頑固な文庫読者
この本を読んだぞ
本を買って読めればいいけど、時間がなかったり、読むタイミングを逸してしまったり、という難関を克服した完読本の感想をつらつらと書き込んでおります。
この中で「これはこれは」な本になるものが出てくればいいのですが。
完読本(2002/07〜)
- 『山根一眞の素朴な疑問』 山根一眞著 新潮OH!文庫 152 562円+税
副題「あったかい生活の送り方」
日頃の疑問が、あるいは、常々考えていることがたくさんあって、それぞれが全く繋がりも何もないかというと、実はそうではない。
例えば「ロンドン・タクシー三百年」と「分かりにくい日本の道路」である。
前者の項では、ロンドンの道路名称が分かりやすく振られていて日本ではそうでなく、後者の項でも日本の道路名の非効率性を訴えている。まぁ同じ内容がくり返されているとも言えるけど、それほど日本の道路行政(?)にはうんざりする部分があるということだ。
効率的なことと、そこに生活する人々の利便性は一致するわけではない。いわば部外者にとってこそ効率性が要求されることを表している。だって、そこに住んでいる人は通りや十字路の名前なぞ、もはや身体の一部であるから。土地勘のない人にとっては分かりやすい法則性があれば間違える確率も低くなるというものだ。
だが、これは歴史の一部でもある。問うべきは法則性よりも、分かりやすく教える技術なのではなかろうか。地図、標識など、改善することはたくさんあると思う。
この本の中に書かれている項目は5年以上前のことなので、今では様変わりしてしまったモノも多い。しかし、奇異に感じていたことが常識になっていることもまた事実である。そういう意味で、少し前のことではあるが、流れを感じる上で読んでみるのも面白い。
20021208
- 『悩ましき買い物』 赤瀬川原平著 知恵の森文庫 あ−6−1 571円+税
生きていくために必要な買い物って、実はあんまり無いんだな。
だけど、あれこれと必要で無いものを買わなければ人生楽しくないことは、誰もがみんな知っているのだ。また、その買い物が一筋縄ではいかないことも知っているのだ。
何も考えずに欲しくなることはない。それを持っている自分。使っている自分を想像しているのだ。だからこそ、品選びに悩み、値段に悩み、買い物に悩むのである。言うまでもなく、誰もが経験していること。
まずは「腕時計」。
重要かつ十分な文が登場するので写してみます。
『買い物というのは酸素を吸って炭酸ガスを吐き出す、一種の呼吸みたいなもので、それで身体も財布も活性化する。だからたまに大きな買い物をするのは、たまにする深呼吸だ。』
ほらね。誰でも思い当たるでしょ。
深呼吸って、仕事に倦んだときや、旅行で知らない町にいるとき、緊張したときなど、やっぱり特殊な瞬間なんだ。深呼吸の後、頭はすっきりとし、空気を感じ、身体中の強ばりがほぐされる。僕らは、その感じを求めて、日々買い物をする。生きるためだけではない買い物。
したがって、モノに対する付加価値を求めてしまうし、実用とデザインを天秤に掛けてしまうという微妙な世界になってしまうのですね。裏を返せば、そういう買い物以外は惰性であるとも言えるのだ。
数々の品物が登場する。
僕もいくつかは、この目で見、さわってみたら欲しくなるに違いない。ただ、「買い物」に発展するかどうかは著者と僕との世界観みたいなものにもからむんだよね。もちろん、財布の具合にも(笑)
20021206
- 『ざこ検事件簿』 今井秀智著 小学館文庫 い−24−1 552円+税
既に連載は完結してしまった漫画『ざこ検(潮)』(まるちょう)の原作とも言うべき本。
世に様々な事件が発生し、解決されていく。新聞やテレビで取り上げられるような事件から、ほとんどの人に知られずに過ぎ去ってしまうものまで。ざことは雑魚であり、いわば後者のような一見とるに足らない事件の方が大多数なのだ。
