第2部 天国霊・地獄霊からの通信の記録
第1章 幸福に暮らす霊
(1)サンソン氏――死後の招霊を希望していた男性
サンソン氏は、パリ霊実在主義協会の古くからのメンバーであったが、一年間のひどい苦しみのあとで、一八六二年四月二十一日に亡くなった。生前、みずからの死期を悟った氏は、協会の会長宛てに、次の一節を含む手紙を送ってきた。
「私の魂と肉体が、もし、突然、分離するようなことがありましたら、どうか、私が約一年前に依頼しましたことを思い出してくださるようお願い申し上げます。私の霊を、できるだけ早めに、できるだけ頻繁に招霊していただきたいのです。
地上にいるあいだは協会のためにほとんどお役に立てなかった私ですが、霊界からさまざまな情報をそのつどお送りすることによって、みなさまに、研究のための材料を提供させていただきたいと思うからです。俗に『死』と呼ばれている現象が――それは、われわれ霊実在主義者にとっては、単なる変化にすぎないわけですが――どのような経過をたどるのかを、みなさんにお知らせしたいのです。
さらに付け加えてお願いしたいのですが、私の霊がそれほど進化していないために、もしも、死後の霊的解部とでも言うべきこの作業が不毛なものになりそうな場合、どうか、それを適当な段階で打ち切っていただきたいのです。
また、高級諸霊が忠告を通じて私を助けることをご許可くださるように、神に対して祈っていただきたいのです。特に、われわれの霊的な指導者である聖ルイに対し、私の次の転生の時期と場所を選ぶことに関して、私をご指導くださるよう祈っていただきたいのです。というのも、すでに、この問題は私の大きな関心の的となっているからです。
もっとも、こんなに早々と、こんなに思い上がったかたちで、次の転生のことまで神にお願いしようとしていることを、私がひそかに恥じているのもまた事実なのですが」
「死後、できるだけ速やかに招霊してもらいたい」というサンソン氏の希望をかなえるため、われわれは、協会の他の数人のメンバーとともに、喪中の家を訪れた。そして、そこで、遺体を前にして招霊を行い、以下の対話を得た。それは埋葬の一時間前のことであった。
これには二重の目的があった。一つは、サンソン氏の遺志を尊重するということ。もう一つは、死んだ直後の魂――それも、卓越した知性を備え、悟りも高く、霊実在主義の教える真理を深く究めていた人の魂――が、どのような状況を経ることになるのかを観察するということである。霊実在論に基づく信仰が、死後の霊にどのような影響を及ぼすことになるのか知りたかったし、また、霊の最初の印象がどのようなものであるかを把握したかったのである。
サンソン氏は、完全な意識状態で、生から死への移行の様子を語ってくれた。彼は、一度、死に、そして霊界に生まれ変わったわけだが、心境は一変していた。それは、彼の悟りの高さのしからしむるところであろう」
Ⅰ 喪中の家にて 一八六二年四月二十三日
――招霊を行います――
「私はいま、約束を果たすために、こうして出てまいりました」
――サンソンさん、こうして、あなたの死後、できるだけ早くあなたをお呼びしたのは、約束を果たすためでもあり、また、それは、われわれにとっての大きな喜びでもあります。これはあなたが望まれたことです。
「神の特別の思し召しによって、私の霊に通信が許されました。あなたがたの善意に感謝申し上げます。しかし、私には力がないために、うまくゆくかどうか心配です」
――あなたは亡くなる際にずいぶん苦しんでおられましたので、現在お元気なのかどうかお尋ねします。いまでも苦しみは感じておられるのですか?現在の状況と二日前のそれを比べると、どんな違いがありますか?
「現在はたいへん幸せです。もう苦しみはまったく感じられません。私は、再生し、回復しました。地上の生活から霊界の生活への移行は、当初は何が何だかよく分かりませんでした。しかし、死の前に、私は神に祈って、『愛する人々と話ができますように』とお願いしてあり、神はそれを聞き届けてくださいました」
――意識がはっきりするのに、どれくらい時間がかかったのですか?
「八時間ほどです。繰り返しますが、神が私の言うことを特別に聞いてくださったのです。私をそれなりに評価してくださったのでしょう。感謝の言葉もありません」
――どうして、もう地上にはいないということが分かるのですか?どのようにして、それを確かめることができるのですか?
「私がもはや地上に属していないことは、はっきりと感じられます。
しかし、あなたがたを守り、支えるために、ずっとあなたがたのそばにいるつもりです。そうして、慈悲の心と献身の大切さを説くつもりです。それこそが、私の人生の指針でしたから。それから、本当の信仰を、霊実在論に基づく真実の信仰を説き、正義と善の信仰を復興するつもりでおります。
私はいま、たいへん力強い感じを受けています。ひとことで言えば変身したのです。私は、もはや、すべての喜び、すべての楽しみから見放された、物忘れのひどい、あの惨めな老人ではありません。いま私を見ても、きっと私が誰なのか分からないでしょう。私は霊になってそれほど変わったのです。私は空間に住まい、私の目指す未来は神であり、その神は、無限の空間の中で輝き渡っています。
もし可能であれば、私の子供たちにこのことを話してあげたいものです。あの子たちは、どうしても信じようとしませんでしたからね」
――ここにあなたの遺体がありますが、これを見ると、どのような感じがしますか?
「哀れでちっぽけな抜け殻にすぎません。あとは塵(ちり)になるだけです。そして、私は、私を評価してくださった人々のよき思い出を持ちつづけるのです。
変形した、哀れな私の肉体が――私の霊が宿っていた小さな肉体が――見えます。そこに宿って、私は長年の試練に耐えたのです。ありがとう、私の哀れな体よ。おまえのおかげで私の霊は浄化されました。おまえに宿って味わった聖なる苦しみが、私の功績となったのです。こうして、死んですぐ、おまえに話しかけることができるとは思ってもみませんでした」
――最期の瞬間まで、意識ははっきりしていましたか?
「はい。私の霊は最後まで能力をしっかりと保持していました。もう見ることはできませんでしたが、感じとることはできました。
それから、私の一生が目の前に展開されました。
私の最後の願いは、死後、あなたがたと話すことでしたが、それがいまこうして実現しています。そして、私はあなたがたを守れるように神にお願いしました。そうすることで私の夢を実現させたかったのです」
――あなたの肉体が最後の息を引き取ったとき、そのことを意識していましたか?そのとき、あなたの内部で何が起こったのですか?どんな感じがしましたか?
「地上の生命が粉々になり、視覚が失われました。空虚、未知――。そして、いきなりものすごい力に運ばれて、歓喜と偉大さに満ち満ちた世界にいることに気がついたのです。もはや、感じることも、理解することもできませんでした。ただ、筆舌(ひつぜつ)に尽くしがたい幸福に満たされていたのです。もはや苦しみはいっさい感じられませんでした」
――あなたのお墓の前で――(私がどんなことを言おうとしているかご存知ですか)?
最初の数語が発せられるや否や、ただちに答えが返ってきた。質問を最後まで言う必要はなかった。また、仲間のあいだで、この問答を葬儀の際に墓の前で読むかどうかに関し、意見が分かれていたのだったが、それに対する答えも与えられた。
「ああ、知っていますとも。昨日もあなたはここにいましたし、今日もいましたから。私はたいへん満足しています。ありがとうございます。本当にありがとうございます。それから、人々は死者を尊重していますので、何も恐れずに、すべてを話してください。そうすれば、人々はあなたを理解し、あなたに敬意を払うでしょう。話してください、信仰なき人々が廻心(えしん)の機会を得られるように。話してください、勇気を持って、そして自信を持って。願わくば、私の子供たちが廻心して信仰の道に入れますように」
ということで、葬儀の際に、われわれは彼から伝えられた次の言葉を読み上げた。
「わが友人たちよ、死を恐れる必要はありません。もし、よき生き方をしているのであれば、死とは休憩にほかなりません。もし、やるべきことをやり、試練に打ち勝っているとすれば、死とは幸福にほかなりません。
繰り返し言いましょう。勇気を持って、そして熱意を持って生きてください。地上の財物に執着しないことです。そうすれば、必ず報われます。他者のために生きてください。心の中で悪を犯さないように。そうすれば、地球は軽やかな場所になります」
Ⅱ パリ霊実在主義協会にて 一八六二年四月二十五日
――招霊を行います――
「わが友よ、私はいま、あなたがたのそばにおります」
――葬儀の当日に、対話できたのは、たいへんうれしいことでした。さて、あなたの許可があったので、こうして再びお話をし、教訓を完成させたいと思います。
「準備は万全です。私のことを思ってくださって、とても幸せです」
――こうして、見えない世界についての情報をいただき、それを理解できるようになるということは、実にありがたいことです。というのも、あの世についての間違った捉え方が、しばしば不信仰を生み出すものとなっているからです。どうか、私たちの幼稚な質問に驚かないようにしてください。
「大丈夫です。それでは質問してください」
――あなたは、生から死への移行を、たいへん分かりやすく、はっきりと描写してくださいました。「息を引き取った瞬間に、地上の生命が粉々になり、視覚が失われた」とおっしゃいました。そのとき、何か、苦しみや、つらさを感じましたか?
「おそらく、そうした苦しみはあったのでしょうが、あまり覚えていません。
というのも、生とは、絶え間ない苦しみの連続であり、死とは、そうした苦しみに対するほうびなのですから。死の瞬間には、肉体を脱ぎ捨てるために途方もない努力をしなければならず、そのために、あらゆる力が傾注されますので、自分がどうなっているかということは考えている暇もないのです」
このケースは、決して普遍的なものではない。経験によれば、多くの霊は、息を引き取る前に、すでに意識を失っているし、また、それ以外の、ある程度、脱物質化が進んでいる霊は、努力なしに肉体からの離脱を果たすこともあるからである。
――もっと苦痛に満ちた死の瞬間を迎える霊もいるということはご存知ですか?たとえば唯物主義者。「死ねば何もかも終わる」と思っている人間にとって、死の瞬間は大変なことになるのではないでしょうか?
