頑固な文庫読者
この本を読んだぞ
本を買って読めればいいけど、時間がなかったり、読むタイミングを逸してしまったり、という難関を克服した完読本の感想をつらつらと書き込んでおります。
この中で「これはこれは」な本になるものが出てくればいいのですが。
完読本(2001/01〜)
- 『公子風狂』 藤水名子著 講談社文庫 ふ−45−5 695円+税
副題「三国志外伝 曹操をめぐる六つの短篇」
三国志の中で、真の主役といえば、やはり曹操である。
この本には、曹操だけでなく、息子の曹昂、曹丕、曹植、妻であった丁夫人や息子の妻たちももちろん登場する。
曹操の内包するエネルギー自体は、文章から強く感じることはない。しかし、見えないそれにさらされている周りの人びとには、自分の幸不幸を左右するのも分からずに対処しなければならないのだ。
例えば、最初の短篇『公子風狂』の丁夫人しかり、次の短篇『青青子衿』の曹昂しかり。
すべては曹操の持つエネルギーに対して、受け入れ、振り払おうとし、避け、跳ね返そうとする。その結果は、各自の運命をもねじれさせ、曹操自らの手をもってしても思い通りにならなくなる。
英雄譚は面白いし、古今の優れた人物の軌跡を追うことで自分には縁のない世界のほんの一部を味わうことができる。ただ、光あるところには必ず陰がある如く。見えない光に体を焼かれ、心に突き刺さるような痛みもある。
人物の周りには人物がいる。
同時期、他の英雄には、陰を語り紡ぐだけの物語はあるのだろうか。
やはり、曹操は英雄の中の英雄である。
20010630
- 『みるなの木』 椎名誠著 ハヤカワ文庫 JAシ−2−1 560円+税
椎名誠的ぐねぐね世界の物語。
前回読んだ赤マントシリーズとはうってかわって、好き嫌いのはっきりしそうな異世界型SFといえる。僕はどちらかといえば苦手である(笑)
ところが、この短編集の、最初の一編を読み通すことができれば、つまりはOK。ゲテモノ(といってしまうと失礼であるが)も口にしてしまえば、案外いけるというパターンである。しかも、後をひく。
実は、短編の並び方からして、そういう感じになっているようだ。戦略であろうか。
それでも「どうも」とおっしゃる方には、中程にある『巣』は如何であろう。
ちょっとしたところから、徐々に異次元へのつながりを広げていく、お得意の筋書きである。先入観無しで読んでも楽しめるはずだ。
20010629
- 『突撃三角ベース団』 椎名誠著 文春文庫 し−9−16 448円+税
新宿赤マントシリーズの何冊目か(笑)。
このシリーズを読むと、僕も少しは正常なおじさんに近づいているのかなと思ってしまう。違うところは、著者に比べれば圧倒的に地元密着なところであろう。
注目すべき箇所があった。(76ページ)
『・・・、広い田んぼのむこうに形のいい高圧線鉄塔が見えた。(中略)感動してその鉄塔を撮ったが、しかし鉄塔を写真展に出してもあまり美しい評価は得られないのだろうな、・・・』
これで前回読んだ本より椎名誠は鉄塔ファンである確率は高まったのだ。(そこには書かなかったけれど、中の短編に鉄塔の描写が登場している)
さらに、注目すべき箇所があった。(47ページ)
『友人というのは五割の尊敬と五割のケーベツで成りたっている−−−という格言のようなモノを目にしたことがあるが、・・・』
これはこの本にも登場しており椎名誠のコトバとして登場していたのだが、そうではないようだ。原典はどこにあるのだろうか。
毎週のように(週刊誌連載だから)どこかに行き、ビールを飲み、幸せを感じ、憤慨し、意味を見つけだし、そして夢中になっている。
そんな話を読みながら、だらけた自分にほんの少しでも違った目が欲しいなと、思ったのである。
20010624
- 『黄色い信号機』 沢野ひとし著 角川文庫 さ−18−11 514円+税
子供の頃、大人の頃。
沢野ひとしの文章は、寂しい風が吹くようである。
小学生の時の台風の話。
僕にも記憶がある。子供にとって台風は、楽しいばかりの毎日にさらに興奮を呼ぶイベントだったのだ。でも、少年はクライマックスを知ることなく朝を迎える。たったそれだけのことなんだけど、波に乗り損ねた脱力感というか、知る者と知らざる者の大きな差を感じるのである。
思い出せば、そんな思いをいくつもいくつも重ねて、ついでに歳も重ねて今に至るわけである。
