第2部 天国霊・地獄霊からの通信の記録
第7章 この世で過去世(かこぜ)の償いをした霊
(1)マルセル――高貴な感情を持つ子供
田舎の、ある病院に、8歳位の子供が収容されていたが、その無惨な様子は、描写することすら不可能な位だった。生まれつきの奇形、そして、病気による変形のせいで、足がねじ曲がり、首に接触していた。ひどく痩せているので、骨の突き出ている部分の皮膚が破れていた。したがって、体中、傷だらけで、その苦しみたるや、本当にひどいものだった。
この子は、ひどく貧しいユダヤ教徒の家庭に生まれ、4年前から、こうして入院しているのだった。
年のわりに知性が非常に高く、思いやり、忍耐力、我慢強さが際立っていた。
家族が殆ど見舞いに来なかったので、この子を担当していた医者は、この子に同情し、関心を抱き、この子とよく話をし、その早熟な知性に魅了されていた。ただ優しく接するだけでなく、時間のある時には、本を持ってきて読み聞かせたが、この子が見せる、年齢に相応しくない高度な判断力に、しばしば驚くのだった。
ある日、この子が医者に言った。
「先生、この前みたいに、僕に、たくさんお薬をください」
「どうしてかな? 充分あげたはずだけど。あまり飲み過ぎると、かえって具合が悪くなるよ」
「すごく痛いので、我慢しようと思っても、どうしても叫んでしまうんです。周りの患者さん達に迷惑をかけないようにしたいって、神様にお祈りするんですけど、どうしても迷惑をかけてしまうんです。お薬を飲むと、寝てしまうでしょう? その間は、誰にも迷惑をかけないで済むから――」
この言葉を聞いただけで、この奇形の体に宿る子供の魂が、どれほど高い境涯にあるかが分かるだろう。
この子は、一体どこから、こうした高貴な感情を学んだのだろうか? 家族から学んだのではないことだけは確かである。それに、そもそも、この子が苦しみ出した年齢では、到底物事の理非は分からなかったはずである。ということは、この子の感情は、生まれつきのものであったと考えざるを得ない。
しかし、もしそうだとするならば、こうした高貴な感じ方をする子供に対し、どうして、神は、これほど悲惨な、苦しみに満ちた人生をお与えになったのだろうか? 神が無慈悲だということなのか、或は、過去世に何らかの原因があったのだろうか?
しばらくして、この子は、神様と、世話をしてくれた医者に、深い感謝の言葉を残しつつ、死んでいった。
死後、暫くしてから、パリ霊実在主義協会が催したセッションで、この子の霊が招霊され、次のようなメッセージを伝えてきた。
「招霊してくださり、ありがとうございます。『これからお話することが、この小さな集いを超えて、あらゆる人々の心に届いて欲しい』と思いながら、お話させて頂きます。私の声の響きが、あらゆる人々の孤独な魂に届いたとすれば、どれ程嬉しいことでしょう。
さて、地上での苦悩は、天上界での喜びを準備するものです。そして、苦しみというのは、美味しい果肉を包む、苦い外皮でしかないのです。
祖末なベッドの上に横たわっている哀れな人達に、実は、神が意図的に地上に送り込まれた人々であり、この人達は、人類に、『全能なる神と天使達の助けがあれば、どんな苦しみでも耐えることが出来る』ということを教えようとしているのです。そうして、『うめき声に込められた祈りをしっかり聞き取れるようにしなさい』と言っているのです。
こうしたうめき声をよく聞けば、そこには、敬虔な魂から発せられる、調和に満ちた響きがこもっているのが分かります。そうしたうめき声と、悪人達の発する、冒涜の込められたうめき声とは、しっかり区別しなければなりません。
霊実在論の運動を指導している高級諸霊のうちのお一人、聖アウグスティヌス様が、今晩、ここに私が来ることを望まれたのです。したがって、私の方から、霊実在論を進化させるような内容のお話をさせて頂きたいと思います。
霊実在論は、苦しみを学ぶ為に地上に生まれている人々をも支援することの出来るものでなければなりません。霊実在論は人生の道標になるべきなのです。そして、規範を示し、社会に対する発言権を獲得する必要があるのです。そうすれば、苦しむ人々の嘆きは、歓喜の叫びに変わり、喜びの涙に変わるはずです」
――今あなたがおっしゃったことからすると、「あなたの地上での苦しみは、過去世で犯した罪を償う為のものではなかった」ということになりますか?
