第7章 難しい質問に答える
「今夜は招待客がいらっしゃらないようですので、一つこの機会に、皆さんが普段持てあましておられる疑問点をお聞きすることにしましょう。やさしい問題はお断りです。今夜に限って難問を所望しましょう」
やさしい真理を平易に説くことをモットーとしているシルバーバーチが、ある日の交霊会の開会と同時にこう切り出した。早速次々と質問が出されたが、その中から興味深いものをいくつか紹介してみよう。
最初の質問は最近ある霊媒による交霊会が失敗した話を持ち出して、その原因について質した。するとシルバーバーチは・・・
「それは霊媒としては修業不足、見知らぬ人を招待して交霊会を開くだけの力がまだ十分に具わっていない段階で行ったためです。あの霊媒は潜在意識に未だ十分な受容性が具わっておりません。霊媒自身の考えが出しゃばろうとするのを抑えきれないのです。支配霊が居ても肝心のコントロールがうまく行っておりません。
支配霊が霊媒をコントロールすることによって行う現象>(霊言ならびに自動書記通信)においては、よほど熟練している場合は別として、その通信には大なり小なり霊媒自身の考えが付着しているものと考えて宜しい。そうしないと通信が一言も出なくなります」
(この後に続く問答とともに、これは、今後ますます霊的な事が受け入れられていくことが予想される日本において極めて大切な警告と受け止めるべきである。
専属の支配霊にしてその程度なのである。ましてや、呼ばれてすぐに出てくる霊がそう簡単にしゃべったり書いたりできるものではないのである。すぐに身元を明かす霊は徹底的に疑ってかかるべきである。疑われて腹を立てるような霊は相手にしない方がいい。それが霊を見分ける一つの尺度である)
・・・潜在意識の影響を全く受けない通信は有り得ないと言うことでしょうか。
「その通りです」
・・・全てが脚色されていると言うことでしょうか。
「どうしてもそうなります。いかなる形式を取ろうと、霊界との交信は生身の人間を使用しなくてはならないからです。人間を道具としている以上は、それを通過する際に大なり小なり着色されます。人間である以上その人間的性質を完全に無くすることは出来ないからです」
・・・神が完全なる存在であるならば、なぜもっとよい通信手段を用意してくれないのでしょうか。
「本日は難しい問題をお受けしますと申し上げたら本当に難しい質問をして下さいましたね。結構です。さて私達が使用する用語にはそれをどう定義するかという問題があることをまず知って頂かねばなりません。
おっしゃる通り神は完全です。つまりあなたの内部に種子として存在する神は完全性を具えていると言うことです。ですが、それは必ずしも物質形態を通して完全な形で表現されてはいません。だからこそ無限の時間をかけて絶え間ない進化の過程を経なければならないのです。
進化とは内部に存在する完全性と言う黄金の輝きを発揮させる為に不純物と言う不完全性を除去し磨いていくことです。その進化の過程においてあなたが手にされる霊的啓示は、あなたが到達した段階(霊格)に相応しいものでしかありません。
万一あなたの霊格よりずっと進んだものを先取りされても、それは所詮あなたの理解を超えたものですから、何の意味も無いことになります」
・・・では人間がさらに進化すれば機械的な通信手段が発明されるかもしれないわけですか。
「その問題についての私の持論は既にご承知の筈です。私はいかなる機械が発明されても霊媒を抜きにしては完全とはなり得ないと申し上げております。そもそも何の為にこうして霊界から通信を送るかと言う、その動機を理解していただかねばなりません。
それは何よりもまず〝愛〟に発しているのです。肉親、知人、友人といったかつて地上で知りあった人から送られてくるものであろうと、私のように人類の為を思う先輩霊からのものであろうと、霊的メッセージを送ると言う行為を動機づけているものは愛なのです。
愛こそが全てのカギです。例え完全でなくても、何らかの交信がある方が何も無いよりは大切です。なぜなら、それが愛の発現の場を提供することになるからです。しかしそれを機械によって行うとなると、どう工夫したところで、その愛の要素が除去されることになります。いきいきとした愛の温もりのある通信は得られず、ただの電話の様なものになります」
