二十一. 地獄の病院(上・中・下)
●地獄の病院 上
暫くして吾輩は図書館を後に、ガランとした一つの荒野を横切ると、そこには果たして所謂地獄の病院が建っていた。図書館もかなり気味の良くない代物であったが、病院と来た日には尚更とてつもない所であった。兎に角門を潜って玄関口に入って見ると、広いことも馬鹿に広いが、汚いことも又古今無類であった。
「地上の病院とは少々勝手が違うな」と吾輩は考えた。「地上の病院はちと潔癖過ぎるが、こいつぁまるでそのあべこべだ」
汚い廊下を進んで行くと、図らずも一つの手術室に突き当たった。其処には一脚の手術台が置いてあって、その上に一人の男が横たわっていた。手や足がイヤにしっかり縛られているという以外には格別の異状も認めなかったが、やがて一人の医者が来て、その患者の中枢神経の一つに対して恐ろしく痛い手術を開始した。切開される患者の悲鳴、それを凝視する見物人の悦に入った顔付き――いかな吾輩にもそれを平気で見ている気がせぬので、こそこそ部屋を逃げ出して、今度は解剖室へ入って行った。
ここでは生きている男と、それから女とが解剖に附せられつつあった。一個の切り刻まれた体が放り出されると、そいつは再び原形に復する。原形に復したと見ると他の医者が再びそれを切り刻む。何回同じ惨酷事が繰り返されるか知れない。
ある一つの解剖台では、一人の婦人が若いお医者さんの手にかかって今しも解剖されつつあった。婦人の方では悲鳴を挙げて赦してくれと哀願するのでさすがの医者もちょっと躊躇いかけて再びメスを取り上げた。
見るに見兼ねて吾輩がそこへ歩み寄った――
「一体この婦人は何者で、又あなたはどういう訳でそんなにこの婦人を苦しめるのです? 何かあなたに対して恨みを買うような事でもしたのですかこの女が・・・」
若い医者はすまし切って冷淡に答えた――
「僕が何でこの女の身元などを知っているものですか! それを知りたいなら、あなた自身で勝手に女に訊いてみるがいい」
仕方がないから吾輩は婦人の方を向いて姓名を訊ねた。すると彼女は手術をちょっと待ってもらって吾輩の問に答えた――
「私ニニイて言いますの。元はパリの花柳界に居たのですがね、あるユダヤ人の囲い者にされて三年ばかりその男の世話になっていましたの」
「厭(いや)な奴だね、ユダヤ人などの世話になって・・・」
「私だって厭でしたわ。厭で厭でしようがないから時々口直しに役者買いなどをしたのですワ。ところがある日一人の若い俳優と密会している現場に踏み込まれ、骨の砕ける程ぶたれた上に家から叩き出されてしまったの・・・。
私旦那も怨んだけれど、意気地なしの情夫のことも恨みましたわ。だって、私の事をちっとも庇(かば)ってもくれないで、兎みたいに風をくらって逃げちまったんですもの。それで私は是非この二人に怨みを返してくれようと固く決心したのです。
そうする中に丁度うまい機会が回って来ました。私がその次の懇意になったのはアパッシ(市内無頼団)の団長で、ちょっと垢抜けのした紳士くさい好男子・・・。ずるくて、残忍で人を殺す位のことは何とも思っていないで、私の仕事を頼むのにはそりゃ全く誂(あつら)え向きの人物でした。私は早速ユダヤ人の話をして、あそこへ入れば金子は幾らでも奪えるとけしかけてやりました。
とうとうある晩ユダヤ人の家に押し込むことになって、私がその案内役を引き受けましたの。無論そのユダヤ人はこの上なしのしみったれで、家には泊まり込みの下男が一人と、他に通いの下女が一人雇ってあるだけです。
住居はパリの郊外の、辺鄙(へんぴ)な、くすぶったような所です。
団員の一人が先ずその下男というのをひっぱたいて気絶させておいて、それからどっとユダヤ人の寝室に飛び込んで、爺さんをグルグル巻きにして猿轡(さるぐつわ)をかませてしまいました」
「酷い事をしたものだね」と吾輩も感心して叫んだ。
●地獄の病院 中
「私の方では」と解剖台の女は言葉を続けた。「無論あのユダヤ人が所持金の殆ど全部を銀行に預けてあることをチャーンと承知しています。けど、元々復讐をしてやりたいのがこっちの腹ですからガストンにはそうは言いません・・・」
「ガストンて、君の情夫の名前かね?」
「当たり前だわ」と彼女は済ましたもので、「ガストンにはユダヤ人がどこかに金子を隠してあるように言い聞かせてあります。
「お前さん何を愚図愚図しているの! さっさと白状させておやんなさいよ!」そう私が言ってユダヤ人の眼の前で散々拳固を振り回して見せてやりましたの。
そうするとみんなが寄ってたかって猿轡(さるぐつわ)を外し、同時に一人の男が短刀をユダヤ人の喉元に突きつけました。
「コラッ早く金子の所在地を白状しろ!」とガストンが激しく叫びます。
「金子は残らず銀行に預けてあります。家にはホンの二百フランしかありません。下座敷のタンスの一番上の引き出しに入っています・・・」