「直接的な償いではありませんでした。しかし、どんな苦しみにも正当な理由があるものです。
あなた方がご覧になった、かくも惨めな姿をしていた者は、ある過去世で、美しく、偉大で、豊かで、賞賛に囲まれて暮らしていたことがありました。そして、その為に、自惚れて、慢心したのです。当然のことながら、数々の罪を犯しました。彼は神を否定し、隣人達に対して悪をなしました。
そして、その結果として、まず、霊界に還ってから、非常に厳しい形でそれを償い、そして、さらに、地上に降りて、それを償ったのです。今回の人生では、ほんの数年間、罪を償ったにすぎませんが、別の人生では、非常に高い年齢まで生きて、長い長い一生の間、罪を償ったこともあるのです。
このようにして、悔い改めることにより、私は再び神の恩寵に恵まれるようになりました。
そして、神は、私にいくつかの使命をお与えくださったのです。今回の転生は、その最後のものでした。この厳しい人生を、私は、浄化を完成させる為に、神に願い出たのです。
それでは、友人達よ、これで帰ります。また戻ってまいりましょう。私の使命は、教訓を与えることではなくて、慰めることなのです。ここには、心の中に傷口を隠し持っている人が数多くいますので、私の訪問も、何らかの役には立ったのではないかと思います」
霊媒の指導霊である聖アウグスティヌスからのメッセージ:「この哀れな子供は、弱々しく、潰瘍にかかり、苦しみ、しかも奇形であった。悲惨と涙の避難所であったあの病院で、どれほどのうめき声を上げたことだろう!
そして、幼かったにもかかわらず、そうした苦しみの目的をしっかりと理解していて、立派に我慢したのです。墓の彼方に行けば、そのようにして耐えたことに対して素晴らしい褒美が用意されていることを、幼い心で感じ取っていたのです。
さらに、自分と同様、痛みに耐える術のない人々の為に祈り、かつまた、祈りの代わりに天に向かって冒涜の言葉を投げつける人々の為に祈ったのです。
苦しみは長く続きましたが、死の瞬間には、全く問題はありませんでした。四肢は痙攣してねじ曲がり、奇形の体が死に対して反抗しているように見えたと思いますが、これは、単に肉体が生き延びようとしていたにすぎません。
しかし、その時、危篤状態の、この子のベッドの上には、天使が舞い降りて、心の傷を癒していたのです。そして、肉体から解放された美しい魂を、その白い羽根に乗せて運びながら、次のように言っていたのです。
『神よ、あなたの栄光が、また一つ、地上から戻ってまいりました! 』
全能なる神の方へと昇っていきながら、この魂は、次のように叫びました。
『主よ、戻ってまいりました。あなたは、私に、苦しみを学ぶという使命をお与えになりました。私は、この試練に、しっかり耐えることが出来たでしょうか?』
現在では、この哀れな子供の霊は、もとの姿を取り戻しており、弱い者達、小さい者達のところに行き、次のように、囁いて回っています。
『希望を持って! 勇気を出して! 』
物質から完全に離脱し、一切の汚れを洗い清められて、今、この霊は、あなた方の側におり、あなた方に話しかけています。その声は、もう、かつての、苦しげな、哀れな声ではありません。雄々しい響きに満ちております。そうして、こう言うのです。
『かつて地上にて私を見た人々は、そこに、不満を決して漏らさない男の子を見ました。そして、その子から、静かに痛みに耐える力を得たのです。そして、彼らの心は、神に対する穏やかな信頼に満たされました。これこそが、私の、地上での短い滞在の目的だったのです』」
(2)物乞いのマックス
バヴィエールの村で、一八五〇年、「マックス親父」という名で親しまれていた百歳近い乞食が亡くなった。