家族の話。
所詮は血のつながりがあるとはいえ、自分ではない。
小さな裂け目が、見えるモノ見えないモノを含めて、たくさんの方向から実体を蝕んでいくようだ。
家族であっても、心の中までは見通すことができない。たまに見える場所は細く、すきま風が吹いていて、大きく目を開けてみようにも苦労する。
それは、白いブラウスの少女であったり、昔の仕事相手であったり、恋人だった女でも同じことなのだ。
風は、大人になるほど、その温度を下げつつ鋭いものとなっている。
20010623
- 『身体の文学史』 養老孟司著 新潮文庫 よ−24−1 400円+税
お手上げである。
読み始めたのはいいが、何が書いてあるのだか、さっぱり分からない。
芥川龍之介、三島由紀夫、深沢七郎、・・・。
読んでいない自分も手持ちのコマにないのは棚に上げて、もう少し分かりやすい話の展開にして欲しいと思うのは勝手であろう。しかし、それは読み始めたおまえが悪いと一蹴されてしまっても、僕は、はいそうでした、と答えるしかない。
ただ、こんな部分がある。
『歴史でもっとも困難な部分は、そのときの人間にとって、何が「当然」だったか、ということである』
『それが当然である以上、(一部省略)その当時それとして記述されない』
『ただなんらかの「形式」として、認められるだけである』
当たり前のことを、ことさら言い立てることは、おそらく文学としては否定されるべきモノなのだろう。
と、書くくらいしか、書くことがない。
すまぬ。
20010610
- 『キムラ弁護士の友情原論』 木村晋介著 角川文庫 き−12−4 476円+税
真の友情とは何か。
哲学的な答えを僕たちは必要としていない。
曰く、「友情は50%の尊敬と、50%のケーベツによって成り立つ」。
曰く、「友情は個人的・社会的資源である」。
著者は、父親、椎名誠、目黒孝二、沢野ひとし等とのエピソードを交え、友情をいかにうまく使うかを語る。うまく使う、というと拒否反応を示す人がいるかもしれない。友情は愛情ではなく、ボランティアでもない。
ここらへんは、中の「友情は資源だ」「純粋友情批判」を読んでもらうと分かるはずだ。
幻想の、役に立たない、堅苦しい友情論なんて、必要ではないのだ。
20010603
- 『「科学者の楽園」をつくった男』 宮田親平著 日経ビジネス人文庫 み−1−1 743円+税
理化学研究所が、科学者の楽園である。
育てた人が大河内正敏。化学、物理の重要性を訴え続け、大戦の渦に巻き込まれてしまう。
資源の乏しい日本にあっては、科学技術こそが生き延びる道である。これは、今も昔も変わっていない。中にも書かれているが、この考えが正しいにも関わらず理解されていないのも変わっていない。
理化学研究所の関係者には、ノーベル賞を受賞した科学者もいる。ビタミンの発見者もいる。原子模型を提案した者もいる。戦時中には原子爆弾の研究もし、合成酒の研究もある。
科学者が自ら行いたい研究を思う存分やるためにはどうすればよいか。まずは金の心配をせずに済むことが必要である。その点、大河内正敏は自ら、科学者の自由な研究環境を提供することに力を尽くす。研究の内容や成果は問わない。楽園どころか天国のようである。
日本では、いまだに基礎研究が重要視されていないという。国レベルでそうであるのだから、一般企業では語るべくもない。僕自身も不安であるし不満である。
はたして、現代に大河内正敏は出現するのか。
それとも、このまま科学低迷国家に成り下がってしまうのか。
余談であるが、「わかめスープ」で有名な理研ビタミンは元々理化学研究所の研究成果を工業化するための関連会社である。こんなところに科学者の楽園の一端を垣間見ることができるとは・・・。
20010602
- 『生命の奇跡』 柳澤桂子著 PHP新書 023 657円+税
副題「DNAから私へ」。
これは文庫ではなく、新書です。でも、ここでとりあげます。
ヒトがどのように発生し、育ち、社会を作り、芸術宗教を持つに至るのか。とても分かりやすく、順を追って語られます。
ヒトが、生物が発生した頃の名残を引き継ぎながら、進化の歴史を再度歩みながらこの世に生まれ出てくる不思議。巧みに守られ、しかも高度に。驚くべき細胞の話から、自己の認識、コミュニケーションと、次第に複雑化していく事柄が、ヒトを人間たらしめるに欠かせないものばかりである。