「そのとおりです。死の準備のできている霊の場合、苦しみは存在しないと言ってよいでしょう。あるいは、安らかに死を迎えることができるので、苦しまずに済むのです。死後、自分がどうなるかが分かっているからです。死の瞬間には、精神的な苦しみがいちばん大きなものであり、それがないということは、とてもありがたいことなのです。
死後の世界を信じない者は、ちょうど死刑を宣告された罪人に似ています。ギロチンの刃が見えますが、それが落ちたあと自分がどうなるか分からないのです。こうした死と、無神論者の死はよく似ています」
――頑迷な唯物論者で「死後は虚無だ」と信じている人もいるようですが。
「そうですね。最後の瞬間まで『死後は虚無だ』と信じている人もいます。しかし、霊と肉体が分離する瞬間に、霊の自覚が戻ってきます。そして、事態が理解できないために苦しむのです。どうなったのかを把握しようとするのですが、それができません。分離のときには必ずそうしたことが起こります」
「信仰を持たない者が死の瞬間にどうなるか」ということに関して、別のある霊は、次のように語ってくれた。
「頑迷な無神論者が死の瞬間にどうなるかということですが、悪夢の中で、崖っぷちに立ち、もう少しで落ちそうになっていることがありますね、あれにそっくりなのです。
逃げようとしても逃げられず、歩くことさえできない。何かにつかまろうとするのだが、何も見つからず、だんだん滑り落ちていく。誰かを呼ぼうとしても、声を出すことができない。身をよじって、こぶしを硬く握り締め、声にならない叫び声を上げる。ちょうどそんな感じです。
それが普通の悪夢なら、やがて目が覚め、恐怖から解放されます。夢を見ていただけだということが分かり、再び幸せを感じることができるのです。
ところが、死の瞬間の悪夢は、もっともっと長引き、死を越えて、ときには数年間も続くことがあるのです。そういう場合、霊にとっては本当につらい体験となります。暗闇に閉じ込められたのと同じなのですから」
以下、再びサンソン氏の霊に聞く
――「死の瞬間には何も見えなかった」とおっしゃいました。「肉体の目では何も見えない」ということは分かります。しかし、生命が消える前に、霊界の光をかいま見るのではないですか?
「先ほど言ったとおりです。死の瞬間には、霊が覚醒します。肉体の目には何も見えませんが、霊的な深い目が開けて、瞬間的に未知の世界を発見するのです。真理がただちに現れ、そのときの心境、そして過去の記憶に応じて、ある者には深い喜びが、ある者には得体の知れない苦しみが与えられます」
――あなたの霊的な目が開けたときに、何に打たれたのですか?何が見えたのですか?もし可能なら、そのとき見えたものを描写してください。
「われに返って自分の前にあるものを見たときに、目がくらんだように感じられました。すぐには意識が覚醒しなかったらしく、事態がよくのみ込めなかったのです。
しかし、神の善意のおかげで、私はさまざまな能力を取り戻しました。多くの忠実な友人たちがまわりにいるのが見えました。また、地上での交霊会で私たちを助けてくれていた指導霊たちが来て、私を取り囲み、ほほえみかけてくれました。比類のない幸福感に包まれて、彼らは生き生きとしており、私自身も、強いエネルギーに満たされて元気はつらつとしており、空間を超えて自由に移動できるのです。
私が見たものを人間の言葉で描写するのは不可能です。
今後、さらに招霊に応じ、神の許可が下りる範囲で、私の幸福について語ってみたいと思っています。地上であなたがたが幸福だと思っていることなど、まるで錯覚にすぎません。
どうか、智慧(ちえ)に従って、聖なる生き方をしてください。慈悲に満ちた、愛にあふれた生き方をしてください。そうすれば、どのような大詩人であっても描写できないような、素晴らしい霊界生活が待っています」
おとぎ話というのは、信じられないようなことでいっぱいである。だが、霊界で起こることも、ある意味では、似たり寄ったりではないだろうか。サンソン氏の話は、「薄暗い、哀れな掘っ立て小屋で眠り込んだ男が、起きてみたら、壮麗な王宮にいて、輝かしい宮延人たちに囲まれていた」というおとぎ話に似ている。
――霊人たちは、どんな様子をしているのですか?人間のような姿をしているのですか?
「地上における交霊会で、霊たちは、『霊界においては、地上でとっていた一時的な姿形をそのまま保持している』と言っていましたが、まさにそのとおりです。
しかし、地上でのみすぼらしい肉体と、霊界での素晴らしい霊体の違いは、もう本当に比べようがありません。天上界には醜(みにく)さというものがまったく存在しないのです。地上の人間に特有の粗雑(そざつ)さというものがいっさい感じられないのです。これらの典雅(てんが)な霊体は、神の祝福を受けており、形態のもつあらゆる優美さを帯びています。
また、その言語の美しさは、とても伝えることができませんし、星のようなまなざしの持つ深さも、地上の言葉ではとうてい表現できません。建築家の中の建築家である神がその全能を用いて創り上げるものが、いかなるものとなるか、どうか想像してみてください。さすれば、天上界の美しさの一端なりとも感じられるのではないかと思います」
――あなたの目には、あなた自身はどのように見えるのですか?輪郭(りんかく)のある、境界を持った形態をとっているように見えるのでしょうか?頭、胴体、腕、脚などを持っていますか?
「霊は、地上での形態を保持していますが、それは、神聖化され、理想化されています。もちろん、手足もありますよ。脚も指もしっかりと感じることができます。そして、思いによって、あなたがたの前に出現し、腕に触れることもできます。
いま私はあなたがたのすぐそばにおり、みなさんの手を握っているのですが、もちろん、あなたがたにはそれは感じられないでしょう。われわれがそう望みさえすれば、空間を乱さずに、何の気配も感じさせずに、どこにでも出現できるのです。いま、あなたは手を組んでいますが、私はそこに手を添えているのですよ。
『あなたがたを愛しています』と私は言いますが、私の体はいかなる場所も占めず、物質界の光は私の体を透過していきます。あなたがたにとっては奇跡にほかならないことが、われわれ霊人たちにとっては日常茶飯事なのです。
霊人の視覚は、人間の視覚とは異なります。同様に、体も、地上の人間の体とはまったく異なります。存在全体が根本から変わってしまうのです。
繰り返しますが、霊には神聖な洞察力が備わっており、すべてにそれが及びます。ですから、あなたがたが考えていることが手に取るように分かるのですよ。
また、あなたがたが最も思い出しやすいような形態をとることも可能なのです。しかし、試練をすべて通り抜けた高級霊は、神のそばにいるのにふさわしい姿をしています」
――交霊会の様子は、あなたの目にはどのように映りますか?生前ご覧になっていたのと同じように見えるのでしょうか?人々の様子は、生前ご覧になったのと同じですか?同じようにはっきり見えますか?
「むしろ、生前よりも、ずっとはっきりしていますよ。とういのも、私には全員の思いが読めるからです。それに、降臨している霊人たちのよき思いが、この部屋には満ち満ちていますから、私は非常に幸せなのです。
こうした調和が、パリ霊実在主義協会のみならず、フランス中の支部において見られたら、どんなによいことでしょうか。というのも、離反(りはん)し合い、嫉妬(しっと)し合っているために、混乱を好む悪霊たちに支配されてしまっているグループが、まだ数多く存在するからです。『霊実在論の真髄は、エゴの完全な滅却にある』ということを、しっかり自覚してほしいものです」
――あなたは、私たちの思いが読めるとおっしゃいました。どのようにして、われわれの思考があなたに伝わるのか、そのメカニズムを教えていただけませんか?
「説明するのは難しいですね。霊に特有の、そうした驚異的な能力を説明するためには、新たな概念がたくさん詰まった巨大な言葉の兵器庫を開かなくてはならないし、あなたがたも霊人たちと同じくらい智慧を持たなければならないからです。しかし、あなたがたの能力は物質によって制限されているために、それは不可能なのです。
忍耐強くあってください。よき生き方をするのです。そうすれば、やがて必ず分かります。希望を持って向上しつづければ、必ずわれわれと同じようになれるのです。本当に人生に満足して死ねれば、多くのことを得ることができます。
考えることを本性とする人間にとって、好奇心は大事なものです。その好奇心を満たしつつ、死ぬまで穏やかに生きてください。そうすれば、過去・現在・未来のあらゆる疑問をやがて解くことができるでしょう。
それまでは、次のようにでも言っておくしかありません。すなわち『あなたがたを取り囲んでいる、われわれと同様、触ることのできない空気が、あなたがたの思いを伝えるのであり、あなたがたの吐く息に、あなたがたの思いが書き記されているのです』と。
『あなたがたの思いは、あなたがたのまわりに出没している霊人たちによって、絶えず読まれているのだ』ということを、どうぞ忘れないでください。神の死者たちに対しては、何も隠すことはできないのです」
(2)シドゥニエ――事故で溺死した霊媒
善人として生きたが、事故で亡くなった。生前は霊媒として知られていた。
一八六一年二月一日、ボルドーにて。
――あなたの死の状況について教えていただけますか?
「私は溺死しました」
――死んでからのことを教えていただけませんか?