新人の検事が取り組んでいく様々な事件。表面だけを見てはいけない。裏を探るだけでもいけない。真実が何かを調べていく上で、事件を起こした本人だけでなく、まわりの人々にも協力、反省を促す。
実際の事件に基づいている話ばかりなので、殺人事件やひねくったミステリからすると物足りない面は否めない。しかし、だからこそ自分に身近に起こりうる話として、あるいは自分自身が経験するかも知れない事件として感じることができるともいえる。
検事は、少なくとも著者本人は、事件を明らかにするとともに、人に処し方を示唆する。実は順番が逆なのかも知れない。人のために事件を。
20021201
- 『ばかちらし』 わかぎゑふ著 集英社文庫 わ−8−5 457円+税
こりゃ、何も考えずに全部受け入れてしまうしかない(笑)
程度問題はあるとして、たいていの人が「なんじゃばっかみたい」と思ってしまう話ばかり。よくもまぁ、これだけ集まるものだ。
中でもこれだけはその後の話を知りたいモノがある。
「ヘルシー料理?」に登場する羽野晶紀である。(呼び捨てでスマン(笑))
中で明らかにされる料理とは「湯ネギ」。はたして、彼女と結婚した話題のかの人の食生活は、いかがなものとなるのでしょうか。まぁ姑がああいう人だから、ずぅ〜っとグレードアップしているとは思うけど。
著者の本にはこういう人の話がわんさか出てくるので、出ると読まずに入られないのだ。ただし、読んだからといって、何かに目覚めたり、何かを反省したりという方向に行きにくいのが・・・(爆)
20021201
- 『虚空』 ロバート・B・パーカー著 ハヤカワ文庫 HM−110−29 740円+税
友の妻が行方不明になった。
男は男のために動く。別の視点からは、囚われた妻が自己を崩さないための戦いを強いられる。
久しぶりにこのシリーズを読んだためか、あるいは面食らったといってもいいが、スペンサー達の動きと、捕らえられた妻の動きが交互にあらわれ、緊迫感が増している。しかも彼女の思考や行動が従来のスペンサーシリーズにはなかった女性のパターンである。(物語の構成から感じるモノなのかも知れないが)
いわばスペンサーの思考エキスを移したようなものである。
(囚われの立場がスペンサー自身になったとしても、基本的な考え方や行動は同じような感じになるのであろう)
だから、崩れそうで崩れない彼女のことを、どこかで安心して見ていられる(読んでいられる)感じがするのだ。
人には、今の時点では、今までの過去がある。過去がどのようなものであっても、断ち切ったり忘れたりする事はできないであろう。要は、それを込みで包み込むだけの大きさがあるかどうかだ。
その点、今回の登場人物は、耐え得るだけのスケールを感じるのである。
20021125
- 『エーテル・デイ』 ジュリー・M・フェンスター著 文春文庫 フ−22−1 686円+税
副題「麻酔法発明の日」
驚いたことに、19世紀半ばまで、外科手術は麻酔無しで行われていたのだった。
では、麻酔をかけて手術を行ったのは誰か。麻酔術を発明したのは誰か。それが問題である。
全く異なる場面を両目で同時に見ることができたら、おそらく麻酔術はもっと早く普及していたことだろう。後世の人は必ずそう言うのだ。そして、見つけることができた人は、きっと専門家に違いないと。
最初のヒントは笑気ガスパーティだった。笑気ガス(亜酸化窒素ガス)を吸うと痛さを感じなくなることを金集めの道具として使っていたのだ。あるいは、エーテルガスを吸うと鎮静効果があるなどの話は既にあったのだ。問題は、それを麻酔効果として使うというアイデアに結びつけるかどうかだった。
ウェルズ、モートン、ジャクソン。麻酔を実用化するにあたり、本書の中盤からはこの3人の攻防が始まる。
誰が本当の麻酔術発明者か?
