六. 地獄の大都市(上・下)
●地獄の大都市 上
これは三月二十八日午後九時半から現れた陸軍士官の霊界通信で、いよいよこの通信の大眼目たる地獄の第三部、憎悪、残忍、高慢の罪を犯した者の当然入るべき境涯の第一印象をば、例の端的な筆法で報告してあります。ある程度まで時空の支配を受くる幽界の状況とは俄(にわ)かに勝手が違いますからそのおつもりで玩味さるることが必要であります。

前回諸君にお分れした時に吾輩がとうとう地獄に墜ちかけたことを申し上げておきましたが、大体地獄という所は地上界とは多くの点に於いて相違しております――最初吾輩の体は暗い、冷たい、恐ろしい無限の空間を通じてドンドン墜落して行く・・・。最後に何やら地面らしいものにゴツンと衝き当たった。ふと気が付いて見ると其処には道路らしいものがある。兎も角も吾輩はそれに這い上がって、コツコツ進んで行ったが、ツルツル滑って間断なく汚い溝(ドブ)の中に嵌(はま)る。嵌っては這い上がる。這い上がっては又嵌る。四辺は真っ暗闇で何が何やらさっぱり判らない。が、吾輩の体は不思議な引力のようなものに引き摺られ、ある方向を指して無茶苦茶に前進を続ける――最後に吾輩は荒涼たる石ころだらけの野原に出た。

依然として闇の中をば前へ前へと引き摺られる。その間何回躓き、何回倒れたかはとても数え切れない。こんな時には誰でもいいから道連れの一人もあってくれればと頻(しき)りに人間が恋しくてしようがなかった。そうする中に次第次第に眼が闇に慣れて視力が少しずつ回復して来た。行く手を眺めると何やら朦朧と大きな凝塊が見える。暫くするとそれはある巨大なる市街の城壁で見渡す限り・・・。と言って余り遠方までは見えないが、兎に角何処までもズーッと延長した城壁であることが判った。幸い向こうに入り口らしい所がある。近付いて見ると、それは昔のローマの城門めいたものであるので、吾輩構わずその門を潜った。が、その瞬間に気味の悪い叫び声が起こり、同時に二人の醜悪なる面構えの門番らしい奴が、矢庭に吾輩に飛び掛って来た。

ドーせ地獄で出くわす奴なら、片っ端から敵と思えば間違いはあるまいと気が付いたので、吾輩の方でも遠慮はしない。忽ちそちらに振り向いて、生命限り・・・。いや生命は最初から持ち合わせがないから、そう言うのも可笑しいが、兎に角一生懸命になって、先方と格闘しようと決心した。ところが妙なもので、吾輩がその決心を固めると同時に二人の醜悪な化け物は俄然として逃げ出した。これがそもそも吾輩が地獄に就きての最初の教訓に接した端緒であります。地獄には規則も何もない。ただ強い者が弱い者を虐める。そしてその強さは腕力の強さではなくて意思の強さと智恵の強さであるのです。

吾輩は暫くの間何らの妨害にも接せず、先へ先へと進みましたが、モーその時には濃霧を通して種々の建物を認め得るようになりました。段々見ている中にこの市街には何処やら見覚えがあることに気が付いた――外でもない、この市街は古代のローマなのであります。ローマではあるが、しかしローマ以上である。かつてローマに建設されて今は滅びた建物が出現しているばかりでなく、他の都会の建物までがそこへらに出現している。無論それ等の建物は皆残忍な行為と関係のあるものばかりで、それ等の邪気が凝集してこの地獄の大首府が建設されているのであります。同じくローマの建物でも残忍性のない建物はここには現れないで、それぞれ別の境涯に出現している。全て地上に建設さるる一切の都市又は建物の運命は皆こうしたものなのであります。

憎悪性、残忍性の勝っている都市としてはローマの外にヴェニスだのミランだのが数えられる。そして呪われた霊魂達は皆類を以ってそれぞれの都市に吸引される。無論地獄の都市は独り憎悪や残忍の都市のみには限らない。邪淫の都市だの物質欲の都市だのと色々の所が存在しパリやロンドンは主に邪淫の部に出現している。但しこれはホンの大体論で、ロンドンの如きもそれぞれの時代、それぞれの性質に応じて、局部局部が地獄の各方面に散在していることは言うまでもない。

●地獄の大都市 下
立派ではあるがしかし極度に汚い市街を、吾輩は足に任せてうろつき回った。時々吾輩は男や女に出くわしたが、その大部分は地上と格別違った服装もしていない。ただそれがイヤに汚れてビリビリに裂けているだけであった。中には吾輩を見て突撃して来そうにするのもあったが、こちらからグッと睨みつけてやると訳なく逃げてしまった。こんなことを繰り返している中に、吾輩ふと考え付いた――

「今まで俺は人から攻撃されてばかりいるが今度は一つアベコベに逆襲して家来の一人もこしらえ、道案内でもさせてやろうかしら。ドーせ自分は厭でも諾でもここに住まわなければならんのだから・・・」

そこで吾輩はイキナリ一人の男に跳びかかった。先方はびっくり仰天、キャーッ! と悲鳴を上げて逃げ出したが、吾輩は例の地獄の奥の手を出し、ドーしても後戻りをするように念力を込めた。先方は飽くまで抵抗はしてみたものの、力及ばず、づるりづるりと次第にこちらへ引き寄せられて来た。いよいよ手元に接近した時に吾輩は自分の権威を見せる為に、ギューと地面にそいつの頭を擦り付けさせ、散々油を搾った上で、起きて道案内をしろと厳命した。奴さんオロオロ声を出して愚痴りながら、吾輩の命のままに所々方々の建物を案内して歩いた。

やがて家来が恐る恐る吾輩に訊いた。
「ここで昔のローマ武士の大試合がございますが御覧になられますか?」

「ふむ、入ってみよう」

早速昔の大劇場(コロシアム)と思わしき建物に入ってみると、座席は見物人で充満であった。そこで吾輩は忽ち一人の男の首筋を掴んで座席の外におッぽり出した。その次の座席には醜悪な容貌の女が座っていたので、こいつもついでに放り出してやった。我々二人は大威張りで其処へ座り込んだ。

