十六. 地獄のどん底
我々がいよいよ呪われたる約束の地に落ち着くと同時に、たちまち無数の鬼共が前後左右からバラバラと群がり寄った。

「兎も角もこれで褒美の品にありつけるな・・・」

吾輩が独り笑壺に入ったのはホンの一瞬間、褒美どころか、あべこべに一人の鬼からこんな引導を渡されてしまった――

「汝は悪魔の役割を横取りしやがって、人間をこんな所へ連れて来たが、よく考えてみるがいい。俺達と汝達とは種類が違う。汝達にはそんな事をやるべき権能は少しもない。俺達は人間を憎んでそれを虐めるのが天職だ。汝達は元々人間の部類で、これを憎んだり虐めたりすべき権能を持っていない。汝は単なる利己心から汝の同胞を裏切ったのだ。俺達の仕事とはまるきり畑違いだ。馬鹿にするない。人間がいかに鬼の真似をしたからとて本当の鬼になれてたまるものか! 俺達の天性と汝達の天性とは根本的に違っている――コラ畜生! さっさと自分の仲間の所へすっ込め!」

吾輩は這う這うの体で自分の誘惑して来た亡者共の群に戻ったが、それはホンの一瞬間に過ぎなかった。吾輩の彼等に約束したことがまるきりペテンである事がバレると同時に何れもカッとムカッ腹を立て、総勢一時に武者振りついて吾輩を八つ裂きにしようとした。イヤそれから引き続いて起こった夢魔式の争闘と云ったら全く目も当てられません。一方では鬼の鞭で一同前へ前へと追い立てられる。追われながらも仲間の亡者はズタズタに吾輩の体を引き裂きにかかる・・・。吾輩の体は何回引き裂かれたか知れない。少なくとも何回裂かれたような気持がしたか知れない。その癖死ぬことも出来ず、生きながら死の苦しみを続けるばかり・・・。

漸(ようや)くのことで吾輩はちょっとの隙間を狙って彼等の間から脱け出して死に者狂いに逃げた。すると彼等も死に者狂いになって直ぐ後から追い掛けて来た。

それから何処をどう通過し、何事をどうやったのかは記憶にさえも残っていない。ただ悪夢に襲われた時とそっくりそのまま、前へ前へと疾駆するらしく感ずるばかり・・・。そうする中に又もや急転直下式に下方に向かって墜落し始めた。終いにはジタバタもがく気力もまるきり失せてしまって、勝手放題に下へ下へ下へ下へと、未来永劫届く見込みの無かりそうな奈落に墜ち込んで行ったのであった。

何年間、何十年間その状態を続けたかは判らないが、それでもとうとう吾輩の墜落事業が中止さるべき時期が到着した。吾輩の体は何やら海綿みたいな物体の中に埋没してニッチもサッチも動けなくなって来た。無論それはガッシリした堅い地面ではないが、さりとて又ジクジクする泥田みたいな所でもない。

地球上には先ずそれに類似のものがまるきり見当たらない――もっともそりァその筈で、右の海綿状の物体というのは地獄名物の闇の凝塊なのです。嘘だと思ったら行って御覧なさい。実際それは触覚に感ずる濃厚体ですから・・・。

兎に角この海綿状の黒霧が吾輩の墜落を食い止めたのである。が、それは決して踏んで踏み応えのある代物ではない。前後左右何処もかしこも皆フワフワしていて、頭の上も足の下も堅さに於いて別に相違がない。音もなければ光もなく、一切皆空の、イヤに寂しい、情けない、気持の悪い境地である。絶対の孤立、絶対の無縁――ただ人間の仲間外れになったばかりでなく鬼にさえも見離されてしまった孤独境なのである。

これが運命に逆行して必死の努力を試みた吾輩の最後の幕なのであります。あ~あの時の寂しさ、物凄さ・・・。

十七. 底なし地獄
吾輩にはとても地獄の最下層の惨たらしい寂しさを伝える力量はない。体験以外にその想像は先ず難しそうに思われるから一切余計な文句を並べないことにしますが、しかし吾輩の為にはそれが何よりの薬でした。あんな目に遭わされなければ吾輩はとても本心に立ち返るような根性の所有者ではないのでね・・・。

最初吾輩には何ら後悔の念慮などは起こらなかった。胸に漲(みなぎ)るものはただ絶望、ただ棄鉢(すてばち)・・・。すると忽(たちま)ち自分自身の生前の罪障が形態を作って眼前に浮かび出でて吾輩を嘲(あざけ)り責めるのであった――