「自分を取り戻すまでに、だいぶ時間がかかりました。でも、神の恩寵(おんちょう)と、助けに来てくれた仲間たちのおかげで、光に満たされていったのです。
期待以上の素晴らしさでした。いっさいが物質とは関係ないのです。すべてが、それまで眠っていた感覚を揺り起こします。目に見えず、手で触れられない世界です。
想像できますか?あまりにも素晴らしいために、あなたがたの理解を絶します。地上の言葉では説明不可能なのです。魂で感じないと分かりません。
目覚めたときは、とても幸福でした。『地上の人生とは悪夢でしかなかった』ということがよく分かりました。
その悪夢の中で、あなたがたは悪臭ぷんぷんたる独房に閉じ込められているのですよ。蛆虫(うじむし)が身を食い破って骨の髄(ずい)まで達しようとしており、しかも、あなたは燃え盛る火の上につるされているわけです。カラカラに渇いた口は、空気を吸うことさえできません。あなたの霊は恐怖にとらわれており、まわりを見ると、あなたをのみ込もうとする怪物ばかりです。
想像し得るかぎりのおぞましいもの、恐ろしいものに囲まれていたのに、目を覚まして見れば、なんと、うっとりするようなエデンにいるわけです。
まわりには、かつて愛した人々がいます。そして、幸福に輝く顔で、あなたにほほえみかけてくれるのです。あたりには、心地よい香りが漂い、命の水で、渇ききった喉(のど)を潤(うるお)すことができます。無限の空間の中に体は憩い、優しいそよ風が、甘い花の香りを運んできます。生まれたばかりの赤ん坊が母親の愛に包まれるように、あなたは神の愛に包まれます。そして、いったい何が起こったのか、まだよく分かりません。
さて、以上、死後に人間を持つ幸福感をあなたに説明しようと思ったのですが、どうやら、それは不可能なようです。ずっと狭い箱に閉じ込められてきた、目の見えない人に、無限の空間の広がりを理解させようとするようなものです。
永遠の幸福を感じとるためには、愛しなさい! というのも、愛だけが、それを感じ取らせてくれるからです。
もちろん、ここで『愛』といっているのは、エゴイズムの不在のことです」
――霊界に還った直後から、もう幸福に満たされていたのですか?
「いいえ。まず地上でつくった〝借金〟を返さねばなりませんでした。私は死後の世界を感じてはいましたが、無神論者だったからです。
私は、神への無関心を償う必要があったのですが、神はたいへん慈悲深い方であり、私がなし得たごくわずかな善を評価してくださり、私が多くの苦しみを諦念(ていねん)とともに受け入れていたことを、とても高く買ってくださいました。
神の正義の感覚は、とても人間には理解できません。地上でなし得たほんのわずかな善を、思いやりと愛とで非常に高く評価してくださり、あっという間に多くの悪を消してくださるのですから」
――あなたの娘さんは、そちらでどうしていらっしゃいますか?(父親の死後、四、五年して、娘も亡くなった)
「使命を帯びて再び地上に生まれ変わっております」
――彼女はいま、人間として幸福なのでしょうか?もし差し支えなければ、お教え願いますか?
「そうですね、私には、あなたの気持ちが、まるで手に取るように分かりますよ。あなたが単なる好奇心から聞いているのではないことが、よく分かります。
彼女は現在、人間としては幸福ではありません。むしろ、あらゆる地上の悲惨が彼女の身に及んでいると言ってよいでしょう。しかし、それにもかかわらず、彼女はみずから手本として、偉大な徳を示さなければならないのです。
私は彼女を見守り、助けるつもりでおります。彼女は、数多くの障害を、さほど苦しまずに克服してゆくでしょう。彼女は償いのために生まれたのではなくて、使命を帯びて生まれたからです。ですから、彼女のことは心配しないでください。彼女のことを覚えていてくださってありがとう。感謝します」
このとき、霊媒は急に文字を書くことに困難を覚えはじめた。どうも、通信の送り手が別の霊に替わったようである。そこで、次のように言った。
――もし、苦しんでいる霊がいまここに来ているのでしたら、名前を教えてください。
「不幸な女です」
――名前を教えていただけますか?
「ヴァレリー」
――どういうわけで罰を受けているのか、教えていただけますか?
「いやです」
――過(あやま)ちを後悔していますか?
「そんなこと、分かっているでしょう?」
――誰があなたをここに連れてきたのですか?
「シドゥニエです」
――どんな目的で?
「私には、あなたの援助が必要なのです」
――先ほど、字を書くのが困難になったのですが、あれはあなたのせいですか?
「私が彼と入れ替わったからです」
――あなたと彼の関係は?
「彼が私をここに連れてきました」
――われわれと一緒に祈ってくれるように彼に言ってください。
祈りのあとで、シドゥニエが再び通信を送ってきた。
「彼女の代わりにお礼を言います。よく理解してくださってありがとう。このことは決して忘れません。どうか、彼女のことを思ってあげてください」
――霊として、あなたは多くの苦しむ霊の面倒を見ているのですか?
「いいえ、そんなことはありません。でも、一人の霊人を立ち直らせると、すぐに次の霊人の世話をします。もちろん、それ以前の霊人たちも、ずっと見守るのですが」
――そんなことをしていたら、何世紀もたったとき、無数の霊人たちを見守ることになりませんか?
「立ち直った霊人たちは、みずから浄化に励み、進歩を遂げていくのですよ。ですから、だんだん面倒を見る必要がなくなっていくのです。それに、われわれも、日々、進歩していますから、向上するにつれ、われわれの能力も増し、ますます強い浄化の光を放つようになるのです」
未熟な霊には、善霊たちが付いて助けているのである。これは善霊たちの使命である。そうした仕事は、地上の人間には必ずしも期待されていない。しかし、それに協力することは大切なことである。というのも、そのことによって地上の人間も向上することができるからである。
善霊との交信中に、たとえば右(上)の例のように、未発達霊が割り込んでくることがときどきあるが、それが常によき意図によるものであるとは限らない。しかし、それでも、善霊はそれを許すことが多い。それは、ある場合には地上の人間への試練ともなるし、また、ある場合には未発達霊自身の向上にもつながるからである。
介入の欲求は、ある場合には、妄執(もうしゅう)と言えるほどのものになることがある。しかし、その欲求が強ければ強いほど、彼らはそれだけ援助を必要としているということになる。したがって、それを拒否することは、よいことではない。彼らは、物乞いをしている哀れな人間と同じで、次のように言っているのである≫
「私は不幸な霊です。善霊が私を教育のために送り込んだのです」
もし彼らを救うことに成功すれば、それは彼らの苦しみを短縮し、彼らを立ち直らせたことになる。その仕事はしばしば苦痛に満ちたものとなるので、善霊とだけ交信し、よい内容のメッセージだけを受け取っているほうが楽に決まっている。だが、自分の満足だけを求め、他者に善をなす機会を拒否するようでは、やがて善霊の守護を失うことになるのは明らかである。
(3)寡婦フロン夫人――失明した細密画家
フロン夫人は、一八六五年二月三日にアンチーブで亡くなったが、それまで長いこと、ル・アーブルに住み、細密画家として名声を博していた。彼女は、その驚くべき才能を、最初のうちは、みずからの楽しみのためだけに使っていた。しかし、やがて生活難の日々がやってきて、彼女は細密画によって生計を立てるようになる。
彼女を知る多くの人々が、彼女を愛し、尊敬したのは、彼女の親切さによるところが大きい。彼女と親しく付き合った人々のみが、彼女の持っていた、さまざまなよき性格を知ることができた。
というのも、生来よき資質に恵まれた人々の例にもれず、彼女もまた、そうした美点をひけらかすようなことは、いっさいしなかったし、そうしたものが自分にあるなどと、そもそも思わなかったからである。
エゴイズムから完全に無縁な人間がいるとすれば、それが彼女であった。彼女のように私利私欲を捨てて生きた人は、ほかにいなかっただろう。人のためであれば、みずからの休息、健康、利害など、はなから捨てて顧みなかった。その生涯は、献身に次ぐ献身であったし、若いころから過酷な試練の連続であったが、彼女は、勇気、諦念(ていねん)、精進をもって、それらに立ち向かってきた。
しかし、細かな作業のために、彼女の視力は徐々に落ちていき、ついには完全な失明に至った。
フロン夫人が霊実在論を知ったとき、それは彼女にとっては一条の光のように感じられた。それまで直観で漠然と感じていたものの上にかかっていたヴェールが、すっと剥(は)がれ落ちたような気分がしたのである。
そこで、彼女は熱烈に、しかし冷静な心は失わずに、また、彼女の知性の根底をなしていた正しい判断力を使って、霊実在論を研究しはじめた。彼女の人生は、そして、彼女と親しかった人々の人生に立ちはだかった、数多くの困難の理由を、ぜひとも見極める必要があったからである。
研究を続けるうちに、崇高な啓示(けいじ)に基礎を置く霊実在論から、あらゆる慰(なぐさ)めを得て、死後の世界への揺るぎない確信を持つに至り、地上のすべてが幻であることを心の底から悟(さと)った。
彼女の死は、その生涯にふさわしいものであった。彼女は、死が近づくのを完全に平静な心で受け入れた。死とは、彼女にとって、地上のくびきからの解放であり、霊実在論から学んだ幸福な霊界での生活への移行にすぎなかったからである。
彼女は穏やかに死を迎えた。というのも、地上に降りてくる際に自分が引き受けた使命をすべて果たし、妻としての、また、母としての義務をしっかりと行い、彼女から恩を受けながら、恩をあだで返すような仕打ちをした人々に対する悪感情を、すべてきれいに捨て去ったということが、自分でもよく分っていたからである。
彼らの悪に報いるに、常に善をもってなした彼女は、地上を去るに当って彼ら全員を許し、自分自身に関しては、神の善意と正義に完全に身を委(ゆだ)ねることにした。
彼女は、心が浄化された人に特有な、真に平穏な死を迎えることとなった。死んだからといって、子供たちと離れ離れになるわけではなく、むしろ、子供たちが地球上のどこにいようとも、霊として彼らのそばに行き、彼らに忠告を与え、守ることができるということを確信していたからである。
フロン夫人が亡くなったことを知ったわれわれの最初の願いは、彼女とコンタクトをとることであった。彼女とわれわれのあいだに形成されていた友情と共感が、以下の彼女の言葉の親しげな調子を説明するものだと思う。
一八六五年二月六日、死後三日目に、パリにて。
「わたしが地上から解放されるや否や、あなたがたがわたしを招霊してくださるだろうということは確信しておりました。わたしは、どんなことにでも答える用意ができています。というのも、肉体を離脱するのに何の困難もなかったからです。恐れを抱く人だけが、厚い闇の中に包まれることになるのです。
さて、わたしは、いま本当に幸せです。地上では視力を失っていたわたしの目もすっかり回復し、霊界の壮麗(そうれい)な地平線をはっきりと見ることができます。
死んで三日しかたっておりませんが、わたしは自分が芸術家であることを深く自覚しています。わたしは理想的な美に憧(あこが)れていましたが、それは、わたしが過去世(かこぜ)の幾転生を通じて学び、身につけてきた傾向性であり、今回の人生でも、それをさらに育(はぐく)んだのでした。
しかし、光の領域に還ってきたわたしを感激させた偉大な舞台にこそふさわしい傑作(けっさく)をものにするためには、今後、どれほどの精進がわたしには必要でしょうか!