試合は丁度始まったばかりであった。見ると自分達の反対側には立派な玉座が設けられてある。

「あそこが陛下の御座所でございます」と吾輩の家来がビクビクしながら小声で囁いた。

「ナニ陛下・・・。一体それはどこの馬の骨か?」

「よくは存じませぬが、兎に角あの方が皇帝で、この近傍を支配しておられます」

「そうすると地獄には他にもまだ皇帝があるのか?」

「そうでございます。王だの大将だのも沢山ございます」

「そんなに沢山あっては喧嘩をするだろうナ?」

「喧嘩・・・。旦那様は妙なことをお訊ねになられますナ。一体何時何処からお出でなされましたか?」

「そりァ又何故かナ?」

「でも旦那様、地獄に喧嘩は付きものでございます。ここは憎悪と残忍との本場でございます。我々は間断なくお互いに喧嘩ばかり致します。地方と地方とは鎬(しのぎ)を削り、皇帝と皇帝とはのべつ戦端を交えます。現に私共は近頃付近の一地方を征服しました。で、今日はその戦勝のお祝いに捕虜達を引き出して試合をさせるのでございます――あッ戦士達の出場でございます」

やがて試合が始まりましたが、流石の吾輩も臍(ほぞ)の緒切って初めてこんな気味の悪い見世物を見物しました。昔の試合に付きものの残忍さがあるだけで、昔の武士道的の華やかさは微塵も無く、ただ野獣性の赤裸々の発露に過ぎない。

又試合は単に男子と男子との間に限らず、男子と女子との試合もあれば、甚だしきは大人と子供の試合さえもあった。そしてありとあらゆる苦痛を与え、哀れな犠牲者達はヒイヒイキイキイ声を限りに泣き叫ぶのである。大体の光景は地上で見るのと大差はないが、ただ何時まで経っても死ぬということがないから、従って苦痛も長い。ノベツ幕なしに何時までもやり続ける――現在の吾輩はこんなことを書いたり読んだりするだけでも胸が悪くなりますが、当時はまるでその正反対で、極度に吾輩の残忍性、野獣性を挑発し、何とも言えぬ快感を与えたのでした。これは決して吾輩ばかりでなく、全ての見物人が皆そうなので、地獄の主権者がかかる見世物を興行する理由もその点に存在するのです――今日はこれで中止しますが、次回にはモ少し詳しく申し上げます・・・」

七. 地獄の芝居(上・中・下)
●地獄の芝居 上
三月三十日のはいつもの自動書記式通信ではなく、ワード氏の方から霊界の叔父さんを訪れ、その室で陸軍士官と直接面会してこの物語を聞かされたのでした。ワード氏は前にも透視法で陸軍士官と会っているのですが、相変わらずこの日もいかにも意思の強そうな、いかつい顔をしていたそうで、ただ以前に比べれば憎々しい邪気が余程減っていたということであります。

陸軍士官の話しぶりは例によってテキハキと、短刀直入的に前回の続きを物語っております――

さて御前試合もいよいよ千秋楽となって、観客がゾロゾロ退散するので、吾輩も家来を連れて演武場を出たのであるが、わざと城門の付近に陣取って所謂皇帝の退出するところを見物することにした。間もなく皇帝の馬車が現れたが、その周囲は大変な人だかりだ。そして意外にも丸裸の男女が沢山その中に混じっているのである!

吾輩は家来に訊いた――

「イヤに素っ裸の霊魂がいるではないか! 死んだ者は皆衣服を着ている筈だのに・・・」

「これが皇帝陛下のお道楽でございます。こうして多くの家来達を無理に裸にさせて、嬉しがっておられるのでございます」

「しかし幾ら裸にされたところで、幽霊同志では余り面白い関係も出来まいが・・・」

「御説の通りでございます。旦那様もモーすっかりお存知でございましょうが、肉体の無い者には肉体の快楽ばかりは求められはしません。真似事ならいくらでも出来ますが、それではまるきり影法師と影法師との相撲のようなもので面白くも可笑しくもございません。情欲だけは依然として燃えながら、それを満足せしむる体が無いのでございますから全くやり切れはいたしません」

そう言っている中に、大きな猟犬が幾匹となく側を走り過ぎたので吾輩は驚いた。

「地獄にも動物が居るのかね? 妙なものだナ・・・」

「ナニこれは本物の動物ではございません。皇帝の思し召しで、人間の霊魂が仮に動物の姿を取らされましたので、裸にされたり、又は子供の姿にされたりするのと何の相違もございません。皇帝は実に素晴らしい力量のあるお方で、我々を御自分の好きな姿に変形させ、甚だしきは家具や什器の形までも勝手に変えて面白がっておられます」

やがて皇帝の行列が自分達の前面を通過しましたが、イヤその騒々しさと、惨酷さと、又淫猥さと来た日にはまるきりお話にならない。そして行列の前後左右には間断なく悲鳴が聞こえる。これは種々雑多の刑罰法が時とすればお供の者に加えられたり、又時とすれば見物人に加えられたりするからである。なかんずく人騒がせの大将は例の猟犬で、ひっきりなしに行列中の男女に噛み付いたり、又見物人を皇帝の前に交えて来たりする。

皇帝はと見ると、大威張りで戦車に納まり返っているが、その面上には罪悪の皺が深く深く刻まれて、本来の目鼻立ちがとても見分けられぬ位、正に残忍性と驕慢性との好標本であった。が、生前はこれで中々の好男子ではなかったかと思われる節も何処やらに認められるのであった。