とユダヤ人が本音を吐きます。
「この嘘つきめっ! 家の何処かに二万五千フラン隠してあるくせに!」と私が叫びます。
「これこれ、お前はニニイじゃないか?」とユダヤ人がびっくりする。
「当たり前さ」と私が答える。「今夜はいつかの仇を取りに来たのだからね、愚図愚図言わないで早く金子を吐き出しておしまいよ。そうしないと後で後悔することが出来るよ」
「と・・・とんでもない奴に見込まれた・・・」
ユダヤ人の爺さん、何やらくどくど文句を並べかけたので、私はいきなり、爪先で先方の顔をガリッと引っかいて、
「済まなかったわネ」
と言ってやりましたの。痛がってユダヤ人が喚き立てようとしましたので、ガストンが早速又その口を猿轡で塞いじまいました。
「どうもべらぼうに暇潰しをしちゃった」とガストンが言いました。「その炭火をここへ持って来い!」
仲間の数人と私とで爺さんを捕まえて、爺さんの素足を炭火の中にくべると、他の二、三人がしきりにそれを吹き起こす・・・間もなく炭火は紫の火焔を立ててポッポと燃え出して来ました。爺さん苦し紛れに一生懸命体を捩(よじ)りましたが、勿論声は出はしません。
そうするとガストンが、「ここいらでもう一度吟味するかな」
と言いますから、両足を火の中から引っ張り出してやりましたが、両足共こんがりと狐色に焦げていましたわ。口から猿轡を外しておいてガストンが叫びました――
「金子を出せ! 早くせんと許さんぞ!」
爺さん蚊の鳴くような声で、
「金子が若しここに置いてあるなら直ぐに出します。金子さえあったら、こ・・・こんな酷い目にも遭わずに済んだであろうに・・・か・・・堪忍しておくれ・・・」
しかしガストンはそれを聞いてますますむかっ腹を立て、手荒く猿轡を爺さんにかませておいて、
「こいつの言うことは本当かしら・・・」と私に訊くのです。
「嘘ですよ!」と私が叫ぶ。
「そんならもう一度火にくべろ!」
再び火炙りの刑が始まりました。が、俄(にわ)かに見張りの男が室内に駆け込んで来てけたたましく叫び立てる――
「早く早く! 警察から手が回った!」
さぁ大変だというので、一人は扉を開けて逃げる。一人は窓から跳び出す。一人は雨筒をつたって降りる――けど私はガストンの腕を押さえて言いましたの――
「馬鹿だねお前さんは! こんなものを生かしておくと直ぐ犯人が判るじゃないの!」
「全くだ!」
そう言ってガストンは振り返ってユダヤ人の喉笛をただ一刀にひっ切りました。
私達はその場は首尾よく逃げ延びましたが、それから間もなくガストンはある晩酔った弾みに私のことをナイフで刺し殺したんです。それから段々順序を踏んで、御覧の通り只今はこんな所でこんな酷い目に遭わされているのでございますの・・・」
●地獄の病院 下
この長物語を聞いて吾輩はニニイに向かって訊ねた――
「君は、ユダヤ人の事をあんな酷い目に遭わせて気の毒には思わんかね?」
「気の毒? 何が気の毒なものですか! あれ位の事をしてやるのは当たり前だわ――しかし何ぼ何でもこの解剖室に置かれるのはまっぴらですわ」
吾輩は今度は若い医者に向かって言った。
「それにしてもあなたはこの女を苦しめて何が愉快なのです? そりゃこの女は今は随分醜いことは醜い。犯した罪悪の為にさっぱり器量が駄目になっている――しかしこれでも矢張り女です。個人として何もあなたに損害を与えた訳ではないじゃありませんか。なぜこんな酷い目に遭わせるのです?」
「それでは」と医者が答えた。「この女の代わりに君を解剖してあげるかな」
「吾輩は御免被る! それにしても君は解剖するのが愉快なのかね?」
「愉快なのかって? ちっとも愉快じゃないさ。そりゃ最初は他人の苦しがるのを見ると一種の悪魔的快感を感ぜぬではなかった。自分が詰まらない時に他人を詰まらなくしてやるのは何となく気が晴れるものでね・・・。しかし、暫くやっているとそんな虚偽の楽しみは段々厭(いや)になる。現在の我々は格別面白くも可笑しくもなく、ただ器械的に解剖をやっている。自分の手にかける犠牲者に対して可哀相だの、気の毒だのという観念は少しも起こらない。我々は死ぬるずっと以前から、そんなしゃれた感情を振り落としてしまっている。のみならずここに居る者で憐憫に値する者は一人もいない。何れも皆我々同様残忍性を帯びた者ばかりだ。兎に角地獄という所は何をしてみても甚だ面白くない空虚な所だ。ここでは時間の潰し様が全くない。イヤ時間そのものさえも無いのだから始末に行けない・・・」
そう言い終って、彼はプイとあちらを向いて、グザと解剖刀をば婦人の胸部に突き立てた。
吾輩は思わず顔を背けその部屋から出ようとすると、忽ち三、四人の学者共が吾輩を捕まえた。
「今逃げ出した奴の代わりにこいつで間に合わせておこうじゃないか」
そう彼等の一人が叫ぶのである。
「冗談言っちゃ困る!」