ああ、絵筆が欲しい。絵筆さえあれば、わたしは、さっそく絵を掻き、『霊実在論に基づく芸術こそが、異教徒の芸術や、不振に陥っているキリスト教の芸術を大きく超えるものである』という事実を証明できるのです。あなたがたがいる不毛の地上にあって、霊実在論のみが、輝かしい栄光を芸術の分野で現すことができるのです。
さて、芸術論はこれくらいにして、お友達に話をすることにしましょう。
アラン・カルデック夫人、あなたは、どうしてわたしの死を悲しんでいるのですか?
わたしの人生が失望と苦難に満ちていたことをよく知っているあなたは、いまや、わたしが、苦渋をなめ尽くした人生からようやく解き放たれたことを、むしろ喜んでくださらなくてはなりません。死者たちが生者たちよりも幸福であることをよく知っているあなたが、死者を悼(いた)んで涙を流すのでは、人々に霊実在論の真理を疑わせることにもなりかねませんよ。それに、いずれまたお会いすることもできるのです。
地上でのわたしの使命が終わったからこそ、わたしは霊界に還ったのです。それぞれが、地上で果たすべき使命を持っています。あなたの使命が終了すれば、あなたもまた霊界に還り、わたしのそばで休むことになっているのです。そして、また必要があれば地上に降りていくのです。いつまでも何もせずにいるわけにはまいりませんから。
それぞれが自分の傾向性というものを持ち、それに従うのです。これは至高の法であり、これによって自由意志が保証されているのです。
ですから、親しい友よ、見える世界においても、見えない世界においても、お互いに寛大さと慈愛を持ちましょう。そうすれば、すべてはうまくいくのですから。
『もうそろそろやめたら』と、おっしゃらないのですね。最初にしては、おしゃべりが長すぎるような気もしますが。
ですから、そろそろ次の方に対してお話をすることにしましょう。では、わたしの尊敬するお友達であるカルデック氏にお話します。
お墓で、あなたの前にいらしたわたしのお友達(カルデック夫人のこと)に、愛情深く話しかけてくださいまして、心からお礼申し上げます。
あなたとわたしは、あやうく一緒に霊界に旅立つところでしたものね(カルデックの病気に対するほのめかし)。もしあなたも地上を去ることになっていたら、あなたに長年連れ添ったわたしのお友達はどうなったことでしょうね。もしそんなことでもあれば、彼女の悲しみは途方もないものになったに違いありません。それはよく分かります。
しかし、彼女は、あなたが、霊実在論の仕事を完成させるまでは、再び危険な目に遭わないように、しっかりと監視する必要があります。彼女が見てくれなければ、あなたはきっと仕事の完成を持たずに天上界に戻ってしまい、モーセと同じように、約束の土地を見ずに終わってしまうことでしょう。よく注意していてくださいね。彼女がいろいろと警告してくれるはずですから。
さて、そろそろ失礼いたしましょう。子供たちのところに行かねばなりません。
それから、今度は海を越え、わたしの旅行好きな子羊が、嵐に翻弄(ほんろう)されずに無事に港に着いたかどうかを確かめに行くつもりです(アメリカに行った娘のことを指す)。善霊たちに、彼女を守ってくださるようお願いする必要がありますしね。
必ずまた戻ってきます。わたしが話好きなのは、みなさまがご存じのとおりです。それでは、また。さようなら」
一八六五年二月八日
――こんにちは、フロン夫人。先日は、お話ができてたいへんうれしかったです。「また今後もお話を続けたい」とおっしゃってくださって、ありがとうございました。
前回のお話の際に、あなたであることが完全に分かりました。というもの、霊媒が知らないこと、あなたでなければ決して分からないことを話してくださったからです。それに、私たちに対して示してくださった、愛にあふれた話し振りは、まさにあなたの魂から出るものでした。
でも、一方で、あなたの話し振りには、地上にいたときにはなかった、確信、沈着、毅然(きぜん)さが感じられたのです。場合によっては、お叱りを受けているような気さえしたのですが。
「確かにそうかもしれません。でも、病状が進んでからは、それまでわたしを臆病にしていた苦悩や不幸などがどうでもよくなり、そのおかげで、すでに、ある程度、毅然さを取り戻していたことも事実なのですよ。
わたしは自分にこう言い聞かせていたのです。『あなたは霊なのよ。地上のことは、そろそろ忘れなさい。存在の変容に備え、肉体を去ったときにあなたの魂がたどることになる光の道を思い描きなさい。その道を通って、解放されて幸福になったあなたは、聖なる空間に導かれ、今度はそこで暮らすのだから』とね。
地上を去ってのちの完全な幸福をすぐ願うなんて、ずいぶん傲慢だと思いでしょうか?でも、わたしはずいぶん苦しみましたので、今回の人生と、それまでの転生でこしらえたカルマを、すっかり刈り取ったに違いないと考えていました。そして、この直観は正しかったのです。この直観が、わたしの最後の日々に、勇気と、平静と、毅然さを与えてくれました。
特に、肉体から解放されて希望がかなったのを知ったあとでは、この毅然さは、ますます強いものになりました」
――それでは、この世からあの世への移行、目覚め、最初の印象などについて語ってください。
「最期のとき、わたしはずいぶん苦しみました。しかし、わたしの霊は、肉体からの分離が引き起こした苦しみを乗り越えました。
息を引き取ったあとで、自分がどうなっているか、まったく分からなくなり、一種の失神状態に陥っていたようです。何も考えることができず、寝るでもなく目覚めるでもなく、ぼんやりとした夢うつつの状態でした。かなり長い時間、そうしていたようです。
やがて、気絶状態から回復するようにして目を覚ましていき、気がつくと、見知らぬ兄弟たちに取り囲まれていました。彼らは優しく、そして、かいがいしく世話を焼いてくれ、それから、空間の中にある、星のように輝く点を示しました。
『あそこを通って、われわれと一緒に行くんだよ。もう地上にいないのは分かるね』
それで、いろいろと分かったのです。
彼らに支えてもらい、優美に、未知の領域に向かって一緒に昇っていきましたが、そちらに行けば必ず幸福があると分かっていました。そうして、どんどん昇り、星はどんどん大きくなっていきました。そこは幸福な世界、高級霊界です。わたしは、そこで、ようやく休息できるのです。
休息と言いましたが、それはあくまでも、地上での肉体的な疲労と、数々の不幸に由来する心労に対する休息だということです。霊として怠惰(たいだ)に過ごすということではありません。霊は活動の中に喜びを見出すものだからです」
――あなたは地上から決定的に去ったのですか?
「あまりにも多くの愛する人たちが地上にいるために、決定的に地上から去ることはできていません。ですから、霊として何度でも戻ってきます。特に、わたしの孫たちに関して、まだ果たすべき使命があるからです。
あなたがたも、よくご存じのように、いったん霊界に還った霊であっても、地上に戻ってこようと思えば、そこには何の障害もないのです」
――いまあなたがいる霊層だと、今後、地上の人々との関係がだんだん薄れていくように思われるのですが。
「いいえ、そんなことはありません。友よ、愛はどんなに離れていても魂と魂を結びつけるものなのです。
そして、これは知っておいていただきたいのですが、霊たちにとって、未熟さとエゴイズムに振り回されている人々よりも、高度な人格を備えた人々のほうが、より近づきやすいものなのです。慈悲と愛が、魂を結びつける最も強力な要素なのです。どんなに距離が離れていても、慈悲と愛さえあれば、魂は結びつくことができます。距離が障害になるのは、肉体に宿っているあいだだけです。霊にとって、距離はまったく意味を持ちません」
――霊実在論に関する私の仕事について、どう思いますか?