「一体彼は何者かナ? ローマのネロではあるまいナ」

「いいえ旦那様」と吾輩の家来が答えた。「私はあの方の名前を忘れてしまいましたが、ネロでないことだけはよく存じております。ネロはあの方の家来でございます。あの方に比べるとネロなどは屁ッぽこの弱虫です。幾度となく皇帝に反旗を翻しましたが、その都度いつも見事に叩き潰されてしまいます。けれどもネロも中々狡猾な男で、いつも監視者の隙を狙って逃げ出しては一騒動を起こします。そして捕まる毎に皇帝から極度に惨たらしい刑罰を受けます。イヤ、ネロ虐めは皇帝の一番お気に召した娯楽の一つでございます」

「そりァそうと貴様は皇帝が生前何という名前の人間であったか、きッと知っているだろうが・・・」

「イヤ私は全く忘れてしまいましたので・・・」

「この嘘つき野郎! なんでそれを忘れる筈があるものか! 真直ぐに白状せい!」

「白状するにもせぬにも全く存じませんので・・・」

「それならよし。俺がきっと白状させて見せる」

吾輩は例の地獄の筆法で、極度に恐ろしい刑罰法を案出し、一心不乱にそれを念じたから堪らない。家来の奴は七転八倒の苦しみ・・・。それこそ本当の地獄の苦しみを始めた。

が、いくら虐めても知らないものは矢張り知らないので、最後には吾輩もとうとうくたびれて家来虐めを中止し、それなら何処ぞ面白い場所へ案内せいと命じた。

「それでは旦那様劇場へ御案内いたしましょう」

とやっと涙を拭いて答えた。

「ふむ劇場・・・。それもよかろうが、一体ここではどんな芝居をやっているかナ?」

「そりァ素敵に面白いものでございます。地上で有名な惨劇は大抵地獄の舞台にかけられます。そして成るべく生前その惨劇に関係のある当人を役者に使って、地上で行なった通りを演じさせます」

「人殺しの芝居ばかりでなく、少しは陽気な材料、例えば若い男女の愛欲と云ったようなものは演じないのかナ?」

「景物にはそんな材料もございますが、御承知の通りここは人を憎むことと人を虐めることが専門の都市でございます。従ってここで演じる脚本の主題となるのは皆その種のもので、邪淫境へ参りませんと色情が主題となったものはありません――もっとも色情と残忍行為とは親類筋でございますから、ここの芝居を御覧になっても中々艶っぽいところも出て来る幕がございます」

「地獄にも新脚本が現れるかナ?」

「あまり沢山も現れません。しかも皆地上で演ぜられたものの焼き直しが多いのであります。もっとも地上には本物の惨劇が毎日演ぜられますから、こちらで材料の払底する心配は少しもございません」

「して見ると真の創作は地獄から出ることは無さそうだナ?」

「一つも無いように考えられます。地獄物は悉(ことごと)く輸入物か焼き直し物ばかりでございます」

●地獄の芝居 中
やがて我々は一大劇場の正面に出た。途中かなりの距離を歩いて来たが、その辺で見かけるどの建物も大抵皆近代式のものばかり、なかんずく劇場などときてはまるきり近頃のものだった。そのくせ汚れ切っていて、手入れなどはさっぱり出来てはしなかった。

が、見物人の多いことと云ったら全く凄まじい程で、押すな押すなの大盛況――我々は暫く群衆と一緒になって、門の内部まで入って見たが、其処は殆ど修羅の巷で、大概の観客はお互いに喧嘩をしている。ヤレ押したとか、押されたとか。ヤレ滑ったとか転んだとか。めいめい何とか勝手な文句を並べて騒いでいる。殊に切符売り場の騒動ときては尚更酷いもので売り手と買い手とがひっきりなしに罵り合っている。

いつまでもこんな騒動の渦中に巻き込まれていたのではとてもやり切れないので、吾輩は満腔(まんこう)の念力を込めて、四辺の群衆の抗議などには一切頓着なしに、家来の手を引っ張りながら、グイと真一文字に切符売り場へと突進した。家来の奴も吾輩の保護の下に大威張りで、道すがら幾人かを突き飛ばし、殊に一人の婦人の頭髪をひッ掴んで地面に投げ倒したりした。しかし鬼のような群衆は別にその女を可哀相とも思わず、倒れている体の上をめいめい足で踏み躙(にじ)った。

それから吾輩は家来と共に直ちに観覧席に突入して行ったが、ここでも又観客の大部分が罵り合ったり、叩き合ったり、乱痴気騒ぎ――自分達の直ぐ隣席の男女なども決して御多分に洩れず大立ち回りの最中であった。これが裏店社会の出身というのなら聞こえているが、この二人は元は確かに上流社会の者であったらしく、身に付けている衣服などは、汚れて裂けてはいるものの中々金のかかった贅沢品であった。それでいて大びらに喧嘩をやらかすのだから全く以って世話はない。そのうち男の方が女よりも強烈な意思の所有者であったらしく、とうとう女を椅子と椅子との中間に叩き伏せてしまった。そして自分の椅子をわざわざ引き摺って来て、女の体を足の踏み台にして、ドッカとそれに座り込み、女が起き上がろうとすると、上からドシンドシンと靴で踏みつけた。

やがて彼は自分達を認めると、手真似で前を通れと知らせ、且つこう付け加えた――

「構いませんから、上を踏んで行ってください。こんな餓鬼は敷物代用にしてやると、いくらか功徳になります」

そう言ってゴツンと靴で女の顎の辺を強く蹴たぐったのであった。

我々は言われるままに女の体の上を踏んで、内側の空席に赴いたが、その体は人間同様血もあれば肉もありそうな踏み心地で、しかも女は生きている時と同様に悶えながら泣き叫ぶのであった。無論女の方では生きている時にこんな目に遭わされている場合と全く同じな苦痛を感ずることには変わりはないのであるが、ただ足で踏まれるから痛いというよりも、足で踏まうとする意思の為に痛いのであった。

我々の次の座席には二人の婦人が座っていた。昔はこれでも綺麗な女であったのかも知れないが、何せ、彼等の面上に漲る悪魔式な残忍性の為に今では醜悪極まる鬼女と化していた。吾輩は感心して、二人の顔をジロジロ見比べていると、自分に近い方のが――後で聞くとそれはローズというのであったが、吾輩に向かって済ましてこんなことを言った――