彼の出身地を正確に知っている人は誰もいなかった。彼は天涯孤独だった。体が不自由だった為、まともな仕事をすることが出来なかったので、物乞いをして生活していたが、時には、万用暦や細々としたものを農場やお城に売りに行くこともあった。
時に「マックス伯爵」というあだ名で呼ばれ、子供達からは「伯爵様」と呼ばれていたが、気を悪くするということはなかった。どうして、そう呼ばれていたのかは、誰も知らなかった。とにかく、それが習慣になっていたのだ。おそらく、彼の顔立ちや立ち居振る舞いのせいではなかっただろうか。それらは、身にまとっているボロとは対照的であった。
死後数年して、彼がよく世話になっていたお城の、ある若い娘の夢の中に出てきて、次のように語った。
「この哀れなマックス親父のことを思い出してくださり、そして、祈ってくださり、本当にありがとうございました。お祈りは神様に聞き届けられました。あなたは、慈悲深い魂として、不幸な、この乞食に関心を抱いてくださり、私が一体何者なのかを知りたいと思われた。そこで、これから、そのことについてお話いたしましょう。きっと、貴重な教訓を、そこから学べるものと思います」
こう前置きした上で、彼は、おおよそ次のようなことを語ったという。
「今から一世紀半程前、私は、この地方の裕福で強大な貴族でした。しかし、浅薄で傲慢、かつ、大変自惚れていたのです。
私は莫大な財産を持っていましたが、それを自分の欲望を遂げる為だけに使いました。しかし、いくら財産があっても足りなかったのです。というのも、私は、しょっちゅう博打を打ち、放蕩と宴会に明け暮れていたからです。
家臣達のことを、私に仕える家畜同様に思っており、私の浪費癖を満たす為に、搾り取り、虐待いたしました。彼らの言うことには一切耳を傾けず――不幸な人々の訴えにも耳を貸しませんでしたが――、『私の気まぐれに奉仕出来るだけでも、ありがたいと感謝しなければならないのだ』と思い込んでいました。
やがて、私は、過度の放蕩から体を壊し、それほど年が行かぬうちに死にましたが、不幸だと思ったことは一度もありませんでした。それどころか、『あらゆるものが私に微笑みかけている』と思っていたのです。『あらゆる人が、私を、世界で一番幸福な人間だと思っているに違いない』と考えていました。
葬儀は、私の身分に相応しく、大変豪華に行われました。
遊び人達は、気前のいい殿様がいなくなったことを残念がっていましたが、私の墓の前で、一滴も涙を流す人はいませんでしたし、神に心からのお祈りをしてくれる人も、一人もいませんでした。
私のせいで悲惨な生活をする羽目になった人々は、全員、私を呪いました。
ああ、自分が不幸にした人々の呪いが、死後、どれほど恐ろしいものになるか、あなた方には、到底分からないでしょう! 彼らの呪いの声が私の耳を捉えて放さず、それが何年も何年も続き、やがて、『永遠に続くのではないか』と思われてくるのです。
しかも、彼らのうちの誰かが死ねば、次々と、必ず私の前に姿を現し、呪詛の言葉、嘲笑の言葉を吐きながら、いつまでも私に付きまとうのです。逃げ隠れ出来る場所を探すのですが、決して見つかりません。優しい眼差しをした人は一人もいないのです。
かつての遊び仲間が死ぬと、私同様不幸となり、私を避けようとします。言うことときたら、たった一つ、『もう奢ってくれないのかね! 』という言葉だけです。
ああ、ほんの1秒でもいいから休息する為なら、そして、私をさいなむ激しい喉の渇きを癒す為なら、いくらでも払うでしょう。しかし、私はもう、びた一文も持っていないのです。
そして、私がばらまき続けた黄金は、ただの一つも功徳をつくっていなかったのです。いいですか! ただの一つもですよ!
