頑固な文庫読者
この本を読んだぞ
本を買って読めればいいけど、時間がなかったり、読むタイミングを逸してしまったり、という難関を克服した完読本の感想をつらつらと書き込んでおります。
この中で「これはこれは」な本になるものが出てくればいいのですが。
完読本(2001/01〜)
- 『迷宮』 清水義範著 集英社文庫 し−22−10 571円+税
帯には「ミステリー」という言葉があるけど、そうではない。
実験である。
ある猟奇的殺人事件について書かれた「ある記録」「週刊誌の記事」「取材記録」や「供述調書」など。それらを読まされる記憶喪失の男。読ませる男。殺人犯の意図がつかめそうでつかめないもどかしさ。
なにが本当のこと?
最後まで明らかにされない真実。それ自体が物語をも越えるミステリとして読者に迫ってくるようである。
何らかの行動を起こすのに、明かな理由が存在するのだろうか。それを言葉として残すことができるのだろうか、ということだ。目的を遂げるための思考回路は理路整然として、何ものも入り込む隙間がないなどということはない。だれもが、自分の思考や推測の範囲内で行動しているものと思いたい。何らかの文章を読み、納得する材料が欲しいし、無ければ自分なりの組み立てを行って丸く収めようとするものだ。
そこで著者が「そんなことはできないよ」と、様々なテキストによって念を押してゆくのである。
思考と文章は一対一ではないことに。
20020630
- 『言っていいこと悪いこと』 永六輔著 知恵の森文庫 え−3−1 495円+税
副題、日本人のこころの「結界」。
書名や副題からは直接内容が分からないけど、放送で、実際に多数の人に向けてしゃべってきた言葉を集めたものである。雑学的なものから、時事問題、市井の人たちとの会話で心に残るものまで。
例えば、携帯電話のマナー、毒物カレー事件、靴職人のミシン、年賀状、井上順と堺正章、などなど。硬軟取りそろえてあります、といった感じである。ただし、語り口は優しいが、その中で言いたいことは簡単なことばかりではない。
曰く「事件を起こす子は、結果がどうなるかという想像力が欠如しているんです」
確かにその通りで、この本の他の場所でも同じような文章が登場する。こんな簡単で誰にでも分かることが、実際には解決できない。だからこそ、簡単に聞き流せてしまう言葉にも、それを脳ミソに留める努力(あるいは訓練)をしなければならないのかも知れない。著者は、日々、そうしてもらえるように、手を代え品を代えマイクの前にいるのだろう。
曰く「ひとりぼっちの孤独よりも、大ぜいのなかの孤独のほうが悲しい」
これは、『百億の昼と千億の夜』(光瀬龍著)のなかにある、「孤独であるよりも、悪と共にあるほうがよい」という、あしゅらおうのセリフと同じである。
所詮、一人では生きてゆけないのが人間であるから、その間に生じる言葉や行動がつながりを維持していくことになる。だからこそ、本当に大切なことを守りたいし、移りゆく世代にわたっても必要なことは残していきたいんだと思う。
20020624
- 『「粗にして野だが卑ではない」石田禮助の生涯』 城山三郎著 文春文庫 し−2−17 448円+税
書名だけはずいぶん前から知っていたが、先入観で「粗にして野だが卑ではない」という言葉は、誰かが石田禮助を評したものだと思っていた。実は、自己紹介の中で自分を評したことなのである。
石田禮助の生涯、とタイトルされているが、やはり後半の国鉄総裁職を受けてからが注目する部分である。前半から通して「卑ではない」生き方を通してきている彼が、いかにして難局にある国鉄を再生していくか。
多くのエピソードがある。しかし、考えていることは一貫している。相手は問わず、敵も味方も雰囲気に包み込まれてしまうような男。
国鉄のために何をなすべきか。
サービス・アンド・サクリファイス(奉仕と献身)
リーズナブル(合理的)
この二つの柱のために、自分の利益は考えずに。
なんと当たり前のこと。公共の為に必要かつ十分な理念である。もちろん、奉仕とは、国鉄乗客の快適性と安全性である。合理的な部分の例としては、自分では陳情を取り上げないことなど。
最後まで筋を通し、笑顔で国鉄を去る。なんとも清々しい話である。
