〝霊〟spiritと〝魂〟soul─あとがきにかえて 訳者
本書は霊媒モーリス・バーバネルの未亡人シルビアの編纂したSilver Birch Speaks(シルバーバーチは語る)の翻訳である。夫人とは今なお文通による交際を続けているが、さすがに寄る年波には勝てないことが文面から窺えて無常感を禁じ得ない。

さて「霊訓」(一)がシルバーバーチの説教が主体となっているのに対し、本書は質疑応答が主体となっている。質問者もレギラーメンバーのほかに招待客が多く、その顔ぶれも政治家から映画スター、霊媒、心霊治療家、学校の教師と多彩である。

その質問の中に日ごろから疑問に思っていたことを発見された方も多いのではなかろうか。筆者も訳していきながら、洋の東西を問わず人間の考えることは同じだと、つくづく思わされることが多い。

さて筆者のもとにも読者からいろいろと質問が寄せられる。その一つが〝霊〟と〝魂〟はどう違うかという質問である。これは実は筆者自身にとっても永年の課題であった。西洋でも古くからさまざまな意味で──悪く言えば各自の勝手な解釈で──用いられてきて混乱しているからであるが、近代スピリチュアリズムによって霊界の事情が明らかにされてからその本来の意味が根本的に改められつつあるからでもある。

そのスピリチュアリズムにおいてもまだ正式な定義づけが為されているわけではなく、相変わらず曖昧さを残したまま各自が自分なりの用い方をしているので、今それを総合的に扱うわけにはいかない。そこで私はシルバーバーチの霊言集を読んだ限りにおいて理解していることを述べて参考に供したい。

実は本書の最後の章の質問の中に〝霊とは何か〟というのがあった。私は以前からこの問題について私見を述べたいと思っていたので、その質問と答えの項をわざとカットしてこの解説のためにとっておいた。これからその部分を紹介する。

──魂(ソール)とは何でしょうか。

「魂とは全ての人間が身にまとっている神の衣です。魂とは神が子等に授けた光です。魂とは各自がこの宇宙における機能を果たすことを可能にならしめる神の息吹です。魂とは生命の火花です。存在の源泉です。それがあなたを宇宙の大霊と結びつけ、すべての生命現象を経綸する無限なる存在の一部たらしめております。魂はあなたが永遠にまとい続ける不滅の衣です。

あなたがその魂であると言ってもよろしい。何となれば魂がすなわちあなたという存在そのものであり、反省し、考え、決断し、判断し、熟考し、愛するのはその魂です。ありとあらゆる側面を持っております」

さて筆者が理解する限りにおいて言えば、このシルバーバーチの答えの中の〝魂〟はそのまま〝霊〟と置きかえることができる。事実シルバーバーチは人間の構成要素を〝肉体と精神と霊〟といったり〝肉体と精神と魂〟と言ったりしている。ではいつでも置きかえが可能なのかというとそうではない。この場合もthe Soulといい、a Soulとは言っていないことに注意しなければならない。

英語の専門的な説明になって恐縮であるが(これがカギになることなので敢えて説明させていただくが)たとえば〝犬は忠実な動物である〟という場合、犬という種族全体を総合的に指す時はThe dog faithful animalとtheを冠し個々の犬をさす時A dog is a faithful animalとaを冠する。Soulの場合も同じで〝魂とは何か〟と言うように普遍的に扱う時はWhat is the Soul?と言い、“彼は偉大な魂である〟と特定するときはHe is a great soulという言い方をする。これはspiritについても同じである。

こうしたことから私は、たとえば空気と風は本質的には同じものでありながら前者は〝静〟の状態を指し後者は〝動〟の状態を指すように、シルバーバーチの言う〝神から授かった衣〟を静的に捉えた場合、言わば陰の状態を魂と呼び、動的に捉えた場合つまり陽の状態を霊と呼んでいると解釈すればほぼ納得がいくのではないかと思う。

