本名=安東次男(あんどう・つぐお)
大正8年7月7日—平成14年4月9日
享年82歳(浄翠院流火次韻居士)
調布市元町5丁目15–1 深大寺三昧所墓地(天台宗)
俳人・詩人・評論家。岡山県生。東京帝国大学卒。学生時代から加藤楸邨に師事。昭和21年金子兜太らと句誌『風』を創刊。25年詩集『六月のみどりの夜は』、26年『蘭』を刊行して認められる。古典和歌、俳句の評釈にも力を注いだ。ほかに句集『裏山』評論『風狂余韻』『与謝蕪村』などがある。

泰平の世に生涯無所住は至難のこととは知っていても、それを埋合せるだけの荒々しい心の渇きがなければ、詩などというものは無用の贅であろう。ちまちまとした片隅の幸福を歌いたくなるとき、私の心は憤怒に塗られる。だから、というよりも自分でもどうすることもできない業であろうが、気がついてみると私は、何年に一度か、周期的に、安定しかかった自分の生活を自分で破壊してきたようだ。職を捨てる。大量に本を売る。精神の緊張を強いられる程度に危険の大きい賭を、こちらから求めて好んで遊ぶ。古美術が好きで、無理な算段をしてまで古美術品を買うことがあるが、あるとき衝動的にそれらを売払ってしまう。そういうときは、家人はもとより、友人たちの目にも、かなり気狂いじみて映るらしい。一切のものが、きれいさっぱり身辺から無くなることに、むしろ執念を焼やしているようなところがある。しかし、そのためには、捨てるべきものをまず手に入れる必要がある。というよりは、捨てるに価するものを、というべきだろう。振り捨てるのに必死になるほど、愛着の断ちがたいものを、探すことが先決だ。……捨てうるということは夢中になりうることだ、そう思って見ると、夢中になりうるものなど、そうわれわれの回りには転がっていない。
(物の見えたる)
東京帝国大学在学中から加藤楸邨に師事して句作を始め、社会批判を基調とした抵抗詩を掲げて戦後詩壇に登場した安東次男。詩集『人それを呼んで反歌という』などで独自詩風の世界を確立した詩人はやがて、読売文学賞を受賞した『澱河歌の周辺』や『芭蕉七部集評釈』に見られるような古典和歌や俳諧の評釈に道を進め、比較文化や解釈学にも新しい視点を注いでいった。大学紛争で揺れていた昭和四〇年代、東京外国語大学教授でありながら学生側の支持を表明した「造反教官」としても知られていたが、晩年にいたって平成13年ころから持病の肺気腫と気管支喘息が悪化し、一年半ほどの闘病生活も空しく、平成14年4月9日午前2時25分、呼吸不全のため入院先の都内の病院で死去した。
俳句の手ほどきをした丸谷才一や大岡信らとは、心の拠りどころともなる歌仙を気ままに巻いていた。大岡信は追悼の言葉として〈詩人が俳句の世界に入り、俳人がとても言えないことを言った大きな存在〉であったと述懐している。東京外国語大学時代は剣道部の顧問をするなど居合い抜きの名手でもあった安東次男が眠る塋域。竹藪の大きな陰が覆い被さった黒御影石の「安東家」墓碑に「木の実山その音聞きに帰らぬか」の辞世句が添えられていた。平成14年に多恵子夫人によって建てられた墓、石田波郷・あき子夫妻、皆吉爽雨、小林康治などの俳人の墓もある深大寺裏墓地一隅の光景。石工が二人、近くの墓の境石に腰掛けて昼食後の煙草をふかしながら談笑している傍らで、私は静かに手を合わせた。
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