「ちょいとあんたは私の顔ばかり見ていらっしゃるじゃないの・・・。そんなに私がお気に召して?」

「フン」と吾輩は呆れ返って叫んだ。「お前のような者でもいつか綺麗なことがあったのかも知れないが、今では随分憎らしい面つきをしているネ――イヤしかし地獄へ来て余り贅沢も言われまい。まァ我慢してやるから大人しく俺の言うことを聞け! ついでにそっちの女も一緒に来ないか。両方とも俺の妾にしてやる・・・」

「まァ随分勝手だわネ、この人は・・・。他人に相談もしないでさ! 誰があんたのような者と一緒になってたまるものかね、馬鹿馬鹿しい・・・」

吾輩はイキナリ彼女の両手を鷲掴みにした。

「これ、すべた! 顔を地面に擦り付けて謝れ!」

一瞬の間彼女は抵抗しようとしたが、勿論それは出来ない相談で、忽ち呻きながら吾輩の足下に泣き崩れ、顔を地面に擦り付けたのであった。

「これで懲りたら、」と吾輩が言った。「元の席に戻っていい。しかし今日から俺の奴隷になるのだぞ!」

続いて吾輩は他の一人に呼びかけた――

「きさまの名前は何と言うか?」

「ヴァイオレットでございます」

「鬼みたいな奴のくせに、イヤに可愛らしい名前をくっつけていやがるナ。兎に角俺の方が鬼として一枚役者が上だ。愚図愚図言わずに、早く降参する方がきさまの幸せだろう。ローズ同様地面に顔を擦り付けて謝れ!」

「は・・・はい」

吾輩の手並みが判ったとみえてこいつは不平一つ言わずに吾輩の命令を遵奉(じゅんぽう)した。

●地獄の芝居 下
暫く下らぬことを喋り合っている中に漸く芝居の幕が開いた。芝居の筋が発展するにつれて、観客の喧嘩口論が次第に鎮まって行った。

吾輩はここに地獄の芝居の筋書きを細かに紹介しようとは思わない。ざっと掻い摘んで言うと、ありとあらゆる種類の罪悪やら痴情やらが事細やかに我々の眼前に演出された後で、とど残忍極まる拷問の場面が開けるという趣向なのである。

すると、それまで大人しく見物していた吾輩の家来が、この時急に声を潜めて言った――

「御主人、ここえらで早く逃げ出した方が得策でございます。この芝居の終わりになると、拷問係がきッと観客を舞台に引っ張り出して、酷い目に遭わせますから・・・」

そう言ったか言わない中に、舞台の拷問係が一歩前に進み出でて我輩の家来を指差しながら叫んだ――

「コラッ奴! ここへ出い!」

家来は満面に恐怖の色を浮かべてガタガタ震えながら立ち上がったが、我にもあらず座席を離れ、舞台の方へと引き摺られ始めた。

吾輩はこれを見て大いに癪に障った。いかに虫けら同然の者でも家来は矢張り家来に相違ない。それを断りなしに引っ張り出されては主人公の面目にかかわる。吾輩は猛然として席を蹴って立ち上がった。

「ヤイ!」と吾輩は舞台に向かって叫んだ。「こいつは吾輩の家来ではないか! ふざけた真似をしやがると承知しないぞ!」

期せずして興奮の低い呻きが全劇場に響き渡り、観客一同固唾を呑んだ。
拷問係ははッたとばかり吾輩を睨み付けた。

「こらッ新参者! 新参者でもなければそんな口幅ったいことは言わない筈じゃ。イヤ貴様のような奴にはそろそろ地獄の苦い懲戒を嘗めさせる必要がある。さッさとこの舞台へ出掛けて来て身共と尋常の勝負を致せ!」

「何をぬかしやがる! 勝負をするならこっちへ来い!」

双方掛け合いの台詞が宜しくあって、忽ち猛烈なる意思と意思との戦端が我々の間に開始された。吾輩の長所は意思が飽くまで強固で、負けじ魂が突っ張っていることである。そればかりが吾輩の唯一の武器である。舞台から放射される磁力は実に強大を極めたが、吾輩は首尾よくそれに抵抗したばかりか、アベコベに敵を自分の手元に引き寄せにかかった。やや暫くの間勝負は五分五分の姿であったが、俄かに観客の間からドッと喝采が起こった。吾輩の敵が一歩ヨロヨロとこちらへよろめいたのである。しかし敵もさるもの、次の瞬間に再び後方に跳び退ると同時に、今度は吾輩の足元が危なくなった。吾輩の体は覚えず五、六寸前方へ弾き出された。観客は又もやドッと囃(はや)し立てる・・・。一時はヒヤリとさせられたが、即座に陣容を立て直し、一世一代の力量を絞ってグッと睨み詰めると、とうとう敵の隊形が再び崩れ出した。

「エーッ!」

一つ気合をかけるごとに敵の体はズルリズルリと舞台の端まで引き摺られて来た。其処で先方はモ一度死に者狂いの抵抗を試みたが、最後に敵は物凄い一声の悲鳴を挙げると共に、舞台下の囃子場(はやしば)の中に落ち込んだ。囃子連中はびっくりして四方へ散乱する。同時に歓呼喝采の声が観客の間からドッと破裂する。

それから先はいよいよこっちのもので、敵は起き上がって、一歩一歩に吾輩の座席を指して、器械人形宜しくの態で一直線に這い寄って来る。

意気地の無いこと夥(おびただ)しいが、それでも観客は気味を悪がって右に避け左に逃げる。

とうとう敵は吾輩の面前に来て跪いた。

暫くして吾輩が言った――

「舞台に戻って宜しい。吾輩も舞台に出るのだ」

もうこうなっては相手は至極大人しいもので、すごすご舞台へ引き上げると、吾輩も直ぐその後から身軽に舞台へ跳び上がった。

「こいつを拷問にかけるのだ!」

吾輩は彼の配下の獄卒共に向かってそう号令をかけた。で、獄卒共はせうことなしに今までの親分に向かって極度の拷問を施すことになったのであるが、イヤ観客の嬉しがり様は一通りや二通りのことでなく、手を叩く、足踏みをする、怒鳴る、口笛を吹く。流石の大劇場も潰れるかと疑わるるばかりであった。