ねじくれた現代に生き、汚穢のごときニュースを見聞きしている我々にとって、今必要な人材とは、彼を指すのであろう。例えば、国会から市町村に至るまでの議員たちや、利権と絡む省庁の役人など。
この本を読め。
そして「卑ではない」をモットーとせよ。
言いたいのはそれだけだ。
20020623
- 『ソニー ドリーム・キッズの伝説』 ジョン・ネイスン著 文春文庫 ネ−2−1 752円+税
僕が読んだことのあるソニーに関する本とは毛色が異なる。
トランジスタラジオやテープレコーダ、ビデオ、などなどの開発物語ではなく、人間の関わりを主軸にしている。井深大、盛田昭夫からはじまり、出井伸之まで。製品からではなく、人間側からソニーという会社を見たときに、こんなにもドロドロとしているのかと、誰でも驚くのではないだろうか。
特に、海外に進出して以降、外国人の統括者と日本側の思惑や考え方の違いが、会社自体を大きく揺らすことにもなる。また、「ソフト」の獲得を望む創業者の夢に右往左往する人たち。意外にも、僕自身が持っていたクールな判断力にあふれているソニーではなく、実体の見えない夢に翻弄される人情企業であったのだ。
したがって、この本自体も、全体の四分の一が開発物語にあてられ、それ以降は人間関係を中心に、誠に分かりづらい印象になっている。しかし、ソニーの本質は、その部分にあるとも言えるのであろう。
創業者の夢を実現するための会社、ソニー。
しかし、創業者から代が変わった今、新しい夢を見つけなければならず、混沌とした現代に光を射すハード・ソフトを開発しなければならない難しい状態になっていることは明かである。
ソニーにある種のイメージを抱いている人は、この本を読んで実体を垣間見てみるのもいいのではないだろうか。どんな企業にもあるようなことだろうけど、ソニーにもある、ということで。
20020616
- 『公主帰還』 井上祐美子著 講談社文庫 い−80−3 495円+税
中国の、時代からいうと「宋」のあたりだという、短編集。
僕はわりと中国歴史の小説は読んでいるほうだと思っているのだけど、この時代はほとんど知らないなぁ(汗) だから、その時代の雰囲気に浸るというより、物語の中身にのめり込めるのだ・・・、とはならないんだなぁ。
いくら忘れっぽくても、その時代のたくさんのエピソードを読んでいれば、なんとなく「流れ」や「善玉悪玉(笑)」の見当は掴めるものだ。その上で、違う視点で人物を追っていければ、より厚みを増すというものである。
だけどね。
どうもそういうわけにはいかないようだ。
以前読んだ本に収録されていた「潔癖」という短編は、2度目なだけあって、面白さも倍増したのだが、それ以外は一通り目を通した程度になってしまいました。これは、再度読み直してみないといけないのかも知れないです(汗)
20020609
- 『東京バカッ花』 室井滋著 文春文庫 む−12−2 600円+税
エピソードに事欠かないというのは、良いのか悪いのか分からないけどね。
笑いを誘う話。考えさせられる話。泣ける話。
その中で、「すき焼き」という話がある。たった2ページなのだが、『異人たちとの夏』を思い出してしまって、なんだか泣けてきた。シチュエーションは違うけど(当たり前だ)、ともに、この世の人ではない人と食事をする。どんな思いが込められているのか。食うことは生きることの象徴だし、この本の冒頭の「先輩」という話も食事が題材である。
それでなくても、食い物の関する話の多いこと多いこと。
「東京美人」という話の中に、「・・・、天丼、カツ丼、ハヤシライス、チョコレートパフェ、バナナパフェ、寿司などなど、店屋物として存在する品物のおおよそは、御馳走になったのではないだろうか」とある。僕は知らなかったが、チョコパフェ、バナナパフェの類も店屋物の範疇になるのか。自分にとって、だいたい店屋物といえば、ラーメン屋、そば屋、すし屋、うなぎ屋、くらいなもんだからな。
食わなければいけない。
何もかも、乗り越えて、食わなければいけない。
結局のところ、そういうことなんだね。
20020602
- 『ウメ子』 阿川佐和子著 小学館文庫 あ−1−1 533円+税
引き続き、阿川佐和子作品。初の長編小説とのこと。