吾輩は怒鳴りながら命懸けで反抗してみたが、とうとう無理矢理に解剖台の上に引き摺り上げられ、しっかりと紐で括り付けられてしまった。それから解剖刀で体の所々方々を抉り回されたその痛さ! イヤとてもお話の限りではありません。
が、そうされながらも吾輩は油断なく逃げ出すべき機会を狙いつめていた。
間もなくその機会が到来した。二人の医者の間に何かの事から喧嘩が開始された。天の与えと吾輩は台から跳び下り、一心不乱に神様に祈願しながら玄関さして駆け出した。
一人二人は吾輩を引き止めにかかったが、こんな事件はここではしょっちゅうありがちの事と見えて、多くは素知らぬ風を装って手出しをしない。とうとう吾輩は戸外へ駆け出し、それから又も荒涼たる原野を生命限り根限り逃げることになった。
が、暫くしても、別に追っ手のかかる模様も見えないので、やがて歩調を緩め、病院に於ける吾輩の経験を回想して見ることにした。
吾輩が当時痛感したことの一つは、地獄の住民が甚だしく共同性、団結性に欠けていることであった。暫しの間は仲良くしていても、それが決して永続しない。例えば吾輩の逃げ出した際などでも、若し医者達が、どこまでも一致して吾輩を捕まえにかかったなら到底逃げおうせる望みはないのである。ところが一旦逃げられると、そんなことはすっかり忘れてしまって、やがて相互の間に喧嘩を始める。現に吾輩が病院に居る間にも一人の医者がその同僚から捕まえられて解剖台に載せられていた。
ある一つの目的に向かって義勇的に協同一致する観念の絶無なこと――これは確かに地獄の特色の一つである。
イヤ今日の話はこれで一段落としておきます。左様なら――
語り終わって陸軍士官は室外に歩み出ましたので、ワード氏も叔父さんに暇乞いをして地上の肉体に戻ることになったのでした。
二十二. 救いの曙光
この章の前半は1914年6月13日に出た自動書記、又後半は同22日の夜の霊界訪問の記事であります。心の光と闇との深刻な意義がよくよくここに味わわれます。
さて吾輩は病院で酷い目に遭わされてから、ますますこんな境涯から早く脱出したくてしようがなくなった。そこで吾輩はごろ石だらけの地面に跪いて一心不乱に祈祷を捧げた。と、最後に救いの綱がようやくかかったが、しかしその手続きは全然自分の予想とは違っていた。
吾輩が最初に認めたのは一点の光・・・。然り、それは正真正銘の真の神の御光であった。あのイヤに赤黒い、毒々しい地獄の火とはまるきり種類の違った、白い、涼しい、冴え渡った天上の光なのであった。その懐かしい光が次第次第に自分の方に近付いて来る・・・。
ふと気が付いて見ると、それはただの光ではなく、一人の人の体から放散される光明であることが判った。こりゃきっと天使だ――そう思うと同時に思わず両手を前方に突き出して、心からの祈祷を捧げた。
が、天使の姿が歩一歩自分に接近する毎に自分は激しい疼痛(とうつう)を感じて来た。清き光がキューッとばかり吾輩の魂の内部まで突き透る・・・。とても痛くてたまらない。とうとう吾輩は我を忘れて悲鳴を挙げた――
「待・・・待ってください! 熱ッ! 熱ッ!」
するとたちまち銀のラッパの音に似た朗々たる言葉が響いて来た――
「汝の切なる願いを容れ、福音を伝えん為に出て参った者じゃ。全ての進歩には苦痛が伴う。汝とてもその通り、汝の魂を包める罪悪の汚れを焼き払う為の苦しみを逃れることは出来ぬ。地獄に留まる時は永久の苦悩、これに反して天使の後に従う時は一時の苦悩、そして一歩一歩向上の道を辿りて、やがては永遠の光の世界に出抜けることが出来る・・・」
「お伴をさせて頂きます」と吾輩は嬉し涙に咽(むせ)んだ。「近頃の私は痛い目には慣れっこになっております。どうぞ御導きください。私の身に及ぶ限りの事は何なりともいたします・・・」
「宜しい導いてつかわす。離れたままで余の後について来るがよい。光は闇を照らす。されど闇は光を包み得ない・・・」
吾輩は遠く離れて光の所有者の後に従った。途(みち)は段々爪先上がりになって、石だらけの山腹を上へ上へと上り詰めると遂に一草一木の影もなき山頂に達した。山の彼方を見れば、其処には渺茫(びょうぼう)たる一大沼沢(しょうたく)が横たわり、その中央部を横断して、所々途切れがちに細い細い一筋の路が見え隠れに延びている。四辺には濃霧が立ち込め、ただ件の道路の上が多少晴れ上がっているばかり・・・。
光の主はこの心許なき通路をば先へ先へと進んで行った。吾輩はその身辺から放射する光の痛さに耐えかねて、ずっと後れて行くのであるが、しかしそのお蔭で足元だけははっきり照らされるのであった。
と、俄(にわ)かに闇の中から凶悪無惨な大怪物が朦朧と現れ出でた。「こいつは憎悪の化現だな」――吾輩は本能的にそう直感したのであるが、そいつが我々の通路を遮って叫んだ――
「一度地獄の門を潜った者が逃げ出すことは相成らぬ。元来た道へ引き返せっ! それをしないと沼の中へ投げ込むぞ!」
