三島市箱根路西坂・平安鎌倉古道その7 地図はこちら

草原状の展望が効く扇平を過ぎると道は再び薄暗い林の中の道となります。古道の直ぐ近くにゴルフ場の管理道路があるためか、この先はそれほど山深さを感じません。しかし街道遺構は依然として続いています。山をだいぶ下っていることもあって街道遺構の幅も一段と規模が大きくなってきているように感じます。

右の写真の辺りの街道遺構はすごいです。写真の遺構の幅は6〜8メートル位のようですが、実はこ掘割状の北側土塁に上がってみると、その隣に写真の掘割遺構より若干小さい感じの幅5〜6メートル位のこれも古そうな掘割状遺構が並んでいて、更にその北隣にももう一本掘割道の廃道が見られます。一番北側の掘割はやがてこの先で南に周りこみ、2本の掘割道を横断するように渡り、その先はゴルフ場脇の舗装道路まで延びていました。

どうでしょうか。左の写真の道路遺構の土塁状の壁がおわかり頂けるのではないかと思いますが。この土塁状の壁は人手によって造られたものだと想像できないものでしょうか。注意して見て頂ければ、城跡や館跡の土塁とも明らかに違うもので、道の跡と感じられてきませんか。

右の写真は現在歩道として使用されている掘割状遺構の更に北隣にある別の掘割状遺構でです。こちらはもう長いこと人が歩いていないと思われ、倒木が多く笹などが生えています。しかしこの掘割状遺構でも関東平野に残る鎌倉街道上道の遺構と同規模のものと思われます。

先にも触れたようにこの道跡は古代官道の足柄路が富士山の大噴火で一時通行不能になった時に、箱根を越える新たに開かれた道と考えられていますが、確かな証拠があるわけではないことから、推定平安鎌倉古道となっているようですが、ここまで歩いてきて推定とされてはいても古い道の跡であることは間違いないと思われます。

古い箱根越えの道は時代と共に南遷しているといいます。『伊豆志』によると鎌倉後期に久明親王が将軍となって鎌倉に下向するときに開かれた新道は沼津の山王神社の前から東に向かい横瀬川を渡り、八幡神社近くを通り伏見の諏訪神社の辺りから新宿北側を東行し、若宮神社、天神社脇を通り国分寺付近から桜小路を抜けて祓所へ出て、三島神社前を廻り川原ヶ谷、市の山、山中新田をへて箱根峠へ上る旧東海道(江戸時代の官道)沿いの道筋を通ったとしています。

江戸時代の箱根旧街道、所謂東海道五十三次の箱根西坂道は鎌倉街道には存在していたということです。
鎌倉時代には伊豆大権現、箱根権現、三島明神を結ぶ道が開けれていて、その三社詣での道は先述の箱根新道(箱根旧街道と重なる道)か、ここで紹介している平安鎌倉古道かはどちらとも確定できる証拠が無いということです。

上の写真と右の写真は道の両脇が崩れていて、狭くなっています。ここも道底が削られたか、流出したかで、このような姿になったものと思われます。また例のごとく崩れた壁面の地層を観察すると、先述したところほどではありませんが、壁面のやや高い位置に地層の境目のような筋がここでも見られました。

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