「汝呪われたる者よ。眼を開けてよく見ておけ。汝は我々を忘れていた。最早汝には何ら希望の余地もない。汝はその生涯を挙げて悪魔の駆使に任した。人間の皮を被った中の一番の屑でも最早汝を相手にはせぬ。汝を見棄てることの出来ないのは我々のみだ。出来ることなら我々とても汝みたいな者とは離れたいのだが・・・」

一応その場面が済むと今度は入れ代わって闇の場面が現れた。全然寂滅そのもののような暗黒である。叫ぼうと思って口を開けてみても声は出ない。闇が口の中に流れ込んで栓をするような気持である。

「彼等の口は塵芥もて塞がるべし・・・」

胸の何処やらにこの文句の記憶が残っているらしく思われたが、文句の出所を探す気にもなれない。兎に角寂しくて堪らない! 情けなくてしょうがない! たとえ鬼の鞭に打たれながらも、上の境涯の方がどれほど恋しいか知れないと思えたが、それすらもう高嶺の花であった。

とても歯ぶしの立たない絶対の沈黙! 吾輩にはとてもその観念を伝え得る詮術はない。あなた方には上の境涯で八つ裂きの呵責に遭う方がよっぽど辛かろうと思えるかも知れませんが、決して決してそんなものではないです。

こうして幾世紀、幾十世紀かの歳月が荏苒(じんぜん)として経過するように感ぜられた。『永遠の呵責』――あの気味の悪い文句が吾輩の胸の何処かで鳴り響くように思われた。『ここに入りたる者はすべからく一切の希望を棄てよ』――このダンテの文句なども吾輩の耳に響いて来た。

然り一切の希望の放棄! 吾輩はしみじみとその境涯の真味を味わいながら、独り法師で幾世紀、幾十世紀の長い長い歳月を苦しみ抜いたのである。が、最後に、バイブルの中の文句が俄然として吾輩の乾燥した胸に浮かび出た――

「神よ神よ、汝は何故に我を見棄て給えるか?」

吾輩はその瞬間までこの恐るべき文句の真意が判らずにいた。そんな事は頓珍漢な不合理だと思っていた。が、この時初めて電光石火的に、神は全ての人間の苦痛――然り、地獄のドン底に墜ちて居る人間の苦痛をも知って御座るに相違ないと気が付いた。キリストの十字架磔刑の物語などは信ずるも信ぜざるもその人その人の勝手である。しかし神様だけは人間の苦痛の一切を知っておられる――この事のみは吾輩断じてそれが事実である事を保証する。

最初この考えが吾輩の胸に浮かんだ時には格別それを大切な事柄とも思わなかった。が、段々時日が経つにつれてこれには何かの深い意味がこもっている事のように思われて来た。吾輩は考えた――若しも神が人間の苦痛を知って御座るなら、愛の権化である神は人間に対して多少の哀れみを抱かるる筈である。無論神は矢鱈に我々を助ける訳には行くまい。枯れる樹木は枯れねばならぬ。しかし若しも神様が何処かにおいでになる以上、必ず吾輩のことを憐れんでいてくださるに相違ない・・・。

次第次第に新しい感情が吾輩の胸に湧き出して来た――吾輩はどうしてこんなに馬鹿だったのだろう。何故もっと早く後悔して地獄から逃れることに気が付かずにいたのだろう? 後悔しさえすればきっと神から許される・・・。

が、待てよ、地獄というものは永久の場所ではないのかしら・・・。果たして地獄から脱出することが出来るかしら・・・。

吾輩は考えて考えて考え抜いた。挙句の果には何が何やらさっぱり訳が判らなくなってしまったが、しかし何を考えるよりもキリストの事を考えるのが一番愉快なので、吾輩はそればかり考え詰めるようになった。公平に考えて当時の吾輩にはまだ中々純粋たる後悔の念慮などは起こってはいなかった。が、兎も角も自分は余程の馬鹿者で、詰まらなく歳月を空費したものだと感ずるようになっていた。

「イヤ」と吾輩は叫んだ。「吾輩は借金だけは綺麗に返さねばならない。下らぬ愚痴は言わぬことだ。吾輩は生きている時分にもそんな真似はしなかった。今更世迷い言の開業でもあるまい・・・」