現代に生きる人間が、一度として種を絶やすことなく存在していることが奇跡的に思える。しかしそれは、充満する犯罪や戦争の力を持ってしても途切れさせることのできないほど強い強い力なのだ。
僕は思う。たくさんの人にこの本を読んでもらって、ヒトが人間となり、生きていることに喜びを感じるようになってくれることを。
命が守られて、永らえるように創り上げられてきたことを。
20010526
- 『幻視』 米山公啓著 角川ホラー文庫 H−79−1 514円+税
突然血を流して死ぬ。謎の病原体。脳の神経細胞の異常。
死を免れた感染者が見る幻。
途中までは、何らかの納得できる原因と結果が明らかになるのだろうと思っていたが、ラストで引き出される結論は確かにそれらしく結びつけられている。
しかし。
それじゃ僕は納得せんぞ。
これがホラーの範疇だというのなら、ロビン・クックの小説のほうがよっぽどホラーという感じがするのだ。
僕はホラーという分野を過剰に期待しているのだろうか。
ホラーといえども、納得できるモノが欲しい。それを医学的な材料とリンクさせると、やっぱり無理が生じるのではなかろうか。
20010513
- 『見知らぬ妻へ』 浅田次郎著 光文社文庫 あ−29−4 495円+税
いずれも、心を残しながら別れることをモチーフとしている8編。
その中の一編『金の鎖』には、この様な一文がある。
「偽りだったけれど、過ちだったとは思わない。」
たぶん、すべての短編に共通する。そう思う。
過去には一つの思いでいたときもあったのに、今は全く違う状況にいる。あるいは、今、一つになれていると感じたのに、次の瞬間には引き裂かれてしまう。
共有する何かが失われてしまうとき、孤独や喪失感といったいわば負の方向の感情が引き起こされるのだが、どういうわけか読み終わった後には、さぁっと消え去ってしまうようである。既に過去になってしまったことに対して、切り離してしまうのではなく、すべてをすくい取ったまま丸めてポケットに押し込むとでも言ったらいいのだろうか。
ポケットに手を突っ込むと、はずみで触れてしまうような。でも、中身を確認するのがこわいようなもの。
20010506
- 『ナースがまま ぴかっと新米編』 小林光恵著 幻冬舎文庫 こ−5−6 495円+税
文中に、「『人の為』というのは、あわせると『偽』という字になります」と書かれている。
しかし、看護婦は誰ひとりとしてそんなことを考えていないはずだ、と思っているのは僕だけではないと思う。この文章も著者本人の一瞬の隙をついて出てきた言葉なのだろう。通常は『人の為』を越えた次元で看護の仕事をしている彼女たちも、患者とうまくいかないことや、失敗する事だってあるだろう。素の自分に戻ってしまうときに、自分の仕事について振り返ってみると、職業の持つ光と陰の差に唖然とするのかもしれない。
新米看護婦がたくさんの経験を積んで、一人前になるまでにはどれくらいかかるのだろうか。この本では、患者と看護婦の関係を通してそれを面白おかしく(といってしまうと語弊があるかもしれないが)読むことが出来ます。
どんな職業でもそうだけど、新米の頃の出来事って、年をとっても覚えていることが多いよなぁ。でも、ホントはそれ以上に新米の頃の感覚を忘れてはいけないことの方が多いんだと思う。
20010502
- 『死神』 清水義範著 角川文庫 し−11−16 457円+税
たまたま大物俳優の臨終の場に居合わせた売れない役者夫婦。
彼らの語る大物俳優像はTVカメラを通してお茶の間に流れ、彼ら自身も再び脚光を浴びるようになる。
人の死に対して、生きている人はどのように生前の姿を語ればいいのか。暗黙のうちにルールは決まっている。貶めてはいけない、と。死んでしまった人は、その時点で永遠の存在になる。どんな人でも存在した理由は、語られるに足るものでなければならない。
なるほど、そういうものだったのかと、改めて思った次第。しかし、現在のスキャンダリズムもまた俗人の欲するところ。
「死神」とは誰か。
死神が欲するものは「死」である。
「死」によって引き起こされる「生前の姿」と「隠されていたスキャンダル」。それを欲しがっているのが死神である我々なのだ。
