相撲人形 特集 |
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先日、千代の富士が61歳の若さで亡くなった。相撲界で初めて国民栄誉賞を受賞した名横綱である。小兵ながら、筋肉質の鍛えられた体で大型力士を投げ飛ばす相撲は魅力的だった。私が子供の頃、大相撲中継はもっぱらラジオだった。手に汗握り、ラジオの前で夢中になって応援したものだ。畳の縁(へり)を土俵に見立てて相撲を取った思い出は、同年輩なら誰にでもあるだろう。私のひいきは栃錦で、二つ違いの弟は若乃花。栃若のあとも柏鵬(柏戸・大鵬)、輪湖(輪島・北の湖)と、二大横綱が並び立つ時代が続いて大相撲は大いに盛り上がった。昨年は北の湖も62歳で亡くなっており、このところ昭和の大横綱が相次いで世を去った。ますます「昭和は遠くなりにけり」である。高さ15㎝。(H28.8.4)

筆者の住む仙台のお国自慢は、「わしが国さで見せたいものは、むかしゃ谷風、いま伊達模様」と小唄に謡われているように、昔から谷風である。谷風梶之助は仙台市近郊に生まれた江戸寛政期の花形力士で、身長189㎝、体重169㎏の巨躯であった。力士の規範となるべき力量、人格とも申し分なしと認められ、小野川喜三郎とともに初めて横綱が免許されている。横綱伝授の後は58戦し、敗れたのはわずかに2回という強さだった(1)。この堤人形の谷風は、大正末に京人形や博多人形に倣ってリアルな人形造りを目指した先代が、新たに型を起こしたもの。昔から伝わる古い型の堤人形“古代つつみ”(宮城01)に対し、“新つつみ”と呼ばれた(2)。宮城県出身の横綱では、ほかに秀の山が気仙沼土人形になっている(宮城14)。高さ33㎝。(H28.8.4)

現在“横綱”とは番付最高位を示す階級だが、本来は寛政元年(1789年)、吉田司家(熊本04)から初めて谷風と小野川に「横綱土俵入り」の免許が下りたとき、腰に着ける“しめ縄”を指して横綱と呼んだ。その後、将軍の上覧相撲や天皇の天覧相撲の際、特に優秀な大関が綱をしめて土俵入りする“資格免許”を意味するようになり、次第に大関の上の階級として番付にも載せられるようになった。横綱の代数は、史実では初代が谷風、二代が小野川となるが、明治時代これに伝説の3名(明石、湊川、丸山)を加えたことから、谷風は第四代横綱とされている。この羽織姿の谷風は、前回の“新つつみ”とは別系統の作者による堤人形。谷風は伊達藩お抱えの力士(名目上は白石片倉家)だったので、羽織の袖には「竹に雀」の紋が浮き出されている。もともとは伏見人形にある型で、各地に類似の人形が残る。高さ18㎝。(H28.8.24)

やはり仙台の産なので、谷風の姿をイメージして作ったものだろう。仙台時代の谷風もエピソードには事欠かない。谷風は母親が力持ちの男児が授かるようにと、陸奥国分寺の仁王様にお百度参りをして生まれた子供である。赤ん坊の谷風は、農作業が忙しい時に帯で臼に繋いでおいても、それを引きずりながら這い回ったという。九つの時に五斗俵(80㎏程度)を持ち上げ、13歳になると大人の倍の稲を背負って家の手伝いをし、16歳には年貢米一俵(60㎏)を担いで1里(4㎞)の道を一度も休まずに歩いた。大関になった谷風が、母が願をかけた仁王にお礼参りをしたとき、石の手水鉢につけた痕と伝わる足形“踏石”は今も陸奥国分寺に残っている(3)。高さ13㎝。(H28.8.24)

谷風らが活躍した江戸時代の相撲は「勧進相撲」といって、元来は寺社の建立や修復、橋の架け替え等の土木事業に必要な資金調達のために相撲を興行し、見物人に浄財の寄進を促すものであった。しかし、その後しだいに勧進の意味が薄れ、営利的な興行に変化していく(興行許可のため、相変わらず勧進相撲と呼んでいたが)。当時は相撲好きの大名が後援する職業相撲の集団が全国に存在した。有名なものには弘前(津軽)、盛岡(南部)、松江(松平)、姫路(酒井)、熊本(細川)、久留米(有馬)、薩摩(島津)、徳島(蜂須賀)などがある。どちらかというと、辺境の外様大名が多いようだ。仙台(伊達)は加賀、薩摩に次ぐ大藩なので、さぞかし多くのお抱え力士が居たと思われがちだがそうではなく、谷風でさえ支藩の白石(片倉)が抱えた力士であった。これは、伊達家の抱え力士は負けるわけにはいかず、かといって勝負の世界ではそれも難しいことから、名目上そのようにしたのである(3)。高さ15㎝。(H28.8.24)

