本名=青島幸男(あおしま・ゆきお)
昭和7年7月17日—平成18年12月20日
享年74歳(廉正院端風聚幸大居士)
東京都荒川区西日暮里3丁目4–3 浄光寺(真言宗)
小説家・俳優・政治家。東京都生。早稲田大学卒。放送作家としてテレビ脚本などを執筆。またタレントとしても活躍する。昭和43年参議院議員。56年『人間万事塞翁が丙午』で直木賞受賞。平成7年には東京都知事となる。ほかに『蒼天に翔る』、『極楽トンボ』、『繁盛にほんばし弁菊』などがある。

花は散るもの、人は死ぬもの、生者必滅のことわり知らぬわけではないが、あまりといえばおとうちゃんの死は唐突だった。前の晩大好きなトンカツをたら腹喰ベ、テレビを見てニコニコしていた男が、翌日あんなに簡単にポックリ死ぬものだろうか、いまだにハナには信じられない。いい死に方だの、うらやましいだのと、いくら言われてもあきらめはつかない、死んだことには変りはない。三十年も一緒に暮してきて、おとうちゃんが手足や影と同じように自分にくっついるのがごく当り前、何の不思議も感じなくなっていたものを急に身ぐるみはがれた心持で、たよりないやらうそ寒いやら、どこにすがろうにも手がかりがなく、いやな夢にうなされているおもいで胸が悪くなる。おとうちゃんと一緒にいればたとえうとましくと嬉しくとも、とにかく押せば返ってくる手ざわりがあった、それが無くなれば自分が生きてるのすらたしかめようがない。「おいハナ帰ろうぜ」と今にもうしろから声かけられそうで、ハナは立ちすくんだまま振りむくことも出来なかった。あらためて流れ落ちる涙を拭おうと、ハンカチを持ち直すと、われ知らず握りしめていた将棋の駒が、手の中でじっとりと汗ばんでしめっている。
「おとうちゃんあたしと一緒にいて幸せだったの」
声に出さず胸の中で問うて見ても、いまさらたしかめるすべもないのがつくづく切なく、何の挨拶もなくせっかちに死に急いだおとうちゃんが憎らしく思えてきた。
でも面白い人だった……。
最後まで自分勝手だったおとうちゃん、今頃は彼の地で、ポンと手をポンポンとはらって、ニコニコしながら「おしまいチャンチャン」と言っているかも……。
ハナははてしもなくあふれ出る涙をもてあまして立ちつくした。
(人間万事塞翁が丙午)
東京下町・日本橋堀留町の仕出し弁当屋「弁菊」の次男坊として生まれた青島幸男は、結核で二年ほどの療養生活を送ったほかは順風満帆。療養中に書いた漫才の台本がみとめられ放送作家へ。「クレージーキャッツ」と組んだテレビ番組「おとなの漫画」や「シャボン玉ホリデー」などでその地位は不動のものとなった。映画監督や国会議員にもなったが、放送作家仲間の野坂昭如、井上ひさし、藤本義一らの直木賞受賞は若い頃から小説家志望だった青島に少なからずの衝撃を与え、一発奮起を促した。賞取り宣言をして2年、『人間万事塞翁が丙午』で念願の直木賞を取った。以後も東京都知事など精力的に思うがままの我が道を歩んだが、平成18年12月20日午前9時31分、骨髄異形成症候群のため死去した。
昨日までは屋台が狭い道に立ち並び、お参りする人々で賑わったのだが、例大祭も終わり、ようやく静けさを取り戻した下町の台地。都内で「富士見」を冠しては富士山の望める唯一の坂と名を馳せた富士見坂をのぼった諏訪台上に日暮里、谷中の総鎮守諏方神社があり、その鳥居の手前に雪見寺と呼ばれた浄光寺がある。江戸六地蔵のひとつ、高さ一丈(約3メートル)の銅造地蔵菩薩座像と向き合った本堂右手前、富士見坂を真正面にしてはいるのだが、墓地の塀が邪魔をしてどんなに背伸びをしても富士を望むことはできない極々シンプルな「青島家之墓」。右側面に青島の戒名と没年月日。背後に日暮里駅前の駄菓子問屋街(通称日暮里駄菓子屋横丁)を排除して再開発した高層ビルが無粋にもニョキッと顔を覗かせている。
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