・・・電話でも温かみや愛が通じ合えるのではないでしょうか。
「電話器を通して得られるかもしれませんが、電話器そのものには温かみはありません」
・・・大切なのはそれを通して得られるものではないでしょうか。
「この場合は違います。大切なのは霊媒と言う〝電話器〟とメッセージを受ける人間に及ぼす影響です。それに関る人全部の霊性を鼓舞することに意図があります」
・・・霊媒を含めてですか。
「そうです。なぜなら最終的には何時の日か人類も霊と霊とが自然な形で直接交信できるまで霊性が発達します。それを機械を使って代用させようとすることは進化の意図に反することです。進化はあくまで霊性の発達を通してなされなければなりません。霊格を高めることによって神性を最高に発揮するのが目的です」
・・・と言うことは、最高の(死後存続の)証拠を得たいと思えば霊性の発達した霊媒を養成しなければならないと言うことでしょうか。
「私は今、〝証拠〟の問題を念頭に置いて話しているのではありません。人類の発達と言うことを念頭に置いて話しているのです。人類は螺旋状のサイクルを画きながら発達するように計画させておりその中に一つの段階において次の段階の為に霊性を身につけ、その積み重ねが延々と続けられるのです。お分かりでしょうか」
・・・はい、分ります。
「最高の成果を得る為には顕幽両界の間にお互いに引き合うものが無ければなりません。その最高のものが愛の力なのです。両界の間の障害が取り除かれて行きつつある理由は、その愛と愛との呼びかけがあるからです」
・・・霊媒の仕事が金銭的になりすぎるとうまくいかないのはその為でしょうか。
「その通りです。霊媒は止むにやまれぬ献身的精神に燃えなければなりません。その願望そのものが霊格を高めていくのです。それが何より大切です。なぜなら、人類が絶え間なく霊性を高めていかなかったら、結果は恐ろしいことになるからです。
霊がメッセージを携えて地上に戻って来るそもそもの目的は人類の霊性を鼓舞するためであり、潜在する霊的才能を開発して霊的存在としての目的を成就させるためです」
・・・他界した肉親が地上へ戻って来る、例えば父親が息子のもとに戻ってくる場合、その根本にあるのは戻りたいと言う一念でしょうか。それとも今おっしゃった目的で霊媒を通じてメッセージを送りたいからでしょうか。
「戻りたいと言う一念からです。ですが一体なぜ戻りたいと思うのでしょう。その願望は愛に根ざしています。父親には息子への愛があり、息子には父親への愛があります。その愛があればこそ父親はあらゆる障害を克服して戻って来るのです。
困難を克服して愛の力を証明し、愛は死を超えて存続していることを示すことによって息子は、父親の他界と言う不幸を通じて魂が目を覚まし、霊的自我を見出します。かくして、単なる慰めのつもりで始まったことが霊的発達のスタートと言う形で終わることになります」
・・・なるほどそう言うことですか。言い換えれば神は進化の計画のためにありとあらゆる体験を活用すると言うことですね。
「人生の究極の目的は、地上の死後も、霊性を開発することにあります。物質界に誕生するのもその為です。その目的に適った地上生活を送れば霊はしかるべき発展を遂げ、次の生活の場に正しく適応できる霊性を身につけた時点で、死を迎えます。
その様に計画されているのです。こちらへ来てからもおなじ過程が続き、その都度霊性が開発され、その都度古い身体から脱皮して霊妙さを増し、内部に宿る霊の潜在的な完全さに近づいてまいります」
・・・人間の身体を見てもその人の送っている邪悪な生活が反映している人をよく見かけます。
「当然そうなります。心の思うがままがその人となります。その人の為すことがその人の本性に反映します。死後のいかなる界層においても同じことです。身体は精神の召使いでは無かったでしょうか。初めは精神によってこしらえられたのでは無かったでしょうか」
・・・霊界の視点からすれば心で犯す罪は行為で犯す罪と同じでしょうか。
「それは一概にはお答えできません。霊界の視点から、とおっしゃるのは進化した霊の目から見てという意味でしょうか」
・・・そうです。ある一つの考えを抱いた時、それは実行に移ったのと同じ罪悪性を持つのでしょうか。