そうする中にも、過去に於いて吾輩が他人に施した多少の善事――数は呆れ返る程少ないが、それでもその一つ一つが、他の不快感極まる光景の裡(うち)にチラチラ浮かび出て、吾輩の干乾びた胸に一服の清涼感を投じてくれた。それからもう一つ懐かしかったのは早く死に別れた母の記憶・・・。

「今頃母の霊魂は何処にどうしておられるだろう・・・」

母は吾輩のごく幼い時分に亡くなったが、しかしその面影ははっきり胸に刻まれていた。その母から教えられた祈祷の文句――どういうものか吾輩にはそればかりはさっぱり思い出せなかった。他の事柄は残らず記憶しているくせに、祈祷の文句だけ忘れてしまっているというのは全く不思議な現象で、世間で呪われた者に祈祷が出来ないというのは或いは事実なのかも知れないと思われた。

兎に角自分でも気が付かぬ中に吾輩はいくらかずつ祈祷でもしてみようという気分、少なくとも善い事をしてみようという気分になりかかって来たのであった。

この一事は実に吾輩に取りて方向転換の合図であった。それからどうして地獄を脱出することになったかは、これから順序を追って述べることにします。

吾輩は一先ずこの辺で一服させてもらいます。いよいよ墜ちるところまで墜ち切って、これからは上へ昇る話です。人間に取りて第一の禁物は絶望である。神の御力はどこまでも届く。善人にも悪人にも死ということは絶対に無い。永劫の地獄生活は死に近くはあるが死ではない。心が神に向かえば地獄の底からでも受け合って脱出することが出来る。吾輩が何より良いその証人である・・・。

十八. 向上の第一歩(上・下)
●向上の第一歩 上
これは1914年5月25日に見た霊夢の記事ですが、陸軍士官は相変わらず席に着くなりワード氏にこの物語をして聞かせたのでした――

幾ばくの間吾輩がかの恐ろしい地獄の闇に閉ざされていたかはさっぱり見当が取れませんが、しかし自分にはそれが途方もなく長い年代に跨(またが)るように思われた。が、兎に角最後に吾輩は一の霊感に接した。吾輩の呂律の回らぬ祈祷でも神の御許に達したらしいのです。

「神にすがれ。神より外に汝を救い得るものはない・・・」

そう吾輩に感じられたのである。

が、神に縋(すが)るという事は当時の吾輩に取りて殆ど奇想天外式の感があった。吾輩の一生涯はいかにして神から遠ざかろうか――ただその事ばかりに惨憺(さんたん)たる苦心を重ねたものだ。なんぼかんでもその正反対の仕事をやるのにはあまりに勝手が違い過ぎるように思えて仕方がなかった。

吾輩はとつおいつ思案に暮れた。どうすれば神に近づけるか? どうすれば海綿状の闇の中から脱出出来るか? 自分は既に呪われたる罪人ではないか?

すると最後に新しい考えが又吾輩の胸に閃いた――

「祈祷に限る・・・」

一旦はそう思ったが、しかし矢張り困った問題が起こった。吾輩はさっぱり祈祷の文句を覚えていない。祈祷のやり方さえも忘れてしまった・・・。

散々苦しみ抜いた挙句に、丁度一の霊感みたいに吾輩の口から「おお神よ。我を救え・・・」という一語が吐き出された。

一度言葉が切れてからは後は楽々文句が出た。吾輩は同一文句を何回となく繰り返した。

それから続いてどんな事が起こったか。又どういう具合に地獄のドン底から上方に出抜けることになったか――これを地上の住人に判るように説明することは実に容易でない。何より当惑するのは適当な用語の不足で、地獄の経験を言い表す文句を見出すことは実に至難中の至難事であります。

それはそうと、祈祷の効験は誠に著しいもので、何とも言い知れぬ一種心地良き温味がボーッと体中に行き亘って来た。それが段々強烈になって、最後には少々熱過ぎる位・・・。とうとう体に火がついたようになってしまった。祈れば祈るほど熱くなるので、暫く祈祷を中止したりした。

熱さに続いてはやがて又一の新しい妙な感じに接した。それは吾輩の体の重量が少しずつ軽くなることで、同時に自分は海綿状の闇の中をフワリフワリと上の方へ昇り始めた。あんなお粗末な祈祷でも吾輩の体にこびりついた粗悪分子を少しずつ焼き尽くし、その結果自然に濃厚な闇の裡(うち)には沈んでおれなくなったらしいので・・・。