けれども光の主は落ち着き払ってこれに答えた――
「妨げすな。汝はこのしるしが判らぬか!」
そう言って片手に高く十字架を掲げた。すると悪魔はジリジリと後ずさって、とうとう道路から追い立てられ、沼の上をあちこちうろつき回った。
が、光の主が通り過ぎたと見ると、怪物はたちまち吾輩の方向に突進して来て我々二人の連絡を断ち切った。
恐怖のあまり吾輩は後ろを向いて逃げ出したが、光の主が引き返して来たので、怪物は又もや沼の上へと逃げ去った。
その時吾輩は初めて光の主から自分の手を握られたが、イヤその時の痛かったこと! まるで活きている火の凝塊みたいに感ぜられた。そのくせ後で調べてみると、この光の主というのは霊界の上層からわざわざ地獄に降りて来て救済事業に従事している殊勝な人間の霊魂に過ぎないのであった。
が、暫く過ぎると吾輩の体から邪悪分子が次第に燃え尽くし、それと同時に痛みが少しずつ和らいで行った。
とうとう無事に沼沢の境を通り過ぎ、とある一大都市の門前に出た。
「これが所謂愛欲の市じゃ」と吾輩の案内者が説明してくれた。「地獄に堕ちて愛欲の奴隷となっている者は悉くここに集まっている。金銭欲、飲食欲、性欲、そんなものがこの市で幅を利かせている。汝はこの都市を通過して一切の誘惑に打ち勝たねばならぬ。若しそれに負けるが最後、汝は少なくとも暫しの間この境涯に留まらねばならぬ。これに反して若しも首尾よく誘惑に打ち勝てばすらすらと上の境涯に昇り得る。但し上の境涯に昇るにつけては、自分だけでは済まない。他に誰かを一人助け出すべき義務がある――イヤ余はここで汝と別れる。憎悪の市から人を救うだけが余の任務なのじゃ・・・」
二十三. 愛欲の市(上・下)
●愛欲の市 上
吾輩は自分を救ってくれた恩人と別れて、思い切って愛欲の市の城門を潜ると、其処には一人の女が、薄気味悪い面相の門番を捕まえてふざけ散らしていた。その女も無論碌な器量の持ち主ではない。元はこれでも美しかったのかも知れないが、今では悪徳の皺が深く深く刻み込まれているので、一目見てもゾッとする程であった。
それから暫く市内を歩いてみたが、頓と要領を得られないので、吾輩はギリシャ風の服装をしている一人の男に行き会ったのを幸い、呼び止めて質問を開始した――
「もしもしこれは何という市です?」
彼は怪訝な顔をして吾輩を見つめていたが、やがて答えた――
「一体お前さんは何処から来なすった? いかなる野蛮人でもコリンスを知らない者があろうかい! あの有名なコリンス湾も其処に見えてるじゃないか!」
そう言って彼は薄汚いドブ池みたいなものを指さすのであった。
吾輩はこれを聞いて呆れ返ってしまった――
「君達はあんなドブみたいなものを風光明媚なコリンス湾と見立てて歓んでいるのかね? 冗談じゃない・・・」
「そう云えばホンにちとさっぱりしていないようだね、理屈はちっとも判らないが・・・。近頃は天気などもどうも何時もどんよりしている・・・」
「オイオイいい加減に止してくれ。ここは地獄だ。地獄だからこんなに汚らしい・・・」
「デタラメを言ってくれては困るよ」と相手の男は吾輩の言葉を遮って叫んだ。「我々が不老長寿の秘伝を発見したものだから神々がお腹立てになってこんなにこの市を汚くしたのだ。お前さんは知るまいが、我々は何時まで経っても死にっこなしだ。ワシなどは何千年生きているのかとても勘定などは出来はしない。が、あんまり長生きも考えもので、死ねるものなら死んでみたいような気にも時々はなるよ。いつもいつも同一事ばかり繰り返していると面白みがさっぱりないからな・・・」
吾輩は先刻恩人から聞かされたことを思い出して、
「それほど嫌なら何故ここから逃げ出さないのです? 吾輩と一緒にもっと気持のよい境涯へ行こうじゃないか?」
「ウフフフフ」と彼は笑い出した。「お前さんは余程の田舎者だね。さもなけりゃそんな馬鹿げた考えを起こす筈がない。此処を出るが最後生命が亡くなる。世の中は矢張り生命あっての物種だ。ワシだって本当はまだ死にたくはない・・・」
「でも君はもうとっくに死んでいるじゃないか! 一遍死ねば二度と死ぬる心配はない」
「死んでいるものがどうしてこう生きていられるかい。馬鹿馬鹿しい! お前さんは狂人だね。黙っていないとみんなから石でもぶっつけられるぜ・・・」
そう言って彼はプイと行ってしまった。仕方がないから吾輩は独りで往来をブラブラ歩いて行ったが、この辺の建物の大半は朽廃してしまって不潔を極め、元の面影などはさっぱり残っていない。生前吾輩もしばしば廃墟のようなものを目撃したことがあるが、地獄の廃墟は一種それと趣を異にせるところがあった。何処やら妙にむさ苦しく、頽廃気分が濃厚で、画趣風韻と云ったようなものが微塵もない。例えば場末の大名邸を改造して地獄宿か酩酒屋でも開業したと云った按配式なのである。