先の羽織姿の谷風同様、伏見人形に倣って作られた。時代は一気に下り、現役の大関・琴奨菊がモデルである。今年(2016年)初場所、栃東以来10年ぶりとなる日本人力士の優勝を飾ったのは記憶に新しい。この間は朝青龍、白鵬などモンゴル勢をはじめとする外国人力士の活躍(裏を返せば日本人力士の弱さ)で新味が失われたためか、大相撲も盛り上がりを欠いていた時期である。幕内力士の四割もが外国籍で占められたこともあったので、相撲協会は“相撲は国技”との理由から外国人力士の入門を徐々に制限し始め、2010年には外国出身力士枠を1部屋1人までとした。いっぽうで、国際化を進めない限り相撲界の発展は望めないという意見も根強くある。高さ28㎝。(H28.8.24)

二人の人間が裸で力比べをするのは、もともと人類に共通した原始的、本能的な行動なので、相撲に似た格闘技は世界中にあって、我が国の専売特許ではない。ヨーロッパには古代ギリシャのオリンピックに起源を持つレスリングがあるし、チグリス・ユーフラテス文明やナイル文明の遺物にも四つに組んだ男の姿が多数描かれている。また、東洋では古代中国の力比べ(角力)がモンゴル(ブフ)、朝鮮(シルム)、琉球(シマ)、日本などに伝わった後、それぞれの地域で独自の呼び名とルールのもとに競技が行われている。モンゴル出身力士が強いのは、蒙古相撲と大相撲の類似性を考えれば当然のことかもしれない。面白いのは古代インドで、釈迦がまだ皇太子だったころ、弟たちと力比べをして彼らを次々と負かし、勝負に賭けていた美しい姫を娶ったという話が経典のなかにあるそうだ(1)。高さ23㎝。(H28.8.24)

日本では古事記に「国譲りの相撲」の神話がある。これは、天照大神が中津国(出雲)に派遣した建御雷神(たけみかづち)と、大国主命の御子・建御名方神(たけみなかた)が力くらべをし、建御名方神が負けたので大国主命が出雲を譲ったという話である。むかしから難問の交渉を相撲で解決したり、農耕儀礼として豊凶を占う神事に相撲を取ったりしたとの記録は多い。平安時代になると、神事相撲は宮廷儀式としての節会相撲へと発展していく(熊本05)。さて、前回の帖佐人形もそうだが、相撲の取り組み人形は京都の伏見人形から全国に広まった型である。写真は伏見の取り組み。ここでは子供同士の相撲に変えてある。金太郎が熊と相撲を取っている鶴岡(山形県)の瓦人形(金太郎03)なども類型の一つだろう。高さ10㎝。(H28.8.24)

桜井の出雲人形(奈良10)は伏見人形をそのまま抜き型したものなので、型崩れしたり彫りが甘くなったりしていて、この人形もようやく子供の相撲と分かる程度である。ところで、日本書紀はここ桜井の地を、垂仁天皇の命で出雲の野見宿禰(のみのすくね)と大和の当麻蹶速(たいまのけはや)が相撲を取り、宿禰が蹶速を破った(蹴り殺した)ところ、と伝えている。相撲に勝った宿禰には当麻の地が与えられ、以後、土師氏として埴輪造りの技術をもって大和朝廷に仕えたという。この伝説により、桜井は相撲発祥の地、宿禰は相撲の始祖とされ、当地には宿禰の塚と伝わる古墳跡や相撲神社がある。高さ9㎝。(H28.8.24)

化粧まわしを着けた子供が大きな米俵を抱えている人形は、伏見をはじめ各地で目にする。五穀豊穣の象徴である米俵を持つのは丸々と太った裸の子供で、金太郎人形と同じく子供が元気で健やかに成長する願いがあるのだろう。江戸時代の興業相撲では、相撲は取らず土俵入りのみを見せる体の大きな童相撲が居たというから、子供が重い米俵を持ち上げて見せるような見世物も実際にあったかもしれない。江戸時代の上覧相撲では子供にも相撲を取らせ、勝ったものには米俵が下賜されたという。平安時代までさかのぼれば、凶作の年の節会相撲には子供の取り組みが特別に企画され、儀式の最後は豊年を祈る舞楽で締めくくられたとの記録も残る(4)。いずれにせよ、米俵と子供相撲はむかしから豊かな稔りを表す縁起の良い組み合わせとされたのである。写真は沼隈の常石張子(左)と弘前の下川原人形(右)。下川原人形の高さ10㎝。(H28.8.24)