ケータイも、テレビゲームも無い時代って、それだけ人間関係が濃厚だったということ。僕も、そういう時の一部にいたから、雰囲気自体を自分のモノとして感じることができた。だから、一回り以上歳が離れている人が読んだときと、受け取り方が違うかも知れない。
著者の分身ともいえる「みよ」と、幼稚園に転園してきた「ウメ子」。子供の世界は、大人の世界の影を引きずる。そして、子供の世界から脱皮しつつある時でも、完全には脱ぎきらないのだ。
小さな世界では、少しの波でも大きく揺られてしまう。大人の目から見れば些細なことであっても。
物語の中では、ウメ子はみよの一つの理想像である。しかし、理想像と現実との違いを、子供ながら感じてゆくのだ。そして、ウメ子がみよと等身大であることを知る。
僕はいままで、子供の時もそれなりに一所懸命に考えたり行動したり、あれこれとやってきたつもりだけど、所詮はそんなもんなんだよね。でも、余計なことまで考えなくて済んでいる時代って、幸せなんだな。あぁ、余計なことナンじゃなくて、必要なことだけか。
そして、僕は、僕にとってウメ子が誰だったのかを思い出そうとしている。
20020526
- 『無意識過剰』 阿川佐和子著 文春文庫 あ−23−9 448円+税
本当なのだろうか?
というのが、まぁ正直なところ。だって、TVで活躍しているところを知っているのに、実は・・・、なんていうことがたくさん書かれているのです。
自分自身のイメージとしては「切れる人」なんですが(笑)
帯には「オジサン化著しい〜」と書かれているけど、オバサン化ももちろん含まれています。「紙袋中毒」なる文では、もろオバサンしてます。でも、年相応の成長とも言えるのかな。かの『老人力のすべて』でも、確か赤瀬川翁と対談していたような記憶もあるが、多分にその道を突っ走っている感じがしますね。
文中に「友達」として何度も登場する人がいます。CMでも一緒に出演しているあの人です。いい意味で凸凹コンビ。持つべきモノは、ってやつです。
いろいろな出来事があって、それをめぐる(自分を含めて)人がいて、文章にすることができるだけでもすごいのに、通り一遍ではなく、掘り下げてもう一度見つめてみることができるのって、いいよなぁ。
ところで、「紙袋中毒」の中に「一本のわらは弱いが、三本束ねれば強い綱になる」という内容の文があるが、これは「三本の矢」とは別の話なんだろうか。
20020407
- 『サービスの達人たち』 野地秩嘉著 新潮OH!文庫 126 486円+税
サービスの本質とは何なのだろう。
ロールスロイスを売る。並天丼をつくる。三助。ウィスキーをつくる。ゲイバーのママさん。電報配達人。ホステス。興行師。靴磨き。
それぞれを仕事とする人は、それを必要とする人に満足を与えているのである。サービスの達人とは、満足を与えることができる人のことを指すのである。
方法は問わない。
一つの満足を得るには、十でも百でも方法はある。ただ、信念のある方法を選び出すことは難しい。
例えば、最後に登場する「靴磨きの源ちゃん」はどうであろう。靴がじっくりと磨き上げられ、履く人の背筋まで伸ばしてしまいそうな感じがする。しかし、それは靴自体を経由して人の心に伝わるだけなのである。本当は、源ちゃんは、靴を喜ばそうとしている。結果として、履く人を満足させているのだ。
方法はいくらでもある。
要は、僕らがその方法を探し出せるかにかかっていて、多くの人は手がかりさえつかめていない状態にいるのである。本書は、あらためて、この点を明らかにしているのである。
20020401
- 『ドライビング・レッスン』 エド・マクベイン著 ヴィレッジブックス F−マ 1−1 500円+税
16才の少女が路上教習中におこした死亡事故。同乗の教官は何らかの原因で意識朦朧。被害者は教官の妻。
短編とは言えないが、印象としてはそれに近く感じる。ミステリとしてはあっさりとしており、本格的なモノを求める人には、物足りないであろう。(何をもって「本格的」というのかは分からないけど(笑)) でも、僕にはちょうどいいかも。
何となく犯人の目星はついてしまったが、最後まで読むと、そこでタイトルの意味がちゃんと分かるという仕組みになっている。