吾輩がこんな感想に耽っている間に、それまでガランとして人っ子一人通らなかった街路がにわかに飲んだくれの浮かれ男女で一杯になって来た。そいつらがわっしょいわっしょいこっちへ押し寄せて来て、いつの間にやら吾輩もその中に巻き込まれてしまった。
オヤッと驚く間もなく、二人の女が左右から吾輩の首玉にしがみつくと、一人の男がいきなりコップを突きつけて葡萄酒らしいものを並々と注いで口元にもって来た。何しろこんな御親切は当時の吾輩に取りて真に所謂空谷の響音、久しい間ただ辛い思い、苦しいことのやり続けで、酒と女とには渇き切っている最中なのだから、無論悪い気持のしような筈がない。とうとう勧めらるるままに一杯振る舞い酒を飲んでしまった。
すると忽ち四辺にはどっと歓呼喝采の声が破裂した――
「やぁ飲んだ飲んだ! 仲間が一人殖えたぞ殖えたぞ!」
飲んだ酒は無論美味くも何ともない。酸っぱいような、苦いような、随分ヘンテコな味である。そして飲めば飲む程ますます渇を覚える。吾輩はヤケクソになって矢鱈にそれを飲んだが、さっぱり陶然として酔った気持にはなれなかった。ただ酔ったつもりになって滅茶苦茶に騒ぎ散らすだけのことであった。それから続いて起こった馬鹿馬鹿しいその場の光景、これは到底お話するがものはない。ただ想像に任せておきます・・・。
●愛欲の市 下
言うまでもなく境涯の主なる仕事は酒と女であって、必ずしも残忍性を帯びてはしない。無論稀には残忍な行為も混じる。色情の結果しばしば喧嘩などもしかねない。しかし余りに惨酷な行為をやると、治安妨害者としてコリンス市から放逐されて憎悪の市へと送り届けられる。無論一度や二度の突発的な喧嘩位では追放処分にならないが、それが段々常習性を帯びて来ると、快楽主義の市民は決してそれを黙過しなくなる。
コリンス市で奨励されることは暴飲、暴食、利欲並びに淫欲――なかんずく淫欲はその中の花形で、ありとあらゆる形式の不倫行為が極度に奨励されるのである。
コリンス市の女という女はみな売春婦の類で、いかなる娯楽機関もその中心は皆女である。が、吾輩はここいらで黒幕を引くとしよう。言わずにおくところは想像してもらいたい。ただ一言ここに断っておきたいことは、我々が何をやっても頓と満足を得られぬことである。燃ゆるような欲望はありながら、それを満足すべき方法は絶対に無い。
兎に角吾輩は一時コリンス市の風潮にすっかり被れてしまった。それは幾らか恩人の忠告を忘れた故ではあるものの、主として吾輩に好きな下地があったからである。こんな生活は甚だ下らないものには相違ないが、しかし地獄の底の方で体験した恐怖の後では中々棄て難い趣があったのである。
その後段々調査を遂げてみると、地獄にはこのコリンス市の外にも愛欲専門の市は沢山あった。吾輩が実地探検しただけでも、パリみたいな所、ロンドンみたいな所は確かにあった。無論コリンスといい、又その他の市といい、愛欲のみが決してその全部ではない。色々の所が切れ切れになって地獄の他の部分、又は霊界のずっと上層に出現しているのである。
暫くふらついてから吾輩はロンドンの一部らしい所へ迷い込んだ。其処には種々の盗人共が巣を食っていて、お互いに物品の盗みっくらをしていたが、不思議なことには隣人の物品を盗み取ることに成功すると、その物品は忽ち塵芥に化するのである。こんなところを見るにつけても吾輩はしみじみこの空虚な世界が嫌になって来た。ここでは何をやっても真の満足を得ることがなく、真の人生の目的らしいものはまるきり影も形もない。
が、地獄の中で初めてこの境涯から教会らしいものの設備がある。その司会者というのは地上に居た時分に怪しげな一つの宗派を起こした男で、最初の内は中々上手に愚民をたぶらかし、散々うまい露を吸ったものだが、やがてその陋劣(ろうれつ)な目的と邪淫の行為とが次第に世間に広まりホンの少数の有り難連を残してさっぱり無勢力になったという経歴の男なのであった。
死後この境涯に置かれてから、彼は生前と同一筆法を用い、コケ脅しの詭弁や人騒がせの予言をもって人気取策を講じ、盗人、山師、泡沫会社の製造人、その他色々の無頼漢などを糾合することに成功した。それ等の中には吾輩の昔の知人なども混じっていて大変吾輩の来たことを歓迎してくれた――イヤしかしその教会の説教と云ったら実にヘンテコなまがい物で、神を汚し、神を傷付けるようなことばかり、そのくせ、説教者自身は故意にそうしようとするのではなく、自分ではせいぜい正しい事を述べるつもりであるのだが、やっている中にいつしか脱線するらしいのであった。その教会で歌っている賛美歌などときては実に猥褻極まる俗謡に過ぎなかった。
