本名=安藤美保(あんどう・みほ)
昭和42年1月1日—平成3年8月28日
享年24歳(釈尼美妙)
神奈川県横浜市金沢区六浦町2254–1 八景苑
歌人。東京都生。お茶の水女子大学卒。お茶の水女子大学国文科在学中、昭和62年『心の花』入会。64年『モザイク』で心の花賞第一席受賞。大学院に進み日本文学を専攻。研究テーマは九条良経。歌人として将来を嘱望されていたが、研究旅行中の滋賀の山中で転落死した。死後、遺歌集『水の粒子』が出版された。

一斉に飛び立ちたいと告げるごとく坂の途中に群れる自転車
寒天質に閉じこめられた吾を包み駅ビル四階喫茶室光る
光りつつビーズのように落ちてゆき我れに向けられし言葉は尖る
ずいずいと悲しみ来れば一匹のとんぼのように本屋に入る
「前世は木だったかもね」自動車の扉を開けて吾をふりかえる
君の眼に見られいるとき私はこまかき水の粒子に還る
つくづくと愚直に並ぶ大銀杏わたしの軋む心を知らず
煉瓦色の服にくるまり見ていたり粉々に割れ落ちてゆくもの
平成3年8月28日、滋賀県比良の山は蝉しぐれの中にあったが、滝壺をあふれ出た清やかな水音は安藤美保の耳にも滲み入ってくる。
昭和62年に竹柏会の歌誌『心の花』に入り、翌々年には心の花賞第一席を受賞。大学を卒業後は大学院に進学して研究者と歌人の両道、美保は希望にあふれていた。
三の滝、延暦寺天台座主慈円が修行したこの滝を訪れたのも、修士論文の研究対象としていた歌人九条良経の縁によるものだったが、数時のちに運命は変わってしまった。帰路の急斜面から滑り落ち、下にあった岩に頭部をうちつけたのだ。やがては遠のく清流の音、蝉の声、微かな涼風さえも、もう頬の傍らを通り過ぎてゆくだけであった。
紅梅の咲く坂道、冬風の上ってくる坂道、春には満開の桜で彩られるであろう坂道。墓苑は三方を枯れ木山が囲っている。大晦日の湘南の空は雪模様になっている。
まもなく新年を迎える墓地に参り人は絶え間なく出たり入ったり。一筋の参道をたどり、また一筋、とうとう見覚えのある碑面に出会った。「浄妙」と彫り込まれた墓碑、裏面に〈釋尼美妙 安藤美保 お茶の水女子大学院修士二年 1991.8.28没 二十四歳〉とある。
隣に、捕鯨船に乗っていたという夫の墓前にワンカップを備える女性があった。「この墓はいつみても花の途絶えることがなくて」と。捕鯨船員と若き女性歌人、ヒラとふり降りてきた雪に何の話を想像しよう。
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