20010430
- 『ビートルズを呼んだ男』 野地秩嘉著 幻冬舎文庫 の−3−2 648円+税
副題「伝説の呼び屋・永島達司の生涯」。
ビートルズの日本公演。彼らをこの国に呼んできたのが「呼び屋」永島達司である。
敗戦後、米軍基地のクラブにバンドの手配をすることから始まり、やがて日本人のためにアーティストを呼び、コンサートで音楽を聴いてもらうことを仕事とすることになる。
彼は、自分の気に入ったアーティストを来日させ、アーティスト、観客の双方が楽しんでもらえるのを喜びとした。呼び屋として裏方に徹し、裏表のない人柄。信頼関係を作りあげ、それを壊すことのなかった男。
自分の好みのアーティストから、若者の好むアーティストへ。そういう転換の中にビートルズの存在があった。ビートルズを呼ぼうとした男は他にもいたし、彼自身はその競争の渦中にいることを避けようとした。しかし、彼の生き方がビートルズを彼の力で呼ぶことになる。
自分が好きな音楽と、他の人が好む音楽が違ってくるというギャップ。自分自身の喜びと観客の喜びが一致していた頃が一番幸せだったのかもしれない。
海外のアーティストを呼ぶために、当時の日本ではお金の面で大変だったようである。そういう裏話的なところも十分に盛り込まれていて興味深い。
20010429
- 『曹操 魏の曹一族(上・下)』 陳舜臣著 中公文庫 ち−3−31 648円+税
三国志における真の主人公といえば、曹操になる。
清平の姦賊、乱世の英雄。
結局、人物評の通りの英雄となったのだ。弱体化したとはいえ漢の皇帝を擁し、中国の大半の部分を支配下におく。しかも、簒奪をするところまでは至らず、いにしえの禅譲劇を後世に譲る。
この本には、曹操とその周辺にいた人物の描写しかないと言っても過言ではない。しかも、敵である劉備、孫権などもほとんど登場せず、彼らの発した言葉もほんの少しあるだけだ(記憶が確かならば)。さらに言えば、乱世であるのに戦争の描写があっさりとしすぎている。
著者がこういう構成をとったのは、曹操の本質が戦争の中にあるのではない、と感じたからなのだろう。ではどこにあるのか。人間対人間の読み合いのなかだったのではないか。
乱世であるからこそ、人材を集めることはもとより、不用な人物は遠ざける。敵であっても自分に利する部分は大いに利用する。その点からすれば、戦争という手段はあまり重要ではない。曹操の物語を組み立てるとしても、戦争部分は華やかであるだろうが、あまりに光りすぎていて(勝ち戦、負け戦双方も)、かえって人となりをぼやけさせてしまうのかもしれない。
20010415
- 『神経内科へ来る人びと』 米山公啓著 ちくま文庫 よ−14−1 560円+税
解説にも書かれているのだが、「精神科」を「神経内科」とごまかして表記していたこともあるとのことで、僕も最初は「精神科」の患者の話かと思ったのである。そう思ってしまったのは、帯に「不安、戸惑い・・・ひとり悩むあなたへ」と書かれていたからである。
では、神経内科とは何かというと、脳および神経に関する病気に対応する診療科だということだ。
原因がはっきりと分かっており、治療の仕方が確立している病気もあり、その逆もある。医者は病気を治すために奮闘するのだが、患者はそれ以上に悩み、苦しみ、病気と向き合っていかなければならないのだ。
病気の種類はいろいろあるが、患者と医者のやりとりが実は大変重要。症状を的確に表現してもらう。楽観視している患者自身に対するさりげない釘差し。あるいはその逆。
神経内科へ来る人びとそれぞれに、何通りもの医者自身を見せることも治療の一つなのである。
20010412
- 『日本の技術(ワザ)は世界一』 毎日新聞経済部【編】 新潮OH!文庫 079 486円+税
副題として「先端企業96社」。
読んでいるときは「そうだよな、やっぱり日本はすごいんだ」と感じていたのだが、実はたった1冊で完結してしまう程度のモノだったのだ、なんて思ったのです。
本書の構成からして、各々の目玉技術を詳しく説明することは出来ていない。そこからくる内容の薄さが「本当の技術力の高さ」をスポイルしてしまっているのかもしれない。きっとそうなのだろう。直接競合しているわけではないが『プロジェクトX』と比較してしまうと一層明らかである。