昇り昇って最後に吾輩は闇を通して黒いツルツルした岩が突き出しているのを認めた。地上とは大分勝手が違うから説明しにくいが、地獄の底は言わば深い闇の湖水で、四方には物凄い絶壁が壁立しているのだと思ってもらえば大体見当がつくであろう。

兎に角吾輩はこの黒光りする岩を認めるや否や、溺るる者は藁一筋にも縋(すが)るの譬(たとえ)に漏れず直ちにそれにしがみつこうとしたが、それが中々難しい。幾度となく足を踏み滑らして尻餅をつくのであった。

祈祷の有り難味はもう充分判っているので、吾輩は再びそれに頼った――

「おお神よ、首尾よくこの闇より逃れるべく御力を貸し給え・・・」

そう述べるより早く吾輩が今まで乗っていた闇の湖水が急に揺す振れ出して、大きな浪が周囲に渦巻き、吾輩を一と呑みにしそうな気配を見せた。が、予想とは反対に、吾輩の体は浪の為に岩の上まで打ち上げられてしまった。吾輩みたいな者でも、芽を吹き出した信仰のお陰で黒く濁った地獄の水に浸っているのには重量が不足になったものらしい・・・。

●向上の第一歩 下
岩の上も随分暗いことは暗いが、しかしもう触覚に感ずる程の闇ではなかった。が、周囲の状況が少しずつ判るにつれて吾輩は返って失望の淵に沈まない訳には行かなかった。吾輩の打ち上げられた岩というのは、千尋の絶壁から丁度卓のようにちょっぴり突き出たもので、いかにその付近を捜して見ても其処から路らしいものはどこにも通じていない。この時も我輩又例の奥の手を出して祈祷を始めることにした。

暫くの間何の音沙汰とてもないのでがっかりしかけていると、吾輩の視力が次第に加わって来たものか、左手の崖に開いている一つの孔(あな)が眼に入った。どうやら片手だけはそれに掛かりそうなので、散々足場を探した後で、やっとのことでその孔に縋(すが)り付くことが出来たが、その孔は案外奥の方が開け、暫くトンネル様の箇所を通って末は狭い谷に出抜けている。

こんな風に述べるとあなた方は地獄はイヤに物質的の所だなと感ぜられるかも知れませんが、しかし我々超物質的の者にとりて超物質的の岩はさながら実体のあるように感じられるのです。そりゃ無論、何処やらに勝手の違ったところはないのではないが、しかしとてもその説明はしかねる。ワードさんはちょいちょい霊界探検に来られるから大体の見当はおつきでしょうが一般の方には事によると腑に落ちないところが多いかも知れません・・・。

それはそうと吾輩は非常な苦心努力を重ねて歩一歩右の谷を上へ上へと登って行った。暫くして崖の中腹の一地点に達すると、其処から馬の背のような岩が崖に沿いて延長しているので、吾輩はその岩の上を辿ることにした。

が、やがてその岩もつきてしまったので、吾輩は再び絶望の淵に沈んだ。これ程までに苦心したとどのつまりは矢張り失敗なのかと思うと、最早立っている根気も失せて一旦はベタベタと地上に崩れた。

そこで色々考えてみたものの結局何の工夫も浮かばない。せうことなしに又祈祷を始めることになったが、余り度々のことで格別の希望をこれに繋ぐ気にもなれなかった。が、不思議なもので、祈祷をやると幾らか精神が引き立って来て、終いにはとうとう又起き上がって出口を探してみる気分になった。

と、俄かに雷のような轟然たる響きが起こって、巨大な岩の塊が崖の壁面から崩れ落ち、それが狭い谷の上に丁度橋を架けたような按配にピタリと座った。橋の彼方がどこへどう通じているかは無論自分の居所からは見えはしないが、こうなったのは確かに自分の祈祷の効き目に相違ないと感じられたので、大骨折でこのギザギザした橋を上り始めた。随分危ない橋で何度か下の隙間に墜落しそうになったが、構わず前進を続けた。

やっとの思いでその頂点まで達してみると、その向こう側の渓谷はごろ石だらけの難所であった。其処を歩くには随分骨が折れ、寸前尺退、いつ果つべしとも思えなかったが、吾輩は歯を食いしばって無理に前進を続けた。この時ばかりは平生の負けず嫌いが初めて役に立った。

が、これが最後の難関であった。出抜けた場所は随分石ころだらけの荒地ではあったが、割合に平坦なので、思わずはっと安心の吐息をついた。吾輩は地獄のどん底から二段目の所まで逆戻りしたのである。しかし吾輩の胸には同時に又新たな心配が起こった――「自分はここで又あの恐ろしい鬼共に追い立てられるのではないかしら・・・。若しそうであるならやり切れないな・・・」