「あなたは多くの魂たちを背負っているわけですから、とても荷が重いと思います。でも、わたしには、その目的地が見えますし、あなたがそこに到達することも分かっています。
もし可能であれば、私もお手伝いさせていただくつもりです。あなたが困難な状況に立ち至った場合には、霊の立場から助言をさせていただきますし、『霊実在論が展開している精神改革運動を、いかに活発にするか』ということに関して、こちらから、何らかの方法をお示しすることができるかもしれません。
また、高級霊たちがあなたに力を与え、あなたの仕事を支えるでしょう。
わたしもまた、いつでも、どこでも、あなたを支援するつもりでおります」
――お話をお聞きしていますと、あなたは、「霊実在論に関する著作をまとめることに関しては、あまり協力できない」とおっしゃっているように思われますが。
「そんなことはありません。でも、わたしよりも、その種の仕事に適した霊人は、たくさんいますよ。いまのところ、そのことに関するあなたのご質問に答えることは、遠慮させていただきたく存じます。いずれは、わたしも、もっと勇気を持ち、大胆になることができると思いますので。当面は、わたしは、他の霊人のみなさまのことをよく知る必要がありそうです。
わたしが死んでから、まだ五日しかたっていないのですよ。まだくらくらしております。どうか、そのことをご理解ください。まだ、こちらでの新たな経験をうまく説明できる状態ではありません。
霊界のあらがいがたい魅惑を振り払って、こうして地上に降りてくるのは、並たいていの努力ではなかったのですよ。霊界では、神の作品を祝福し、感嘆(かんたん)するばかりなのです。
でも、やがて、それにも慣れるでしょう。わたしも、やがて霊界の素晴らしさに慣れ、そうすれば、霊としての明晰(めいせき)さをもって、地上を改革する霊性の運動に関し、どんな質問にも答えられるようになると、まわりの霊人たちがおっしゃっています。
それに、わたしには、まだ慰めなければならない家族もいるのです。
それでは、今日はこれで。また来ます。
あなたの奥様はあなたを愛していますし、これからもずっと愛することでしょう。地上において、奥様が、尽きることのない真の慰めを得られるのは、あなたからだけなのです」
次の通信は、二月九日、彼女の子供たちに対して送られてきたものである。
「わが愛する子供たちよ、神様は、あなたがたのもとから、わたしを召されました。でも、神様がくださったごほうびは、わたしが地上でなしたことに比べたら、比較にならないほど大きなものでした。
わたしのよい子たちよ、神様のご意志を素直に受け止めなさい。神様がくださるあらゆる恵みから、生の試練に耐えるための力を汲み取りなさい。心に常に強い信仰をもちつづけなさい。そうすれば、わたしと同じように、地上から天上界に還る際に大いなる祝福を受けるでしょう。
わたしが地上にいたあいだ、そうしてくださったように、神様は、霊界に還ったのちも、尽きることのない善意を注いでくださいます。
神様が与えてくださった、あらゆる恵みに感謝するのですよ。神様は讃えるのです、わが子供たちよ。いいですか、いつもいつも神様を祝福なさい。神様から与えられた目的地を、決して見失ってはなりません。そして、たどるべき道から決して逸(そ)れないように。神様から与えられた地上の時間を使って果たすべき仕事に、常に思いをはせなさいね。
お互いにしっかりと結びつけば、あなたがた全員が幸せになることができるのです。そして、今度はあなたがたが、自分の子供たちを、しっかりと、神様から示された正しい方向に育てれば、その子供たちによって、あなたがたが幸せになるのです。
ああ、わたしの姿を見られるといいのにね! 肉体が死んだからといって、絆が断たれるわけではないのですよ。わたしたちを結びつけているのは、肉体という入れ物ではなくて、霊そのものなのですから。愛する子供たちよ、そういうわけで、わたしは、神様のご許可をいただいて、やがてわたしたちの仲間になるあなたがたをこちらから導き、また、あなたがたに勇気を与えることができるのです。
さあ、子供たちよ、いままでと同じ愛をもって、その素晴らしい信仰をさらに育てていきなさい。信仰を持つあなたがたには素晴らしい未来が約束されています。
わたしも、地上にいるあいだは、そう言われていましたが、地上でそれを実際に見るわけにはいきませんでした。でも、いま、霊界にいると、善意、正義、慈悲の神によって約束された幸福な未来が、とてもよく見えるのです。
どうか、泣かないようにね、子供たちよ。あなたがたに、こんなにたくさんの贈り物をくださった神様、あなたがたの母親に、こんなにたびたび助けの手を差しのべてくださった神様を、さらに強く信じ、さらに愛しましょう。この対話が、そうしたことの手助けになればと思います。
いつも神様に祈りなさい。祈りは、あなたがたをさらに強くします。わたしと同じように、神様から与えられた指示に熱心に従いなさい。
また来ますからね、子供たちよ。でも、アメリカにいる、かわいそうな子を慰めなければなりません。あの子は、まだまだ、わたしの援助を必要としているのです。
それでは、また。神様の善意を信じるのですよ。あなたがたのために、神様に祈ります。さようなら」
(4)伯爵夫人ポーラ――恵まれない人々を助けた女性
ポーラは、名家に生まれ、若さと美貌(びぼう)、そして富を兼ね揃えていた。さらに、稟質(ひんしつ/生まれつきの性質)に恵まれ、高い霊性を備えていた。一八五一年に、三十六歳の若さで亡くなったが、そのときは、誰もが次のように思った。
「いったい、神様は、どうして、こんなに素晴らしい人を、こんなに早く召されるのだろう?」
人々にそう思われる人は幸いである。
彼女は、すべての人に対して、善良で、優しく、寛大であった。常に悪を許し、和らげ、悪を助長することが決してなかった。悪しき言葉が彼女の美しい、透き通った唇(くちびる)を汚(けが)したことは、ただの一度もなかった。
高慢さ、尊大さは少しも見られず、目下の者たちを常に思いやりをもって扱ったが、そこには、悪しき馴れ合いのようなものは、いささかもなかったし、高飛車(たかびしゃ)にものを言ったり、横柄(おうへい)な態度をとったりすることも、決してなかった。
仕事をして生きている人々は金利で食べているわけではないことを知っていたので、使用人たちに対して支払いを遅らせるようなことは絶対になかった。「自分の過ちから、支払いを受けられずに誰かが苦しむ」などということは、思っただけでも良心が痛んだ。
「みずからの気まぐれを満足させるためだけにお金を使い、その結果、使用人に支払うお金がなくなる」というような人とは、彼女は完全に無縁であった。「金持ちにとっては、借金をすることが、よい趣味なのだ」ということが、どうしても理解できず、「出入りの商人から、つけで何かを買う」などということは、とても考えられなかった。
そういうわけであるから、彼女が亡くなったときには、人々は、ひたすら嘆き悲しんだのだった。
彼女の善行はおびただしく、しかも、それは晴れの舞台だけで発揮される表向きの善行ではなかった。それは心から出たものであり、見せびらかしのためのものではなかったのである。神だけが、彼女が人知れず流した涙、たった一人で耐えた絶望を知っていた。彼女の善行の証人は、神と、そして、彼女が助けた不幸な人々のみである。
彼女は、特に、ひっそりと暮らしている不幸な人々――こうした人々は、より多く哀れみを誘うものである――を探し出すのがうまかった。そして、そうした人々を、本当に精細な心遣いとともに救ったので、彼らは、いやな思いをすることはなく、いつも必ず気分が明るくなるのだった。
彼女自身の身分と夫の高い地位にふさわしいかたちで、家を維持する必要があった。そのために、しかるべき出費を惜しむことはなかったが、あくまでも、浪費を避け、虚飾(きょしょく)を退けたので、通常の半分の経費を支出するにとどまった。しかもなお、それが通常以上の効果を発揮したのである。
そして節約した財産は、恵まれない人々のために使った。彼女は、そのようにして、みずからの、社会に対する義務、貧しい人々に対する責務を果たしたのである。
死後十二年がたち、霊実在論に開眼した親族の一人によって招霊された彼女は、さまざまな質問に対して、次のように答えてくれた(もとの対話はドイツ語でなされた。家族にかかわる、ごく私的な部分は削除し、全体を整理した上で、フランス語に訳している)。
「そうです。確かに、わたくしは、こちらで幸せに暮らしております。そして、その幸福感を地上の方々に言葉で説明することは、とうてい不可能です。とはいえ、わたくしは、まだ最高の悟りを得ているわけではありません。
地上にあっても、わたくしは幸せな生活を送りました。というのも、つらい思いをした記憶がないからです。若さ、健康、財産、称賛など、地上において幸福の要素とされているものを、わたくしはすべて備えておりました。
しかし、こちらでの幸福を知ってみれば、地上でのそうした幸福などは、まったく何ほどのこともありません。
