第9章 この世、そしてあの世
「死んであの世へ行った人はどうして時を過ごすのですか──ある日の交霊会でこんな質問が出た。
「この世と同じように明るさと暗さを伴った時間があるのでしょうか。それとも、まったく別の時の流れがあるのでしょうか。何をして過ごすのでしょうか。やはり働くのですか。勉強もするのですか。楽しみがあるのでしょうか」
こうした質問にシルバーバーチが次のように答えた。
それについては何度も何度もお答えしてまいりました。時間の問題は地上の時間とは関係ありませんので、むしろその意味で興味ある課題です。
地上の時間は便利さを目的として刻んであります。つまり地球の自転と太陽との関係に基づいて秒、分、時間、日を刻んであるわけです。私どもの世界には夜と昼の区別がありません。光の源が地上とは違うのです。従って地上と同じ意味での時間はないことになります。こちらでは霊的状態で時間の流れを計ります。言いかえれば、経験して行く過程の中で時の流れを感じとります。一種の精神的体験です。
霊界の下層界では生活に面白味が乏しいですから、時間が永く感じられます。上層界では──むろん比較上の問題ですが──快い活動が多くなりますから短く感じられます。次々と新しい体験があるという意味です。別に時間とか月とか年とかの分け方は有りません。仕事への携わり方はその人次第です。精神と霊に関連した活動はいくらでもあります。
ご質問者は霊的な体験を物的尺度で理解しようとなさっている点に問題があります。霊界へ来てからの精神と霊のすることは範囲が広く際限がありません。教養(文化)的なものもあれば教育的なこともあり一つ一つにれっきとした目的があり、物質界への働きかけもあり、やりたいだけ存分にそれに携ることができます。
「でも、こう言う問題が生じませんか──もしも地上のような時間がないとすると、これから先の予定はどうやって立てるかということです」
「私が誰かと会う約束をしたい時などのことでしょうか。そんな時は思念を送って都合が良ければ会うということになります。手紙での連絡はありません」
「誰かと特定の時刻に会いたい時はどうされますか」
「そういうことにはならないのです。唯一それに似たようなものとしては、地上の祝祭日にこちらが合わせる場合です。たとえばイースターとかクリスマスには私は自分の界へ戻ります。地球圏から抜け出るのですが、それは習慣に合わせているだけの話です。
必要とあれば、本日の予定が終わり次第引き上げることも出来ます。どこかの霊の集まりに参加するようにとの私への要請があるとすれば、その要請は思念で届けられます。それを私が受信して、そして参加するということになります。もっとも今すぐそんな要請は来ないでしょう。私がこうして地上の方々と話していることが判っておりますから。日ごよみなどはありません。あくまで精神と霊の世界なのです」
「霊界にも電車はありますか」
「ありません、但し電車に乗りたいと思えば電車が目の前に現れます。理解できないでしょうね、でも夢と同じようなものです、電車で行きたいと思えば電車が現れるのです。
皆さんだって、夢の中で船に乗ろうと思うことがあるでしょう。すると船が現れます。自分でこしらえるのです。そして少なくとも自分にとっては本物の船です。それに乗ると動き出します。必要な船員もちゃんとそろっているでしょう? その時の意識の場においては現実なのです。現実というのは相対語であることを忘れないでください」
「そのことは何度も聞かされ書物でも読んでおりますが、正直言って私には理解できません」
「そうでしょうとも。ですがあなた方の世界でも時間の錯覚があります。一時間は何時も一時間とは限りません。たった五分が一時間のように感じられることがあります。それが時間の精神的要素です。
地上においてもその精神的要素が現実に存在することを理解して下されば、私ども霊界の者が地上の時間の純粋に機械的要素とは無縁であることがお判りいただけるでしょう。こう言う説明よりほかに良い説明方法がないように思います」
「みんな自分の家を持っているのでしょうか」
「はい、持ちたいと思っている人は持っております。そう望んでそれなりの努力を致します。が、持とうと思わない者もいます。同じく家を持つにしても自分の建築の好みに合わせて工夫する者もあります。例えばあなた方の御存じない照明方法を組みこんだりします。こうしたことはその霊の創造的才能に関る個人的な好みの問題です」
「霊界の家はそれまでの生活の中身によって左右されるとおっしゃったことがありますが・・・・・・」