歩いても歩いても、旅の目的地が見えてこない旅人のように、疲れ果て、精も根も尽きて、私はついに言いました。
『ああ、神よ、私を哀れんでください。いつになったら、この酷い状態が終わるのでしょうか?』
すると、地上を去って以来、初めて、次のような声が聞こえてきました。
『いつでも、汝が望む時に』
『神よ、その為には、どうすればいいのですか? どうぞ教えてください。その為ならば、私は何でもいたします』
『その為には、悔い改めることが必要である。汝が辱めた、全ての人に対し、心から謝るのだ。そして、彼らに対して、とりなしをしてくれるようにお願いしなさい。というのも、侮辱を受けた人々が、それを許す気持ちになって自分を侮辱した者の為に祈った時、神はそれをよしとするからなのだ』
私は、悔い改め、謝り、私の家臣達に、私の目の前にいる家来達に、お願いしました。すると、彼らの表情が、どんどん和らぎ、優しくなり、そして、ついには、全員が私の目の前から消えていったのです。
この時、ようやく私の新たな生活が始まりました。絶望が希望に変わったのです。私は全身全霊で神に感謝しました。
すると、声が次のように言いました。
『王よ! ようやく分かりましたね』
そこで、私はこう答えました。
『ここで王と呼べるのは、全能の神よ、あなただけです。あなたは、思い上がった者達の間違いを正してくださる。
主よ、どうか私をお許しください。私は罪を犯しました。もし、それが主の望まれることならば、私の仕えた者達に私を仕えさせてください』
その後、数年してから、私は再び地上に生まれました。ただし、今度は、貧しい村人の子供としてでした。幼い頃、両親が亡くなり、私は天涯孤独の孤児として、世の中に投げ出されました。私は、とにかく自分に出来ることをして生き延びました。ある時は人足として、またある時は農場の使い走りとして。しかし、今回は、神を信じていましたので、いつも正直に働きました。
40歳の時に、病気になり、手足が動かなくなってしまいました。その為、それから50年以上にわたって、かつて自分が『絶対君主』として治めた土地で、乞食として過ごすことになったのです。
かつて私が所有していた農場で、一切れのパンを貰い――そこでは、人々が、私を馬鹿にして『伯爵』と呼んでいましたが――、かつては私のものだったお城で、馬小屋に一晩でも泊めてもらうことが出来ると、もう、嬉しくて仕方がなかったものです。
夢の中で、かつて暴君として君臨していた城の中を歩き回りました。夢の中で、何度も何度も、きらびやかな家具に囲まれた、かつての自分を見たのです。そして、目が覚めると、言いようのない、侘しい気持ちになり、後悔にさいなまれたものです。しかし、一言も不平は漏らしませんでした。
そして、ついに神に召される時が来ました。私は、この長く辛い試練を、不平不満を一言も言うことなく耐える勇気を与えてくださった神に対して、心からの感謝を捧げたものです。そして、現在、苦しかった人生に対する報いを充分に受けています。
娘さん、私の為に祈ってくださって本当にありがとう。あなたを祝福します」
(3)主人に献身的に仕えた召使い
ある貴族の家庭に、一人の若い召使いが仕えていた。この少年は、大変知的で繊細な顔立ちをしており、その立ち居振る舞いの優雅さが、皆を驚かせた。そのどこにも、身分の低さを感じさせるものがなかったのである。主人達に熱心に仕えようとする、その姿勢には、こうした境遇にある人々に特有な、卑屈さを伴った、こびへつらいの態度が、微塵も見られなかった。
翌年、再び、この家庭を訪ねると、この召使いの姿が見えなかったので、どうしたのかと思って尋ねると、次のような答が返ってきた。
「数日の間、故郷に帰ったのですが、なんと、そこで急死してしまったのです。惜しんであまりある召使いでした。本当に優れた若者で、召使いとは思われないような気高さを備えていました。私達に、とても惹かれており、心からの忠誠を誓ってくれていたのです」
暫くして、この若者の霊を招霊することになった。以下が、その時のメッセージである。
「今回よりも一つ前の転生において、私は、地上の人々が良家と呼ぶような家柄に生まれました。しかし、この家は、父の浪費によって破産したのです。私は、幼くして孤児となり、生きるよすががありませんでした。
そんな時、父の友人が私を引き取ってくれ、まるで自分の息子であるかのように、大事に育ててくれました。私は、大変立派な教育を受けましたが、そのせいで、大分傲慢な心を持つようになりました。
この時の父の友人が、今回の人生では、私が仕えた貴族のG氏として生まれ変わっております。私は、今回の人生において、低い身分に生まれることで、私の傲慢な性格を矯めようと思いました。そして、『私の面倒を見てくださった方に仕える』という形で、奉仕の心を試練にかけてみたわけなのです。G氏の生命を救ったこともあります。
今回の人生は、そういうことで、一種の試練だったのですが、私は、何とか、それをやり遂げることが出来ました。
劣悪な環境で育ちましたので、そうした環境の影響を受けて堕落しても何の不思議もなかったのです。しかし、周りが悪いお手本だらけだったにもかかわらず、私は堕落せずに済みました。そのことで神に感謝したいと思います。
現在、私は非常な幸福に恵まれており、充分に報われております」
――どのような状況で、G氏の生命を救ったのですか?