が、いつまで経っても何事も起こらず、又何者も出て来ない。すると又別な恐怖が胸に湧き始めた――「自分は折角地獄の底から出るは出ても、矢張りあのイヤにガランとした無人の境に置き去りを食うのではないのかしら・・・こいつも実に堪らない・・・」

自分は一時途方に暮れた。「吾輩の祈祷が受け容れられたと思ったのはあれは当座の気休めで、神様は皮肉に吾輩をからかっているのではないかしら・・・」

散々煩悶に煩悶を重ねたものの、兎に角闇が幾分薄らいでいることだけは確かなので、この事を思うと幾らか又希望の曙光が煌(きらめ)き出すのであった。

十九. 地獄の第二境(上・下)
●地獄の第二境 上
これは6月1日の夜の霊夢で陸軍士官から聞かされた物語の記録です。例によりて理屈抜きで単刀直入的に自己の体験の続きを述べています。

吾輩は何処を目標ともなしに、ごろ石だらけの荒野をとぼとぼと歩き出した。暫くすると遠方に微かな物音がするので兎も角そちらの方へ足を向けた。すると、直にその物音の正体が判り出した。外でもない、それは鬼の鞭に追い立てられる不幸な者共の叫び声なのである。吾輩はがっかりして足を停めた。今更あの痛い目に遭わされてはやり切れないが、さりとてまるきり仲間無しの孤独生活も堪ったものではない。

「ハテどうも困ったものだな・・・」

頭を悩ましている間もなく、俄かに一群の亡者共が、例の大勢の鬼共に追い立てられて闇の裡(うち)からどっと押し寄せて来たので、吾輩は否応なしにその中に巻き込まれて一散に突っ走らざるを得ないことになった。

暫く駆り立てられてから自分はどうにかしてこの呵責から逃れる工夫はないものかと考え始めた。

見ると吾輩の直ぐ側を走って行く一人の男がある。吾輩はよろめく足を踏みしめながら辛うじて件の男に話しかけた――

「ねえ君、何とかしてここから逃げ出す工夫はないかしら・・・」
「そ・・・そいつが出来れば誠に有り難いが・・・」

すると鬼の一人が早くも聞き咎めた――

「ふざけた事をぬかす奴がいやがるな、この中に・・・覚えていやがれこの畜生!」

一言叫ぶ毎に鬼は我々二人を鞭でビシャビシャ殴った。

殴る、走る。走る、殴る。まるで競馬だ。が、吾輩はそうされながらも四辺に眼を配った。すると路は次第にデコボコになり、向こうの方に高い崖が突き立っている。その崖の所々に隙間があるのを認めた時に吾輩は仲間の男に囁いた。

「あれだあれだ!」

自分達は成るべくそちらの方に近寄るように工夫して走り、いよいよ接近したと見るや矢庭に岩の割れ目の一つに逃げ込もうとしたが、鬼の一人が忽ちそれと感づいて後から追跡して来た。こっちも死に者狂いに走ってみたが、無論鬼には敵わない。忽ちむんずとひっ捕まえられてしまった。

しかし吾輩は怯まず、仲間の男に入れ知恵した。

「神様に祈れ祈れ! 地獄の中でも神様は助けてくれる・・・」

入れ知恵したばかりでなく、自分から早速その手本を示した。

「おお神よ、我を救え!」と吾輩は叫んだ。「キリストの為に我を救え!」

「黙れ!」と鬼が怒鳴った。「神様が何で汝を助けるものか! 神様は正しい事がお好きだ。最初汝の方で神様をはねつけたのだから、今度は神様が汝をはねつける番だ。黙れ! 何をどう祈ったところで聴いてくださるものか! 神様だって忙しいや。汝のような謀反人の無心などを聞いている暇があってたまるものか。無益な仕事はさっさと止して、大人しくこっちへ戻って来い!」

それに続いて、例の恐ろしい鞭が、ピシャリピシャリと我々の体を見舞った。吾輩はそれに構わず一心不乱に祈祷を続けたが、仲間の男はとうとう我慢し切れなくなって、元来た方へ逃げ戻った。大勢の中に混じっておれば、幾らか鬼の鞭を避けられると思ったからで・・・。

