第1部 死の恐怖と苦しみを克服する方法
第1章 魂と肉体が分離するとき
第1節 最期の瞬間に何を感じるのか?
死後の世界があるということを確信していても、やはり、この世からあの世へ行くということには恐れが付きまとう。
死、それ自体が怖いわけではない。そうではなくて、移行のプロセスに恐れを感じるのである。
この世からあの世へ行くときに、苦しまなくてはならないのだろうか?
そのことが問題なのである。
しかも、誰一人として、その移行を免れることは出来ないだけに、この問題は重要性を増す。
地上においては、旅行をせずにいることは可能である。しかし、この最後の旅行だけは、貧乏人も、金持ちも、誰一人として免れることが出来ないのである。
しかも、地位や財産があったとしても苦しみが減ずるわけではないらしいことも、気にかかる。
ある人々は静かに死んでいき、また、ある人々は苦悶に満ちた恐ろしい死に方をするので、「一体自分はどうなるのだろうか」と気になる。
だが、その点に関して教えてくれる人がいないのである。
魂と肉体が分離するときに起こることを、実際に描写してくれる人はいないのだろうか?
最後の瞬間に、どんなことを感じるのか、教えてくれる人はいないのだろうか?
この点に関しては、科学もキリスト教も沈黙を守るのみである。
だが、なぜそうなのか?
それは、科学もキリスト教も、霊と物質の関係について、何一つ知らないからである。
科学は霊について無知であるし、キリスト教は物質に関して無知だからである。
そして、霊実在論こそが、この両者を結びつける存在であるのだ。霊実在論だけが、実際に、その移行がどのように行われるかを言うことが出来る。
というのも、霊実在論は、魂に関して実証的な知識をたくさん持っているし、現実に肉体を離れた人々の体験談も、数多く収集しているからである。
第2節 魂と肉体をつなぐもの
魂と肉体をつなぐ霊子線こそが、秘密を解く鍵なのである。
物質それ自体は、感じ取る能力を持っていない。これは実証可能な事実である。
喜びや苦しみを感じることの出来るのは、魂だけなのである。一生の間、肉体の状態は、常に魂に伝えられているのであって、喜んだり苦しんだりするのは、肉体ではなくて魂なのである。肉体は道具にすぎず、そこからの情報を受け取るのが魂である。
死が訪れると、肉体と魂は切り離されるが、肉体には感じ取る力がないので、問題はまったく生じない。
分離した魂は、肉体の崩壊からは何の影響も受けない。そして、物質とは別の源泉から刺激を受け取るようになるのである。
幽体は魂を包み込んでおり、幽体と魂は一体となっている。一方なしに他方は考えられない。
生きて地上にいる間は、幽体は、肉体の隅々にまで浸透しており、魂が肉体の反応を感じ取るために役立っている。同様に、魂が肉体に働きかけて動かすことが出来るのも、幽体のおかげである。
肉体の有機的な生命が終了すると、魂と肉体を結んでいた霊子線が切れる。
だが、この分離は直ちに起こるわけではない。幽体が徐々に肉体から分離してゆき、肉体の細胞の中に幽体の公正要素が全く存在しなくなるまでは、分離は完成されないのである。
死の瞬間に魂が感じる苦しみは、肉体と幽体が、まだ繋がっているがゆえに感じられるのであり、分離に要する時間と、その困難さに応じて、苦しみの程度も決まる。
したがって、場合によっては、死ぬことに、ある程度の苦しみが伴うことは、認めておかなければならない。
様々な状況の違いに関しては、後々検証することになるだろう。
ここでは、まず、四種類の極端な場合を想定しておこう。それ以外のケースは、すべて、それらの四種類の変奏としてとらえられるはずだからである。
1 有機生命が消滅する瞬間に、幽体の分離が完全に行われれば、魂は、まったく苦しみを感じない。
2 その瞬間に、幽体と肉体が、まだ完全に結びついている場合は、それらを引き裂くことになるので、魂は苦痛を感じることになる。
3 幽体と肉体の結びつきが、それほど強固でない場合は、分離は容易に行われ、苦痛は、さほど感じられない。
4 有機生命が完全に消滅しても、なお、肉体と幽体が結びついている場合、霊子線が切れるまでは、肉体が解体するときの影響を、魂も受けることになる。
以上のことから、死に伴う苦しみは、肉体と幽体を結びつけている力の強さに関係していることが分かる。
したがって、この力が弱くて、分離が容易になればなるほど、死の苦痛もまた少なくなる。
要するに、幽体と肉体の分離が速やかに行われれば行われるほど、魂は苦痛を感じずに旅立つことが可能となるのである。
第3節 意識の混濁、そして目覚め
この世からあの世への旅立ちのプロセスで、もう一つ、忘れてはならない要素がある。それは意識の混濁である。
死の瞬間に、魂は麻痺状態となり、その能力が一時的に停止されるため、少なくとも部分的に感じる力が働かなくなる。つまり、魂が一種の失神状態に陥るために、ほとんどの場合、息を引き取る瞬間のことが意識されないのである。
「ほとんどの場合」というのは、なかには、その瞬間のことをはっきりと覚えているケースもあるからである。それについては、あとで見ることにしよう。
意識の混濁が死の瞬間に起こるのは自然なことなのである。
どれくらいの間混濁するかは、それぞれ、人によって異なる。数時間で済む場合もあれば、数年間に及ぶ場合もある。混濁が解消すると、魂は、ちょうど、深い眠りから覚めた時の人間のような感じとなる。考えがまとまらず、ぼんやりとしており、まわりに霧がかかっているような感じである。視覚も除々に元に戻り、記憶もはっきりしてきて、意識が戻ってくる。
だが、この目覚めも、人によって、それぞれ違ったものとなる。ある場合には、目覚めは穏やかであり、気分は良い。また、ある場合には、目覚めは恐怖と不安に満ちており、悪夢からの目覚めにも匹敵する。
したがって、息を引き取る瞬間は、それほど苦しいものではない。というのも、大体の場合、魂は意識を失っているからである。
だが、息を引き取る瞬間までの間は、魂は、肉体の苦しみを感じ取っている。そして、息を完全に引き取ると、今度は意識の混濁を原因とする苦しみを感じる。
しかし、すべての場合がそうなるというわけではない。苦しみが続く時間と苦しみの大きさは、肉体と幽体の結びつきいかんによって決まるからである。
結びつきが強ければ強いほど、その絆を断ち切るための時間は永くなり、苦痛も大きくなる。
だが、なかには、結びつきが非常に弱いために、分離のプロセスが、ごく自然に、何の苦痛もなく行われることがある。完熟した果物が自然に落ちるようなものであって、そういう場合には、死は極めて穏やかであり、霊界への目覚めもまた安らぎに満ちたものとなる。
主として、その時の魂の状態によって、分離が容易に行われるかどうかが決まる。
肉体と幽体の親和力が高いと、霊の肉体への結びつきも強くなる。関心が、地上生活の物質的な快楽に集中している人の場合、幽体と肉体の結びつきの強さは最大になる。一方、主たる関心が霊性にあり、地上にありながら、既に生活が非常に霊的になっている人の場合、幽体と肉体の結びつきは、ほとんどゼロに等しい。
分離の速度と難易度は、魂の浄化の度合い、脱物質化の度合いに左右されるので、分離が容易であるか辛いものになるか、快適か苦しいかは、各人の心境次第ということになるだろう。