散々虐め抜いた後で吾輩が舞台から降りかけると、忽ち観客の間から大きな声で叫ぶ者があった――

「君は皇帝に就くべしだ! 大至急現在の暴君に反旗を翻すがいい。我々大いに力を添える!」

これを聞いて吾輩もちょっと悪い気持ちはしなかったが、しかしあの強烈な意思の所有者と即座に戦端を開くということには躊躇せざるを得なかった。何しろ吾輩はまだ地獄へ来たばかりでさっぱりこの事情が判らないから、うっかりした真似は出来ないと考えたのであったが、同時に戦端開始はただ時期の問題であることを痛感せずにおられなかった。どうせ今日劇場で起こったことがいつまでも皇帝の耳に入らずにいる筈がない。耳に入るが最後、あんな抜け目のない人物が自家防衛策を講ぜずにぼんやりしている筈がない。

そこで吾輩が叫んだ――

「まァお待ちなさい。吾輩には地獄の主権者になろうという野心は毛頭無い。先方から攻勢を取らない限り、吾輩は飽くまで陛下の忠良なる臣民である」

そう言うとあちこちからクスクス嘲り笑う声が聞こえ、中には無遠慮に囁く奴があった――

「あいつ臆病だ! 恐がっていやがる」

「黙れ! けだもの」と吾輩は叫んだ。「もう一度批評がましいことを吐くが最後、貴様達の想像し得ない程の拷問にかけてやるぞ!」

「馬鹿を言え!」と見物席の一人が喚いた。

「俺達には皇帝がついていらァ。貴様達の手に負えるかッ!」

その瞬間に吾輩はそいつを舞台に引っ張り出して、獄卒共に命じて生きながら体の皮を剥がせた。

――イヤ皮を剥ぐなどと言えばいかにも物質くさい感じがしましょうが、外に適当な文句が無いから困るのです。観客の眼には皮を剥ぐように見え、当人も皮を剥がれるように感ずるのです。無論霊界の者に肉体は無いに決まっていますが、有っても無くても結果は同一なのです。

思う存分やるだけの仕事をやった後で吾輩は二人の婦人と家来とを引具して劇場を出た。

「何処かに手頃の家屋はあるまいかナ?」とやがて吾輩は家来に訊ねた。

「さァ無いこともございません。とりあえずそこの家屋はいかがでございましょう? あれには有名なイタリアの人殺しが住んで居ります。この方が古風なローマ式の別荘よりも却って便利かも知れません」

「ふむ、これでよかろう」

我々は早速玄関の扉を叩くと、一人の下僕が現れて吾輩に打ってかかって来たが、そんな者は見る間に地面に投げ飛ばした。

「こいつの顔を踏み躙(にじ)ってやれ!」

吾輩が号令をかけるとローズは大喜びでその通りをやった。それから大理石の汚れた階段をかけ上って大広間に入ってみると、そこには多数の婦女共に取り巻かれて主人が座っていた。吾輩はイキナリ跳びかかって、そいつを窓から放り出し、家も什器も婦女も下僕もそっくりそのまま巻き上げて自分の所有にしてやった。

先ず今晩の話はこれ位にして置きましょうかナ・・・。

八. 皇帝に謁見
四月六日の霊夢の記事で、前回に引き続いての陸軍士官の物語であります――

吾輩は地獄で遭遇した一切の出来事を詳しく述べ立てる必要はないと考える。兎に角吾輩が着々と自分の周囲に帰依者の団体を作ることに全力を挙げたと思ってもらえば結構です。無論吾輩の命令は絶対で、又彼等もよくそれに服従した。が、吾輩は成るべく部下の自由を拘束せず、勝手に市内を歩き回って、勝手に人虐めをやるに任せておいた。その結果、以前強盗や海賊であった者、手に負えぬ無頼漢であった者などがゾロゾロ吾輩の旗下に馳せ参ずることになった。吾輩の勢力はみるみる旭日昇天の勢いで拡張して行ったが、最後にのっぴきならぬ事件が出来した。外でもない、皇帝から即刻出頭せよとの召喚状を受け取ったことである。

吾輩はその時何の躊躇もなく、一隊の部下を引き具して直ちに宮城に出掛けて行った。

我々が謁見室と称する、華麗な、しかし汚れ切っている大広間に入ると同時に、かねて待ち構えていた皇帝は玉座から立ち上がった。玉座は一の高見座で、その前面に半円形の階段が付いているのである。その時彼は満面にさも親切らしい微笑を湛(たた)え、吾輩を歓迎するような風をしたが、勿論腹の底に満々たる猜疑心を包蔵していることは一目で判った。

ここいらが地獄という不思議な境地の一番不思議な点で、一生懸命お互いに騙しっくらを試みる。そのくせお互いの腹は判り過ぎる程判り切っているのである。騙せないと知りつつ騙しにかかるというのが実に滑稽であると同時に又気の知れないところなのである。

皇帝はおもむろに言葉を切った――

「愛する友よ、御身が地獄に来てからまだ幾ばくも経たないのに、早くもかばかりの大勢力を張ったとは実に見上げたものである」

吾輩は恭しく頭を下げた――

「全く陛下の仰せられる通りでございます。この上とも一層勢力を張るつもりでござる・・・」

「皇位までもと思うであろうがナ・・・。しかし、予め注意を与えておくが、それは決して容易の業ではない。恐らく永久にそんな機会は巡って来ぬであろう――イヤ両雄相争うは決して策の得たるものではない。お互いに手と手を握り合って、余が現在支配する領土の上に更に大なる領土を付け加えることにしようではないか? 他日若し止むことを得ずんばアントニイとオクタヴィアスとの如く、一開戦を試みて主権の所在を決めることも面白かろう。しかし現在のところでは、かの賢明なる二英雄と同じく、互いに兵力を併せて付近の王侯共を征服することに力を尽くそうではないか?―― つきては余は御身を大将軍に任ずるであろう。さすれば御身はかのダントンと称する成り上がりの愚物を征服して先ず御身の地歩を築くがよい。彼ダントンは前年大部隊を引き連れて地獄に降り、当城市から遠からぬ一地域を強襲して小王国を築き上げた。地獄ではその地方を「革命のパリ」と呼んでいる・・・」