「とても難しい問題です。何か具体的な例をあげて頂かないと、一般論としてお答えできる性質のものではありません」
・・・例えば誰かを殺してやりたいと思った時です。
「それはその動機が問題です。いかなる問題を考察するに際しても、真っ先に考慮すべきことは、それは霊にとっていかなる影響を持つか、と言うことです。ですから、この際も〝殺したいと言う考えを抱くに至った動機ないしは魂胆は何か〟と言うことです。
さてこの問題には当人の気質が大きく関わっております。と申しますのは、人をやっつけてやりたいと思っても手を出すのは怖いと言う人がいます。本当に実行するまでには至らない・・・いわば憶病なのです。心ではそう思っても、実際の行為には至らないというタイプです。
そこで、殺してやりたいと心で思ったら実際に殺したのと同じかと言うご質問ですが、勿論それは違います。実際に殺せばその霊を肉体から離してしまうことになりますが、心に抱いただけではそう言うことにならないからです。その視点からすれば、心に思うことと実際の行為とは罪悪性が異なります。
しかし精神的次元でとらえた場合、嫉妬心、貪欲、恨み、憎しみと言った邪念は身体的行為よりも大きな影響を及ぼします。思い切り人をぶん殴ることによって相手に与える身体的な痛みよりも、その行為に至らせた邪念が当人の霊と精神に及ぼす悪影響の方がはるかに強烈です。このように、この種の問題は事情によって答えが異なります」
・・・誰かを殺してやりたいと思うだけなら、実際の殺人行為ほどの罪悪ではないとおっしゃいました。でも、その念を抱いた当人にとっては殺人行為以上の実害がある場合があり得ませんか。
「あり得ます。これも又、場合によりけりです。その邪念の強さが問題になるからです。忘れないで頂きたいのは、根本に置いて支配しているのは因果律だと言うことです。
地上における身体的行為が結果を生むのと同じように、精神的及び霊的次元に置いてそれなりの結果を生むように仕組まれた自然の摂理のことです。邪念を抱いた人が自分の精神又は霊に及ぼしている影響は、あなた方には見えません」
・・・誰かを、あるいは何かを憎むと言うことは許されることでしょうか。あなたは誰かをあるいは何かを憎むと言うことがありますか。
「あとのご質問は答えが簡単です。私は誰も憎みません。憎むことが出来ないのです。何故なら私は神の子の全てに神性を認めるからです。そしてその神性が全く発揮できずにいる人を見て、何時も気の毒に思うからです。ですが、許せない制度や強欲に対しては憎しみを抱くことはあります。
残虐行為を見て怒りを覚えることはあります。強欲、悪意、権勢欲などが生み出すものに対して怒りを覚えます。それに伴って、様々な思いあまり褒められない想念を抱くことはあります。でも忘れないでください。私もまだきわめて人間味を具えた存在です。誰に対しても絶対に人間的感情を抱かないと言うところまでは進化しておりません」
・・・いけないと知りつつも感情的になることがありますか。
「ありますとも」
・・・別のメンバーが憎むと言うことは別の問題で、これは恐ろしい行為です。と言うと先のメンバーが、人を平気で不幸にする邪悪な人間がいますが、私はそういう人間にはどうしても憎しみを抱きます。と言う。するとシルバーバーチが―
「私は憎しみを抱くことは出来ません。摂理を知っているからです。神は絶対にごまかせないことを知っているからです。誰が何をしようと、その代償はそちらにいる間か、こちらへ来てから支払わせられます。いかなる行為、いかなる言葉、いかなる思念も、それが生み出す結果に対してその人が責任を負うことになっており、絶対に免れることはできません。ですから、いかにみすぼらしくても、いやしくても、神の衣をまとっている同胞を憎むということは私には出来ません。ですが、不正行為そのものは憎みます」
・・・でも実業界には腹黒い人間は沢山います。
「でしたらその人達のことを哀れんであげることです」
・・・私はそこまで立派になれません。私は憎みます。
別のメンバーが〝私はそれほどの体験はないのですが、動物の虐待を見ると腹が立ちます〟と言うとシルバーバーチが・・・・・・
「そういう行為を平気でする人は自らの進化の低さの犠牲者であり、道を見失える哀れな盲目者なのです。悲しむべきことです」