聞くにつけ、見るにつけ、吾輩はますますこの境涯に愛想を尽かしてしまって、一時も早くこんな所から逃げ出したくてしようがなくなった。そうする中に、ある日吾輩がパリの広場を通行していると、沢山の群衆が一人の人物を取り囲んで盛んに悪罵嘲笑を浴びせているのを見出した。よくよく見ると右の人物は体から後光が射して、確かに天使の一人に相違ない。で、吾輩は嘲り笑う群衆の中に混じってその説教に耳を傾けた。彼は熱心に神の恩沢を説き、かかる邪悪な、そして空虚な生活の詰まらないこと、一時も早く悔い改めて、この暗黒界を脱出し、光明の世界を求めねばならぬことを説明した。
するとこの時群衆の中から怒鳴り出した者があった――
「馬鹿なことをぬかしやがれ、この嘘つき坊主めっ! 俺達は嘘つきの玄人だい。汝達に騙くらかされてたまるかい。汝が講釈(こうしゃく)を叩いているキリスト教では、一旦地獄に堕ちた者は永久に救われないと教えているじゃないか。今更悔い改めたところで間に合うものかい! 下らないことをぬかしやがるな!」
すると又他の一人が叫んだ――
「汝はこの辺にいる他の坊主共より看板が一枚上だ。汝の姿は天使みたいだが、こいつぁ俺達からお賽銭を巻き上げる魂胆に相違ない。つい先達も一人の奴が出て来やがって、金子を出しぁ救いの綱がかかるなどとお座なりを並べ、馬鹿者から散々大金を絞り上げておいて姿をくらましやがった。ヤイ汝達の手にはもう乗らないわい・・・」
この男の言っているところは事実には相違なかった。吾輩も実際そんな詐欺師に会ったことがある。が、偽物と本物との区別は吾輩には一目見ればよく判った。ここにあるのは正真正銘の天使に相違ないので、吾輩は群衆の四散するのを待って早速その傍に歩み寄った。
二十四. 新たなる救いの綱(上・下)
●新たなる救いの綱 上
「私にはあなた様が真の天使であらせらるることがよく判ります」と吾輩は言いかけた。「ついてはここから連れ出して頂けますまいか? もうもうウンザリです、こんな境涯は・・・」
「真心からそう思うなら救ってあげぬではないが・・・」
「勿論真心からでございます!」
「それならあなたはここに跪いて神様に祈祷なさるがよかろう。祈祷の文句を忘れているといけないから私が一緒についてあげる・・・」
吾輩は辺りを見回すと、広場にはいつしか又沢山の人だかりなのでちょっときまりが悪かった。が、又思い返して言われるままに地に跪き、天使の後について祈祷を捧げた。
それが済むと天使は叫んだ――
「それでよい。さぁ一緒に出かけましょう。今後他から何と誘惑されても決してそれに惑わされてはいけませんぞ」
我々は急いで市を通過したが、途中で多少の妨害に遭わぬではなかった。我々が街端に来た時である、二人の男が矢庭に前面に立ち塞がって叫んだ――
「これこれ汝達は一体何処へ逃げ出すつもりだ?」
「そなた方の知ったことではない」と天使は凛々たる声で、「そなたはそなた、こちらはこちら・・・」
「ところがそうは行かない」と先方が叫んだ。「それを調べるのが俺達の仕事だ。汝みたいな性質の良くない代物がちょいちょい俺達の仲間を誘拐して困るのだ。汝達の囈言(れご=うわごと)然たる説教にはもうウンザリした。余計な世話は焼かないで、その男を俺達の手に渡してしまえ。そうしないと後悔することが出来るぞ」
吾輩の保護者は片手を高く頭上に差し上げて厳然として叫んだ――
「邪魔すな! 汝呪われたる亡者ども!」
すると二人は精一杯の大声で叫び出した――
「間諜(かんちょう=スパイ)だ――! みんなここへ集まって来い!」
瞬く間に群衆が八方から馳せ集まって威嚇的の態度を執り出した。
が、私の保護者はきっと身構えて、片手を差し上げながら精神を込めて言い放った――
「邪魔すな! 最高の神の御名に於いて去れ!」
そして何の恐れる気色もなくヅカヅカ前進されるので吾輩もその後に続いた。群衆はなだれを打って後ずさった。口だけには強がり文句を並べているが、手出しをする者は一人もいない。強烈なる意思の前には反抗する力は失せてしまうものらしい。
が、いよいよ大丈夫といささか気を緩めた瞬間に、一人の女が群衆の中からいきなり飛び出して来て、吾輩の首玉にしがみついた。見ればそいつは生前吾輩が堕落させた女で、飽くまで吾輩を自分のものにする気らしいのである。さすがの吾輩もこれには大いにへこたれていると、天使が近付いて女の両腕をQdまえて首からもぎ離してくれたので、女は悲鳴を挙げて群衆の裡(うち)へと逃げ込んだ。
入れ代わって今度は最初の二人が吾輩の喉笛へ飛びついて来た。今度は吾輩も大いに勇気を鼓舞してそいつ達を地面に投げつけたが、起き上がって又飛びつく。持てあましているところへ、又も天使の助け船・・・。天使の方では先方の腕に軽くちょっと指で触れるだけであるが、触れられた箇所がたちまち火傷みたいに腫れ上がるのだから堪らない。キーキー叫んで逃げてしまう。
それっきり乱民共は遠く逃げ去って近寄らなくなったので、我々は無事にその場を通過した。間もなく差し掛かったのはだだっ広い田舎道・・・。もっとも田舎道と云ったところで、木もなければ草もなく、花もなければ鳥もいないガラン堂の小砂利原、ただ家がないのが田舎くさいというだけで、田舎らしい気分は少しもなき殺風景極まる地方なのである。暫く其処を辿って行くと、遙かの彼方に星の光のようなものが微かに見え出した。
