鳥取県の玩具 |
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いよいよ本州も山陰の二県を残すのみとなった。鳥取県と島根県は郷土玩具が特に豊富な土地柄として知られ、そのいくつかはすでに紹介した(雛12、木地玩具19、虎02、馬06)。さて、鳥取県における郷土玩具の隆盛は、「柳屋」(鳥取市)と「備後屋」(倉吉市)によるところが大きい。このうち、柳家は昭和3年に民俗民話研究家の田中達之助が鳥取市に開いた郷土玩具の工房である。古玩の復元から新作にいたるまで、張子、土人形、木工など多様な玩具を生み出してきた。その後、二代目の謹二・宮子夫妻によって伝統が守られてきたが、残念ながら昨年(平成26年)製作を中止した。この満艦飾の紙軍艦は、日露戦争当時の玩具を初代が復元したもので、中にロウソクを灯して遊ぶおもちゃ、灯玩の一種である。高さ37p。(H27.5.30)

一本角の特異な風貌をした獅子頭。中国の想像上の動物、麒麟に似ていることからこの名がある。きりん獅子は、鳥取県東部から兵庫県北部にかけて分布する民俗芸能の神楽の主役である。脇役の赤い「猩々(しょうじょう)」はその先触れ(獅子あやし)として、また、黄色の「ぬけ」はその前の道を拡げていく役を担う(1)。鳥取市内にある宇倍神社の例大祭では、二人立ちのきりん獅子が優雅に舞う。実際に使われる獅子頭は木彫で、玩具のきりん獅子も当初は木彫であったが、価格、量産を考えて柳家が張子で再現した。高さ11p。(H27.5.30)

腹掛けをしているノッソリとした馬。三朝(みささ)温泉豊年馬とも呼ぶ。柳屋の首ふり張子としては、ほかに虎や牛、狐がある。張子には因州和紙を使うが、昨今は反古紙の入手にも困難を極め、材料価格も高騰していたという。柳家が店を畳んだ理由はそんなところにもあろうか。高さ9p。(H27.5.30)

おとん女郎(左)は、立見峠に現れて人々をだます女狐。我が子を育てるために、峠で休む油屋の油を少しずつ盗んでいたが、子狐が成長したのちは女に化けて身売りし、貧乏な油屋にそのお金を渡したという。一方の経蔵坊(右)は、人に化けて飛脚として殿様に仕えた狐で、手に書状を携えている。鳥取城の在った久松山に住み、鳥取と江戸を三日で往復するという健脚だが、ある日罠にかかって死んでしまう。殿様はその死を悲しみ、城内に手厚く葬ったという。ほかに恩志の狐、ショロショロ狐、尾なし狐も居るが、これらは何れも人に仇なす悪狐。5匹合わせて“因幡五狐”と呼ぶ(2)。いずれも、初代・田中達之助が民話に基いて創作したもの。豆天神(中)は土製で高さ7.5p。(H27.5.30)

きびがら姉さま(左):山陰地方ではきびがら人形を作り、それを便所に祀る風習があったが、今では廃れている。きびがら姉様は人形の髪の部分だけを作ったもので、明治30年ごろ始まった。黍の白皮を太陽に当てて干し上げると漂白したように白くなる。この時生じる皮の縮みのひだを利用して毛髪の感じを出したものである。髪型は桃割れだろうか。高さ15p。流しびな(中):子供の厄払いのために、人形を川や海に流す民間信仰は各地に残っている(雛13、和歌山03)。鳥取県では男女雛10組を竹串でまとめたもの(雛07)のほか、写真のように折敷(おしき、四角い盆)に入れたものや桟俵(さんだわら、米俵の両端を塞ぐ丸い藁の蓋)に入れたものが作られている。高さ11p。八上羽子板(右):そのむかし八上(やかみ)郡で作られたのでこの名があるが、後世になって宮中や国主に献上したことから献上羽子板とも呼ばれる。往時は正月の祝儀物とされていた。彩色にはムラサキの実を温湯で溶かした染料を用いる。高さ23p。(H27.5.30)

これも古くからあったものを柳屋が復活した。仕掛けは王子の狐(東京01)などと同じで、腕につながる棒を上下に動かすと、男の子が面を被ったり外したりする。全体が押絵で作られていて、錦の衣裳も以前は端切れを利用していた。ほかに天狗、お多福、ひょっとこ、猿の面がある。すでに紹介した要蔵でこ(首人形01)も柳家のからくり玩具である。高さ10p。(H27.5.30)

