四章の「ジョン少年との対話」に出てくる〝霊〟と〝幽霊〟はどう違うかと言う質問は、シルバーバーチも〝なかなかいい質問ですよ〟と言っているように西洋ではとかく誤解されがちな問題であるが、現下の日本の神霊事情を見てもその誤解ないしは認識不足によってとんでもない概念が広がっているので、ここでシルバーバーチの答えを敷延する形で解説を施しておきたい。
誤解には二通りある。〝霊〟を〝幽霊〟と思っている場合と、〝幽霊〟を〝霊〟と思っている場合である。日本人は何かにつけてそうであるが、霊についても極めて曖昧な概念を抱いている。次に紹介する話はそれを典型的にしめしているように思う。
私も時たま墓地の清掃に行くが、同じ墓園には殆ど毎日墓参する人がいる。先祖は家の根であり、根を培わずして子孫の繁栄は無いと言う信仰から供養を欠かさないのだと言う話を聞かされたことがあるが、その後また一緒になった時にその信仰をほじくってやろうと言う悪戯心から「やはり霊と言うのが存在していて、どこかに霊の世界と言うのがあるのでしょうね」と聞いてみた。すると案の定言下にこう言い放った。
「何をおっしゃるんです。人間この肉体が滅びたらもうおしまいですよ。私はその霊を供養しているだけですよ」
一体その霊とは何であろう。何かしら得体のしれない、実態のないものを漠然と思い浮かべているらしいのであるが、そんなものを供養してそれが子孫の繁栄になぜ繋がるのか・・・そんな理屈っぽいことはみじんも考えないところが、いかにも日本人らしいのである。
が、先日のテレビで〝心霊相談〟にのっている〝自称霊能者(女性)〟が古い先祖霊の供養に言及して「霊の中には一千年でも生きている場合がありますから」云々と述べているのを聞いて私は自分の耳を疑った。どの程度の霊能があるかは知らないが、今紹介した平凡人ならまだしも、心霊相談にのる為にテレビに出るほどの専門家(プロ)がこの程度の理解しかしていないことに私は唖然とした。
この自称霊能者にとっては相も変わらず肉体が実在であって、霊は一種の〝名残り〟のようなものとしてどこかにふわっと残っていて、やがて消滅していくものらしいのである。そしてたぶん、大方の日本人が大体そんな風に漠然とした認識しか抱いていないのではなかろうか。
では一体霊とは何なのか・・・これはシルバーバーチが繰り返し説いていることなので、ここで改めて私から説くことは控えたい。ただ一言だけ述べておきたいのは、知識を持つことと、それを実感を持って認識することとの間にはかなりの距離があると言うことである。霊には実態があるのです。
と言われてもそれをなるほどと実感するには、その知識を片時も忘れずに念頭において生活しながら、その実生活の中で霊的意識を高めていくほかはない。その内、ふとしたこと、…大自然の驚異を見たり何でもない日常の出来事を体験して・・・あ、そうか、と言う悟りを得るようになる。
それが本当に分ったと言うことであろう。シルバーバーチが単純素朴な真理を繰り返し繰り返し説くのも、そうした霊的意識の深まりを期待しているからであることを銘記して頂きたい。
次に〝幽霊〟を〝霊〟と勘違いしている場合であるが、これはシルバーバーチの答の通りであるが、それに付け加えて言えば、いわゆる心霊写真の大半がその類だと言うことである。
その説明に先だって認識して措いて頂きたいのは、人間の想念と言うものはその人の人相と同じ形体を取る傾向があると言うことである。次の例からそれを理解して頂きたい。
私の家によく来て頂いている僧侶・・・非常に霊感の鋭い方である・・・が仏壇の前で何時ものようにお経をあげている最中に、その僧侶には珍しく途中で詰まってお経が乱れ、ややあってからどうにか普通の調子に戻った事があった。
終わってその僧侶に私が、今読経している最中にかくかくしかじかの人相の人が目の前に現れたと言って、その人相を説明した。さらにおっしゃるには、その霊は死者の霊ではなく、まだ生きている人だと言う。いわゆる生霊である。「何か怨みか、嫉妬でも買う様なことをされましたか」と僧侶が私に聞いた。
私はすぐにぴんときた。確かに思い当たる人がいて、私に嫉妬心を抱いてもやむを得ない事情があった。そのせいか、家族中でなんとなく不調を訴えることが多かったが、その僧侶の処置ですっかり良くなった。
恩師の間部詮敦氏は「念は生き物です」と言うセリフをよく口にされ、従って自分から出た念は必ず自分に戻って来るから、何時も良い念を出すように心掛けなさい。と言う論法で説教しておられた。
私がここでそれを付け加えて言いたいのは、その念はその人の人相、時には姿恰好までそっくりの形体を取る傾向があると言うことである。これは謎の一つで、なぜだか分らない。
よく肉親や知人が枕元に立った夢を見て目を覚まし、後で分ってみると、ちょうどその人が死亡した時と一致したと言う話が語られる。この場合すぐに、その死者の霊が自分の死を知らせに来たのだとか別れを言いに来たのだと解釈され、それが如何にもドラマチックなのでそう思いがちであるが、実際問題として、よほどの霊覚者でない限り、死んですぐに意識的に自分で姿を見せるような芸当のできる者はいない。
これには二つのケースが考えられる。一つはその死者の背後霊が本人を装って姿を見せた場合で、これは意外に多いようである。もう一つはその死者の念が最も親和性の強い人のところへ届き、それがその人の姿かたちを取った場合で、私はこのケ-スが遥かに多いと見ている。
心霊写真の中で生気が感じられないものは大半が浮遊している念が感応したか、又は地上に残された幽質の殻が当人の念の働きを受けて感応したかである。勿論実際にその場に居合わせた霊・・・大抵は自分でこしらえた磁場から脱け出られなくてその辺りをうろついている、いわゆる自縛霊であるが・・・が、親和力の作用で近づいたのがたまたま霊能のある人の写真に写ったと言う場合もあることはあるのであろう。
反対に生気はつらつとして、まるで地上人間と変わらない様な雰囲気で写っている場合は、霊界の写真技術師の指示を受けてエクトプラズムをまとって出た場合であり、A・Rウォーレスの『心霊と進化』にはその詳しい説明が出ている。
幽霊話に出てくるのは大抵地上に残した殻・・・セミの抜け殻と全く同じと思えばよい・・・が何かのはずみで動き出した場合で、不気味ではあっても少しも恐ろしいものではない。
よく怪談ものを映画や芝居で演じる場合に奇怪な出来事が相次ぎ、話が話だけにいやがうえにも恐怖心に煽られるが、それを、例えば四谷怪談であればお岩の亡霊がやっていると考えるのは間違いで、単なるいたずら霊の仕業、西洋で言うポルスターガイドに過ぎない。スタッフの中に霊格の高い人がいたらそう言う奇怪な現象は起こらない。その人の守護霊が悪戯霊を抑えてしまうからである。
こうした解説を施しながら私は何時も、スピリチュアリズム的霊魂観の普及の必要性を痛感せずにはいられない。