華々しく着飾った人々が参列する、最も壮麗な地上のお祭りでも、こちらでの集会に比べれば、何ということもありません。何しろ、こちらでは、悟りの高さに応じた、目もくらむばかりの光りを燦然(さんぜん)と放つ方々が、綺羅星(きらぼし)のごとく数多く集(つど)われるのですから。
地上にある、どんなに素晴らしい金色の王宮にしても、霊界の、空気のように軽やかな建物、広々とした空間、虹でさえも顔色を失うような澄み切った色彩に比べたら、本当につまらないものに思われます。
地上での、遅々とした、そぞろ歩きに比べて、こちらでは、散歩といえば、稲妻よりもすばやく、無限の空間を駆けめぐるのです。
地上の水平線は、雲がかかり、限られていますが、こちらでは、数多くの天体が、神の手のもと、果てしない宇宙空間を運動しているのです。
霊体を震わせ、魂の襞(ひだ)の一つひとつに染み入る、天上のハーモニーに比べたら、地上の最も美しい音楽であっても、悲しい金切り声にしか聞えません。
滔々(とうとう)と流れる慈しみの大河のように、魂全体に絶えず浸透する筆舌(ひつぜつ)に尽くしがたい幸福感に比べたら、地上での喜びなど、まったく取るに足りません。
霊界の幸福には、心配、恐れ、苦しみなどが、みじんも含まれていないのです。こちらでは、すべてが愛であり、信頼であり、誠実であるのです。どこを見渡しても、愛に満ちた人々ばかりであり、友人たちばかりであり、ねたみ、そねみを持った人など、ただの一人もおりません。
こうした世界が、わたくしのいる世界であり、あなたがたも、正しい生き方をしたら、必ず来られる世界なのです。
とはいっても、もし幸福が単調なものであれば、やがては飽きが来るでしょう。『霊界での幸福には何の苦労も伴わない』などとは考えないでください。わたくしたちは、永遠にコンサートを聞いているのでもなければ、終わりのない宴会に参加しているわけでもなく、永劫(えいごう)にわたってのんびりと観想しているのでもありません。
いいえ、霊界にも、動き、生活、活動はあるのです。疲れることはないとはいえ、さまざまな用事をこなす必要があります。無数の出来事が起こり、いろいろな局面、いろいろな感情を経験することになります。それぞれが、果たすべき使命を持ち、守るべき人々を持ち、訪問すべき地上の友人たちを待っています。さらに、自然の仕組みをうまく動かし、苦しんでいる魂たちを慰(なぐさ)める必要もあります。
道から道へではなく、世界から世界へ、行ったり来たりします。集いを開き、散っていき、そしてまた集まります。あるテーマのもとに集会を開いて、経験したことを共有し、お互いの成功を祝福し合います。打ち合わせを行い、難しい問題に関してはお互いに助け合います。
要するに『霊界では一秒たりとも退屈している暇はない』ということなのです。
現在、地上のことは、わたくしたちの主要な関心事となっております。霊たちのあいだには、大きな動きがあるのです。膨大(ぼうだい)な数のチームが地上に赴(おもむ)き、その変容に協力しています。
それは、まるで、無数の労働者が、経験を積んだ指揮者のもとに森を開墾(かいこん)しているようなものです。ある者たちは地ならしをし、ある者たちは種をまき、ある者たちは、古い世界の跡地に新たなる都市を建設しています。その間も、指揮官たちは会議を開いて協議を重ね、あらゆる方向に使者を送って命令を伝えます。
地球は再生する必要があるからです。神の計画が実現しなければならないのです。だからこそ、それぞれが懸命に仕事に取り組んでいるのです。
わたくしが、この大事業を単に眺めているだけなどと思わないでください。みんなが働いているときに、わたくしだけが、ぶらぶらしているわけにはまいりません。重大な使命が、わたくしにも与えられていますので、最善を尽くして、それを遂行(すいこう)するつもりでいるのです。
霊界で、わたくしが、いまいる境涯に達するためには、それなりの苦労もあったのです。今回の地上での人生も、あなたがたの目には十分だと思われたかもしれませんが、霊的に見たら、決して合格点を与えられるものではありません。
過去、何度かの転生を通じて、わたくしは、試練と悲惨に満ちた人生を送りましたが、それは、自分の魂を強化し、浄化するために、わたくしが、あえて選んだものです。わたくしは、幸いにも、そうした人生において勝利を収めましたが、そうした人生よりも、もっともっと危険に満ちた人生が残っていたのです。それが、財産に恵まれ、物質的面で何の苦労もない生活、すなわち、物質的な困難のいっさいない生活だったのです。
これは、たいへん危険の多い人生です。そうした人生を試みるためには、墜落しないだけの強さを獲得しておく必要がありました。神様は、わたくしのそうした意図をお認めくださり、今回、わたくしに、そうした人生を試させてくださったのです。
他の多くの霊たちも、見せかけのきらびやかさに惑わされて、そうした生活を選び取るのですが、残念なことに、ほとんどの霊が、まだ充分に鍛(きた)えられていなかったために、経験不足から、物質の誘惑に、見事に負けてしまいました。
わたくしも、かつては地上にて労働者だったことが数多くあるのです。本質としては高貴な女性なのですが、わたくしもまた、額に汗してパン代を稼ぎ、欠乏に耐え、過酷な生存条件を忍んだことがあります。そうすることによって、わたくしの魂は、雄々しく力強いものとなったのです。そうしたことがなければ、たぶん、今回の転生では失敗し、大きく退歩したかもしれません。
わたくしと同じように、あなたもまた、財産という試練に直面することになるでしょう。でも、あまり早く財産を持とうとしないでくださいね。
ここで、お金持ちの人々に申し上げておきたいのですが、真の財産、滅びることのない財産は地上にはありません。どうか、神様がくださった恵みに対して、地上で充分にお返しをなさってください」
(5)アントワーヌ・コストー――心優しき舗装工
パリ霊実在主義協会のメンバー。一八六三年九月十二日、モンマルトル墓地内の共同墓地に埋葬された、この心優しき人は、霊実在論によって神のもとに導かれた。死後の世界に対する彼の信仰は、完全であり、真摯であり、また、深いものであった。
一介の舗装工であり、決して経済的に恵まれていたとは言えないが、思いにおいても、言葉においても、行動においても、常に慈悲(じひ)を実践していた。自分よりも貧しい人々を助けていたのである。
協会は、彼のために個人用の墓を買わず、共同墓地の費用を支払うにとどめたが、それは、「その差額を、まだ生きている人々のために使ったほうがよい」と考えたからである。さらにはまた、「どんなに立派な霊廟(れいびょう)に葬(ほうむ)られようとも天国に行けない人がいる一方で、貧弱な共同墓地が天国への門になり得る」ということも、充分、知っていたからである。
かつては、ばりばりの唯物論者であり、現在は協会の秘書であるカニュ氏は、墓前で次のような短い追悼(ついとう)の演説を行った。
「親しき兄弟コストーよ、ほんの数年前であれば、私たちのうちの多くが――そして、私がその筆頭だったと思いますが――こうして墓に横たわるあなたの姿を見て、そこに一人の男の哀れな最後を認めただけだったでありましょう。そして、『あとは、虚無、恐るべき虚無のみ』と考えたはずであります。
『魂が存在して、死後に、しかるべき世界に行く』とは知らなかったし、したがって、『その行くべき世界を判定する神が存在する』ということも知らなかったからです。
しかるに、今日、神聖なる霊実在主義の理論のおかげで、私たちは、あなたの姿を見て、『ようやく地上での試練が終わった』という事実を知るのです。
あなたは苦労の果てに勝利を得ました。あとは、あなたの勇気、諦念(ていねん)、慈悲――つまり、ひとことで言えば、あなたの徳――に見合う報いを受けるのです。そして、何にもまして、正義に対して善なる全能の神、叡智(えいち)に満ちた神の礼賛を受けるのです。
親しき兄弟よ、永遠なる神の足元に、どうか、私たちの感謝の気持ちを届けてください。神のおかげで、私たちは、過ちと不信心の闇の中から救われたのですから。
少し前であったなら、私たちは、陰鬱(いんうつ)な顔をし、失望を胸に抱いて、あなたに対し、『友よ、永遠にさらば! 』と言っていたはずです。ところが、今日、私たちは、希望に満ちた額を高く上げ、勇気と愛を胸に抱いて、『親しき兄弟よ、また会いましょう! 』と言うのです。
霊実在主義協会に属する霊媒の一人が、まだ閉じられてもいない墓穴の前で、次の通信を受け取った。そして、それを、墓掘り人夫を含めた出席者の全員が聞き、深い感慨にひたったのである。まだ遺体が横たわっている墓の前で、まさに、その死者からのメッセージを聞くというのは、実に感動的な、新しい光景であった。
「ありがとう、友よ、ありがとう。私の墓は、まだ閉じられていません。でも、もうすぐ、私の遺体は土で覆(おお)われることでしょう。
とはいっても、みなさんも、すでにご存じのように、私の魂までもが土に埋められるわけではありません。私の魂は、空間を漂い、神に向かって昇っていくのです!