吾輩がびっくりして訊ねた――
「ありゃどなたか他の天使なのでございますか?」
「そうではない」と天使が答えた。「あれは救済の為に地獄に往来する天使達の休憩所から漏れる光で、我々は今彼処(かしこ)を指して行くのじゃ。暫く彼処で休憩して力をつけておけば、地獄の残る部分が楽に通過されるであろう。彼処が下の境涯と上の境涯との境目なのじゃ」
●新たなる救いの綱 下
次第次第に右の光は強さを加え、自分達の足元がほのぼのと明るくなって来た。辿り行く道は甚だ狭いが、大変によく人の足で踏みならされていた。
「誰がこんなにこの道を踏みつけたのです?」と吾輩が訊いた。
「これは地獄に堕ちている霊魂達を救い出すべく、あちこち往来する天使達が踏みつけたのじゃ。実は地上の暦で数え尽くせぬ永い歳月、天使達は救済の為にここまで降りて来ている。キリストの地上に現れるずっと以前から引き続いての骨折りじゃがな・・・」
「そうしますと死後の世界は耶蘇(やそ)期限の開ける前からこんな組織になっていたのでございますか?」
「そうじゃとも。が、その時分には地獄に堕ちる霊魂の数が現在よりも遙かに多数であった。大体に於いて人間が死ぬる時に無智であればあるほど、その人の精神的方面が発達していない。精神的方面が発達していなければいない程その人の幽界生活は永引き、そして兎角地獄に堕ち易い傾きがある。しかし人類発達の歴史に於いて、智的方面の進歩が、ともすれば精神的方面の進歩を阻害するような場合も起らんではない。そんな際には早晩文化の頽廃(たいはい)を来たす虞がある。
例えばギリシャ、ローマの文明がそれじゃった。あの時代には理性が勝ち過ぎて精神方面の発達がそれに伴わなかった。故にその頃の地獄には神を信ぜず、来世を信ぜざる人間の霊魂が充満していた。その古代文明が没落すると共に、一時文運の進歩は遅れたる観があった。が、しかし西欧の人士はその間に於いて却って精神方面の発達を遂げることが出来た。事によると同様の災厄がもう一度人類を襲うべき必要に迫られているかも知れぬと思う――が、神は飽くまでも慈悲の眼を垂れ玉い、又我々とても霊界から新たなる心霊の光を人心の奥に植えつけるべく努め、あんな災厄の再び降らぬように力を尽くしている。
人類の初期、所謂原始時代にありては、殆ど一切の死者の霊魂の落ち着く先は幽界と地獄とに限っていたものである。それは精神的に発達した者が少なかった為である」
「それは少々不公平ではないでしょうか?」と吾輩が言葉を挟んだ。「無智な者が無智であるのは当然ではないでしょうか?」
「イヤ決して不公平ではない。それはただ大自然の法則の発露に過ぎない。一生の間ただ戦闘その他の残忍な仕事に従事していた者は、死後に於いても長い期間に亙りて同様の行動を執るに決まっている。死んで余程の歳月を経過せねば中々翻然として昨非を悟るというところまで進み得るものではない。
死後の霊魂に取りて最大の誘惑は憑依作用である。よくこの誘惑に堪え得た者は、恐らく幽界生活中に次第に心霊の発達を遂げ、やがて霊界に向かって向上の進路を辿るであろう。ところが原始民族というものは兎角死後人体に憑依したがる傾向が甚だ強い。その当然の結果として地獄に堕ちる」
「そういたしますと、人間は生前の行為によりて裁かれるのですか? それとも又死後の行動によりて行先地を決められるのですか?」
「それは一概にも行かぬであろう。老齢に達してから死ぬ者はその幽体が消耗しているので幽界生活を送るべき余裕がない。従って生前の罪によりて地獄の何処かへ送られる。青年時代若しくは中年時代に死ぬる者は、これに反してその幽体がまだ消耗せずにいるのみならず、同時にその性格も充分発達し切っておらぬ。地上に出現して憑依現象を起すのは多くはこの種の霊魂で、つまりそうすることによりて生前し足りなかった自分の欲望を満足しようとするのである。憑依現象中でこの種のものが一番性質が良くない」
「イヤお蔭様でよく判りました」と吾輩が叫んだ。「私などは酒と色と、それから復讐心との為に、生きている人間の体によく憑依したものですが、最後のヤツが一番罪が深く、そのお蔭で私は地獄のドン底まで堕とされてしまいました・・・」
「全くその通りじゃ―― 一体ある人間の生活状態と、死後その者の犯し易い罪悪との間には中々密接な関係が或る。淫欲の盛んな者が死後に於いて人間に憑依するのは、主にその淫欲の満足を求むる為で、従ってそんな人物は最後に地獄の邪淫境に送られる――おおいつの間にやらもう休憩所へ着いている・・・」
そう言われて見ると、成る程我々の直ぐ面前には質素な、しかし頑丈な一つの建物があった。入り口の扉は極めて狭く、窓はただの一つも付いていない。ただ扉の上にちっぽけな口が開いていて、遠方から我々を導いてくれた光明はつまりそこから放射されていたのであった。
