もなく、あるものはただ自分だけであります。私はただ夢を見ているだけであります。幾ばくもなくして私の頭脳は消耗し、同時に夢も又消えるでありましょう。御覧なさい、現在我々は地上に居った時と全然同様な仕事を器械人形の如くただ何回も繰り返しているに過ぎません。死後の生命なるものはただ死しつつある頭脳の一場の夢に過ぎません。しかしこんなことを述べるのは、つまり自己の空想の産物に向かって説法をすることなのであるから甚だつまらない。私はもう止めます」

そう言って彼は陰気な顔つきをして座についた。

満場どっと笑い崩れた。

その時吾輩が飛び出して叫んだ。

「諸君、私は御当地を通過するただ一介の旅客にすぎません。けれども若し諸君が私の言葉を信じて下さるならば、私は死後生命の存続することを証明し、天国の有無は兎に角、地獄は確かに存在し、そして此処が地獄の一部分であることを立証してあげることが出来ます。此処よりももっと下層に行けば人々はいかにも地獄に相応しい呵責を受けております。一度私が死んでからの波乱に富んだ閲歴をお聞きになってもらいましょうか?」

が、皆まで言い終わらぬ内に満場総立ちになって怒鳴り出し、その中の数人は城壁の塔から吾輩を放り出すぞと威嚇した。仕方が無いから吾輩はよい加減に見切りをつけて建物を立ち出でると、一人の男が吾輩の後に追いすがって言った――

「イヤあなたが只今仰った事は皆道理に適っています。あなたは地獄の各地を通過して、最後にここを脱出さるるお方に相違ありません。ついては私のことを同行しては頂けますまいか?」

吾輩がそれに答える前に彼の守護神が姿を現して言った――

「我が兒(こ)よ、余は汝を導いて、愛する友の喜んで助けを与える美しき境涯に入らしめるであろう。余は汝の胸に救助を求める精神の宿るまで、止むことを得ず差し控えていたが、今こそ再び立ち返りて汝の将来を導くであろう」

右の人物と天使とは相連れ立ちて何処かへ行ってしまった。

三十二. 第七境まで
それから吾輩は守護神に導かれて市外に出た。途中幾つかの町や村を過ぎ、とうとう一つの山脈の麓に達した。吾輩はその山を喘ぎ喘ぎ登って行ったが、登るにつれて道路はますます険阻になった。やっとのことでその頂上に達して見ると、前面の直ぐ近い所に休憩所が建っていた。それは今までの何れよりも大きく、美しく、巍巍(ぎぎ)として高く空中に聳(そび)え、そして最高層からは一大光明が赫灼(かくやく)として闇中を照らした。

しかし最後の一と骨折らずには地獄を脱け出ることは許されなかった。吾輩は俄然一群の乱民に包囲され其処の絶壁から下に突き落とされんとしたのである。

が、吾輩ももうこれしきのことでは容易に勇気を失わない。満腔(まんこう)の念力を集中して打ちかかる者共を右に左に投げつけた。同時に吾輩の守護神が全身から光明を迸(ほとばし)らしつつ側に立っていてくださるので、とうとう悪霊共は恐れ慄(おのの)きつつ敗走した。

光は吾輩にとりても非常な苦痛を与えたが、歯を食いしばってそれを耐えた。そしてよろめきながら漸(ようや)く休憩所の玄関まで辿り付くと、内部から扉が開いて、誰やらが親切に吾輩の手を取りて引き入れてくれた。戸外にはなお敗走した乱民の叫喚の声が微かに聞こえた。

その時何処やらで吾輩の守護神が言われた――

「我が兒(こ)よ、余は暫く姿だけ隠しているが、いつもすぐ傍に付いているから安心しているがよい・・・」

それから吾輩は其処の親切な天使達に導かれて薄暗い部屋に入って休息したが、光明が強くて眼が開けられないので、それがどんな風采の人達なのかはさっぱり判らなかった。

間もなく吾輩は其処の病院に入れられて一種の手術を受けた。それは吾輩の汚れた体から邪悪分子を除去する為であった。その手術が済むと、驚いたことには吾輩の体は目茶目茶に縮小してちっぽけな赤ん坊の大きさになってしまっていた! それから段々体格を築き上げていって、間もなく学校へ通学し得るところまで発達した。その学校で御目にかかったのがPさんで、吾輩は大変御面倒をかけたものです。当時学校中の最不良少年は吾輩であったが、それでもPさんはどこまでも吾輩を見捨ててはくださらなかった。

