本名=安住 敦(あずみ・あつし)
明治40年7月1日—昭和63年7月8日
享年81歳(燿燈院潤誉敦道清居士)❖敦忌
東京都目黒区中目黒5丁目24–53 祐天寺(浄土宗)
俳人。東京生。立教中学校(現・立教高等学校)卒。逓信省に勤務、局長の富安風生にまなぶ。昭和10年日野草城の『旗艦』に参加。戦後は久保田万太郎の「春灯」の創刊に参加。万太郎の死後は主宰。46年俳人協会理事長。『午前午後』で蛇笏賞受賞。ほかに随筆『春夏秋冬帖』などがある。

てんと虫一兵われの死なざりし
雁啼くやひとつ机に兄いもと
しぐるるや駅に西口東口
ランプ売るひとつランプを霧にともし
しんかんとあめつちはあり寒牡丹
鳥帰るいづこの空もさびしからむに
妻がゐて子がゐて孤独いわし雲
袷着て樗の森も遠からず
冬の滝晩年賭くることありけり
雪の降る町といふ歌ありし忘れたり
安住敦はつねに〈花鳥とともに人間が居、風景のうしろに人間がいなければつまらない〉とも、〈市井の一隅で、しずかに、思い耐え、しみじみと、おのが人生の哀歓を詠っていればいい〉とも語っていたのだが、三人の師、富安風生も久保田万太郎も、また日野草城もすでに亡く、角川源義、秋元不死男、石川桂郎などの友も次々と先に逝ってしまった。
昭和61年の夏、体調をくずし、闘病に努めたのだが、一進一退を繰り返すばかりであった。
63年2月には散歩路上で転倒し、3月に肺炎で入院、7月1日、満81歳の誕生日をむかえた一週間後の7月8日朝、心肺不全となり、渋谷区富ヶ谷のセントラル病院で死去した。
安住敦の葬儀は門下、本多游子の寺でもある目黒祐天寺で執行され、同寺に安住が生前建立してあった「安住家之墓」に遺骨は葬られている。
本堂左手奥、境内から一度門外に出て道を挟んだ向かい側、第二墓地の入口近くにある墓の碑側面に彫られた法名や没年月日などは彫りが浅く、影の濃くなったきた夕刻の時間帯では定かに読み辛いものがあった。二十三回忌追善菩提「瀝の会」の卒塔婆が数枚背後に並んでいる。〈自然と人間の関わりを見つめ、人間存在のまことを探る〉市井の俳人安住敦の墓碑。色のなくなっていく冬景色の宙からひらりひらりと降りおりてくる何とはない枯れた木の葉に敦の哀感をしみじみと想いやる。
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