天使がコツコツ扉を叩いて案内を求めると同時に内部から扉が開いて、それからパッと迸(ほとばし)り出づる光の洪水! 天使は吾輩の手を執って引っ張り込んでくれたらしかったが、吾輩は眼がすっかり眩んでしまっているので何が何やら周囲の状況が少しも判らなかった。ただ背後で扉の閉まる音がドシンと響いただけであった。
二十五. 出直し
1914年6月29日の夜、ワード氏は地界から一気呵成に霊界に飛躍し、其処で叔父さんと陸軍士官とに会いました。例によって陸軍士官は地獄巡りの話の続きを始めました――
吾輩はあの休憩所で何をして暮らしていたか、余りはっきりした記憶がありません。何せ光が馬鹿に強いので、其処に居た間殆ど盲人も同様でした。が、そのお蔭で幾らか心の安息を得た。地獄の他の建物と違って、あそこに入っていると妙に平和と希望とが胸に湧き出るのです。
あそこでは又、誰だか知りませんが、ひっきりなしに吾輩に向かって心を慰めるような結構な談話をして力をつけてくれる者があった。お蔭で、すさみ切った吾輩の精神も次第に落ち着いてくると同時に、何とも言えぬ気持のよい讃美歌――従来地獄で聞かされた調子外れのガラクタ音楽とはまるで種類の違った本物の賛美歌が、吾輩の心の塵を洗い落としてくれたのであった。
最後に吾輩を案内してくれた天使がこう言われるのであった――
「あなたの身も心ももう大変回復しかけて来たから、もう一度下の邪淫境に立ち戻って仲間の一人を説得してこちらへ連れて来ねばなりません。そうすればあなたが前年突き放した大事の御方に会われることになる・・・」
この逆戻りが規則であってみれば致し方ない。吾輩は再びあの邪淫の市に下って行ったのであるが、お恥ずかしい話だが、こんなイヤに明るい休憩所に居るよりか、暗い邪淫境の方が当時の吾輩にはよっぽど気持よく感ぜられたのであった。
が、あちらへ行っていざ自分の味方を一人見つけようとしてみると、その困難なるには今更ながら驚かされた。散々捜し回った後で、やっと地獄の生活に嫌気が差して来た一人の女に巡り合った。
「なぜあなたはこんな境涯から逃げ出そうとはなさらないのです?」と吾輩は彼女を口説き始めた。「あなたの様子を見るに確かにここの生活が嫌になっている。ここにはただの一つも真の快感というものがない。いずれも皆空虚な影法師である。いかに淫事に耽ってみたところでそれで何物が得られます?――一時も早くこんな下らない境涯から脱出してもっと気のきいた所へ行こうではありませんか! 吾輩が案内役を務めますから、あなたは後から付いてお出でなさい。道連れがあったらそんなに心細いこともないでしょう」
「でもねぇ、そんなことをして何の役に立ちますの?」と彼女は中々吾輩の言葉に従おうとはしない。「あなたも御存じの通りここは地獄でしょう。地獄の蟲(むし)は永久に死ぬることなく地獄の火は永久に消ゆることなしと言うじゃありませんか。無駄ですから止めましょうよ・・・」
「地獄の火が消えようが消えまいが我々がここから脱出出来ないという方はない・・・」
「でもねぇ、私達は永久に呪われた身の上じゃございませんか。生きている時分に私達は死後の世界のあることを夢にも思わず、地獄のあることなどは尚更存じませんでしたわ。兎角浮世は太く短く・・・。そんなことばかり考えていましたわ。今になってはその間違いがよく判りました。矢張り正しい道を踏んでいればよかったと思われてなりません。死んで全てが消え失せてしまうなら結構でございます。が、中々そうじゃないのですもの・・・。矢張りお説教で聞かされた通り、ちゃんと地獄がこの通り立派にあって、其処へ自分が入れられているのですもの・・・。しかし何も彼ももう駄目です。今更死にたいだって死なれはしません」
「イヤ地獄があることはそりゃ事実に相違ないが」と吾輩躍起となって説いた。「坊さん達の言うように、それが決して永久なものでも何でもない。イヤ地獄そのものは永久に存在するかも知れないが、何人も永久にその中に留まる必要はない。吾輩が何よりの証人です。今こそ吾輩こんな所に来ているが、その以前には地獄のずっと低い境涯へ堕ちていたのです。一旦地獄の底まで降りた者が、ここまで登って来たのだから確かなものです」
「マアそれなら地獄の中にも他に色々変わった所がありますの? 私そんなことちっとも知らなかったわ」
「ある段じゃないです。下にもあれば上にもある。これから大いに上に登って行くのです」
彼女はじっと吾輩を見つめながら、
「どうもあなたの仰ることは事実らしいわ。しかし随分不思議な話ね・・・」
「まあいいから一緒にお出でなさい」
「お伴しましょうか。しくじったところで目先の変わるだけが儲けものだわ。こう毎日同一事ばかり繰り返しているのでは気が滅入ってしようがありゃしない・・・」