「氏が馬に乗って散歩するのに従ったことがありました。付き人は私一人だけでした。突然、大木が倒れかかってきたのですが、氏は、そのことに、全く気づきませんでした。そこで、私はもの凄い大声を上げて、G氏の名を呼んだのです。G氏は、さっと振り向きましたが、その瞬間、木は氏を直撃せずに、足元に轟音を立てて倒れました。私がそうしなかったら、氏はその大木に潰されていたでしょう」
――どうして、そんな若さで亡くなったのですか?
「私の試練がこれで充分だと神が判断されたからです」
――地上では、過去世の記憶が失われていますから、当然、あなたには試練の意味が分からなかったわけですが、それにもかかわらず、しっかりと試練に耐えることが出来たのは、どうしてですか?
「低い身分に生まれたとはいえ、私の内には、まるで本能のように傲慢な心がありました。しかし、幸いなことに、私は、何とか、その傲慢な心を統御することに成功したのです。それが、試練を克服出来た理由でしょう。もし、そうでなければ、もう一度やり直すことになったはずです。
生前、私の霊は、私の睡眠中に自由になり、過去世のことを思い出していたのです。そして、その為に、目を覚ました私の中に、私の悪しき傾向性に抵抗しようとする本能的な気持ちが生じたのだろうと思います。
過去世のことを、通常の意識状態で、はっきり思い出していたら、このようにはいかなかったでしょう。というのも、もし過去世のことをはっきり思い出していたとすれば、おそらく傲慢な気持ちが再び生じてきて混乱し、それと闘う必要が出て来ただろうからです。しかし、過去世を顕在意識で思い出さなかったので、私が闘うべき対象は、新しい境遇に伴う試練のみに限られたのです」
――「今回よりも一つ前の転生において、立派な教育を受けた」ということですが、今回の転生において、その教育によって得た知識を思い出さなかったのですから、その教育は役に立たなかったと言えるのではないでしょうか?
「確かに、そうした知識は無駄だったかもしれません。むしろ、今回の境遇においては邪魔だったかもしれません。しかし、それらは、地上において、潜在的な形で私に影響していたのです。しかも、霊界に還れば、完全に思い出すことが可能です。
とはいえ、それが無駄であったわけではありません。というのも、それによって、私の知性が発達したからです。今回の人生において、私は、本能的に、高尚なものに惹かれました。その為に、低劣な、恥ずべきものを退けることが出来たのです。その教育がなければ、私は本当に単なる召使いで終わっていたでしょう」
――自分を犠牲にしてまで主人に仕える召使いというのは、過去世において、その主人と何らかの関係を持っていたと考えるべきなのでしょうか?
「その通りだと思います。少なくとも、通常のケースでは、そうだろうと思います。召使いが、その家族のメンバーだったこともあるでしょうし、また、私の場合のように、過去世で恩を受けていて、それを返す為に召使いになったというケースもあるでしょう。
いずれにしても、その奉仕によって、主人の家族のメンバーは、精神的に進歩することになるのです。
過去世での関係が今世で生じさせる共感と反感は、あまりにも沢山あるので、その全てについて知ることは、とても出来ません。死んだからといって、地上での関係が断ち切られるわけではないのです。それは、しばしば、何世紀にもわたって継続します」
――今日では、献身的な召使いというのは、殆ど見られませんが、それは、どうしてなのですか?