吾輩は一見してこの人物の腹の底を洞察してしまった。彼は吾輩と公然干戈(かんか=戦争)を交えることの危険を知っていると同時に、又吾輩が独立して彼の城市内に居住することの剣呑なことも痛切に感じているのである。

そこで右に述べたような計略を以って一時彼の領土の中心から吾輩を遠ざけようとしているのであるが、その結果は次の三つの中の一つになるのに決まっている。即ち吾輩が戦争に負けてダントンの捕虜になるか、戦争が五分五分に終わって共倒れになるか、それとも吾輩がダントンを叩き潰してその王位を奪うか――何れにしても彼の為には損にはならない。最後の場合は単に一つの敵を他の敵と交換するだけに止まるように見えるが、吾輩が交戦の為に疲弊するというのが彼の眼の付けどころなのである。

吾輩はこの計画がよく見え透いてはいたが、表面にはこれに同意を表しておくのが好都合に思えた。吾輩の方でも公然皇帝と戦端を開くことは危なくて仕方がない。万一戦闘に負けた日にはそれこそ眼も当てられない。これに反してダントンとの勝負にかけては充分の自信があった。一旦ダントンを撃破してその兵力を吾輩の兵力に付け加えた上で、一点して皇帝を攻めることにすれば、現在よりも勝てる見込みは余程多い。

咄嗟に腹を決めて吾輩は答えた。

「陛下の寛大なる御申し出は早速お引き受け致します」

「おおよく承諾してくれて嬉しく思う。以後御身は余の股肱(ここう)の大将軍である」

皇帝は直ちに大饗宴を催し、部下の重立ちたる者をこれに招いたが、吾輩がその正賓であったことは云うまでもない。

やがて運び出された御馳走を見ると実に善つくし美つくし、ありとあらゆる山海の珍味が堆(うずたか)く盛り上げられてあったが、いよいよそれを食う段になると空っぽの影だけである。食欲だけは燃ゆるようにそそられながら、実際少しも腹に入らない地獄の御馳走ほど皮肉極まるものはない。

しかし哀れなる来賓は、皇帝御下賜(ごかし)の御馳走だというので、さも満足しているかの如き風をしてナイフやフォークを働かせて見せねばならない。実に滑稽とも空々しいとも言いようがない。流石に皇帝は苦々しい微笑を浮かべてただ黙って控えている。吾輩とてもこの茶番の仲間入りだけは御免を蒙って、ただ他の奴共の為すところを見物するに止めた。

御馳走ばかりでなく、地獄の仕事は皆空虚なる真似事である。饗宴中には音楽隊がしきりに楽器をひねくったが、調子は少しも合っていない。ギイギイピイピイ、その騒々しさと云ったらない。しかし聴衆はさもそれに感心したらしい風を装って見せねばならない。

饗宴が終わってから武士共が現れて勝負を上覧に供した。暫く男子連がやってから、入れ代わって婦人の戦士達が現れ、男子も三舎を避ける程の獰猛な立ち回りをやって見せた。

吾輩はこの大饗宴に付属した色々の娯楽をここで一々紹介しようとは思わない。そんなことをしたところで何の役にも立ちはしない。ただ何れも極度に惨酷であり、又極度に卑猥であったと思ってもらえばそれで結構である。

九. ダントン征伐(上・下)
●ダントン征伐 上
さて皇帝の饗宴が終わると共に吾輩は部下の数人に命じて義勇軍募集の宣言書を発布させましたか、地獄という所はこんな仕事をやるには実に誂(あつら)え向きの場所で、これに応じて東西南北から馳せ参ずる者は雲霞の如く、忽ちにして幾千人に上りました。吾輩は直ちにこれが隊伍を整え、市街を通じて旅次行軍を開始したのであります。

途中からも風を望んで参加する者が引きも切らず、瞬く間に又幾千人かを加えた。漸くにして到着したのは郊外の荒野原――通例地獄の大都会の付近にはそんな野原がつきものなのです。ここで吾輩はお手の物の陸軍式にすっかり各部隊の編成を終わりましたが、集まったのは真に文字通りの烏合の衆で、あらゆる時代、あらゆる国土の人間がウジャウジャと寄って集った混成部隊・・・。

古代ローマの武士もいれば、中世の十字軍や野武士もいる。一方には支那の海賊、他方には英国の冒険家、トルコ人、アラビア人、ブルガリア人、その他各国のならず者、暴れ者・・・。こんな手合いが極度の興奮状態に於いて血に渇いて喚声を張り上げるのは結構でしたが、時々仲間同志の喧嘩をおッ始めるには手を焼きました。

大骨折りで吾輩は全軍の整理を終わった。編成法はここに詳しく申し上げる必要もないと思うが、要するに成るべく同種類のものを以って一部隊を編成する方針を執り、その結果、中世の騎士軍、古代ローマの戦士軍、又海賊軍、トルコ軍と云ったようなものが沢山出来上がった。その各々が有為の将校によりて指揮されているのであるからその戦闘力は中々以って侮れない。一番の欠点を言えばそれが全然訓練の不行届な点であったが、その欠点は吾輩の任命した将校の圧倒的意思の力で補われた。又吾輩自身も間断なく発生する反逆者の抑圧に忙殺され通しであった。

兎も角も吾輩の意思が御承知の通り飛び離れて強固であるので、この烏合の大軍団・・・。左様総数二十五万余人に上る大軍の統率を完遂することが出来たのであります。

さて、いよいよ前進となりましたが、イヤその途中の乱暴狼藉さ加減ときたら全く天下一品、いかなる家屋でも乱入せざるはなく、いかなる住宅でも略奪せざるはない。但し地獄の略奪振りには一の特色がある。奪うことは奪っても、直ぐに飽きが来て、奪うより早く棄てて顧みない。

