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出雲大社
Izumotaisha
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 参道の大鳥居。ここからちょっと下だってから本殿へと向かいます。
というのもあり、ちょっと気張った鳥居の周辺でした。

 神社というものは、現代の我々が理解するのはちょっと難しい。お寺だと本堂、金堂に盧舎那仏なり釈迦三尊、薬師三尊なりのご本尊が鎮座しており、信仰の対象が実態あるものというか具象的なのですが、神社はそのご本尊、いやご神体が様々なため、直ぐには理解出来ないものです。
 自然崇拝から始まった神道は、その神の霊が宿るものを「依り代」とし、それを崇拝する訳で、例えば奈良の大神神社は三輪山がご神体のため本殿を設けていないし、長野の諏訪神社もご神木崇拝であり同様に本殿がない。また、太陽信仰の場合にはその象徴としての鏡を置き・・・と、自然を相手に様々に変化するし、かなり抽象的な概念に満ちています。
 
 そもそも神道にあっては祭事の際に神を迎える神籬(ひもろぎ)などの祭壇が仮設だったこともあり、それが恒久的な建物を持つようになったのは仏教の影響からではないかと言われているようです。なるほど、だから伊勢神宮は遷宮を繰り返し、仮設的意味合いを今に持たせているのか、寺院に比べ社殿がどうしても軽い印象があるのはそういうことなのか、と理解しています。遷宮は技術伝承や部材リサイクルという側面も持ってはいますが(伊勢神宮の部材が全国の神社に使われている)、基本的には信仰に向き合うための仮設の祭事装置が神社なのでしょう。だから寺院と神社で国宝の数に圧倒的な差が出ているのです。

 で、ここ出雲大社も遷宮を繰り返していたようですが、ここで理解出来ないのはその過程で、かつてどんな社殿だったのかが謎になっていることです。社殿正面から発掘された巨大柱の跡が話題になり、鎌倉期には地上50mに及ぶ巨大な高下駄式社殿があったのではないかという説が広まっています。
 おいおい、出雲大社はずっと信仰の対象ではなかったのか? ある時期文明が滅亡し、忘却の彼方に去った遺跡というなら分かるけど、ずっとこの地で信仰を集めていたはずなのに、それも鎌倉期の建造物がどんなものか解らなくなっているのだろう。それもそんな巨大だったものが。

 確かに疑問です。その位伝承されていないものなのか。ある時火災で建物も書類も焼失したのでしょうか。寺院は当然そういう目に何度も遭っています。東大寺の大仏は台座は天平、胴体は鎌倉、頭部は江戸期のものというように、火災に遭って消失しては後世の人が資金を集め再建してきました。その過程で信仰を集められなかった、すなわち資金が集められなかった寺は自然消滅していきました。首のない大仏が、それも露座でしばし存在していたというのも不気味なものですが、そういうプロセスを経て現代に伝えられています。
 
 で、ここ出雲大社はその昔の遷宮も徐々に変化したのでしょう。そして結局江戸期を最後に遷宮自体も中止され、結果本殿は国宝になっています。それなりに大きな、いやかなり存在感のある本殿、拝殿なのは間違いありません。でも神社特有の秘密主義というか、あまり建物に近づけさせない方針により、回廊、いや神社は瑞垣ですか、その外から窺うことしかできません。おまけに平成の遷宮工事により、拝殿も仮囲い、本殿の後にも行けない状況でした。まあしょうがないか。

 そんな状況もあり、八足門で二拝四拍手一礼をして終わってしまいました。四拍手とは面白い、というか他とは違うという意識が十分感じられます。

拝殿を後から一枚。とにかく何処も工事中でした。 本殿が一番よく見えるポジションがここでした。そんなものです。手前が筑紫社だそうです。
氏社という小さな祠。西側にあります。紋もあるし、千木という屋根に載せる交差木が垂直に切られている「男千木」を間近で見ることが出来ます。
結婚式での参拝です。さすが本場という所ですね。楼門まで入れてくれたのでしょうけれどそこでおしまいかな。これも江戸期のいい建物です。
日御碕の帰りに寄った古代出雲歴史博物館。槇事務所の作らしく声高の主張をすることはなく、洗練されたものとなっています。展示も出雲大社はさることながら、荒神谷遺跡から300本以上も出土した銅剣、そして銅鐸が実に圧巻でした。空港ホテルの近くにそんな場所があったのだった。
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