そうだよな。そうなんだよな。まさに。
ここでは言わないけど、きっとみんなが同じように思うだろう。
あ、だから、これはミステリとして読んではいけなかったのかも知れない。
20020323
- 『新幹線開発物語』 角本良平著 中公文庫 B−1−24 705円+税
新幹線といえば、日本が世界に誇る高速交通機関である。
それが、わずか5年余の歳月で基礎技術の開発から工事までを行ったというのだから、とんでもない大プロジェクトだったことが分かる。
高速運転に対する安全性を確保するための車両や軌道の技術。よくぞ短時間でこれだけのことができたものだと思う。そして、それが現在まで生きているところがすごい。
残念ながら、僕が好きな「技術的困難をいかにして解決していくか」という点については、あっさりと書かれすぎているために面白みには欠ける。ただし、登場する技術項目の多さは多岐に渡るため、関連する部分についての書籍をあげてくれていればと思う。
実は、読んでいて涙がこぼれそうになった部分がある。
それは「用地買収」における買収側と所有者側のやりとりについてで、ここだけは人間と人間のぶつかり合いが主役である。最終的には解決するのであるが、その過程は技術的なことでは前進しないのだ。高い技術の集積があっても、それを生かせるかどうかは「人と人の関係」が鍵を握っていることが、新幹線開発の象徴的な部分といっても過言ではない。
20020317
- 『エキゾティカ』 中島らも著 双葉文庫 な−12−14 514円+税
こういうアジアのディープな雰囲気を書かせたら、ツボを押さえることのできる人って、そうは多くないと思う。中島らもはその中の一人だと思うし、しかもドラッグがからめば3倍増である。
アジアの各都市。そこに漂う、ねっとりとした空気。猥雑で、あやしく。
スリランカ。バンコク。上海。香港。インド。韓国。ベトナム。バリ。
巻頭を飾るのは「どこか南の島」。
そう。各編にはモデルとなる国や都市の名前が登場しているが、おそらく、その場所は単なる記号であって、名前が醸し出すであろう空気感のなかに物語を置いている。と言ったら言い過ぎであろうか。
それでもどこかの場所を、と問われたら、僕は上海をオススメしようか。
ほとんどの短篇は、最後数行の足すくいで唸らされてしまうのだ。それがまた気持ちいい。
20020305
- 『暗号戦争』 吉田一彦著 日経ビジネス人文庫 よ−1−1 648円+税
暗号戦争と「暗号と戦争」は意味合いが違う。
暗号自体は戦争と共に高度化し、武器とも言える存在になっている。例えば、第2次世界大戦では、各国が使用する暗号は自国の存在を保持するための重要な武器であったのは確かである。
しかし、暗号を使う側と、それを解読する側の微妙な力関係について、これほど気を遣わなければならないとは知らなかった。一方的に解読されてしまっていることを敵側に知られてしまうと、暗号システムそのものを切り換えられてしまうおそれがあるわけ。だから、解読していても、そうでない風を装わなければならないということもあるらしい。まったく難しいものだ。
現在、戦争ではなくても暗号は一般化している。インターネットを含む通信の多様性即時性などはともかく、第3者による傍受もさほど難しくない状況である。これからは、国対国ではなく、自分自身が絡む情報のやりとりには、強力な暗号を施さなければならない時代になっている。
はたして、暗号が不要になる時代は来るのであろうか。それがあり得るのは、文明が破壊し尽くされて時だけなのかも知れない。良かれ悪しかれ、暗号が高度化するのは止められない。我々が暗号を使っていることに気が付かないような暗号システム、というのが一番いいのかな(笑)
20020224
- 『日本医家伝』 吉村昭著 講談社文庫 よ−3−20 629円+税
何年も前に読んだことがあるのだが「新装版」ということで、再読。
江戸時代から明治にかけて、まさに日本の医学の夜明けとも言える進歩の軌跡である。
日本初の医家による腑分け、解体新書の翻訳、オランダ医学の浸透、眼科手術、女医、種痘術、ドイツ医学の取り入れ、脚気対策、梅毒特効薬などなど。12人の医学に関わった生き方をコンパクトにまとめ、しかも、時代の流れに沿って紹介されている。(元は雑誌の連載で、そのときはこの順番ではなかったようであるが)