ダントンの領土に接近した時に吾輩は直ちに偵察隊を派遣して敵状を探らせた。間もなく味方は敵の数人を捕えて戻って来た。

見ればそれ等の捕虜というのは皆フランス革命時代の服装をしている者ばかりでした。吾輩は彼等の手から色々の有利な材料を得た。無論彼等は言を左右に托して吾輩を欺こうと試みたが、霊界では心に思っていることを隠せないから、そんなことをしても何の役にも立たなかった。

彼等が地上に住んで居たのはフランス革命時代で、ある者はダントンの味方であり、又ある者はその敵であったが、何れにしても彼等には共通の一つの道楽があった。外でもない、それはギロチンを愛用することであった。但しギロチンの本来の目的は出来るだけ迅速に、そして出来るだけ安楽に人間を殺すことであるのだが、それでは甚だ興味が薄いというので、地獄に於けるギロチン使用法にはちょっと新工夫が加えられていた。

無論地獄ではいかにやりたくても人を死刑に処することだけは出来ない。地獄で出来るのは成るべく多大の苦痛を与えることだけである。で、彼等は犠牲者をギロチンの台に載せるに際し、頭部の代わりに足を正面に持って来る仕掛けにしてある。ギロチンの刃は上下に動いて足から先にブツリブツリと全身を刺身のように切り刻んで行く。切られれば、地上に於いて感ずると同様の苦痛だけは感ずるが、切れ切れの部分は直ちに又癒着して行くから、繰り返し繰り返し死の苦痛を感ずるだけで、死ぬるということは絶対にない――イヤ諸君、人間というものは何て判りの悪いものでしょう。生きている時には馬鹿に死を怖れるが、実を言うと死は寧ろ人間の敵ではなくて味方なのである。死の伴わざる永久の苦痛! 吾輩は地獄へ来てから、モ一度死にたいと何遍祈願したか知れはしません。

それはそうと吾輩は敵状の報告に基づいて作戦計画を立て、いよいよ敵地に突入した。自らも手当たり次第に攻略を試み、敵地の人民などは散々虐めた上で奴隷となし、家屋の如きも悉く破壊することにした。ただ一つ困るのは霊界の家屋の非実質的なことで、我々がその付近に居る間こそこちらの思う通りに壊れているが、他の地点に前進してみるとそれ等の建物は何時の間にやらニョキニョキと元の通りに起立している!

既に我々自身が一の形に過ぎない。それと同様に、建物も又一の形であるから、こればかりは破壊し得ない。こちらの意思がその所有者の意思よりも強固であれば家屋の形は一時消滅するように見えるが、破壊しようという意思が消滅すると同時に家屋は忽ち原形に復してしまう。要するに霊界は意思の世界、想念の世界で、物質抜きの形だけの所だと思えば宜しい――イヤしかしこんなことはあなた方ももう叔父さんから聞かされて百も御承知でありましょう。

●ダントン征伐 下
さていよいよ戦争の話でありますが、――我々が敵地に乱入すると同時に敵の軍隊も又向こうの山丘に沿いて集合した。ざっと地理の説明をやると、皇帝の領土と敵の領土との中間には一の展開した平原がある。余り広いものでもないが、それが二大勢力間の一つの障壁たるには充分で、恐らくダントンの強烈なる意思の力で創り出した代物かも知れません。もっともその地帯の幅はいくら、長さはいくらということはちょっと述べにくい。霊界にも物質界の所謂空間と云ったようなものが存在せぬからです――が、兎に角それは相当に広いもので、二つの大軍が複雑極まる展開運動を行なうには差し支えない。地質は想像も及ばぬほど磽かく(こうかく=小石などが多く、地味がやせた土地。また、そのようなさま)で、真っ黒に焼け焦げ、ザクザクした灰が一杯積もっている。

山は二筋ある。ダントンは向こうの山を占領し、我々は手前の山を占領して相対峙した。空は、地獄では何時でもそうだが、どんよりと黒ずんで空気は霧のかかったように濃厚であるが、こんな暗黒裡にありてもお互いの模様はよく見える。

味方の重砲は三個の主力に分かれた―― ナニ地獄の戦にも大砲を使用するかと仰るのですか―― 無論ですとも! 人間が間断なく発明しつつある一切の殺人機械が地獄に行かずに何処へ行きましょう? 半信仰の境涯だとて、まさか大砲を置く余地はありません。兵器という兵器はその一切が地獄のものです。ところで、ここに甚だ面白い現象は、地上に居る時に、小銃その他近代式の兵器を使用したことのない者は霊界へ来てからまるきりそれを使用することが出来ないことです。地獄の兵器は単に形です。従って兵器が敵に加える損害は精神的のものであって、ただその感じが肉体の苦痛にそっくりなだけです。

で、地上に居た時、一度も小銃の傷の痛みを経験したことのない人間には殆どその痛みの見当が取れません。従って他人に対してその痛みを加えることも出来なければ、又他人によりてその痛みを加えられる虞(おそれ)もない。生きている時分に小銃弾の与える苦痛を幾らか聴かされていた者には多少の効き目はあるとしても、真に激しい痛みを自らも感じ、又他人にも感じさせるのには、是非とも生前に於いて実地にその種の痛みを経験した者に限ります。

同一理由で、地獄に於いてもっとも凶悪なる加害者は、地上に於いて惨めな被害者であった者に限ります。若し彼が誰かに対して強い怨恨を抱いて死んだとすれば、自分の受けたと同一苦痛をその加害者に報いることが出来るからです。かの催眠術などというものも、つまりその応用で、術者自身が砂糖を舐めて、被害者に甘い感じを与えたり何かします。なかんずく神経系統の苦痛であるとこの筆法で加えることも、又除くことも出来ます――が、地上に於いてはその効力に制限があります。それは物質が邪魔をするからです。しかし、モちと研究の上練習を積めば催眠療法も現在よりは余程上手い仕事が出来ましょう。ついでにここに注意しておきますが、この想念の力なるものは他人を益するが為にも、又他人を害するが為にもどちらにも活用されます。昔の魔術などというものは主としてこの原則に基づいたもので、例えば蝋人形の眼球へ針を打ち込むということは、単に魔術者が相手の眼球へ念力を集中する為の手段です。そうすると蝋人形に与えた通りの苦痛が先方の身に起こるのです。