「この十九世紀が、エゴイズムと傲慢の世紀だからでしょう。そこには、不信仰と唯物主義がはびこっています。物欲、強欲の蔓延する場所には、真の信仰は見られません。そして、真の信仰なしには、献身は有り得ないのです。
霊実在論は、人々に真の感情を思い出させ、そのことによって、忘れ去られた様々な美徳を回復するでしょう」
この例を見ると、「過去世を忘れていることが、どれほどありがたいか」ということがよく分かる。
もし、G氏が、自分の召使いが誰であったかを覚えていたとしたら、彼と一緒にいて、非常に困惑しただろうし、おそらく、召使いとして使うことは出来なかっただろう。もしそうなったとしたら、二人にとって為になるはずの試練が台無しになっていたはずである。
(4)ある野心的な医者の転生
ボルッドーのB夫人は、経済的苦境には陥らなかったものの、生涯を通じて、無数の病気にかかり、大変な肉体的苦痛をこうむった。
生後5ヶ月のときに始まり、その後の60年間というもの、ほとんど毎年、重病にかかっては、死の一歩手前まで行った。いかがわしい医者から、三度、あやしい薬を飲まされたこともあり、病気によってだけではなく薬によっても彼女の健康は害され、生涯を終えるまで、耐えがたい苦しみに悩まされて、それを和らげるすべはなかった。
キリスト教徒であり、霊実在主義者でもあり、また霊媒でもあった彼女の娘が、祈りの中で、神に、「母親のひどい苦痛を和らげてください」とお願いしたことがある。
すると、指導霊が出てきて、「むしろ、母親が、諦念(ていねん)と忍耐心をもって苦しみに耐える力を得ることができるよう、神様にお願いしなさい」と言い、さらに、次のようなメッセージを伝えてきた。
「地上においては、すべてに意味があります。【あなたが原因となって他者に味わわせた苦しみ】は、必ず、ブーメランのように、あなたのところへ戻ってくるようになっているのです。何かを浪費すれば、必ず不足に悩まされます。あなたが流す涙は、どの涙も、ある過ちを、あるいは、ある罪を洗い流すものであるのです。
したがって、どのような、肉体的、精神的苦痛であろうと、諦念をもって耐え忍びなさい。
身を粉(こ)にして、休むことなく働きつづける農夫には、その根気に対するほうびとして、黄金色に輝く、山のような麦の穂が与えられるのです。これが、地上において悩み苦しむ人間の運命なのです。忍耐の結果、得られる、素晴らしい収穫を心に描けば、人間生活に付きものの、たまゆらの苦労など、簡単に乗り越えることができるのです。
あなたのお母さんに起こっていることも同じです。苦しみの一つひとつが、彼女が過去に犯した罪に対する贖(あがな)いとなっているのです。そうした罪を早く消し去れば消し去るほど、幸福が早く訪れます。諦念とともに耐え忍ばない場合、苦痛は不毛なものとなるでしょう。つまり、もう一度、経験しなければならなくなるのです。
したがって、彼女にとって、いまいちばん必要なのは、勇気と素直さなのです。それこそ、神、そして高級諸神霊に対し、与えてくださいとお願いすべきでしょう。
あなたのお母さんは、ある過去世で男性として生まれ、たいへん裕福な人々を相手に医者をしていました。彼らは、『健康のためならお金に糸目は付けない』という人々であったので、この医者は、経済的に非常に恵まれ、また、素晴らしい名声も得ました。
栄光と富に対して野心を抱いていたので、彼は、医学界の頂点を極めようとしました。ただし、『同胞たちを救いたい』という思いからそうしたのではなくて、ただ単に、さらなる名声を得たいがためにそうしたにすぎませんでした。しかし、金持ちの患者に恵まれていたので、そうした目的を達成することには何の困難もありませんでした。
そして、そのために、とうてい考えられないような、ひどい実験を繰り返したのです。
痙攣(けいれん)を研究するために、ある母親に、わざと、ある薬を飲ませて痙攣を起こさせ、この母親を、苦しみのうちに死に至らしめました。ある病気の治療薬を見つけるために、子供を使って残酷な実験を行いました。また、ある年寄りが、実験によって命を縮めました。屈強な男が、ある飲み薬の効果を確かめる実験によって、見るも哀れな病人になりました。
そして、実験は、すべて、何の疑いも持っていない患者たちに対して行われたのです。
貪欲と傲慢、名声への渇望(かつぼう)が、その動機のすべてでした。
この霊が、ようやく悔悟(かいご)の心を持てるようになるまでには、死後、何世紀にもわたって、恐るべき試練にさらされる必要がありました。そして、それから、ようやく再生のための贖(あがな)いが開始されました。今回の人生の試練は、それまでに体験したことに比べれば、まだまだ薬であると言えるのです。
したがって、今世は、勇気をもって、そうした試練に耐えなければなりません。苦しみはひどく、また長いかもしれませんが、忍耐強く、諦念をもって、謙虚に耐え忍んでください。そうすれば、それに対する報いは大きなものとなるのです。
苦しんでいる人々よ、どうか勇気を持ってください。物質世界での生活など、ほんの一瞬なのです。その後に待っている永遠の喜びを、どうか思い描いていただきたいのです。