これらの短篇の中から、長編として出されたものもある。例えば、前野良沢『冬の鷹』、楠本いね『ふぉん・しいほるとの娘』、中川五郎治『北天の星』、高木兼寛『白い航跡』は僕も読んだ。
情報がないことからくる偏見。男女差別。冷静さがない批判。
誰もが本当のことを知りたく、それを生かす場を持ちたい。しかし、時代が、まさに時代がそれを許さず、許されたとしてもなお十分ではない。もどかしい時を過ごし、光をあびたのは一瞬かもしれない。晩年は悲惨な状態だった人も多い。今からすれば、これだけの成果を上げていながら、そういう扱いはないのではないかと憤慨モノである。
「報われる」と言ってしまえば簡単だけど、彼ら彼女らの上に現在の日本の医学があるわけで。先人の功績を知っていてもいいのではないかと思うのである。
余談だが、手元にある文庫の元版は360円。ページ数は活字が小さいこともあり、約100ページ少ない。それにしても、高くなっているなぁ、最近の文庫は(笑)
20020217
- 『負けない私』 群ようこ著 角川文庫 む−5−14 419円+税
『沿線地図』が硬派としれば、こちらは超軟派の家族物語と言えます。
主人公である自分が巻き起こすのではなく、家族が引き金になって渦に飲み込まれてしまう。この短編集の中の多くは、家族という他人がいかに自分だけを中心に考えて行動しているか、という物語である。
実は『鳥頭対談』には、著者の家族がいかに小説向きかを知る手がかりがたくさんある。(その意味ではサイバラ氏自身も話題に事欠かないが(笑))
自分が意識していなくても、家族に対してとんでもない対応をしていることがあるのかも。所詮、自分以外の人のことは分からないものである。
分からないから、何とかして知ろうとする。
分からないから、とりあえず波風の立たない、当たり前と思われる行動をする。
つまり、常識的な、という判断を求められるのだが、この本に登場する人びとには、ことごとく欠落しているようである。ただ、注意しなければいけないのは、常識的な判断ができる人と、普通の人は違うこと。登場人物は普通の人なんだけど常識人ではない。
20020211
- 『沿線地図』 山田太一著 角川文庫 や−9−2 505円+税
多くの人が、ほぼ決められたような道を歩く。
中学、高校と進学し、大学へあるいは就職。子供は親の姿を、いったいどのように感じているのだろうか。また、親は子供に、胸を張って言えるだけの選択をしてきたのだろうか。
子供が親の思惑から外れた行動をとったとき、制するのか見て見ぬ振りをするのか。
山田太一は、家族をかく。
どこかしら不安定で、ほころびが見えている家族。
大多数が「自分たちは違う」と思っているのだけど、実は大なり小なりの分身である。人の振りみて我が振り直せ、というが、もはや遅い。すでに形式のできてしまった生き方を転換することは非常に難しいことなのだ。
だから、子供が家出し、学校を中退し、同棲を始め、自分たちの手の及ばないところに行ってしまうという非常時に、何の手も打てず、おろおろするばかり。挙げ句の果てには自分たちもトラブルを作り込んでしまう。
これを悲劇と見るか、喜劇と見るか。
実はどちらでもなく、日常である、というのが山田太一の出した一つの答えであるのだろう。
20020210
- 『文士温泉放蕩録 ざぶん』 嵐山光三郎著 講談社文庫 あ−43−9 695円+税
うまいねぇ。
今年始めに読んだときにも思ったんだけど、僕にとってはスイートスポットにくる作家だったんだ。(今頃気が付くなよ(笑))
明治から大正に至るまでの文壇の様子が、タイトルの通り「温泉」をからめて展開される。
夏目漱石、幸田露伴、から始まり、芥川龍之介、川端康成まで。
この時代、ほんとにいろいろな人が文章で生きていたんだなぁ。文芸誌をめぐる派閥争いから、生活するために文章を書く人まで。それこそ、温泉に身を浸し、一つの世界に入っては出て、出ては入る様子にも見える。どの世界にも「その人の時代」みたいなものがあり、著者のぶっきらぼうとも言える語り口にもよく乗って、雰囲気にどっぷりと浸かることができるのだ。