左の面は「青の鼻たれ」。樗谷(おうちだに)神社の権現祭の日に限り、この面を着けた人はどんな悪口を言ってもよいという特権が与えられる。右は「猩々面」。猩々については滋賀06で述べた。因幡地方の猩々は、赤い面と衣装を身に着け、赤い杖を持ち、きりん獅子を先導しながら悪霊退治の舞を舞う。赤一色の顔に、やはり赤に染めた麻の髪を垂らし、不思議な笑みを浮かべた面は、一度目にしたら忘れられない。いずれも高さ17p。(H27.5.30)

左が柳屋の狐面。口がパクパクするのは初代の創案という。右は倉吉市の備後屋製。口は開かないが、柳屋に負けず劣らず個性的な狐である。いずれも高さ20p。(H27.5.30)

張子製の赤もの玩具。“はこた”は“はーこさん”という言葉の転じたものと言われ、おぼこ娘という意味である。はこた人形の栞によると、初めて作られたのは江戸時代の天明年間。備後の国から絣の行商に来た備後屋治兵衛の創案と伝えられ、この地方の素朴でつつましやかな娘子の風情を人形にしたという。立たせて遊ぶものではなく、寝かせたり抱いたりして遊ぶところもこけしに似ていて、山陰と東北との共通した風土を感じさせる。高さ17p。(H27.5.30)

倉吉張子の獅子頭は、頭に羽毛を華やかに飾り、紙粘土で水差しの把手のような形をした耳が付いているのが特徴。顔つきもどこか長閑(のど)やかである。兎の起き上がりは、大国主命に助けられた“因幡の白兎”の神話によるもの。とぼけた表情がよい。兎の高さ13p。(H27.6.2)

いずれも男の子のおもちゃ。“やっちゃ“とは剣道の掛け声「ヤットウ」から転化したもの。農耕の神とされる大山の祭礼で売られるほか、かつては端午の節句の祝に菖蒲刀として必ず子供達に贈られたという(3)。刀身と鍔は桐製、柄(つか)と鞘は張子やボール紙で出来ていて、いかにも郷土玩具と呼ぶべきものである(長さ42cm)。竹馬については馬08を参照。これは観光土産用に作られた小型のもの。高さ23p。(H27.6.2)

現在、備後屋では張子製作のほうに力を入れているため、土人形は寡作だが、型は20種類ほど残っているという。これは安珍清姫の物語を題材にした女形舞踊「京鹿子娘道成寺道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)」の一場面。三段の振り出し笠で踊る華やかな姿である。高さ25p。(H27.6.2)

中国山地を挟んで北側の山陰地方(鳥取県)と南側の丹波・美作地方(兵庫県・岡山県)は、節句用として大型の天神人形が作られる一帯で、生土を焼成せずに乾燥させて彩色する泥人形であること、首と手が差し込み式であることなども共通している(4)。倉吉でも以前は子供の背丈ほどある天神が作られていたが、今は小型の天神のみである。首は差し込み式。高さ11p。(H27.6.2)

倉吉市の隣町、旧北条町で作られていた土人形。作者、加藤廉兵衛の名前をとって「れんべい人形」と呼ばれることが多い。戦後中国から引きあげ、故郷に戻って農業をする傍ら、手なぐさみのつもりで始めたという。種類は二百を超え、とくに神話や伝説、民話の主人公を題材とするのが特色。小さくて個性的なデザインの人形(羊06、雛02、雛22)には多くのファンがいたが、平成24年に作者が亡くなって廃絶。生前「跡継ぎもいないので一代限りの人形になりそうだ」と語っていた通りとなったのは惜しまれる。写真は虎と虎加藤(高さ6cm)。(H27.6.2)

鳥取県の東端にある岩井温泉は、1300年の歴史を誇る山陰最古の温泉。温泉街の一角に、「おぐら屋」という木地玩具の店がある。作者の姓・小椋は木地師に多い姓で、東北地方にも小椋姓のこけし工人がいるが、「つながりは分からない。先代は小田原(神奈川県)で木地の修行をした」と語ってくれた。作品で有名なのは木彫人形十二支。昭和9年に創作、商工省の工芸展に入選したもので、このうち龍は昭和39年の年賀切手の図案にもなった(龍10)。中央は「湯かむり人形」。“湯かむり”とは、頭に手ぬぐいをのせて柄杓(ひしゃく)で“湯を被(かぶ)る”珍しい風習で、江戸時代から岩井温泉に伝わる。人形の下の紐を引くと、頭から湯を被る仕草をする。柄杓を欠いたので、新たに秋保温泉(宮城県)の工人に挽いてもらった。高さ15p。(H27.6.2)
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