俵持ち童子のバリエーションには、このシャチ持ち童子のほか、鯛抱き童子(金太郎07)、だるま抱き相撲(埼玉15)などがある。いずれも化粧まわし姿の童子は同じだが、俵を別の縁起ものに置き換えてある。高さ14㎝。(H28.8.24)

関取の土俵入りは、身の清らかなるを示し、神に対し全力で正々堂々の闘いを誓う儀式である。土俵入りに色とりどりの豪華な化粧まわしを着けるのは、観客への顔見世の意味もある(5)。化粧まわしは土俵入り専用のまわしで、十両に昇進すると後援会やひいき筋から贈られることが多い。帯の生地は博多織、西陣の綴(つづれ)織などで、一腰(一枚)数千万円もする高価なものもあるそうだ。左より伏見(京都府)、小幡(滋賀県)、出雲(奈良県)の土俵入り人形。高さ10㎝前後。(H28.8.24)

いっぽう、横綱の土俵入りは関取の土俵入りとは全く異なるものである(5)。化粧まわしの上から紙垂(しで)を垂らした神聖な“横綱”を着け、国土に見立てた土俵の上で四股を踏んで地下の悪霊を鎮め、国家の安寧を祈るのである。横綱の土俵入りには二つの型がある。この人形のように両手を広げてせり上がる「不知火型」と、左手を胸の近くに当てて右手を伸ばしながらせり上がる「雲竜型」(熊本04)である。従来、不知火型を選択する横綱が少ないのは、“不知火型の横綱は在位が短い”というジンクスがあるためという。私が知るところでも吉葉山や玉の海、双羽黒らがそうであった。現在のように三横綱のうち二人(白鵬、日馬富士)までが不知火型なのは珍しいことである。高さ14㎝。(H28.8.24)

横綱の土俵入りでは、行司に続いて露払い、横綱、太刀持ちの順に入場する。高貴な者を先導するのが露払い。もともとは戦場で先頭にたって草木を切り払い、後続の主上が露に濡れないようにする役目であった。大名行列で「下に、下に」と触れ歩くのも露払いである。また、貴人の最も近くに控える従者が太刀持。谷風以来、横綱も外出時には帯刀を許されたので、土俵入りにも太刀持が付く。露払いと太刀持ちは横綱と同部屋か一門の力士が務めることが多い。写真はいずれも横綱をモデルにした清水人形(京都25)。右の高さ16㎝。(H28.8.24)

丸々とした“あんこ型”の力士は、手足の無い玉子人形や張子の起き上がりのモデルにはうってつけである。写真左は玉子人形の横綱。玉子人形は豊橋をはじめ各地にあるが(愛知15・福岡16・大分16)、やはり壊れやすいのが欠点。豊橋では殻の内部に補強材を入れて丈夫にしてある。右は伏見張子の角力起き上がり。伏見張子は大阪張子(大阪01)の流れを汲むもので、舌出しだるま、あくびだるまなど面白いだるまのほか、草津の猩々やピンピン鯛(滋賀07)なども手掛けていたが、昭和48年ごろ廃絶した(6)。起き上がりの高さ10㎝。(H28.8.24)

かつて大阪・四天王寺の縁日などで売っていた人形の復元品。もとは取り組みの格好をした二体を紐で結び、吊り下げるようにしてあった。手で動かすと相撲を取っているようにみえる。また、足には土が入れてあり、台の上に立たせることもできた。台の周辺を指先でトントンと叩いて、倒れた方が負けである。戦前は毛人形と呼ばれる玩具もあった。5㎝位の土製か練り物製の人形で、腰の周囲に棕櫚(しゅろ)の毛が立ててあり、やはり土俵を描いた台の上で勝負させる。動きが活発で人気があったそうだ(7)。同じような遊びでむかしからあるものに、二つ折りの紙で作った紙相撲がある。現在では日本紙相撲協会まで設立されて本場所も開かれているという。相撲人形を取り組ませて遊ぶおもちゃといえば、日奈久の板角力も現存している(熊本05)。高さ8㎝。(H28.8.24)
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