残念ながら、登場する文士たちの中で、実際に読んだことのあるのは、夏目漱石、芥川龍之介、川端康成くらい。それもつまみ食い程度である。学生時代には教科書でその他の文士たちの作品を読まされたことはあったであろう。だから覚えていない。少しでも読んでいて、断片でも記憶していれば、この本の厚みを10倍に感じるほどの効果があったと思う。
嵐山光三郎によって、服を剥ぎ取られ、温泉に放り込まれた文士たちは、その気持ちよさに思わず本音を吐露したのだろう。この本からは湯気と一緒に、その向こう側で笑い、泣き、怒っている姿がぼんやりと見えるのである。
20020209
- 『近頃、気になりません?』 新井素子著 講談社文庫 あ−23−9 648円+税
ホント、久しぶりに読みました。新井素子。
(主に旦那さん関係の)ダイエット話、掃除洗濯、病気、日々の疑問、などなど。
僕が日頃ほとんど気にも留めないようなことが話題の中心になっていて、ちょっとビックリしました。小説でしか知らないから、その裏に本当の生活があるなんて考えていなかったもんですから。(ここらへんは前回のところでも同じようなことを書いてますけど(汗))
しかも、主婦としての生活と、作家としての生活を絡めているわけだから、きっと大変なんだと思います、といいたいところだけど、読み進めていると「そこが楽しい」んじゃないのかなという気がします。まぁ、圧倒的に「主婦としての生活」についての話が多いですけど。
例えば、低農薬野菜の宅配を利用するようになって劇的に変化した献立なんて、家事(食事作り)に手を染めていない僕にとっては、本当に想像の「そ」の字もない。インパクトも大きい。素子さんにとっても予想できなかったことに対する喜びが、行間からはみ出してくるようです(笑)
それとは別に、名前、マナーなど、有名人(?)だからこそ発生する問題、あるいは、日常会話に潜む棘など、「気になる」ことはピンポイントなように思われて、実は広く存在することに気が付くのです。
気が付かなければ安穏に暮らせるけど、それは鈍化していることにつながるのかも知れませんね。どちらがいいのかは分かりません。
20020203
- 『誰も書かなかったオードリー』 吉村英夫著 講談社+α文庫 D−32−1 780円+税
久々に『ローマの休日』を観たので、この本を買ってあったのを思い出し、棚の奥から取り出しました。
生い立ちと共に、出演した映画21作の概要を読むことができる。
彼女がどのような環境に育ち、どういう選択をし、どういう最期を遂げたのか。僕はあまり興味がない。映画の中でしか知らない人に、それ以外の雑多な情報を付加したくないからである。映画の中の彼女だけを楽しむことができれば、それだけで十分。
とはいえ、これらの作品が、取り巻く状況によって取捨選択されてきたことが分かるし、再び観るときに、そのときにあったであろう苦悩や喜びを感じ取る助けになるかも知れない。
紹介されている作品の中で、実際に観たことがあるのは12作品。もっとも好きなのは『マイ・フェア・レディ』である。一時期、毎年大晦日にはビデオで楽しんでいたものだ。いつしかそれもなくなり、時折街で見かけるポスターだけが彼女との接点になっていた(大袈裟だねぇ)。作品と彼女自身は密接な関係があるのは言うまでもないが、『ローマの休日』から再度彼女の人生をふまえながら映画を観るのも、いいかも。
20020202
- 『月曜日の水玉模様』 加納朋子著 集英社文庫 か−33−1 495円+税
月曜日から日曜日までの七日間に起きる大小さまざまな事件。
主人公はOLなのだが、月曜日に登場するもう一人の人物が、実は語られないもう一つの物語のキーパーソンでもある。これは同じ著者の『ななつのこ』でその原型が認められる。(そんな大層な言い方しなくてもいいけど(笑))
毎日の生活の中で、記憶にも留めずに捨てられていく不思議な不可解なことでも理由があり、必然性もある。ホントは、そんなことがたくさんあるにもかかわらず、毎日が面白くないなんて思っているのは損なんだよ、と言いたいのかも知れない。そうじゃなくてもきっとそうである。
で、やっぱりこういう路線だと北村薫と比べちゃうんだよな(笑)