そして、肉体という乗り物は壊れたにもかかわらず、次のように言うことができるのは、何という慰めでしょう。
『ああ、みなさん、私は全然死んでなんかいませんよ。いまこそ、本当の生、永遠の生を生きるのです! 』
哀れな男の葬式に参列しているのは、ごくわずかな人々であり、仰々(ぎょうぎょう)しさはいっさいありません。しかし、その代わりに、聖霊たちが数多く出席してくれています。天使たちがたくさん来てくれているのです。そして、出席者の全員が神を信じ、神を愛しています。
ああ、そうです。体が滅びたからといって、私たちは決して死なないのですよ。
愛する妻よ、私は、これからいつも、おまえのそばにいて、おまえが試練を乗り越えるのを助けてあげようと思っています。おまえにとって、人生はなかなか厳しいものとなるでしょう。しかし、生命が永遠であることを常に思い起こし、神の愛で心を満たしていれば、おまえが受ける試練も、さほどつらいものとは思われないはずです。
わが愛する伴侶を囲む親族のみなさん、彼女を愛し、助けてあげてください。彼女の姉妹、兄弟になってやってください。神の住まいに入りたいのであれば、地上にあってお互いに助け合うことが大切です。
そして、霊実在主義者である、わが兄弟たちよ、私に別れを告げるために、わざわざ、この鹿と泥でできた住まいまで来てくださってありがとう。しかし、あなたがたは、私が永遠の魂であることを、よくご存知です。これから、ときどき、お祈りをお願いしに行きますので、どうぞよろしく。生前、聞いていただいた、この素晴らしい道を、さらに進むためには、どうしても、みなさんのお祈りが不可欠なのです。
それでは、みなさん、さようなら。この墓ではない別の場所で再びお会いしましょう。霊人たちが私を呼んでいます。それでは、さようなら。苦しむ者たちのために祈ってあげてください。さようなら」
三日後、ある集いにおいて招霊されたコストー氏の霊が、次の霊示を、別の霊媒を通じて降ろしてきた。
「死とは生にほかなりません。私は、すでに言われていることを繰り返すだけです。しかし、いつまでも盲目であることを選んでいる唯物論者たちが何を言おうとも、それ以外の言い方はないのです。
ああ、友よ、霊実在論の旗印を地上に見るのは、実に美しい眺めですよ。霊実在論は深遠な科学であり、まだ、あなたがたは、霊実在論のほんの入り口に達したにすぎません。誠実な人々に対して、つまり、恐るべき傲慢の鎖を打ち砕いて神にひたすら信仰を捧げようとしている人々に対して、霊実在論は、何という素晴らしい光となることでしょう。
祈ってください、地上の人々よ。神が与えてくださっている、すべての恵みに感謝するのです。まだまだ神の恵みを理解できない人が多い。神の慈悲があまねく地上に降り注いでいることに気づかないため、人間たちは、神の念いを知り、それに従うことができずにいるのです。
しかし、やがて、祝福された霊実在論の科学を通じて、その輝かしい光を通して、人々は、神に至り、神を理解することができるようになるでしょう。霊実在論の暖かい光から、人々は暖を取り、信仰と慰めを見出すでしょう。霊実在論の生き生きとした光のもとに、教授も労働者も集まって一体となり、兄弟愛が何であったかを知ることになるでしょう。
ああ、兄弟たちよ、あなたがたは、人類の再生を果たすことになる聖なる仕事の最初の理解者であるのです。それがいかほどの幸福であるか、思ってみてください。あなたがたに栄光がありますように。どうか、そのまま続けてください。そして、やがては私のように霊の祖国に還り、『死とは生である! 』と高らかに宣言するのです。
あるいは、人生とは、一種の夢、ほんの一瞬しか続かない悪夢のようなものだと言うべきかもしれません。人がそこから抜け出すと、友人たちがやってきて取り囲み、次から次へと祝福してくれ、そして、うれしそうに握手してくれるのです。
私の幸福はあまりにも大きかったために、私が地上でなした、たったあれだけのことに対し、神がこれだけの恩寵(おんちょう)をくださったことが、どうしても理解できませんでした。私は夢を見ているのではないかと思いました。自分が死んだという夢を見ているのではないかと思ったのです。そして、目が覚めて、また肉体の中に戻ることになるのではないかと不安になったくらいです。
しかし、しばらくして、これが現実なのだと分かり、心から神に感謝したのです。
そして、私を目覚めさせてくださり、死後の世界に備えてなすべきことを教えてくださった、アラン・カルデック師を祝福いたします。そうです。私は師を祝福し、師に感謝いたします。『霊の書』(訳者注:一八五六年刊のアラン・カルデックの主著で、原題は〝LeLivre des Esprits〟)は、私の魂の中にあった神への愛を目覚めさせてくれたのです。
わがよき友よ、私を招霊してくださってありがとう。他のメンバーのみなさんにも、私は、しばしば、われらが友人サンソン氏と一緒にいるとお伝えください。では、さようなら。勝利があなたがたを待っています。この闘いを闘い抜く者は幸いです」
このとき以来、コストー氏は、しばしば、パリ霊実在論主義協会の集いや、それ以外の集いに参加した。そして、進化した霊に特有の、高度な考えを披露してくれた。
(6)エマ嬢――火事に遭って亡くなった女性
火事に遭遇し、ひどく苦しんだあとに亡くなった、若い女性である。その死から、ほんの少しあと、一八六三年七月三十一日に、パリ霊実在主義協会において、ある人が招霊を提案したところ、自発的にそれに応じて降りてきてくれた。
「いったんは、無垢(むく)と若さのヴェールの彼方に永遠に身を隠すつもりでいましたが、いまこうして再び地上という劇場に登場いたしました。
『地上の火事が、わたしを地獄の火から救ってくれた』、そんなふうに、カトリックの信仰に基づいて考えておりました。ところが、実際には、すぐ死ぬこともできず、わたしの魂は、打ち震えつつ、苦しみの中で償いを果たしたのです。わたしは、うめき、祈り、そして泣きました。
しかし、苦痛に耐える弱いわたしに力を与えてくれる存在がありました。苦しみの床に横たわり、熱に浮かされて、うつらうつらと長い夜を過ごすわたしを、優しく見守ってくれる存在があったのです。わたしの乾燥しきった唇を潤(うるお)してくれる存在がありました。それが、わたしの守護天使だったのです。また、わが親しき霊人たちであったのです。彼らが、私のもとに来て、希望と愛の言葉をささやいてくれたのです。
炎がわたしの弱い体を焼き尽くし、執着から解放してくれていました。ですから、わたしは、死んだときは、すでに真実の生き方をしていたと言ってもいいでしょう。混乱はありませんでした。晴れ晴れとして霊界に入り、輝かしい光に迎えられました。この光は、たくさん苦しんだ末に、ごくわずかばかりの希望を捨てずにいる者たちを、優しく包んでくれるのです。
お母様、わたしの懐かしいお母様の思いが、わたしが地上で最後に感じた波動でした。ああ、お母様も早く霊実在論に出会えるとよいのに! 熟(う)れた果物が枝から落ちるように、わたしは地上の木から解き放たれました。若さに酔い、輝かしい成功に酔った魂が必ず陥(おちい)る傲慢(ごうまん)から、わたしは、かろうじて免れておりました。
わたしを焼き尽くした炎に祝福あれ! 苦しみに祝福あれ! 試練――実は償いであったのですが――に祝福あれ! わたしは光の奔流(ほんりゅう)に浮かんで漂っています。わたしの額を飾るのは、もうダイヤモンドではなく、神様からいただいた、燦然たる金色の星なのです」
ル・アーブルのセンターに、同じく自発的に降りてきたエマの霊から、次のような通信を受け取った。一八六三年八月三日のことである。
「地上で苦しんでいる人々は、あの世において報われます。地上で苦しんだ人々に対し、神は正義と慈悲に満ちて接してくださいます。神は、死後に、かくも純粋な幸福と、かくも完全な歓喜を用意してくださっていますので、死とその苦しみを恐れる必要はまったくありません。神のご計画は本当に神秘的なものなのです。
地上とは、しばしば、とても大きな試練に満ちた場所であり、しばしば、とても深い苦悩に満ちた場所であります。試練や苦悩に出会っている人々は、それらを甘受(かんじゅ)すべきでしょう。重い荷物を神から与えられている人々は、全能なる至高の善意の前に頭を垂れるべきです。
大いなる苦しみのあとに、あの世において神のそばに呼び寄せられる人々は、『幸福なあの世の生活を比べれば、地上での苦しみ、苦労など、何ほどのこともなかった』ということを知るはずです。
わたしは、若くして地上を去りましたが、神様は、わたしを許してくださり、神様の意志を尊重した者たちに与えられる人生を与えてくださいました。
みなさま、常に神様を讃えてください。心を尽くして神様を愛してください。よく神様に祈ってください。強く神様に祈ってください。地上では、それが支えとなり、希望となり、救いとなるでしょう」
(7)ヴィニャル博士――生前に幽体離脱した男性
博士はパリ霊実在主義協会の古くからのメンバーであり、一八六五年三月二十七日に亡くなった。埋葬の前日、霊を極めてはっきりと見ることができる霊媒に頼んで、博士の遺体のそばに来てもらい、何が見えるか教えてくれるように頼んだところ、次のように答えてくれた。
「遺骸の内部で驚くべきことが起こっています。何か塊(かたまり)のようなものが動き、肉体から離れようとしているのですが、抵抗があって、うまく離れられないようです。霊が、肉体から離れようとしてもがいています」
三月三十一日、博士の霊は、パリ霊実在主義会において招霊された。
――ヴィニャル博士、パリ霊実在主義協会の、あなたのかつての同僚たちは、あなたについての素晴らしい思い出を持っております。そして、私は特に博士との素晴らしい関係をよく覚えており、それはいまでも中断されていません。あなたをこうしてお呼び申し上げたのは、まず、あなたに対し、われわれの愛に満ちた友情を表明するためであります。そして、もしよろしければ、私たちと対話をしていただきたいのです。
「親しき友人にして、敬愛する師よ、あなたとのよき思い出は、私も忘れておりません。また、あなたの友情に対して心からお礼申し上げます。私が今日このようにして降りてきて、自由に、くつろいで、あなたがたの集いに参加させていただけるのは、あなたがたがよき思いを持ってくださり、また、祈りによって私を助けてくださったからです。
私の若き秘書が申しましたように、私はコミュニケーションをとりたくてしかたがありませんでした。この集いが始まってから、私は、霊的な力のすべてを使って、あなたがたとコンタクトをとろうとしていたのです。あなたがたが行っていた対話や、重要な質問が、私の関心をいたく引き、そのおかげで、待つことが、まったく苦痛ではありませんでした。まずは、感謝の気持ちを申し述べさせていただきます」
――あなたがどのようにして霊界に還られたかということを、まず教えていただけませんか? 肉体と霊の分離は、どのようにして行われたのですか? そのとき、どんな感じがしたのでしょうか?また、意識を取り戻すのに、どれくらい時間がかかったのですか?
「いまは本当に幸福です。『霊実在論の教義がすべて正しかった』ということが証明されたのですから、これ以上の幸せはありません。霊実在論の科学、霊実在主義の哲学の未来が、私には、あますところなく、はっきり見えております。
とはいえ、脱線は慎(つつし)まなければいけませんね。この話題は、またにいたしましょう。みなさんと対話するのが、こんなに楽しいので、これから、また何度でも降りてくることになると思いますから――。
肉体と霊の分離は、かなり速やかに行われました。想像していた以上に速かったと申し上げましょう。あなたがたのご協力も、たいへんありがたかったです。それに、協会の霊媒が、分離の様子をかなりはっきりと報告しておりましたので、ここでは簡単に申し上げることにいたします。
死ぬときには、断続的な波動が感じられ、二つの対立する感覚――肉の感覚と霊の感覚――に引き裂かれそうになりました。そして、やがて霊の感覚が勝利しました。遺体が埋葬されたのちに、ようやく分離が完了しました。
そして、このようにして、あなたがたのところに戻ってきているわけです。」
――お葬式でのさまざまな式次第については、どう思われますか?私も式には参加させていただいておりましたが、あのときには、まわりのことを観察できるほど、肉体と霊の分離は進んでいたのでしょうか?また、ひそかにお祈りさせていただきましたが、あのお祈りは、あなたのところまで届いたのでしょうか?