希望という友に呼びかけないさい。そうすれば、希望は、必ず、苦しみを和らげに、あなたのそばに来てくれます。希望の姉である信仰にも呼びかけなさい。信仰は、天国をかいま見せてくれるでしょう。そして、希望があれば、より容易に天国に入れるのです。
さらに、天使たちを送ってくださるように、神様にお願いしなさい。天使たちは、あなたを囲み、あなたを支え、あなたを愛してくれるでしょう。天使たちの、変わることのない思いやりに励まされて、あなたが、その法を犯し、冒涜(ぼうとく)した神様のところへと、再び戻ることが可能となるのです」
B夫人は、死後、娘、そしてパリ霊実在主義協会に霊示を送ってきた。それは、たいへん卓越した内容のものであったが、そこで、彼女は、指導霊によって明かされた自分の前歴をすべて認めた。
(5)ジョゼフ・メートル――苦難に襲われた男性
ジョゼフ・メートルは、中産階級の家庭に生まれた。まずまず快適な生活に恵まれ、物質的には満足すべき環境であった。両親は、彼に、よい教育を受けさせ、やがて、彼が企業で働くものと考えていた。ところが、20歳のときに、彼は、突然、盲目となった。そして、一八四五年、50歳のときに亡くなった。
死の10年ほど前、彼は二つ目の苦難に襲われた。耳がまったく聞こえなくなったのである。まわりの人々とのかかわりは、触角を通じてのみ成立した。目が見えないというだけでも、すでに相当な苦しみであるのに、さらに耳が聞こえなくなったのであるから、まさに、残酷な拷問を受けているようなものであった。
いったい、なぜ、このようなことになったのだろうか? 今回の人生での振る舞いが原因でないことは明らかである。というのも、彼の生き方は申し分のないものであったからだ。
よき息子であり、柔和(にゅうわ)な性格で、思いやりに満ちていた。目が見えなくなり、さらに耳が聞こえなくなったときも、彼は、潔(いさぎよ)く、その事態を引き受けて、ひとことも不満をもらさなかった。話し振りを見れば、精神にまったく曇りがないことが分かったし、その知性は卓越したものだった。
ある人が、「彼の霊と話をすれば、きっと有益な教訓が得ることができるに違いない」と考えて、彼の霊を招霊し、質問に対する次のような返答を得た。
「友人諸君、私のことを思い出してくださって、どうもありがとう。もっとも、私との対話から教訓が引き出せると思わなければ、私のことなど思い出してはくださらなかったのでしょうが。
いずれにしても、私は喜んで諸君の招霊に応じました。『あなたがたのために役立つことで私が幸福になれる』ということで、許可されたからです。神の正義に基づいて、あなたがたに与えられた、数多くの試練の見本に、どうか私の例も加えてください。
ご存じのとおり、私は、目が見えず、また、耳も聞こえませんでした。そして、あなたがたは、私が、いったい何をしたために、そのようなことになったのかを知りたいと思っておられる。それを、これから明かしましょう。
まず、『私の目が見えなくなったのは、今回が初めてではない』ということを知っておいてください。前回の転生は、今世紀の始めごろだったのですが、そのときにも、私は30歳のときに盲目となっております。
このときには、あらゆる面で不摂生をしたために、体が衰弱し、健康を損ない、その結果として目が見えなくなったのです。それは、神からいただいた贈り物を濫用(らんよう)したことに対する罰でした。私は多くの才能に恵まれすぎていたのです。
しかし、原因が自分自身にあるということが分からずに、私は、あまり信じてもいなかった神を責めたのです。神を冒涜し、否定し、避難しました。『もし神が存在するとしたら、それは、不正で、意地の悪い神でしかない』と叫んだのです。なぜなら、こんなふうにして、自分の創造物を苦しめるからです。
しかし、目の見えない他の人々と違って、物乞いをして生活の質を得なくて済むことに、むしろ感謝すべきだったのです。だが、そうはいきませんでした。自分中心の発想しかできず、数多くの楽しみを奪われたことに我慢がなりませんでした。
そんな考えに支配され、また、信仰がなかったので、私はすっかり気難しい人間になってしまいました。すぐに苛立つ人間、ひとことで言えば、まわりの人々にとって耐えがたい人間となったわけです。
それ以来、人生の目標を失ってしまいました。将来は、もう悪夢でしかなく、考える気もなくなりました。最新のあらゆる治療を受けた果てに、治療不可能と知るや、私は絶望して、人生に終止符を打ちました。つまり自殺したのです。
だが、目覚めてみると、それまでと同じように、闇の中に置かれていたのです。しかし、徐々に、もう物質界にはいないことが分かってきました。私は盲目の霊になっていたのです。こうして、墓の彼方にも生命があるということを知ったわけです。
その生命を消して、虚無に逃げ込もうとしたのですが、どうしても、うまくいきません。空虚の中で、行き詰まってしまったのです。
『かつて人々が言っていたように、もし死後の生命が永遠だとしたら、おれは永遠にこのままなのか』と思いました。この考えは本当に恐ろしい考えでした。
痛みがあったわけではありません。しかし、私の苦しみや苦悩は耐えがたいものだったのです。いったい、どれくらい、これが続くのだろう? それが分からない。いつ終わるか分からない時間がどれほど長く感じられるか、あなたがたには分かりますか?