ですから、こんなことをやるのには、無論相手の精神――少なくともその神経系統をかく乱しておいて仕事にかかる方が容易であるが、しかし稀には先天的に異常に強烈な意思の所有者があるもので、そんな人は直接物質の上に影響を与える力量を有しています。最高点に達すれば無論精神の力は物質を圧倒します。地球上ではそんな場合は滅多にないが、霊界ではそれがザラに起こります。

兎に角右の次第で、地獄の軍隊は生前自分の使い慣れた兵器を使用します。大砲や小銃をまるきり知らない者にはそんな兵器はまるで無用の長物です。

ところで、ここに一つ可笑しな現象は、地獄に大砲はあっても馬がないことです。馬は動物なので各々霊魂を持っている。大砲その他の無生物とは違って単に形のみではない。従って矢鱈に地獄にはやって来ない。

但し馬の不足はある程度まで人間の霊魂を臨時に馬の形に変形させることによりて除くことが出来た。無論これは吾輩が皇帝の故智を学んで行なった仕事で、敵のダントンが其処へ気が付かなかったのはどれだけ味方に有利であったか知れなかった。一体人間の霊魂をたとえ一時的にもせよ、その原形を失わしめるということは中々容易な仕業ではない。何人も馬や犬の姿に変えられることを大変嫌がる。何やら自分の個性が滅びるように心細く感ずるらしい・・・。事によるとダントンには、人の嫌がる仕事を無理にやらせるだけの強大なる意思力がなかったのかも知れません。

十. 地獄の戦
間もなく戦争は真剣に開始された。この戦争の烈しさに比べると、今まで観せられた御前試合などはまるで児戯に近いもので、何しろ地獄の住民というのは生前ただ戦闘ばかりを渡世にしていた連中なのでありますから、従ってそのやりっぷりが猛烈である。が、外面的には地獄の戦争も地上の戦争も余りかけ離れたものでもない。地獄の武器や軍装が目茶目茶に不統一であるのがちょっと目立つ位のもので・・・。

兎に角ダントンは中々の曲者で余程巧妙な戦法を講じた。古代の甲冑に身を固めた味方の騎士隊の突撃に対して、彼が密集部隊を編成し、その大部分に大鎌を持たせたところなどは敵ながらも上手いものであった。古代の騎士は大砲だの小銃だのの味を知らない。従ってそんな近代式の兵器は彼等に対して殆ど効能がない。早くもそれを看破して鎌という、騎兵にとっての大苦手を持ち出したなどは、返す返すも機敏というべきものであった。

無論敵にも砲兵隊の備えはあったが、しかしそれはフランス革命時代の旧式極まるもので、味方の新鋭の兵器にはとても及ばなかった。もっとも味方が烏合の衆であるのに反して、敵が飽くまで団結力と統制力とに富んでいたのは、ある程度まで兵器の欠陥を補うには余りあった。

詳しくこんなことを述べれば際限もないが、地獄の戦況などは格別の興味もあるまいと思うからただその結果だけを報告するに止めます。味方は敵よりも人数が多く、又大体に於いて獰猛でもあった。ですから長い間の戦闘――殆ど幾年にも亙るべく見えた悪戦苦闘の後で、吾輩はとうとう敵の左翼を駆逐することに成功し、やがてその全軍をば山と山との中間の低地に追い詰めて三方から挟撃する事になった。敵は全然壊滅状態に陥り、莫大な人数が捕虜になった――吾輩が早速右の捕虜を馬に変形させて、部下の馬になった者と更迭させたなどは、全然地上の戦争に於いては見られない奇観でした。

それから味方はダントンの領土内に侵入して略奪のあらん限りを尽くした――うっかり言い落としましたが、ダントンの軍隊の少なからざる部分は婦人であって、そいつ達は男子よりも寧ろ味方を悩ました。従ってそいつ達が勝ち誇った我が軍の捕虜になった時に、いかに酷い目に遭わされたか――こいつは言わぬが花でありましょう。その外敵地の一般住民に対する大虐待、大陵辱――そんなことも諸君の想像にお任せすると致しましょう。

ただここに不思議なことは、地上に於いて略奪を逞(たくま)しうすることが、一種の快感と満足とを伴うのに反し、地獄に於いては全然それが伴わないことです。地獄の略奪はただの真似事・・・。言わば略奪の影法師であります。いくら奪い取ってもその物品は何の役にも立たないものばかり、例えば奪った酒を飲んでみても、さっぱり幽霊の腸(はらわた)には浸みません。夢で御馳走を食べるよりも一層詰まらない。夢ならまだいくらか肉体との交渉があるが、地獄の住民にはまるきり肉体との縁もゆかりもないのです。

地獄で現実に感ずるのはただ苦痛だけ、快楽はまるでない。これが地獄の鉄則なのだから致し方がありません。

無論戦勝後吾輩は直ちに王位に就くことは就いた――が、驚いたことにはダントンの以前の部下は大部分何処かへ消えてしまった。何故消えたのか、その当座は頓と訳が判らなかったが、後で段々調べてみると、ダントンの没落が彼等をして一種の無情を感ぜしめ、こんな下らぬ生活よりはもう少し意義ある生活を送りたいとの念願を起こすに至った結果、向上の道が自然に開かれたのでした。詰まり神はかかる罪悪の闇の中にも善の芽生えを育まれたのであります。

この辺で私の物語は暫く一段落つけることにしましょう。丁度ワード氏が地上へ戻るべき時間も迫ったようですから・・・。