三島市箱根路西坂・平安鎌倉古道その8 地図はこちら

それにしても、芦ノ湖高原別荘地の古道入口からここまで、どの位の距離になろのでしょうか。地図上で見てみると4キロほどになりそうです。街道遺構と思われる地形は依然まだ続いています。私は今まで多くの鎌倉街道を見てきましたが、こんなに長い距離の街道遺構は、お目に掛かったことはなく、果たしてこの先もここ以上の街道遺構を見つけることができるものか。

上の写真は元山中の集落に近い諏訪神社北東付近の掘割状の道です。現在この付近にはゴルフ場の舗装された管理道が通っているので、写真の道を歩く人はほとんどいないものと思われ、半場廃道に近い状態です。しかし、道の大きさや古さからは堂々とした迫力のようなものが感じられます。ここが紛れもない京鎌倉往還であるならば、幾人もの歴史上の名の知れた人物が、ここを通ったかも知れないと、歴史の重みが偲ばれるのです。

上の写真は諏訪神社の建物の直ぐ裏にある掘割道の跡です。側道の一つだと思われますが。私が確認したところ神社の裏辺りだけでも3本の掘割状の窪地が認められます。このような側道跡はいったい何を物語るのでしょうか。私のような素人は大勢の軍隊が通った跡か、などと考えたりしています。
左の写真が諏訪神社です。現在の建物は比較的新しいものと思われます。

神社の裏の直ぐのところに掘割道の廃道が残ることから、現在ある神社前の参道は側道跡を利用したものかも知れません。鳥居前から石段になっていて、右の写真がその石段です。石段を下りるとゴルフ場の管理舗装路にでます。舗装路を横断すると下の写真の切通し状の道が舗装路と並行して南西に向かっています。

諏訪神社の御祭神は建御名方命で、石段途中の説明版には由緒が書かれています。

建御名方命は大国主命の御子神で父神の天祖への国譲りに抗議して追われて信濃の諏訪に着き、これより手ずと御柱を立つ敗神が転じて後『日本第一武神』の額を上げられ崇拝される。
建武2年(1335)菊池千本槍の奮戦、天正18年(1590)山中城攻略に徳川勢の布陣など、関東と西方との重要な関門で山中関守があった。聚落は諏訪大神を奉じ、武田源氏の流れを伝える。

諏訪神社の石段下から舗装路を横断して右の写真の両脇が崩れた切通し状の道が続きます。この道は簡易舗装されていて道幅も狭く、古道の続きなのか疑問が残ります。崩れた壁の地層を例の如く観察してみますが、今までのような奇妙な地層の境目などは特に見られませんでした。この切通し状の道はやがて再び舗装路と合流します。その直ぐ先に山神社があります。

山神社は大山祇命を御祭神とします。説明版の由緒は次のとおりです。

大山祇命は山を司どる神と仰がれ山林農耕殖産の御神徳があり、正月四日の初山には山霊・木霊にお餅を供える。社地は平安・鎌倉古道の傍にあり、稲荷社と龍瓜社を合祭す。建武2年(1335)九州菊池一族は此の山中で尊氏勢と戦い撃破する。天正18年(1590)小田原攻めの徳川軍が山中城を背後から攻むるに当たり、この地に陣を着けた。昭和55年畑地総合整備事業を完成した。

上の写真の山神社は1月に訪れた時に撮影したものですが、3月に再訪したときには古い社の建物は取り壊されていて、新しい建物の基礎工事を行っていました。説明版の由緒には諏訪神社同様に南北朝初期、朝廷方の新田義貞と足利尊氏の箱根竹之下の戦いと秀吉の小田原攻めのときの徳川軍の行動の事が説明されていました。
右の写真は元山中から眺められた、雪帽子を被った富士山です。平安鎌倉時代の旅人はどのような思いで富士の山を眺めていたのでしょうか。

左の写真は元山中関所跡付近から三島市街、駿河湾を眺めたものです。山神社の由緒で触れられている畑地総合整備事業でこの付近にあった関守屋敷跡や寺屋敷跡は平坦な畑地や豚舎となったようです。かっては関所跡には無数の敷石や箱根竹之下の戦いで死んだ武士の供養塔という五輪塔などがあったといいます。現在は豚舎脇の山中関所跡碑のみが古道を偲ぶものとなっています。

次へ 1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. HOME