紹介されている技術に対する「深み」が表現されていないために、損をしている。
願わくば、同じ内容を、ページ数を数十倍くらいにしてもらえれば・・・、と考えたら、それは『メタルカラーの時代』になってしまうのですね(笑)
20010409
- 『困ります、ファインマンさん』 R.P.ファインマン著 岩波現代文庫 S−29 1100円+税
この人、すごい人だ。
『ご冗談でしょう、ファインマンさん』を読んだときにもそう感じたが、自分で考えることが、自分を自分たらしめる、ことなんだ。
この本で約半分を占めるのが、スペースシャトル「チャレンジャー」事故の調査委員をしたときの話である。僕もその事故は、たまたまTVで生中継をしていたところを見ていたため、その後の調査状況を知りたかったという記憶がある。
委員会の中でも、ファインマンさんは自分で考え、検証することを惜しまない。すすんで人と会い、話を聞き、歪みや矛盾をつく。真実に近づいていくためには、自分から歩いていかなければならないことを実証している。
何度も何度も、組織の構造的歪みからくる抵抗に遭いながら。
科学者として、当然といえば当然の態度である。
でも、最初の「ひとがどう思おうとかまわない!」を読むと、あまりにも人間くさい彼の姿をみてとれる。思わず目頭が熱くなった。
20010407
- 『街のはなし』 吉村昭著 文春文庫 よ−1−34 448円+税
吉村昭の小説といえば、極力著者の主観を表に出さず、綿密な取材によって物語を再現するような感じがする。
一方、この本のように、エッセイとなると話は逆である。思い切り自分の思うところをぶちまけている。びっくりするほどである。
もちろん、僕にも同じように感じる内容もあるし、疑問に思う部分もある。
例えば『電話のはなし』。電話のかけ方についてだが、ケータイが普及した現在では多少のズレが生じているのは否めない。マナーについてはその通りだが、一家に一台ではなく、一人に一台の時代となり、当然の如く変化していくのだ。(といいつつ、僕はケータイ持ってません)
例えば『ドアをしめる』。これは僕も常々思っていることであったので、やっぱりそう思っている人は多いのだなぁと感じた。自分の後ろ側を見る目を養わないといけないのだ。
ただ、同様の話が所々で顔を出すのが鼻についた。このエッセイは連載であったようで、読者は入れ替わりがあるだろうから、多少の重複はあってもかまわないのかもしれない。あるいは、何度も登場させたいはなしという意図があるのかもしれない。
20010401
- 『中国・反骨列伝』 伴野朗著 集英社文庫 と−8−20 552円+税
よく読む中国の歴史物語では、これでもかというくらいの権力闘争が繰り広げられている。
権力の魅力がどういったものなのか、僕にはよく分からないけど、少なくとも権力を持つ人間に対する警戒感は持っているつもりである。
権力におもねらないことが当たり前であるのに、そういう物語を読むことですっきりと感じるのは、そういう行動をとることがいかに困難なことかを表している。
権力におもねらないことと、権力に協力しないこととは同義ではない。いかに自分の才能や技術を生かすことが出来るかが問題なのである。
田単、袁おう、蘇武、諸葛瑾、楊阜、王羲之、文天祥。一度はその力を存分に発揮したものの、悲惨な最期を遂げた者も多い。明と暗のコントラストの強さもまた彼らの印象を深く刻みつける要素となっている。
20010331
- 『母娘練習曲(おやこエチュード)』 中井じゅん著 ハルキ文庫 な−3−1 900円+税
バツイチ、息子一人の郷田七海が、娘一人の指揮者と再婚をすることになったが・・・。
なにしろ、その娘がとんでもないいたずらっ子で、物語のはじめからほぼ最後のページまでいたずらのし通しである。これでもかこれでもかと繰り出されるいたずらに、七海は翻弄され、その周りの人々にもとばっちりが。正直言って、それがあんまりにも強烈なので読むのが辛くなるほど(笑)。
しかし、七海もへこたれず、なんとか再婚相手の娘に気に入られようとするのだが、いっこうに事態の改善は見られない。そこへ七海の元の夫が現れて・・・。
苦手だ。こういうのは苦手だ。
なにしろ、子供の心が見当つかない。しかも、娘には最愛の母の面影がつきまとう。七海の息子は行動に自主性が見えない。なぜ、娘のいたずらが七海に向かうのか、最後まで明かされない。