先のメンバーが〝そういう連中の大半は高い知性と頭脳の持ち主です。才能のない人間を食い物にしています。それで私は憎むのです〟と言う。(この人は腹黒い実業家を念頭に於いて述べている―訳者)
「そういう人は必ず罰を受けるのです。いつかは自分で自分を罰する時が来るのです。あなたと私との違いは、あなたは物質の目で眺め、私は霊の目で眺めている点です。私の目には、いずれ彼らが何世紀もの永い年月にわたって受ける苦しみが見えるのです。暗黒の中で悶え苦しむのです。その中で味わう悔恨の念そのものがその人の悪行に相応しい罰なのです」
・・・でも今現実に他人に大きな苦しみをもたらしております。
「では一体どうあってほしいとおっしゃるのでしょう。人間から自由意思を奪い去り操り人形にしてしまえば良いのでしょうか。自由意思と言う有難いものがあればこそ、努力によって荘厳な世界へ向上することも出来れば、道を間違えて奈落の底へ落ちることもあり得るのが道理です」
別のメンバーが〝邪悪な思念を抱いて実行した場合、それを実行に移さなかった場合と比べて精神にどう言う影響があるでしょうか〟と尋ねる。
「もしそれが激しい感情からではなく、冷酷非情な計算づくで行った場合でも、今申し上げた邪悪な人間と同じ運命をたどります。なぜなら、それがその魂の発達程度、と言うよりは発達不足の指針だからです。例えば心に殺意を抱き、しかもそれを平気で実行に移したとすれば、途中で思いとどまった場合に比べて、遥かに重い罪を犯したことになります」
・・・臆病であるが故に思いとどまることもあるでしょう。
「臆病者の場合は又別です。私はいま邪悪なことを平気で実行に移せる人間の場合の話をしたのです。始めに申し上げた通り、この種の問題は一つ一つ限定して論ずる必要があります。心に殺意を抱きしかも平気で実行出来る人と、〝あんな憎たらしい奴は殺してやりたいほどだ〟と思うだけの人とでは、霊的法則から言うと前者の方が遥かに罪が重いと言えます」
・・・あなたご自身にとって何か重大でしかも回答が得られずにいる難問をお持ちですか。
「回答が得られずいる問題で重大なものと言えるものはありません。ただ、私は良く進化は永遠に続く・・・何処まで行ってもこれでお終いと言うことはありません、と申し上げておりますが、なぜそういうお終のない計画を神がお立てになったのかが分かりません。いろいろ私なりに考え、又助言も得ておりますが、正直言って、これまでに得た限りの回答には得心がいかずにおります」
・・・神それ自体が完全でないと言うことではないでしょうか。あなたは何時も神は完全ですとおっしゃっていますが。
「随分深い問題に入ってきましたね。かつて入ったことのない深みに入りつつあります。
私には地上の言語を使用せざるを得ない宿命があります。そこでどうしても神のことを私が抱いている概念とはかけ離れた男性神であるかのような言い方をしています。
(〝大霊〟the Great Spiritを使用しても神Godを使用しても二度目からは男性代名詞のHe, His, Himを使用していることを言っている)
私の抱いている神の概念は完璧な自然法則の背後に控える無限なる叡智です。その叡智が無限の現象として顕現しているのが宇宙ですが、私はまだその宇宙の最高の顕現を見たと宣言する勇気はありません。これまでに到達した限りの位置から見ると、まだまだその先に別の頂上が見えているからです。
私が私なりに見てきた宇宙に厳然とした目的があると言うことを輪郭だけでは理解しております。私はまだその細部の全てに通暁しているなどとはとても断言できません。だからこそ私は、私と同じように皆さんも、知識の及ばないところは信仰心で持って補いなさいと申し上げているのです。〝神〟と同じく〝完全〟と言うものの概念は、皆さんが不完全である限り完全に理解することはできません。
現在の段階まで来てみてもなお私は、もし仮に完全を成就したらそれはそれにて休止することを意味し、それは進化の概念と矛盾する訳ですから、完全と言うものは本質的に成就できないものであるのに、なぜ人類がその成就に向かって進化しなければならないかが理解できないのです」
・・・こうして私達が問題を携えてあなたのもと(交霊会)へ来るように、あなたの世界でも相談に行かれる場所があるのでしょうか。