Pさんは学校を退かれるに臨み、是非後について上の世界に昇って来るようにとしきりに勧められたので、吾輩もとうとうその覚悟を決めましたが、後の物語は次回に申し上げます――

ワード氏は早くその先を聞きたかったが、止むを得ず別れを告げて地上の肉体に戻りました。

三十三. 地獄脱出
1914年9月12日、陸軍士官はワード氏の肉体を占領して、自動書記の形式でその身の上話の結末をつけました――

その内吾輩が学校を出る時節が到着した。又してもあの闇の中に潜り込むのかと思うと恐ろしくてとても堪らぬ気がしたが、怯む心を取り直して思い切って案内を頼んだ。

さて我々が地獄から出るのにはあのLさんが往来した楽な道路を取ることは許されない。絶壁の側面についている大難路を登らねばならぬのであるが、それは大抵の骨折りではないのです。

我々は休憩所を出てから右に折れ、暫く幅広き山脈に沿うて進んだ。一方は第六境に導くところの深い谷であり、他方は見上げるばかりの絶壁である。闇は今迄よりも一層深く感ぜられたが、恐らくそれは在学中光明に熟(な)れた為であるらしかった。

我々がとある洞穴の前を通りかかった時に醜悪なる大入道が飛び出して叫んだ――

「止まれ! 何人も地獄から逃げ出すことは相成らぬ!」

が、彼が吾輩に手を触れ得る前に守護神が振り向いて十字を切ったので、キャーッ! と言いながら悪臭粉々たる洞穴の中に逃げ込んでしまった。

それからの難行は永久に吾輩の記憶に刻まれて残るに相違ない。登って行くのは殆ど壁立せる断崖であるが脚下の石ころは間断なくズルズルと滑り落ち、一尺登って一丈も下がる場合も少なくない。

その間に守護神はいかにも軽そうにフワフワと昇って行かれ、いつも二、三歩ずつ吾輩の先に立ちて、その体から放射する光線で道を照らしてくだすった。

やがて止まれと命ぜられたので、吾輩は喜んでその通りにした。我々の到着したのは一の狭い平坦地であった。吾輩の両眼は其処でしっかりと包帯で縛り付けられた。守護神はこう言われた――

「汝の弱い信仰では半信仰の境涯の夕陽の光もまだ暫くは痛いであろう・・・」

それから再び前進を続けた。が、とある絶壁に突き当たった時にいよいよ何としても登れない。すると守護神はこう言われた――

「恐れるには及ばぬ。余が助けてこの最後の難関を通過させてつかわす。これでいよいよ汝の長い長い地獄の旅も終わりに近付いた」

次の瞬間に吾輩は、守護神から手を引いてもらってとうとう絶壁の頂点の平坦地に登り詰めてしまった。

が、其処の明るさ、眩しさ! 包帯をしているにも係わらず、その苦痛は実に強烈で、さすがの吾輩も地面の上をゴロゴロと転がったものだ。それから後の話はあなた方がもう御承知だ。Pさんが来て我輩をLさんに紹介してくださる・・・。Lさんの周旋でワードさんの体を借りて地上との交通を開く・・・。意外なことになってしまいました。

これで吾輩の通信事業はいよいよ完結を告げました。吾輩はこれから他の霊魂達と共に幽界へ出動せねばなりません。幽界では国家の為に生命を捧げた軍人達の救済に当たるつもりであるが、幸い吾輩は幽界の事情も地獄の状況も充分心得ていますから、相当目覚ましい働きをし得るつもりです。その内には昔の戦友などにも会えるかも知れません。

Pさんは又々地獄に降りて救済事業に当たられ、僧侶さんは既に『火の壁』を突き抜けて第五界へと進級され、今又吾輩が幽界に出動することになりましたから、Lさんの所は当分寂しくなる訳です。

これで皆さんにお別れ致します。