ただ、ラストの言葉には、ちょっとぐっとくるモノがある。
ドタバタの衣をまとった・・・ドタバタ。最後にちょい涙といったところでしょうか。
20010317
- 『吾輩は施主である』 赤瀬川原平著 中公文庫 あ−11−3 743円+税
ニラハウスが出来るまでの話である。
僕もどこかの記事で、赤瀬川原平氏の家は屋根にニラを生やしている、というのを読んだ記憶がある。それがドキュメンタリータッチで小説化されたモノがこれである。
表紙には、青空の下、花咲くニラの屋根で嬉しそうにしているA瀬川翁とF森教授。
実際のニラハウスを垣間見ることが出来るのは表紙だけである。読み進めていくうちに写真や図面が出てくるのだろうと思っていたのだが、完全に肩すかしを食らってしまった。さすがである。これはあくまで小説であったのだ。ニクいニクい。
欠陥住宅の定義がどうかは知りませんが、施主であるA瀬川翁、アドバイザー兼実働部隊のF森教授他、多彩な面々で造りあげられていく家の話を読んでいくと、そこまでやるんだったら文句ねぇだろ状態ですね。
徹底した名より実。しかし、こだわりは捨てない。
施主らしい行動というのも経験ないので分からないけど、家を造る(建てる)本人として、土地をはじめとして、使う材料、間取り、空間等々、楽しくて楽しくてしかたがない感じが文面から飛び出してくるって感じです。
ただ、すべての人に当てはまるかどうかについては、保証の限りではないですね(笑)。
20010311
- 『心は孤独な数学者』 藤原正彦著 新潮文庫 ふ−12−6 438円+税
ニュートン、ハミルトン、ラマヌジャン。
天才数学者だそうだ。ニュートンは数学者というより物理学者だと思っていたが、知っていた。ハミルトンは名前だけ。ラマヌジャンは全く知らない。
まず驚いたのが、ニュートンの時代には「哲学=自然科学」だということである。プリンキピアを著したこと自体が偉大で、影響の大きさは現代でも計りきれないほど大きいことは言うまでもない。
ハミルトンは、数学と詩の共通性を信じ、ラマヌジャンは驚くべき直感で公式を現す。
この3人が孤独であったかどうか。それはどうでもいい。
何が彼らを数学の虜にしたのだろうか。
数式自体の美しさ。自然現象を表すことが出来る公式。
出来上がったモノを鑑賞するのが我々だとしたら、それらの数式公式を創り出すことができる人々は一人芝居の役者といったところだろうか。芝居を演じる当人はこの上ない喜びを感じているに違いない。
ただ、残念なことに、その芝居を観る人々は、たいていの場合難解すぎるのである。
20010308
- 『天涯 1』 沢木耕太郎著 集英社文庫 さ−29−1 743円+税
副題「鳥は舞い 光は流れ」。
単行本は分厚く立派な本でした。ハードカバーを買わない僕には、店頭で立ち読みするくらいで、手元にやってくるとこはないものだと思っていました。でも、いま文庫になってここにあります。
おまけに『通過地点 I』という追加部分があり、著者と写真の関わり、『天涯』を出すに至った経緯などが語られています。
僕も感じることですが、「写真を撮る」ことにどういう思い入れがあるか、に出来上がった写真集のスタンスがわかります。すばらしい一枚のために、あるいは、雰囲気を感じさせるための組写真に。添えられた文章は直接に写真を語らず、どこからともなく聞こえてくるラジオのように。
著者自身も、失敗した写真と言われてしまうものでも並べることによって旅を感じると言っている。ベストの一枚が、単発的な感情を引き起こしても継続的な波を感じないのとは対照的に、小さな波が何時までも自分を揺り動かしている方が「そこにいる自分」を表現していることになるのだろう。
そうはいっても、失敗した写真と決めつけてしまうか否かは、撮った本人と見る読者に委ねられている。意図するところと近い感性を持っていれば、そこに旅を感じ、その場所で吸った空気を味わうことが出来るかもしれない。
20010303
- 『快人エジソン』 浜田和幸著 日経ビジネス人文庫 は2−1 695円+税
副題「奇才は21世紀に甦る」。
ちびまるこちゃんのテーマソングでも知られる「エジソン」。