安心して読める、という形容は失礼なのかも知れない。だけど、人が死ななくても、警官が登場しなくても、恨み辛みが人間を狂わせることがなくても、ミステリは成立するし、物語の中で人が生きている。
逆に、これらの物語以上に過激な現実があふれているから、読んでいてホッとすることもある。これは喜んでいいのか、どうなのか。(僕は喜んでいる)
20020120
- 『本屋はサイコー!』 安藤哲也著 新潮OH!文庫 134 486円+税
本や雑誌をたくさん読んでいる人なら、本屋を経営したいとか、書店員になりたいと思ったことはあるはずだ。
僕もその一人であるが、それじゃぁどんな本屋にしたいのかと問われたら返答に困る。いつも立ち寄る本屋を思い浮かべると、それは大きな総合書店だったり、品揃えのよい郊外型書店だったりする。つまり、この本でいうところの「面白い本屋」ではない。
著者は「町の本屋」をめざす。魅力のある本屋である。
金太郎アメではない本屋。独自の視点。本の配置の妙。商品展開。
それを実現するためには、店舗のレイアウト、本の仕入れ、そして直感。本屋以外の情報も貪欲に吸収し、次の新しい展開に生かす。客はそれに共感し、繰り返し足を運ぶ。
全部が全部、すべての書店に当てはまるのではないだろう。でも、地元に密着し、店舗面積も限られた本屋では、「色」を出さなければ大書店に客を奪われてしまうのは確かである。また、中古書店の影響もまともに受けてしまうのだ。
さて、我々本を買う、読む者は、この本屋の挑戦を受けるだけの能力はあるか?
こう書かれている。
「売れているものしか買わない」
ベストセラーはホントにたくさん売れ、そうでないものは全く売れない。そんな状態を作りだしているのは書店が原因か。それとも読者か。この本屋は、アンテナを伸ばすことのできない我々に対する救いの手なのかも知れない。
そうはいっても、なぜ僕が「面白くない本屋」に足を運ぶのか。やはり「品揃え」につきる。だから、中途半端なチェーン店には興味がない。少なくとも、文庫と理工学書関係が豊富でないとね(僕の場合は)
20020114
- 『孤独なハヤブサの物語』 J・F・ガーゾーン著 新潮文庫 カ−26−1 514円+税
不思議な物語。
猛禽類であるハヤブサのカラ。彼は獲物を捕らえて生きることをやめ、森の動物たちと共生する生き方を選ぶ。なぜ、彼が自らの生き方を変えたのかは、詳しく語られない。
美しさ、命、風景。
登場するそれらの言葉さえ、本当の理由なのかどうか。
本来、獲物であるはずの森の動物たちを、敵から守るような行動をし、しかも、その敵さえも傷つけることを恐れる。
得られるものは何なのだろうか。
森の動物たちは、カラに影響され、お互いに助け合う生き方に変わっていく。
カラが望んだものは、そういう生き方だったのだろうか。
疑問はたくさんある。
宗教臭いといえばそれまでである。たしかに、著者はカトリックの司祭であったとのこと。影響がないとは言えまい。
この本を読んで、何を感じればよいのか。
この森の物語を、人間世界に、そして、自分自身に置き換えてみればよいのだろうか。
僕には、できない。
できないからこそ、何か胸の中の空気が入れ替わるような感じを受けるのだ。その空気は、少しだけきれいである。ただ、吐いた空気が元の濁った状態になるのは、瞬く間のような気がする。
20020113
- 『歩く影』 ロバート・B・パーカー著 ハヤカワ文庫 HM−110−28 740円+税
ちょっと今回は筋が気になってしまって、かえって読み込めなかったなぁ。
だいたい、今回の事件の舞台となる劇団の理事にスーザンが名を連ねていることからして、疑問がないわけではない。不可解な殺人事件。中国人のマフィア。警察に対する不審。どれもこれも、的を射ないことばかりだ。
しかし、ホークが登場するあたりから、俄然動き始める(物語上はさほどの展開にはならないが)。さすがに、スペンサーとスーザンだけでは物語を回転させるのはちょっと苦しい。
相変わらす、会話の流れ方はスマート。ただ、知らない言葉や人名が飛び出すので、勉強が足りないと思うのであった。例えば、
「ヤーシャ・ハイフェッツ」「ヤフーディ・メニューイン」
って誰? 何?