「はい、すでに述べたとおり、祈りは確かに力を発揮します。おかげで、私は蛹(さなぎ)を完全に脱ぎ捨てることができました。
葬式の物質的な面については、関心がほとんどありません。それは、あなたがたもよくご存知のことです。私が考えていたのは、魂のこと、そして神のことだけでした」
――五年前の一八六〇年二月に、あなたの要請に応じて、ある実験を行いましたが、そのことを覚えていらっしゃいますか? あのときは、あなたに幽体離脱していただいて、会話に加わっていただいたのでした。もしよろしければ、できるだけ詳しく、あのときの経験と、肉体から完全に分離している現在の経験の違いを教えてください。
「あのときのことは、もちろん覚えています。いまでは、どう違うかですって? あのときは、私は強情な物質に拘束されていました。『完全に物質から解放されたい』と思ったのですが、それは不可能でした。
いま、私は完全に自由です。広大な領域、未知の領域が、私の目の前に広がっています。あなたがたの支援を得、また、高級諸霊の支援もいただいて、進化し、できるだけ迅速(じんそく)に、さまざまな感覚を深く体験し、なすべき行為を遂行し、試練の道をよじ登り、報いの世界に値するようになりたいものだと思っております
なんと荘厳で、なんと偉大な世界でしょう。私たちのように弱い者が、至高の光を見ようとすると、ほとんど畏怖(いふ)にも似た感情が起こります。
それでは、今日はそろそろおしまいにして、また次の機会にお話させていただきたいと思います。今日は、あなたがたのさまざまなご質問に、脈絡もなく、手短にお答えさせていただきました。私は、いまだにあなたの弟子ですので、あまりに多くを要求なさらないでください。まだ本来の能力を充分に取り戻していないのです。
ただ、こうしてお話できるのは、たいへんうれしいことです。
私の指導霊が、私の熱い思いをだいぶ抑えてくださいました。その善意と正しさが、よく分かるゆえに、指導霊の言ったことには従いましたが、そのために、ときどき話を中断されたのが残念でした。今度はお忍びでやってくることにいたしましょう。
ところで、私より悟りの高い、ほかの霊人たちが、『話をしたい』とおっしゃっておりますので、私はそろそろ失礼しましょう。
それでは、さようなら。あなたがたに感謝を捧げるとともに、私に順番をゆずってくださった、生前はパスカルと呼ばれた高名な霊人に対して、深い感謝を捧げます。
私は、あなたの弟子のうちでも、最も忠実な一人でありましたが、これからも、最も忠実な一人でありつづけるということをお誓い申し上げます」
(8)モーリス・コントラン――胸の病気で亡くなった一人息子
モーリスは、一人息子であったが、一八歳のときに胸の病気で亡くなった。類まれなる理性、早熟な知性、学問への大いなる愛着、優しい性格、他者への深い愛情と共に感能力といった優れた資質をすべて備えていたので、輝かしい将来は約束されたも同然であった。若くして、たいへん優れた成績で学業を修了し、エコール・ポリテクニック(理工科大学)で働いていた。
彼の死は、両親に非常に大きな苦悩をもたらした。また、「息子が虚弱体質だったにもかかわらず、自分たちが息子を強いて働かせ、その結果として早めに死なせることになったのではないか」と考えていたので、後悔の念も加わって、そのつらさは、いっそう増したのである。
「あの子があんなにたくさん学んだことが、いまになっては、何のためだったのか、よく分かりません。何も知らずにいたほうが、よかったかもしれないのです。知識は、生きるためには必要なかったし、知識を得ていなければ、まだ生きていたのかもしれないからです。そうすれば、私たちの晩年に慰(なぐさ)めを与えてくれたでしょうに――」
もし、この両親が霊実在論を知っていれば、もっと別な考え方をしていただろう。あとになって、彼らは本当の意味での慰めを手に入れた。死後数ヵ月して、息子の友人の一人が以下のような霊示を得たからである。
――モーリス、もし君にそうした力があるのなら、どうか、ご両親の失望を癒(いや)し、彼らに勇気を与えてあげてほしいのです。ご両親は、君が亡くなったために、希望を失い、苦悩にさいなまれて、健康にも問題が出はじめ、人生がすっかりいやになってしまっている。もし、君からよき言葉をもらえるなら、きっと、ご両親は希望を新たにするに違いないと思う。
「わがよき友よ、僕は、君がこうしてコミュニケーションの機会を与えてくれるのをずっと待っていました。両親の苦悩は、僕を深く悲しませていたからね。でも、僕が永遠にいなくなってしまったわけではないということが分かれば、両親も心が落ち着くだろうと思います。
これから僕が述べる真実を、両親に必ず伝えてほしい。そうすれば、両親もきっと納得してくれるはずです。両親が神様を信じて幸福になるためには、どうしても、この試練が必要だったのです。信仰を得れば、神意を否定することはできなくなるのですから。
君もよく知っているように、僕の父は、死後の生の可能性については極めて懐疑(かいぎ)的でした。神様は、父がそうした過ちから抜け出るための機会として、このような深い悲しみをお与えになったのです。
僕がまず先にやってきた世界、苦悩のいっさいない世界で、僕たちは、また会うことができるのです。でも、神様の善意を信じなかった場合には、一種の罰として、僕と霊界で会うことができなくなるということを伝えてほしい。それに、もしそういうことであれば、今日限り、こうして両親に霊示を送ることもできなくなるかもしれない。
絶望とは神様の意志に対する反抗であり、常に『その絶望を引き起こした原因が長引く』というかたちで罰せられるものなのです。それは、神様の意志に従うまで続きます。絶望は体を蝕(むしば)んで力を奪うので、一種の自殺であると言ってよいのです。そして、苦悩から逃れたいあまり、『早く死にたい』と願う者は、最も厳しい失望を味わう羽目になります。
そうではなくて、試練の重みに耐えるためには、逆に、体に力を蓄えて、積極的に動く必要があるのです。
お父さん、お母さん、よく聞いてください。私は、肉体を脱ぎ捨てて以来、ずっと、あなたがたのそばにいます。地上にいたころよりも長時間、あなたがたのそばにいるのです。私は死んではいないのですから、どうか安心してください。死んだのは私の体だけで、私の霊は永遠に生きているのですよ。
霊は、病気になることもなく、肢体の不自由からも、苦悩からも解放されて、のびのびと、幸福に暮らしているのです。心配も危険もない場所で、純粋な喜びにひたされて、僕は何の憂(うれ)いもなく生きていますから、悲しむのではなく、僕の死をむしろ喜んでいただきたいと申し上げましょう。
友人諸君、早すぎる死を迎えた者たちのことを、悲しがらないでください。それは、『神様の恩寵(おんちょう)により、人生の辛酸(しんさん)をこれ以上なめなくて済む』ということなのです。
今回、僕の人生は、あれ以上長くなってはいけなかったのです。のちに、もっと重要な使命を果たすために、僕は、地上で、あることを学ばなければならなかったのですが、それが終了したために、こちらに還ってきたのです。もし地上でもっと長く生きなければならなかったとしたら、どのような危険、どのような誘惑に身をさらすことになったか分かりません。僕は、まだ充分に強くないので、たぶん、それらに負けたことでしょう。そうすると、魂の進化が何世紀も遅れたはずなのです。
ですから、僕が死んだのは、むしろ喜ぶべきことだったのですよ。
もし、僕が死んだからといって、苦悩を感じるとしたら、それは信仰の欠如以外の何ものでもなく、虚無を信じていることになってしまいます。
ああ、そうです。虚無を信じている人々は、まことに気の毒な人々なのです。彼らを慰めるすべはないからです。親しい人が亡くなった場合、永遠に失うことになるのですからね。墓が彼らの最後の希望を奪うのです」
――死んだときは、苦しかったのですか?
「いいえ、友よ、死の瞬間には苦しみませんでした。もっとも、死ぬまでは、病気のせいで苦しみつづけましたが。とはいっても、最期の瞬間が近づけば近づくほど、この苦しみは安らいでいきました。
そして、ついに、ある日、僕は死のことを思うことなく眠りに就いたのです。そして、夢を見ました。ああ、何という素敵な夢だったでしょう。夢の中では、もう苦しんでいませんでした。病気が治っていたのです。かぐわしく力に満ちた空気を、肺いっぱいに思いっきり吸い込みました。ある見えない力によって、空間の中を運ばれました。燦然(さんぜん)たる強烈な光が僕のまわりで輝いていましたが、目はまったく痛くありませんでした。
そこで、おじいさんに会いました。おじいさんは、死んだときのやせ細った姿ではなく、若さの息吹にあふれていました。僕に手を差し述べ、本当に暖かく僕を抱き締めてくれました。
ほほえみを浮かべたたくさんの人々が、まわりにひしめいていました。そして、全員が、優しく、思いやりをもって僕を迎えてくれたのです。彼らを知っているように思われ、彼らに会えたことが、とてもうれしく感じられました。そして、みんなと、友情の証に満ちた言葉を交わしたのです。
ところが、僕が夢だと思い込んでいたことが、なんと! 実は現実であったのです。こうしたことは、すべて事実であったのです。そう、僕は霊界で目を覚ましたのでした」
――あまりにも熱心に勉学に励んだことが、病気の原因だったのですか?
「いいえ、とんでもない。僕が地上で生きられる時間は、はっきりと限られていたのです。どんなことも、あれ以上、僕を地上に引きとめておくことはできなかったのです。僕の霊は、肉体からの分離の瞬間に、事態をよく悟っており、もうすぐ訪れる解放を思って幸福でした。
しかし、僕が地上で過ごした時間は決して無駄なものではなく、その時間を精いっぱい生きたことに、本当に喜びを感じています。真剣に勉強したことで、僕の魂はさらに強化されましたし、知識も増えました。それだけでも充分だと言えるでしょう。
そして、生前、その知識をあなたがたのために使うことができなかったにしても、将来の転生で、より多くの実りのために使うことができるのです。
それでは、そろそろおいとまします。両親に会いに行くためです。この通信を受け止めることができるよう、まず心の準備をしていただかねばなりません」