確かに、偉人伝としてのエジソン物語を読んだことはあるし、落ちこぼれだったけど発明王、電灯のフィラメントに日本の竹、など、エピソードも覚えている。
しかし、本当の、あるいは、本物に近いエジソン伝として、この本は書かれているという。
電話の「もしもし」に相当する英単語として「ハロー」を発案したのがエジソンであるという。
大のユーモア好きで、ネタ帳を持っていたというエジソン。
発明家として、「使われる」発明とは何かを常に考えていたエジソン。
メディアミックス、失敗と危険の回避。
現代の企業戦略を先取りしていることも、発明の一つと言えるのではないか。
日本との関係も興味深い。
エジソンは、常人の何倍もの時間を過ごした。無駄な努力はせず、必要なところに集中すれば、物事を達成する確率は高くなり、それだけすばらしい何かを実現させることが出来るのだ。
僕のように、だれた会社人間をしている人にとって、カツを入れてくれる本である。
20010302
- 『HPウェイ』 デービッド・パッカード著 日経ビジネス人文庫 は1−1 600円+税
副題「シリコンバレーの夜明け」。
そうだったのか。シリコンバレーはこの会社、というより、デービッド・パッカードとビル・ヒューレットの二人から始まったのか。
この二人の成功物語、と言ってしまえばそれまでだが、成功するまでのプロセスが日本に当てはまるだろうかが、最後まで疑問形として残っている。会社の利益と社会への貢献。少なくとも、今自分が勤めている会社においては、利益が第一義であることは確かだな(笑)。
必要な部門、必要な分野には、効果的に人を配し、開発費を投入する。迅速な意志決定ができる組織構成。それらは柔軟に変化することが出来、硬直化した場合には直ちに改善させることが出来る。
これだけのことが出来れば、たいていの会社は成功できるのであろうか。
会社の成功とは、何なのだろうか。
結局のところ、会社の成功が、それを支える従業員に還元され、その周りの地域などにも及ばなければならないのだ。
この本の中で、必ずしもよい部分のみが書かれているわけではない。失敗もあるし、アメリカの組織の硬直した部分を指摘する部分もある。
成功は、失敗する部分を排除していくことが重要なのである。
20010218
- 『檻』 北方謙三著 集英社文庫 き−3−7 590円+税
棲む世界。
裏の世界から、表の世界へ。一応の成功を収めているスーパーの店主。
染みついている生き方、考え方が、小さな事件の積み重ねから表に出てくる。
タイトルは『檻』。
それは、以前いた場所なのか。それとも今いる場所のことなのか。
きっと、その時々に違う場所、違う大きさ、違う太さの鉄棒で作られているのだろう。
それぞれの檻には空気の違う世界がある。匂いが恋しい。
たとえ、自分がその檻に戻り、懐かしい匂いに、刻まれた記憶に囲まれ、その先に奈落があったとしても。
主人公、脇役、刑事、各々が生きている。こだわりが浮かび上がってくる。
代表作に数えられるだけはある。
20010211
- 『免疫学個人授業』 多田富雄+南伸坊著 新潮文庫 み−29−2 362円+税
『個人授業』シリーズの第2弾。
免疫とは何かというと、自己と非自己の識別システムだそうだ。自分以外のモノが体に取り込まれた時に、自分を守るためには「自分以外のモノ」を見つけなければならない。見つけたら、それを害のないモノにしなければならない。
風邪に罹って咳や熱が出たりするのは、例えば風邪のウィルスをみつけて、それを無害化するために起きる現象だと言うことになる。という話しは既にどこからかの情報で知っていたから不思議ではない。ただ、いまだに納得できないのは、食べ物の取り扱いである。
食物は、明らかに自分以外のモノである。免疫システムにとっては大活躍しそうな場面であるが、それが働かないような状態(寛容)になっている。これがまだ解明されていないそうだ。面白いではないか。
免疫には関係無いけど、自己と非自己の識別といえば、精神的なことにもつながると思う。
自己と非自己の区別の付かない人とは・・・、付き合いたくないねぇ。
精神的免疫システムとでも言うのかな。
20010121
- 『天才伝説 横山やすし』 小林信彦著 文春文庫 こ−6−10 476円+税
やすきよの漫才として。バラエティー番組の司会者として。一人のやすしとして。
どれが本当の横山やすしか?