でも、スペンサーが「ノーマン・ロックウェル」が大好き、という部分があって、僕としては大喜びである。
話は戻って、後半の後半になって物語は急展開する。殺人事件の犯人は意外といえば意外。
帯には「重層的なプロットと新たな展開」と書かれているが、そうなのかなぁと思った。単に僕の受け取り方が未熟だったのかも知れない。うーむ。
20020106
- 『頬っぺた落とし う、うまい!』 嵐山光三郎著 ちくま文庫 あ−26−3 820円+税
料理をめぐる20編。
僕は最初の物語を読んだ時点では、あんまりピンとこなかった。でも、読めば読むほど術中にはまるというか、吸い込まれていくというか、ストーリーの組み方と語り口にとらえられてしまうのでした。
主人公の大学教授と、それを取り巻く料理人や家族、友人、別れた妻。彼らをめぐる料理。
料理のうまさを表現する言葉に唸らされる。例えば、
塩むすび「米つぶが針のようにピンと光ってる」
鰻飯「食べると口の中がピカッと金色になった」
湯豆腐「思い出の天使が踊っているんだわ」
うまい! うますぎるぞ。
多分、数々の料理を食べて、味わって、消化した人でないと、こういう表現が浮かんでこないのではなかろうか。残念ながら、これを読んで「そうだ、そうだ」と膝を打つような料理には巡り会っていない(笑)
それだけではない。
物語だって、油断するとボロボロと涙がこぼれるくらいなのだ。
特に「湯豆腐がしみる夜」「焼酎ホルモン」には十分注意した方がいい(笑)
この本のタイトルからは想像がつかない内容である。いや、つくか。
頬どころか、味わうほどに涙がこぼれるほどうまい物語の数々。
おそるべし、嵐山光三郎。
20020104
- 『ローマの休日』 百瀬しのぶ著 ヴィレッジブックス M−モ1−1 700円+税
(イアン・M・ハンター&ジョン・ダイトン[原案])
一行一行から、映像が飛び出してきました。
「読んでから見るか。見てから読むか」なんてフレーズが昔流行りましたけど、この本は「見てから読む」以外の楽しみ方はありません。つまり、もう一度映像を反芻するために読むのです。
したがって、物語の面白さというより、映像と文章の表現の差についての話になってしまいますが、そこら辺は(今回は)ご容赦を。
一番異なるところ。それは心理描写である。
映像では、表情、仕草、音楽などから、我々受け手が自分の今までの経験と想像を加えて彼女、彼の心の奥を推し量る。文章では、直接表現されているため、そこから表情や仕草を想像する。
どちらが良いか悪いかという問題ではない。ここで注意することは「自分」がどちらを先に頭に入力したかである。『ローマの休日』をこの本で初めて知る人はほとんどいないであろう。だからこそ映像を再現するために読むことが重要なのである。
映画を見ていない人は、読んではいけない。
オードリー・ヘプバーンのかわいく美しい姿も、グレゴリー・ペックのやるせないラストシーンも、これだけは読んでも分からない。
王女が王女として自立する様も。
だからこそ。
さて、この本の帯には「永遠の名作を完全小説化」と書かれているが、これは違います。少なくとも1シーンは完全にカットしてある(飛行機から諜報部員が下りてくる場面)し、逆に映像に紛れ込んでいる「お遊び」のちょっとしたシーンは文章になっていない。
正月早々、撮ってあったビデオを見なおしてしまいました。やっぱり、映像が先です。
20020102