「持ちたいと望み、それなりの努力をしたら、と言ったつもりです。が、いったん家をこしらえたら、その建築様式は純粋にその人の好みの問題となります。青空天井にしたければそうなります。好みというものは長い間の習慣によって形作られていることを忘れてはいけません。習慣は精神的属性であり、死後も存続します。
生涯を英国だけで送った人は当然英国風の住居の様式に慣れ親しんでおり、したがって同じような様式の家に住むことになります。そういう習性が残っているからです。やがてその習性から抜け出せば又別の種類の住居を持つことになります。こうしたことも生活の連続性を維持するための配慮なのです。ショックを防ぎ、生活をスムーズに、そして調和のあるものにしてくれています」
(訳者注──この質問と回答には少しずれが見られる。質問者は霊格の低い霊の家はみすぼらしく、高い霊は見るも麗しい、神々しい家に住むという事実を踏まえて質問している。確かにシルバーバーチも別のところでそう言っており、他の霊界通信でも同じことを言っている。もっともみすぼらしいと言っても相対上の問題で、住まっている本人は少しもみすぼらしいとは思っていない)
別の日の交霊界ではこう述べている。
「霊界には〝国会〟はありません。住民の生活を規制するための法律をこしらえる必要がないからです。霊界では自然法則が全てを律するのです。逃れようにも逃れられない形でその法側が付いてまわります。物的身体はもうありません。
物的生活に抱わる諸問題も関係がなくなります。いまや霊的な形態で自分を表現しており、霊的自然法則が直接に作用することになります。その仲立ちをするものは何も要りません」
「コンサートとか演劇とか博物館のようなものもありますか」
「博物館は大きな建物-学問の殿堂(ホール)の中に設けてあり、そこにありとあらゆる種類のコレクション──地上の全歴史にわたる資料から霊界の興味深い、生活形態を示すものまでが展示されております。例えば地上に存在しない花の種類があります。そのほか人間の知らない自然の様相(すがた)が沢山あります。そのサンプルがホールに陳列してあるのです。
コンサートはしょっちゅう開かれております。音楽家には事欠きません。大音楽家と言われている人も大勢いて自分の才能を出来るだけ多くの人を楽しませるために役立てたいと願っております」
劇場──これも数多くの種類があります。純粋に芸術としてのドラマを目的としたものもあれば、教養を目的としたものもあり、教育を目的としたものもあります。地上で持っていた天賦の才、素質、能力は死と共に消えてしまうのではありません。逆に死が大きな自由をもたらし、それを発揮する機会を広げてくれます。
「新聞やラジオもあるのでしょうか」
「ラジオはありません。通信様式が違うからです。いちばん一般的な方法はテレパシーですが、要領さえ呑み込めば、目の前にいなくても莫大な数の人に向けて呼びかけることができます。それは地上のラジオとは原理が違います。
また、いわゆる新聞はありません。地上のようにその日その日の出来ごとを書いて知らせる必要がないからです。必要な情報はそれを専門としている者が然るべき方面へちゃんと送り届けてくれます。その要領はあなた方には理解しがたいものです。
例えば私が知らずにいることでぜひ知る必要のある事柄があるとしましょう。そんな時、知らせるべきだと思った人が思念で私に知らせてくれます。そう言う仕事を担当している霊団があるのです。そしてそのための特殊な訓練をしております。
「私達がインスピレーションを受ける時も同じ過程によるのでしょうか」
「それはまた次元が異なります。人間がインスピレーションを受け取る時は、意識的にせよ、無意識的にせよ、霊界のある知的存在(霊)と交信状態にあります。その状態にある間はその霊の力なりインスピレーションなりを受け取ることができます。
意識できる場合もあれば無意識の内に受けている場合もあります。それはその時の環境条件によります。
その点、私どもの世界では絶え間なく思念を出したり受けたりしております。霊的波長が同じ者どうし、つまり霊的知性が同質である者どうしで送信と受信を行っております。その波長は霊的発達程度によって定まります」
「名前は霊界へ行っても地上時代のままでしょうか。例えばリンカーンは今でもAbraham Lincolnという氏名で知られているのでしょうか」
「そうです、身元の確認の上でそうしておく必要がある人は地上時代の氏名のままです。ただ氏名がその人物では無いことを忘れてはなりません。その人を認知するための手段の一つにすぎません」
「たとえば地上で有名だった人は死後もその名前を使うのが便利ですね」