その瞬間に吾輩はふと崖の直ぐ下に黒光りのする、イヤに汚らしい池があることに気がついた。吾輩は一瞬の躊躇もなしにその池の中に跳び込んだ。

●地獄の第二境 下
その池の水が何であるにしても、少なくともそれが以前地獄の底で経験した闇の固形体でないことだけは明白で、どちらかと言えばギラの浮いた地上の汚水に一番よく似寄っていた。

吾輩は兎も角もこの池を泳ぎ越そうとした。すると鬼も続いて水の中まで追い掛けて来て、吾輩が少しでも水面に顔を出しかけるとビシャビシャ鞭で打つ・・・。イヤその苦しさと云ったらありません。が、一心に神様を念じながら屈せず前進を続け、首尾よく対岸までこぎつけた。

それから吾輩は絶壁の真下に蹲(うずく)まりて祈願を込めた。と見れば、吾輩の腰の周囲に一條の細い紐がかかっている。なおよく調べて見ると、それは沢山の環を繋ぎ合わせて拵(こしら)えた一本の鎖で、その環というのが、つまり吾輩が生前積み来たれるホンの僅少の善行のしるしなのであった。それまで吾輩はそんなことにはまるきり無頓着でいたが、かくと認めた瞬間にどれだけ吾輩の胸に勇気が湧き出でたか計り知られぬものがあった。

かかる中にも、いつしか接近せる鬼は背後から吾輩をビシャビシャ打った。が吾輩はそんなことには少しも頓着せず、急いで腰の鎖を解いた。鎖は心細いほど細いものだが、しかし長さは予期したよりも遙かに長かった。

吾輩はその鎖の一端をワナに作り、雨のように打ち降ろさるる鬼の鞭を堪えて断崖の面を調べにかかった。間もなく眼に入ったものは壁面からヌッと突き出した岩の一角、しかもその上には狭い一條の畦(うね)がついている。

何回もやり損ねをした後で、とうとうその岩角にワナを引っ掛けることに成功した。そして細い鎖を頼りに、片手代わりに絶壁を登り始めた。

「どうぞこの鎖の切れませぬよう・・・」

吾輩はこの時ばかりは今迄にも増して真剣に祈念を神に捧げたのであるが、不思議なもので鎖は見る見る太くなるように思われた。暫しの間鬼は依然として背後から吾輩を打ち続けたが、やがてその鞭も届かなくなり、最後に辛くも例の壁面の畦まで辿り着いた。が、四辺は真っ暗がりで、何が何やらさっぱり判らず、鎖はと思って後を振り返って見たが、いつしかそれさえ消え失せていた。

暫時はただ絶望の吐息を漏らしていたものの、その中良い考えが少しずつ湧いて来た。つまり役にも立たぬ絶望の非を悟り、兎も角もここまでの救護に対して神に感謝する気持になったのである。

これで気分が幾らか落ち着くと共に、吾輩は再び起き上がってそろりそろりと前進を始めたが、踏み行く路がイヤに狭く、いつ足を踏み外して千尋の絶壁を転がり落つるかと寸刻の油断も出来なかった。

それでも道幅は先へ進むに連れて次第に広くなり、あまり苦労せずとも歩けるようになった。

「イヤ何事も強固な意思の力に限る」と吾輩は早くも得意になりかけた。「強固な意思さえあればどんな仕事でも成功する。大抵の人間なら、これ程の目に遭えばがっかりして匙(さじ)を投げたであろうが、憚(はばか)りながら吾輩はちと品質が違う。どんなものだい・・・」

そう思うと同時にふと爪先を軽石にぶっつけて足を踏み外し、ゴロゴロと絶壁を矢を射る如く転落し始めた。が、あまり遠くも行かない中に岩と岩との亀裂の中に頭部をグイと突き込んだ。

七転八倒の苦しみを閲(けみ)した後、やっとの思いで亀裂から脱け出して元の場所へ辿り着くは着いたが、それからは、幾らか前よりも清浄な気分になり、気をつけながら前進を続けた。その辺の道路はガラガラした焼け石ばかりの箇所もあれば、ギザギザした刃物の刃のような箇所もあり、そうかと思えば割合に平坦な歩き易い箇所もあった。

最後にある一つの洞穴の入り口に出たので吾輩は構わずその中に歩み行ったが、不思議なことには穴の内部の方が却って外部よりも明るい。こいつァ変だと思いながら一つの角を回ってみるとそこに待ち伏せしてた四人の奴が出し抜けに飛び掛って来て吾輩を殴り倒し、縄でグルグル巻きにしてしまった。

