本名=有島武郎(ありしま・たけお)
明治11年3月4日—大正12年6月9日
没年45歳
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園10区1種3側10番
小説家・評論家。東京府生。札幌農学校(現・北海道大学)卒。農学校在学中内村鑑三の影響を受けキリスト教入信。明治36年アメリカ留学。次第に信仰に疑問を抱き、帰国後は信仰をすてた。大正5年妻と父を失い作家活動に専念。8年『或る女』を発表。ほかに『カインの末裔』『生まれ出づる悩み』『惜しみなく愛は奪ふ』などがある。

難者のいふ自滅とは畢竟何をさすだらう。それは単に肉體の亡滅を指すに過ぎないではないか。私達は人間である。人間は必ずいつか死ぬ。何時か肉體が亡びてしまふ。それを避けることはどうしても出来ない。然し難者が、私が愛した故に死なねばならぬ場合、私の個性の生長と自由とが失はれてゐると考へるのは間違ってゐる。それは個性の亡失ではない。肉體の破滅を伴ふまで生長し、自由になった個性の擴充を指してゐるのだ。愛なきが故に、個性の充實を得切らずに定命なるものを繋いで死なねばならぬ人がある。愛あるが故に、個性の充實を完ふして時ならざるに死ぬ人がある。然しながら所謂定命の死、不時の死とは誰が完全に決めることが出来るのだ。愛が完ふせられた時に死ぬ。即ち個性がその擴充性をなし遂げてなほ餘りある時に肉體を破るそれを定命の死といはないで何處に正しい定命の死があらう。愛したものゝ死ほど心安い潔い死はない。その他の死は凡て苦痛だ。それは他の為に自滅するのではない。自滅するものゝ個性は死の瞬間に最上の生長に達してゐるのだ。即ち人間として奪ひ得る凡てのものを奪ひ取ってゐるのだ。個性が充實して他に何の望むものなき境地を人は假りに沒我といふに過ぎぬ。
(措しみなく愛は奪ふ)
画家有島生馬、小説家里見弴の兄。武者小路実篤や、志賀直哉らと『白樺』創刊に参加、人道主義文学の代表的作家として活躍して流行作家となったが、晩年は虚無的な傾向を深めていった。
〈情死者の心理にかういふ世界が一つあることを解って呉れ。はじめから、ちゃんと計画され愛が飽満された時に死ぬ境地を、死を享楽するといふ境地を。‥‥僕ら二人は今次第に、この心境に進みつつあるのだ〉。
雑誌記者波多野秋子の夫から不義を責められていた武郎は、友人足助素一にこう語った翌ゝ日の大正12年6月9日早暁、軽井沢の別荘浄月庵にて秋子とともに縊死。そして約1か月後の7月7日に遺書と共に腐乱した遺体となって発見された。
遺書には〈森厳だとか悲壮だとか言えば言える光景だが実際私達は、戯れつつある二人の小児に等しい。 愛の前に死がかくまで無力なものだとはこの瞬間まで思はなかった。おそらく私達の死骸は腐乱して発見されるだろう〉と記されていた。
この霊園の有島家塋域、入口に背を向けて建てられた石碑には、武郎と妻安子のブロンズ浮彫胸像がはめ込まれていた。しかし、それぞれの眼は複雑な夫婦感情を押し殺し、逆光の陰りのなかで、遠くを想いやっているように見えた。
〈幾年の命を人は遂げんとや思い入りたる喜びも見で 修禅する人のごとくに世にそむき静かに恋の門にのぞまん 蝉ひとつ樹をば離れて地に落ちぬ風なき秋の静かなるかな〉。
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