どれもが偽物のような気がする。横山やすしなる人物が演じている役回り。自分でさえ自分を演じているような。
最も大きな活躍としては、やはり漫才である。僕は少なくとも漫才ブームになる前から知っていたから、書かれている状況はよく分かる。ブームの真っ直中であっても、特異な存在としてのやすきよであった。きよしの立候補の経緯について、当時はそこまでは分からなかったが、なるほどと思う内容である。
結局のところ、横山やすしから漫才を取り上げたらどうなるか。
それは、自滅、であった。
自滅に至る土台も追々明らかにされる。それが真実かどうかは別として、自分にとって誰が有用な人物なのかを見極める力があったことだけは確かだろう。甘えられるという有用さ。無理を言えるという有用さ。支えてもらえるという有用さ。
ただ、少なくともやすしに直接関わっていない人にとっては、とても魅力的であった。
自滅の道をたどったやすしは、有用な人物を次々と切り捨て、ついには自分をも切り捨てることとなった。
栄光も破滅も、彼ならばさもあらんという。
この人は、二度と現れない。
20010113
- 『敵』 筒井康隆著 新潮文庫 つ−4−39 514円+税
その人を知るにはどうすればいいのか。
一つは、本人と相対することで直接探る。
もう一つは、本人の周りにある物事から、外堀を埋めていく方法である。
主人公渡辺儀助がどういう人物であり、どのような生活をしているのか。儀助を知るために必要な物事毎に章立てて語られている。読者は少しずつ、主人公を組み立てていくのである。
文体の特徴として、読点「、」の排除、擬声語の漢字化があげられる。
読点排除は既に他の作品でも行われていて目新しいものではない。この作品では、少なくともルールに従って、ある場合のみに読点が使われている。しかし、後半になってくるとそれも守られなくなってくる。
擬声語漢字化については、その意図はよく分からない。擬声語にあった漢字が当てはめられているとも思えない。最終章にほんの少しだけ儀助の考え方が明かされるが、すべての擬声語についてそれが適用されているのかどうかは不明である。
人の本質とはどのように明かされるのか。読み違えているのかもしれないが、断片から迫っていく手法で書かれたのがこの小説だ。
そして、もう一つのテーマは「死」である。
死を迎えるにあたって、どこまで死を拒否しないだけの理由付けをもてるのか。比重はこちらにあるのではないかとさえ感じる。
20010107
- 『ナースマン』 小林光恵著 角川文庫 こ−16−4 495円+税
ナースという単語から「男の職業」と連想するのは至難の業である。
驚いたことに、nurse自体には男女の区別は無いのである。(通常は看護婦と訳されるが、看護士と訳すことも出来るわけである))
あえてこの本のタイトルに「ナース+マン」とつけているのは、この認識を改めてもらうための第一歩という思いが込められているはずだ。
看護という職業は、女でも男でも直面する問題は変わらない。著者は元看護婦であるから、女性の目から見た看護婦および看護の実体についてはよく分かっている。男の目から見た看護についてはどうだろう。看護士の絶対数からすれば、数少ないサンプルがモデルになっている可能性も高い。
そうだとしても、看護すること自体の普遍性は変わらないはずだ。自ずと看護士として生きていくための葛藤が表に出てくる。新採用された4人の看護士が登場するが、うち一人の目を通してそれぞれの行動や考え方が浮き出る。女の世界と思われがちな看護の職場にあって、新しい感覚を持ち込んでいる。
患者は男女の区別はない。看護する側にも区別はないが、もっと多くの男手が必要なのではないか。
大体ここで看護士と書いていることからして、「ナース」=「看護婦」というイメージから抜け出せていないのだ。
20010106
- 『多摩の台病院ものがたり1・2』 米山公啓著 双葉文庫 よ−09−01〜02 429円+税
はちゃめちゃである。
医療現場を題材とする小説を少なからず読んできているのだが、こんなのは初めてである(笑)
大学の医局から放り出された医者、研究者崩れの医者、手術だけが生き甲斐の医者、などなど。僕らが医者に求める第一のモノからは遠く離れている医者たちがなぜか集まっている多摩の台病院を舞台として、考えられないような物語が展開している。
だけどその中に医療の本質が見えてくる、とは言わない。
単純に面白ければいいのだ。
真面目な医療小説が読みたければ、そういう本を読めばいい。エンターテインメントとして思う存分に楽しみたい人にこそ読んで欲しいぞ。
ためしに第1話を立ち読みしてみるべし。面白いと思ったら買おう(笑) そうでなければ拒否反応を示したわけだから速やかに本棚に戻すべし。
20010105
- 『黄金時代』 椎名誠著 文春文庫 し−9−15 476円+税
何をもって「黄金時代」というタイトルを付けているのか。
人それぞれ、密度の濃い時を生きていると感じて、あるいは後から感じることがあるのだろう。残念ながら僕にはまだない。
喧嘩、廃材で組む自分の部屋、高校の助手、そのときどきに考えるところがあり、行動があり、反省と投げやりな思いがある。
著者の他の作品でもそうだが、主人公の直情径行的な部分が異彩を放つ。僕自身は希薄なところであるために余計にそう感じる。一触即発。しかし「まぁいいや、どうだって」という台詞によるはぐらかし。熱さともう一人の自分から自分を見る醒めた目。
目標があるようで無く、裏付けがあるようで無い。
それが青春時代(いやぁ、この言葉は恥ずかしいなぁ)と言えるが、その前であっても後であっても結局は同じなのだ。
確固たるものはなく、ぼんやりと見えるものに向かって進んでみる。それが壁であるのか、霧の塊であるのか、いつまでもたどり着かないものであるのかは分からないけど。
黄金時代であることの証として、少なくとも血液が沸騰するような何かが、あるのかもしれない。
20010103