疲れ果て、精も根も尽き果てて、私はついに自分自身に戻ってきました。
そうすると、私を越える力が、私を支配し、重くのしかかっていることが分かってきたのです。そして、『もし、この力が私をつぶそうとしているなら、同様に、私を解放することもできるはずだ』と考えたのです。
そこで、その力に哀れみを乞いました。
心を込めて祈るうち、何となく、『このつらい状況には終わりがある』ということが分かってきました。ようやく光を得ることができたのです。清らかな神の光をかいま見、まわりに、優しくほほえんでいる、明るく輝く霊人たちの姿を見たときの私の喜びを、どうか想像してみてください。
彼らについていこうとしたのですが、何か見えない力によって、そこにとどめられました。
そのとき、霊人たちの一人がこう言うのが聞えました。
『あなたが無視していた神が、あなたが神のほうに向かれたことをよしとされて、あなたに光を与えることを、われわれに許可されました。
しかし、あなたは拘束と倦怠(けんたい)に嫌気がさしたにすぎません。もし、あなたが、ここで、みなが享受(きょうじゅ)している幸福を享受したいのであれば、その悔い改めと、よき思いが本物であることを、地上の試練を克服することによって証明しなければなりません。しかも、再び同じような過ちに陥る可能性のある条件のもとで――いや、今度は、その条件がさらに厳しくなるわけですが――そうしなければならないのです』
私は、もちろん喜んで受け入れました。そして『今度こそ、やり遂げます』と誓ったのです。
そういうわけで、再び地上に戻り、あなたがたもご存じのとおりの生活をしました。
善良に生きることは、それほど難しくありませんでした。というのも、私はもともと意地悪な人間ではなかったからです。
今回は、生まれつき信仰をもって人生を開始しました。したがって、神に不満をぶつけるということはせずに、二重の不自由を甘受(かんじゅ)したのです。至高の正義に命じられた償いだったからです。
最後の10年ほどは、目も見えず、耳も聴こえなかったために、まったくの孤立の中で過ごしましたが、それでも絶望はしませんでした。死後の世界を信じていましたし、神の慈悲を信じていたからです。
その孤立状態は、むしろ好ましくさえあったのです。というのも、完全な沈黙に満たされた長い夜のあいだ、私の魂は自由になり、永遠のほうへとあまがけてゆき、無限をかいま見ることができたからです。
そして、ようやく解放が許された日、私が霊界に還ると、そこは、壮麗(そうれい)さと素晴らしい喜びに満たされていました。
前回の転生と、今回の転生を比べてみて、いろいろなことが分かるにつれ、私は神に感謝せざるを得なくなりました。
しかし、前方を見ると、完璧な幸福に至るまでに、まだまだ、どれほど進まなくてはならないかが分かります。
私は償いを果たしました。今後は巧徳を積まなければなりません。【今回の人生は自分のために役立っただけ】だからです。
もうすぐ、また地上へ転生して、今後は他者のために役立つ生き方をしたいと思っています。そうすることで、役に立たなかった人生を補えるでしょう。そうすることで、初めて、よき念いを持ったあらゆる霊に対して開かれた、祝福された道を歩みはじめることができるのです。
以上が私のお話です。もし、このお話を聞いて、地上にいる私の同胞たちの何人かでも、啓発され、そのために、彼らが、私の落ちたぬかるみにも落ちないで済んだとしたら、私は、そのとき、ようやく〝借金〟を返しはじめたことになるのです」