〝ほぼ〟と断ったのは各宗教、各思想によってそれぞれの解釈の仕方があるからには普遍的な言い方で断定はできないからである。

たとえば〝動物には魂はあるが霊はない。魂の上に霊を宿したのが人間である〟とする思想がある。個人的には筆者は神道の〝霊・魂・魄── 一霊・四魂・五情〟の思想に注目している一人であるが、これにも用語の概念上の問題がある。その点シルバーバーチは〝生命のあるところに霊がある。霊はすなわち生命であり、生命すなわち霊である〟という言い方をして、霊を普遍的な生命原理とすることがある。シルバーバーチを読んでいく上においては、あまり用語上の区別にこだわらない方がよいと思う。少し無責任な言い方ではあるが・・・・・・

この問題に限らず、シルバーバーチを読むに当たって是非認識しておいていただきたいことは、シルバーバーチの基本姿勢は難しい理屈はヌキにして、死後にも続く生命の旅の出発点としての地上生活を意義あるものにする上で必要最小限の霊的真理を誰にも分かる形で説くということである。

たとえばテレビになぜ映像が映るのかという理屈はどうでもよろしい。スイッチの入れ方と消し方さえ知っておればよろしい。といった態度である。たしかにわれわれ凡人の生活は大半がそういう生き方で占められている。いや凡人に限らない。最高の学識を具えた人でも本当のところは何にも分かっていないというのが実情のようである。

先日のテレビで〝物質とは何か〟という題でノーベル賞を受賞した三名の物理学者によるディスカッションがあった。三人の他にも資料映像の中に多数の学者が出て意見を述べていたが、結局のところ〝物質の究極の姿はまだよく分からない〟ということであった。物質という、われわれ人間がとっぷりと浸っている世界の基本的構成要素すらまだ解明されていない。

となれば、原子核だの素粒子だのクォークだのといった難しい用語による説明は皆目わからなくても、われわれにとって物質とは五感で感じ取っているものを現実として受けとめればよいのであって、それが仏教という〝空〟であろうと物理学で言う〝波動〟であろうと、それはどうでもよいという理屈も一応通るはずである。事実、考えてみるとわれわれ人間はまさに〝錯覚〟の中で暮らしているようなものである。

太陽は東から昇って西に沈んでいる。地球は地震のとき以外はいつも静止している。味覚も舌の錯覚であるが、やはり美味しいものは美味しいし、まずいものはまずい。

ここで思いだすのは筆者の大学時代、原子物理学が急速な進歩を遂げつつある時期であったが、あるとき物理学部に籍を置く上級生と語りあった中で私が、物質の構造や宇宙の姿を扱っていると神秘的な気持になられることはありませんかと尋ねたところ、その先輩は言下に〝イヤ、そんなことはないよ。すべて理論的に説明が付くんだよ〟と言われて、そのまま話を進めるのをやめたことがある。

それから三十年たった今、先のテレビディスカッションに出席した物理学者の一人が最後に(言葉はそのままではないが)こんな意味のことを述べた──物質の宇宙をどんどん探っていくうちに、その構造の完璧さと美しさにふれて、それが偶然にそうなったとは思えない、なにかそれをこしらえた神のような存在をどうしても考えたくなる時があります、と。それを聞いて私はこの人は、a great soulだと思った。と同時に、恩師の間部詮敦氏が、うかうかしていたら科学者から神の存在を指摘される時代が来ますよ、と言われたのを思いだした。その時代がもうだいぶ近づきつつあるようである。

以上、霊と魂について結論らしい結論は出し得ないが、洋の東西を問わず昔から魂と霊とが区別されて用いられてきているからには、細かく分析すれば学理的に区別しなければならない要素があるであろう。

が、私個人としてはその区別については、先に述べた以上には拘りたくない。少なくともシルバーバーチの翻訳に当たっては、あまり理屈っぽくならないようにと心掛けているところである。シルバーバーチも次のように述べている。

(私が単純な霊的真理しか説かないのは)難解な問題を避けたいからではありません。今すぐにでも応用のきく実用的な情報をお届けすることに目的をしぼっているからです。基本の基本すら知らない人々、真理の初歩すら知らない人が大勢いることを思うと、もっと後になってからでもよさそうな難解な理屈をこねまわすのは賢明とは思えません」

なお本書は全部で十六章から成っているが、そのうち二章を私の判断で「霊訓」(三)以降にまわした。「シルバーバーチの刊行に当たって」中でもお断りしたように、シリーズ全体のバランスを考える必要から、日本人の読書感覚に合わせて時たまそういう按配をすることもあることを改めてお断りしておきたい。
一九八五年十月 近藤 千雄