「そういうことです。身元の確認の上でそうしておく必要がある場合です。その状態が人によって何百年も何千年も続くことがあります。しかしいつかは地球の磁場から超脱します。そうなるともうその名前は意味がなくなります。その人の本来の霊格によって存在が確認されるようになります。
「一目見てそれが確認できるのでしょうか」
「できます。地球の引力圏から脱すると、つまり地球とのつながりで暮らしている段階を超えて純粋に霊的といえる段階まで到達すると、ある種の光輝を発するようになり、それを見ればそれが誰で、どの程度の霊格を具えているかが一目瞭然となります。理解しにくいですか」
「いえ、そんなことはありません。地上でも、人に会った時などにその人がどんな人物であるかが話を交わす前から分かることがあります」
「そうでしょう。オーラに刻まれているのです。こちらでも同じです。ただ、遥かに強烈になるということです」
「地上で有名だった人とは別に、そちらへ行ってから有名になった人がいるものでしょうか」
「もちろんですとも。地上での名声は単なる〝生れに由来し〟ほかに何の原因も無い場合が多いものです。生きざま、努力、苦労によって勝ち得たものでない場合が多いのです。そうした中で全く名を知られず偉大さを認められなかった人物が、こちらへ来てそれに相応しい評価を受けている人が大勢、実に大勢いるものです。魂こそ消すに消せないパスポートなのです」
「書物あるいはそれに類するものがありますか」
「あります。書物なら実にたくさんあります。地上にある本の全ての複製もあります。地上にない本もたくさんあります。こちらには芸術の全分野の資料を集めてある巨大な建造物(ホール)がいくつもあり、その中に印刷物も含まれております。あなた方が興味を抱くものならどんなものでも用意してあります」
「誰が用意するのですか」
「著述の専門家、書物を用意することを専門にしている人たちです」
「霊が手にとって読めるようにエーテル質で出来ているのですか」
「もちろんそうですとも!」
シルバーバーチは質問者が相変わらず死後の世界を夢まぼろしのように想像していることにいささか呆れ気味であるが、このあとさらに「同じ本が他の人には違ったものになったりすることはありませんか」と聞かれて、その〝夢まぼろし感〟の誤りを次のように直していく。
「そんなことは有りません。ところであなたは夢の中で本を読んだ事はありませんか」
「ありませんけど、どんなものであるかは想像できます」
「その場合それは本物の書物でしょうか」
「いいえ」
「ではもしあなたが永遠に目覚めないと仮定したら、その夢はあなたにとっていつまでも現実であり、その夢の中の生活と比較すべき覚醒時の生活がない以上は夢の中で起きたことはことごとく現実であり、逆にそれまでの覚醒時に起きたことは全て夢まぼろしであったことになりませんか。
死後の世界ではそうした夢の中での精神的過程が何倍もの強烈さをもって働くと思っていただけば良いのです。そうした精神的状態はこちらの世界の者にとっては実在であり、あなた方が物質に実感を覚えると同じように、霊にとっては実感があるのです」
「何だか怖いような気がします」
「なぜですか」
「どうも私にはその生活が現在の地上の生活の様な実在感を伴った、しっくりとしたものではないように思えるのです」
「それは全く相対上の問題にすぎません。実際は地上生活は霊界という名の太陽によって出来た影にすぎません。地上生活は殻であり実質がないのです。物質が霊によって存在が与えられている以上、物質界には真に実在と言えるものは何一つ存在しません。物質と言うのは霊的実在の波長によって形を与えられた表現の一つに過ぎません」
「私があのように申し上げたのは、私には、同じく美しいものでも主観的なものは客観的なものほど楽しくないからです」
「いま主観的と思っておられることが客観的となり、客観的と思っておられことが主観的となります」
「そう理解するには個人的な実体験がなくてはならないでしょう」
「そのとおりです。でも今あなたはその実体験がないわけではないと思いますが・・・・・・」
「夢の中でのことでしょうか」
「いえ、あなたご自身の精神の中のことです。たとえば、あなたは奥さんをとても愛しておられる。その愛は主観的でしょうか客観的でしょうか」
「両方が一緒になっていると思います」
「でも、愛と言うのは霊と精神の属性です。そうでなかったら永続性はありません。実在はかならず内部から発するものです。あなた方は物的身体を持った霊的実在です。永遠の実在は霊であり、肉体ではありません。肉体が朽ちて死の原素に戻っても霊は存在し続けます」
ある時シルバーバーチは、今霊界の奥から帰ってきたばかりだと述べ、その目的はこれまでの仕事の進展ぶりを総点検し、これから先の仕事のための新たなエネルギーを摂取するためであると説明してから、さらにこう述べた。
