本名=荒 正人(あら・まさひと)
大正2年1月1日—昭和54年6月9日
享年66歳(芳文院紫陽正人居士)
東京都東村山市萩山町1丁目16–1 小平霊園16区2側7番
評論家。福島県生。東京帝国大学卒。昭和21年平野謙・本田秋五らと雑誌『近代文学』を創刊。中野重治との〈政治と文学論争〉で知られる。『漱石研究年表』で毎日芸術賞を受賞。『第二の青春』『赤い手帳』『評伝夏目漱石』などがある。

エゴイズムというものが、じつは社会的矛盾の人間心理への反映形態であるというような、手をよごさぬ綺麗事の算術的思索ではなく、その背後にひろがる巨大な深淵の口について、さらにその深淵を透して感知される際限ない虚無の世界にまで、いわば、宇宙論的極限にまで、肉体の思惟をどんらんに追究、拡大してみようではないか。そのとき、突き当るものは無限の進歩、発展であるか、それともニーチェ流の永劫回帰であるか、そのいずれでもかまわないが、そこからもう一度二合一句のいとおしい日日の生活に立ち返ってくるとき、虚無感の裏打ちを体臭のごとく自覚するであろう。人間はエゴイスティックだ、人間は醜く、軽蔑すべきものだ、そして人間のいとなみの一切は虚無に収斂するものだ---このことを痛切にかんじようではないか。一切はそのうえでだ。
(第二の青春)
埴谷雄高や平野謙・佐々木基一・本多秋五・山室静らと創刊した『近代文学』は文芸評論家荒正人の出発点ともなった。『第二の青春』の発表をはじめ、加藤周一、中野重治らと主体性論、政治と文学などで論争を交わし、また、世代論や知識人論で問題を提起して、積極果敢な評論活動を繰り広げていった。ことに夏目漱石研究に関しては一家言を以て『漱石研究年表』を著しているのであった。
法政大学文学部英文学科教授在任中の昭和54年6月9日早朝、東京・杉並の駒崎病院で脳血栓のため急逝した。
〈荒正人の文体には、織田作之助や坂口安吾の文体と共通したところがある〉と本多秋五が指摘するように、苦悩と彷徨をものともしない一気呵成の生涯であった。
坂口安吾が『反スタイルの記』の中で荒正人のことに言及して、〈荒正人とヒロポンは取り合せが変だ。ヒロポンが顔負けしそうだけれども、彼は女房、女中に至るまでヒロポンをのませて家庭の能率をあげるという奇妙な文化生活をたのしんでいるのだそうである〉と、なんとも物騒な一文を記している。
時代とはいえ、荒正人の一面を見る思いがするのだった。
〈青は原始の色だ。人間が、遠い先祖から親しんでできた色である。青い空と青い海は、過去から未来に永遠に続くであろう〉——。
冬の冷気に透き抜けた青空が広がっている霊園に、朝日を浴び始めた「荒家墓」は建っている。凝固した風景が徐々に溶けだしてくるように、薄ぼんやりとした未来が見えてくるような時がたちのぼっていった。
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