本名=深田公之(ふかだ・ひろゆき)
昭和12年2月7日—平成19年8月1日
享年70歳(天翔院詞聖悠久居士)
東京都港区西麻布2丁目21–34 長谷寺(曹洞宗)
作詞家・小説家。兵庫県生。明治大学卒。広告代理店勤務、放送作家を経て作詞家として活動。演歌からポップスまで生涯五千曲を作詞したといわれる。小説も手がけ、昭和59年には『瀬戸内少年野球団』で直木賞候補となる。ほかに横溝正史賞を受賞した『殺人狂時代ユリエ』や『詩小説』『無冠の父』などの小説がある。

奇跡が起った。
戦死者として葬られていた正夫が突然帰って来たのだ。
「あなたは、何故、顔をかくして町へ帰って来たのです。場合によっては、そのまま行き過ぎるつもりだったのですか」
昨夜、二人だけになると、駒子は、何力月もたまっていた疑問を初めて口にした。
「いいじゃないか」
正夫は答えたがらなかった。
「私が、鉄夫さんの嫁になおっているかもしれない。むしろその可能性が大きい。それなら、姿を現わさずに何処かへ行ってしまおう。そんなふうに思ってたのでしょう」
「駒子」
「はい」
「狂気の時代を、あれこれ辻棲合せをすることはやめにしよう。今から思えば理不尽であったり、滑稽であったりしても、その時代には選択の出来ない一つだけの答ということもあるのだからな。私が、決していさかいの種をまきたくないと思ったとしても、卑怯者と思ってほしくないんだよ」
「そんな。あなた」
「とにかく、二人で始めよう。どういう形であれ、新しい時代がはじまろうとしていることは事実だからな。ほれ」
と正夫は掛け声とともに、掌でもて遊んでいた皮の硬式ボールを投げてよこした。駒子の両掌におさまったボールは、涙ぐみたいような懐しさを感じさせた。それは二人にとつて青春の記念碑とでもいうべきボールだったのだ。
(瀬戸内少年野球団)
「また逢う日まで」「北の宿から」「勝手にしやがれ」「UFO」など数々のヒット曲を連発、作詞家としての名声は揺るぎのないものになっていた。後に篠田正浩監督によって映画化されて話題になった直木賞候補作の『瀬戸内少年野球団』や『喝采』および『隣のギャグはよく客食うギャグだ』、『墨ぬり少年オペラ』などで二度三度の直木賞候補となって、少年の頃からの夢であった小説家としても認められてきたのだが、平成13年に腎臓がんの摘出手術をしたころから次第に阿久悠の体力は衰えていった。〈手術には成功したが、ぼくという人間の生命のカウントダウン用の時計が、その時点でスタートしたことには違いない〉と『生きっぱなしの記』に記したが、19年になって体調は急速に悪化、8月1日午前5時29分、尿管がんのため東京・港区の東京慈恵会医科大学附属病院で永眠した。
熱海から電車で25分ほど行くと伊豆半島の小さな町宇佐美がある。阿久悠が昭和55年秋に建てた墓は、昭和51年に横浜から転居して以来、亡くなるまでの31年間を過ごした宇佐美の相模灘が一望できる高台にあった。兵庫県警巡査として淡路島の駐在所勤務であった父友義、母ヨシノもその墓に葬られた。阿久悠もまた宇佐美の墓に葬られたのだが、東京に住む長男夫妻や近しい人々の墓参の便を考えて七回忌を機に、東京・西麻布の福井・永平寺別院長谷寺墓地に移された。明治の元勲井上馨や洋画家の黒田清輝、喜劇王エノケン、歌手坂本九などの墓もある墓地の奥、少し下りかけた坂を左に入ると「悠久」とのみ刻まれた鳶色の簡潔な墓碑が目に入る。左傍らには「君の唇に色あせぬ言葉を」と直筆が刻まれた自然石。カウントダウンの時計は此処にとどまって悠久の時を刻んでいる。
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