「こうして再び地上へ戻って来る時の私の気持ちは何時も〝味気なさ〟です。この表現でもまだ十分に意を尽していません。地上には光と生命が欠けています。うっとうしくて単調で活力に欠けております。まるで弾力性を失ったクッションのようで、何もかもがだらしなく感じられます。いきいきとした魂、愉快な精神の持ちぬしはきわめて稀です。
全体を無気力の雰囲気が支配しています。生命のよろこびに満ち溢れた人は少なく、絶望と無関心がはびこっております。多分あなた方自身はそれに慣れっこになっているためにお気づきにならないのでしょう」
「私たちにもそれは感じられるように思います。世を拗ねた心がはびこっているようです」
「それは取りもなおさず戦争に対して払わされている代償です。あれだけの激しさを持って一気にエネルギーを使い果たせば、その結果として衰弱を来すのは当然のことではないでしょうか。かくて熱気、情熱、熱心さが見られないわけです」
私は全てが光り輝く色彩豊かな境涯からやってまいります。そこでは心は真の生きるよろこびにあふれ、各自が自分のあった仕事に忙しく携わり、芸術の花が咲き乱れ、全ての者が奉仕の精神にみなぎり、自分が持っているものを持たざる人に分け与え、知らざる人を教え導くことを喜びとし、情熱と迫力とよろこびをもって善行に励んでおります。
その点この地上は全てが今述べたような陰気さに包まれております。しかし、ここが私どもの奮闘しなければならない土地なのです。ここが私たちが奉仕しなければならない領域なのです。ここが全力を投入すべき場なのです。
一人一人が神の無限の可能性を秘めた統一体としての一部なのです。自分という存在の内部に日常生活のあらゆる問題を克服していくためのインスピレーションとエネルギーを摂取する手段を宿しているのです。その永遠の実在に気づいている人、あるいは奥に秘められた能力を引き出す方法を心得ている人は極めてまれのようです。
そうなると当然物質的生活と同じく実感のある霊的生活──本当はより実感があるのですが──の豊かさとよろこびを味わえるはずなのに、物的生活の味気ない単調さの方を好む者が多いことになります。私がなぜこんなことを言うのかお判りですか」
「判ります。でも死後の世界にも地上より遥かに面白くない境涯があるのではありませんか」
「それは事実です。測り知れない程の絶望の淵から天上的喜悦の境涯まであります」
「そうした奈落の底にいる者にとっては地上は天国のように思えることでしょう」
「何ごとにつけ、比較の仕方によって良くも悪くもなることは事実ですが、私が較べたのは、これまで地上で見てきたものと先ほど行ってきた天上の境涯です。
ですが、地上の人々もここに集える私どもと同じ知識を身につければ、少しもみじめに思う必要はなく首をうなだれることもないでしょう。元気づけてあげることができるということです。全ての力の根源は霊にあり、永遠の富を獲得することは人生の悩みのタネとなる物的なものよりも大切であることを悟ることでしょう。
私の目には、あまりに多くの人間がその貴重なエネルギーを浪費させることにしかならないことで悩み、怖れ、取り越し苦労している姿が見えるのです。重点の置きどころが間違っているのです。視点を間違えているのです」
さらに質問者が霊界での睡眠や休息について尋ねると、シルバーバーチは少し調子を変えてその質問者にこう述べた。
「どうやらあなたは死後の世界についての疑問でいつも頭が一杯のようですね」
「正直言ってそうなんです。もちろん聞かされた通りを盲目的にそうなのだと思い込めばよいのでしょうけど、どうも私の本性がこうして問い質させるようです」
「私が盲目的な受け入れをよろこばないことはご存知でしょう。霊界ではベッドが欲しいと思う人は用意していますが、寝る必要はありません。夜が無いのですから」
「寝る人もいることにはいるのでしょう」
「もちろんいます。寝なくては、と思うからです。実相に目覚めた霊は寝ません。土手に腰を降ろして休みたいと思えば休みます。が、疲れたからではありません」
「座って瞑想するのが気持ちが良いからでしょう」
「それもありますが、自然の美しい景観を眺めながら誰かと交信するということもあります。ただし〝済みません、少し疲れましたので、一服しようと思います〟とか〝急いで食事をとってきますので・・・〟と言ったようなことにはなりません。食事をとる必要はないのです。
もっとも食べたいと言う気持ちが残っていれば別ですが・・・肉体のように栄養を補給しなくてはならない器官がないのです。バイブレーションが物的ではありませんから・・・・・・」