「上層界へいけば私より遥かに叡知を身につけた方がいらっしゃいます」
・・・こうした交霊会と同じようなものを催されるのですか。
「私達にも助言者や指導者がいます」
・・・やはり入神して行うのですか。
「プロセスは地上の入神と全く同じではありませんが、やはりバイブレーションの低下、すなわち高い波長を私達に適切な波長に転換したり光輝を和らげたりして楽にして下さいます。
一種の霊媒現象です。こうしたことが宇宙のあらゆる界層において段階的に行われていることを念頭において下されば、上えには上があってヤコブの梯子の無限の段が付いていることがお分かりでしょう。その一番上の段と一番下の段は誰にも見えません」
(ヤコブの梯子=ヤコブが夢で見た天まで届く梯子)
・・・霊媒を通じて語りかけてくる霊は吾々が受ける感じ程に実際に身近な存在なのでしょうか。それとも霊媒の潜在意識も考慮に入れなければならないでしょうか。
そんなに簡単に話しかけられるものでしょうか。私の感じとしては、想像しているほど身近な存在ではないような気がしています。少し簡単すぎます。
「何が簡単すぎるのでしょうか」
・・・思っているほど吾々にとって身近な存在であるとは思えないのです。多くの霊媒の交霊会に出席すればするほど、しゃべっているのは霊本人ではないように思えてきます。時には全く本人ではない、単にそれらしい印象を与えているだけと思われるものがあります。
「霊が実在する、このことを疑っておられるわけではないでしょうね? 次に、吾々にも個性がある。このことにも疑問の余地はありませんね? では吾々は一体だれか?、この問題になると意見が分れます。何故かと言えば、そもそも同一性(アイデンティティ)とは何を基準にするかという点で理解が異なるからです。私個人としては地上の両親が付けた名前は問題にしません。名前と当人との間にはある種の相違点があるからです。
では一体吾々は何ものなのかという問題ですが、これまたアイデンティティを何を基準とするかによります。ご承知の通り私はインデアンの身体を使用していますが、インデアンではありません。こうすることが私自身を一番うまく表現出来るからそうしているまでです。
この様に、背後霊の存在そのものには問題の余地はないにしても、物質への霊の働きかけの問題は実に複雑であり、通信に影響を及ぼし内容を変えてしまうほどの、様々な出来事が生じております。
通信がどれだけ伝わるか、その内容と分量は、そうした様々な要素によって違ってきます。まして、普段の生活における〝導き〟の問題はそう簡単には片付けられません。
何故かと言うと、人間はその時々の自分の望みを叶えてくれるのが導きであると思いがちですが、実際には叶えてあげる必要が全くないものがあるからです。一番良い導きは本人の望んでいる通りにしてあげることではなくて、それを無視して放っておくことである場合がしばしばです。
この問題は要約して片づけられる性質のものではありません。これには意義の程度の問題、つまり本人の霊的進化の程度と悟りの問題が絡んでいるからです。大変な問題なのです。人間の祈りを聞くことがよくありますが、要望には応えてあげたいのは山々でも、側に立って見ているしかないことがあります。
時には私の方が耐えきれなくなって何とかしてあげようと行動に移りかけると〝捨てておけ!〟と言う上からの声が聞こえることがあります。一つの計画の枠の中で行動する約束が出来ている以上、私の勝手は許されないのです。
この問題は容易ではないと申しましたが、それは困難なことばかりだと言う意味ではありません。時には容易なこともあり、時には困難なこともあります。ただ理解しておいて頂きたいのは、人間にとって影(不幸)に思えることが私達から見れば光(幸福)であることがあり、人間にとって光であるように思えることが私達から見れば影であると言うことです。
人間にとって晴天のように見えることが私達から見れば嵐の予兆であり、人間にとって静けさに思えることが私達から見れば騒音であり、人間にとって騒音におもえることが私達から見れば静けさであることがあるものです。
