三島市箱根路西坂・平安鎌倉古道その5 | ![]() |
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この先も同じようにヒノキ林の薄暗い中の道が続きます。掘割状の街道遺構も依然として続いています。こんなに長い街道遺構を歩くのも私としては新記録です。今まで関東平野内の鎌倉街道しか歩いたことがなかったのですが、街道遺構としては長くても500〜600メートル位でした。今歩いているところの街道遺構はここ迄でも2キロはあります。 |
私が三島市の平安鎌倉古道を初めて知ったのは「鎌倉街道上道・埼玉編」のホームページを作成し始めた頃で鎌倉街道に興味を持ち始めた比較的に早い時期でした。鎌倉街道関連の著書を多く出されている蜂矢敬啓氏の『中世東国史の中の鎌倉古道』という本でした。 | ![]() |
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『中世東国史の中の鎌倉古道』という本は鎌倉街道の道筋について案内説明したものとは違い、鎌倉街道という古道を体系的に捉えて解説した本です。この本の中に幾つか三島市の平安鎌倉古道の写真が載っているのですが、写真が出ているだけで平安鎌倉古道のことは何も触れられていませんでした。 |
その後、尾藤卓男氏の『平安鎌倉古道』という東海道の京都、鎌倉間の古道を紹介した本でその具体的な道筋などを知り、何時かは訪れてみたい所と心に思い描いていました。 ここで云う鎌倉古道の前に付いている「平安」の意味を当初私は勘違いしていました。私は平安の都と鎌倉を結ぶ古道と解釈していたのですが、実は平安時代から鎌倉時代の古道ということらしいのです。 |
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平安時代からの古道となると千年以上も前からの道ということになるようです。
『日本紀略』には延暦21年(802)に富士山が大噴火をして、当時の官道が通る足柄路が通行不能となったことがみられます。そのため箱根の山を越える「筥荷途(はこねじ)」が新たに新設されたといいます。 |
しかし、翌年には足柄路は復活していて、以後は足柄路と筥荷途の双方が使用されるようになったと伝えます。主要路は足柄路でしたが筥荷途は険しいながらも距離が短いなど便利なため、後に多く使用されるようになったといいます。 この筥荷途が箱根の山のどこを通っていたのか幾つかの説があるようです。『静岡県歴史の道調査報告書(東海道)』には次のようなコースが上げられています。 |
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「横走駅(御殿場駅付近?)より分岐して足柄峠を通らずに箱根に出る道、永倉駅(長泉町の横瀬川西岸?)より横瀬川を渡り、徳倉・滝沢寺付近を経て元山中へ出る道、駒門から長尾峠に登り、箱根裏街道を経る道」
右の写真は古道端に建てられている「推定平安鎌倉古道」の石碑です。この石碑は近年建てられたもので、幾つも見掛けることができます。 |
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『静岡県歴史の道調査報告書(東海道)』には更に次のように書かれています。「箱根山を越えて相模に赴くにはかなりの駅馬が必要である。噴火で足柄路は通行不能とはなったが、横走駅の被害は何ら触れられていない。従って横走駅より分岐したと考えるのが妥当であろう。鎌倉時代となると、三島国府や三島明神を経てのコースとなり、以後長く利用されることとなった。」 |
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木下良氏の『古代を考える・古代道路』では「箱根山中腹の三島市山中で少なくとも鎌倉時代には遡るとされる幅約八メートルの道路が発掘されているが、その道幅からみて古代道の可能性がある。」と出ています。どうやらこの古道は古代からの道とも考えられているようです。
上の写真は箱根山西山腹を通る舗装された林道で、古道がその林道を横断するところのものです。ここには右写真のような大きな説明版があります。三島市教育委員会が建てたもので、「復元された平安・鎌倉古道」と題しています。以前は深い藪の森林帯で古道はハッキリしていなかったと見られ、平成5年に下草刈りが行われて平安鎌倉古道がよみがえったと言うことです。ここの林道からは富士山が眺められます。 |
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