その際無論吾輩は全力を挙げて彼等と格闘を試みたのであるが、以前この境涯に居た時とは違って吾輩の力量がめっきり減っていたには驚いた。悪一方の時には地獄で大変幅が利くが、善性が加わるにつれて段々力が弱くなる。その代わり一歩一歩に上の方へ昇って行く。

今回はこれだけにしておきます。これでつまり吾輩はもう一度地獄の第三の境涯まで盛り返したのですが、前回は他人を虐めて大威張りであったに引き換え、今度はアベコベに他人から虐められる破目に陥ったのであります。

イヤ今日はこれで失礼します。これから学校へ行って授業を受けるのですが、学問という奴は馬鹿に難しいので吾輩大弱りです・・・。

二十. 地獄の図書館(上・下)
●地獄の図書館 上
1914年6月8日の夜陸軍士官の口から漏れた地獄の第三境の体験物語ですが、学問研究の美名にかくるる人間界の高尚な魔的行為のいかに憎むべきかが遺憾なく窺われます。これから続く二、三章は現代の読書子に取りてこよなき参考と考えられます。

早速前回の続きを物語ります。

吾輩を捕まえた四人の奴等は盛んに吾輩を殴りましたが、その言い草が振るっている――

「別に汝を殴りたい訳ではないが、こうして見せないと、どちらが強いか判らないからな・・・」

実を言うと吾輩も以前地獄に居た時にはこれと同じようなことをして来たのだ。で、あんまり口惜しいので一旦は一生懸命反抗してみたのであるが、どうも今度は勝手が違ってさっぱり思うように行かない。別に吾輩の意思が弱くなった訳ではないが、ただ悪事を働かそうとする意思がめっきり弱ったので、これでは喧嘩をするのに甚だ不利益に決まっている。しかし吾輩の為にはこれが却って薬なので、地獄で幅が利くような時代にとても救われる見込みはないに決まっている。

随分久しい間吾輩は四人の者から虐め抜かれたものだが、漸(ようや)くのことでちょっとの隙間を見つけて逃げ出した。後から四人が追跡して来たものの、悪事を働く意思の弱くなったと反比例に吾輩の逃げる意思が強くなったお蔭で、難なく彼等を置き去りにすることが出来た。

吾輩はそれから幾週間かに亙りて小石まじりの闇の野原をひた走りに走ったが、その間殆ど人っ子一人にも会わず、万一会った時には努めてこちらで避けて通ることにした。最後に吾輩は一個の大きな建物に突き当たった。段々調べてみるとそれは思いもよらず一の図書館であることが判った。吾輩はこう考えた――

「自分はどうにかしてこの地獄から脱出するつもりだが、それには今の中に出来るだけ地獄の内幕を調査しておいて、やがてそれを地上の学界に報告したいものである。それには図書館とは有り難い。全く注文通りの代物だ・・・」

少々薄気味は悪いが、思い切って建物の内部に入って見ることにした。と、入り口の所で忽ち人相の極度に悪い一人の老人にぶつかった。

「吾輩は図書館の内部を見せて頂きたいので・・・」仕方がないからそう吾輩から切り出した。

「見せてやるよ」と老人が答えた。「利口な者は皆ここへやって来る。一体地獄で有力者になろうと思えば、誰でもここへ来て勉強せんと駄目じゃ。人間界でもその通りじゃが・・・」

「全く御説の通りです――ところでお尋ねしますが、その図書館の蔵書は憎悪一方のものばかりですか? それとも他の科目、例えば愛欲ものなども混じっているのですか?」

「主に憎悪もの、残忍ものばかりじゃが、勿論愛欲ものも少しは混じっている――しかし純粋の愛欲ものを調べようと思えば愛欲の都市の付近に設けている同市専属の図書館に行かにゃならん。お前さんなども其処へ出掛けて行って、も少し勉強したがよかろう。損にはならんぜ・・・」

こんなことを喋りながら自分達は図書館の内部に歩み入ったが、それは途方もなく広大なもので、組織は三部門に分類されていた。即ち――

一、書籍部
二、思想学部
三、思想活動部   である。

書籍部には憎悪、残忍に関する一切の専門書が網羅されていた。例えば宗教裁判の記録、毒殺の手引書、拷問の史実並びに説明書と云ったようなものである。ただ其処に生体解剖等に関する医書が陳列されているので吾輩は不審を起こした。