あなた方が実在と思っていることは私達にとっては実在ではないのです。お互い同じ宇宙の中に存在しながら、その住んでいる世界は同じではありません。あなた方の思想や視野全体が物的思考形態によって条件づけられ支配されております。
霊の目で見ることが出来ない為に、つい、現状への不平や不満を口にされます。私はそれを咎める気にはなりません。視界が限られているからです。やむを得ないと思うのです。あなた方には全視野を眼下に収めることはできないのです。
私達スピリットと言えども完全から程遠いことは、誰よりも真っ先にこの私が認めます。やりたいことが何でも出来るとは限らないことは否定しません。しかしそのことは、私達があなた方自身の心臓の鼓動と同じ位身近な存在であると言う事実とは全く別の問題です。
私達はあなた方が太陽の下を歩くと影が付き添う如く、いやそれ以上にあなた方の身近な存在です。私の愛の活動範囲にある人は私達の世界の霊と霊との関係と同じく親密なものです。
それを物的な現象によってお見せ出来ないわけではありませんが、何時でもと言うわけには参りません。霊的な理解(悟り)と言う形でも出来ます。が、これまた、人間としてやむを得ないことですが、そう言う霊的高揚を体験するチャンスと言うのは、そう滅多にあるものではありません。そのことを咎めるつもりはありません。これから目指すべき進歩の指標がそこにあると言うことです。
あなたのご意見はちょっと聞くと正しいように思えますが、近視眼的であり、全ての事実に通暁しておられない方の意見です。とはいえ、私達霊界の指導者は常に寛大な態度で臨まねばなりません。教師は生徒の述べることに一つ一つ耳を貸してあげないといけません。意見を述べると言う行為そのものが、意見の正しい正しくないに関係なく、魂が成長していることの指標だからです。
真面目な意見であれば私達はどんなことにも腹を立てませんから、少しもご心配なさるには及びません。大いに歓迎します。何方がどんなことをおっしゃろうと、またどんなことをなさろうと、皆さんに対する私の愛の心が些かでも減る気遣い入りません」
・・・私達もあなたに対して同じ気持ちを抱いております。要は求道心の問題に帰着するようです。
「今私が申し上げたことに批判がましい気持ちはみじんも含まれておりません。吾々はみんな神であると同時に人間です。非常に混み入った存在、一見単純な様で奥深い存在です。魂と言うものは開発されるほど単純さへとむかいますが、同時に奥行きをまします。単純さと深遠さは同じ棒の両端です。
作用と反作用とは科学的に言っても正反対であると同時に同一物です。進歩は容易に得られるものではありません。もともと容易に得られる様には意図されてはいないのです。吾々はお互いに生命の道の巡礼者であり、手にした霊的知識と言う杖が困難に際して支えになってくれます。その杖にすがることです。霊的知識と言う杖です。それを失っては進化の旅は続けられません」
・・・私達は余りに霊的知識に近すぎて、かえってその大切さを見失いがちであるように思います。
「私は常々二つの大切なことを申し上げております。一つは、知識の及ばない領域に踏み込む時は、その知識を基礎としたうえで信仰心に頼りなさいと言うことです。それからもう一つは、常に理性を忘れないようにと言うことです。理性による合理的判断力は神からの授かりものです。あなたにとっての合理性の基準にそぐわないものは遠慮なく拒否なさることです。理性も各自に成長度があり、成長した分だけ判断の基準も高まるものです。
一見矛盾しているかに思える言説がいろいろとありますが、この合理性もその一つであり、一種のパラドックス(逆説)を含んでおりますが、パラドックスは真理の象徴でもあるのです。
(この場合のパラドックスとは次章の〝真理には無限の側面がある〟と同じ意味に解釈すべきであろう)
理性が不満を覚えて質問なさる。それを私は少しも咎めません。私はむしろ結構な傾向として嬉しく思うくらいです。疑問を質そうとすることは魂が活動しているからこそであり、私にとってはそれが喜びの源泉だからです。
さて私は何とか皆さんのご質問にお答えできたと思うのですが、如何でしょうか。と言ってから、その日の中心的な質問者であったかつてのメソジスト派の牧師の方を向いて笑顔でこう述べた。
「私の答案用紙に〝思いやりあり〟〝人間愛に富む〟とでも書きこんでくださいますか」