「一体地獄に持って来る書物とそうでない書物との区別は何で決めるのです?」と吾輩は一冊の医書を抜き出して質問した。「例えばこの生体解剖書ですが、こりゃフランスで出版されたものです。この種の書物は全部地獄へ回されるのですか?」

「イヤそうは限らないよ」と老人が答えた。「地獄に来るのと来ないのとは、その書物の目的並びにそれに伴う影響によりて決まるのじゃよ」

●地獄の図書館 下
老人は鹿爪らしい顔をしてなお諄々(じゅんじゅん)と説明を続けた――

「一体著者の目的が真に社会同胞の安寧幸福を増進せんが為であるならたとえそれが生体解剖の書物であろうがそれは決して地獄には来ない。しかし多くの学者、なかんずく大陸の学者が生物を解剖するのは、解剖の苦痛がいかなる作用を生体に及ぼすかを調べてみたいという極めて不健全な好奇心から出発するのが多い。これは社会同胞に対して何らの公益もなく、又その種の書物の出版は徒(いたづら)に他人に同様の好奇心を促進させることになる。そんなものが地獄の所属となるべきは言うまでもあるまい。それから又、ある一部の科学者のやる実験じゃが、よしやその動機は善良であるにしても、その執るところの手段方法が愚劣を極むる場合が少なくない。そんなものを発表する書物も矢張り地獄の厄介になる。他人に迷惑をかけるだけの代物じゃからな・・・」

「そう致しますと、大概の生体解剖学者連が死んでから落ち着く場所はこの近傍ですな?」

「随分多勢の生体解剖学者がこちらへ来ているよ――が、お前さんが想像する程そんなに沢山でもない。生体解剖学者などという者は大抵は冷血動物に近いが、その中のかなり多数は純然たる学究肌で、少々眼のつけどころが狂っているという位のところである。で、彼等の欠点は暫く幽界で修業している中に大抵除かれるものじゃ。お前さんも知っとるじゃろうが、生前彼等の手にかかって殺された動物は幽界でその復讐をやる。そうすると大概の学者は、これではいかんと初めて眼が覚めて前非を後悔する・・・」

「何ぞ罪障消滅の方法でもありますか?」

「そりゃあるよ・・・。あの動物虐待防止会などという会がちょいちょい人間界に組織されたり何かするのはつまりその結果じゃよ。が、全体あの学問の為にという奴が随分曲者で、どれだけあの為に地獄が繁昌しているか知れたものじゃないな・・・」

「地獄では科学者達をどんな按配に取り扱っています?」

「そりゃ色々じゃよ。解剖学者などはこの図書館から遠くもない一つの病院に勤務している・・・」

「エッ病院・・・」と吾輩びっくりして叫んだ。

「そうじゃよ――もっとも地獄の病院という奴は患者の治療が目的で経営されているのではない。例の神聖な学問の研究が目的でな。イヒヒヒヒ。お前さんも一つ自分で出掛けて行って見物して見るがいい。若し自分の体を解剖されるのがさほど怖くないなら・・・イヒヒヒヒ」

会話はこんなところで一先ず切り上げておいて我々は図書館の第二部に進み入った。ここは色々の思想が悉く絵画の形で表現されているところで、その内容は勿論憎悪・残忍その他に関係しているものばかりであった。例えば人体に苦痛を与える為の精巧無比の器械類但しは霊魂や幽体の攻道具の図解等で、よくもこんな上手い工夫が出来たものだとほとほと感心させられるようなのがあった。

が、一番酷かったのは第三部で、拷問にかけらるる人物の苦悩の順序などが、事細やかに、例の活動写真式に眼前に展開されて行くのであった。

老人がこんなことを吾輩に説明した――

「他人を苦しめようと思えば、どんな方法を用いればどんな苦痛を起こすものかを学理的に知っておくことが必要じゃ。苦痛の原理を知らないでは、こちらに充分の意思が起こらんから従って先方に充分の効果を与え得ない。ここで調べておけば先ずその心配はなくなる・・・」

吾輩が見物した多くの絵画の中に人間の生体解剖の活動写真があったが、いかに何でもそいつは余りに気味が悪くて、とてもここで説明する気分にはなれない。

これ等を見物している中にさすがの吾輩も段々胸持が悪くなって来た。吾輩も随分無情冷酷な男で、時々酷い復讐手段も講じたものだが、しかし苦痛の為の苦痛を与えて快(こころよ)しとする程の残忍性はなかった。矢鱈に他を苦しめて嬉しがる――そんなイタズラは吾輩にも到底為し得ない・・・。