今までは、手術の苦痛を避けるために自殺までしてしまうような恐怖だったものが、何も感じずに目を覚ますことができるのだ。そこには名声と実利がからみ、議会や国を巻き込み醜い争いの世界になってしまうことになる。
外科医療の進歩は、エーテル・デイによって始まった。これを疑う人はいるまい。その日まで、その日からの様子を知るのも、人類の進歩を知る上で重要だ。何事もすんなりと行くことはないという例として。
20021117
- 『活字の人さらい』 嵐山光三郎著 ちくま文庫 あ−26−4 780円+税
いわゆる少年少女向けの全集の雰囲気とでも言うのだろうか。
「ですます調」が続き、次々と登場する本の名前。たぶん、多くの人が読み始めてすぐに、時代がかった雰囲気にどっぷりと浸かってしまうはずだ。ただ、残念なのは、登場する本を読んでいないものばかりだということ。主人公の少年は、本を読むと現実との区別が曖昧になってしまい、へまをしでかすほど。少年と同じ思いをするためには、あらかじめそれらの本を読んでいないと完全な感情移入はできないのだ。
しかし。
それを補ってあまりあるのだ。身の回りの小さな事件をちりばめ、徐々に大きな事件へと導かれる。不思議な出来事が重なり、少年にも危機が迫る。そして、実は・・・。
物語にも引き込まれるけど、例えば次の文のようなところに出会うと、それこそゾクゾクします。
「本棚の裏には、そこらじゅうに年老いた魔物が文学の蟻地獄を細工しているようです。」
なにしろ、僕がよく読むような現代の小説やエッセイには出てこないような文章がたくさん出てきますから。(この本も現代の小説ですけど(笑))
少年の冒険譚。時代や内容は違うけど、こんな時代を過ごしてきたはずなんだよな。思い出せないけど。
思い出せないけどあったはずの物語として、僕はこの本の中の世界と融合してしまったようだ。
20021117
- 『絶対音感』 最相葉月著 小学館文庫 さ−20−1 690円+税
音楽を志す者にとって、絶対音感は必要なのだろうか。
綿密な取材と、浮かび上がる絶対音感の功罪。
以前に読んだ絶対音感関連の本と比較すると、さすがに内容の質が違う(笑)
ただ、絶対音感というものがよく分からない、という点については今でも変わらない。
注目する点は、絶対音感を持つことによって音楽的に不利な状態を発生させることがあるということ。例えば、440HzのA音を基準に絶対音感を見につけてしまうと、441Hzや443Hzなどの異なる基準音のオーケストラの一部になったとき、そのずれを補正できなくなってしまうことがある。相対音感しか有しない人にとっては、ある種の優越感さえ持てそうな話である。
また、絶対音感という言葉自体と、音楽に秀でた存在が、イコールで結びつきつつある風潮によって、幼児教育の中に絶対音感教育なるモノが組み込まれてしまう危険性もある。
絶対音感が脳内でどのように構築されているかや、言語認識などと絡めて言及されている点にも意気込みを感じる。
結局のところ、絶対音感の是非ではないのだが、何事も絶対の文字のない僕にとっては、他にたとえる術もなく、ただただ足下をうろうろするようなものである(涙)
20021105
- 『シンメトリーな男』 竹内久美子著 新潮文庫 た−49−5 438円+税
まわりを見てみれば、ヒラメとカレイを除けば大抵の動物は左右対称になっている。
トンデモ本との評を受けることもある著者の最新文庫である。面白くないわけがない。先行する動物行動学者の研究成果を巧みに噛み砕き、分かりやすい解説を含めて読みやすくしている。ただ、穿った見方をすれば、他人の成果を集めて本にしただけとも言えるかも。
要点は、左右対称(シンメトリー)なオスは生物として優れており、メスはそれを感じ取ることができる、ということだ。優れている点としては、病気に強い、運動能力が高い、よくいかせる(笑)、優秀な遺伝子を持つ、などなど。
シンメトリーといっても、肉眼でパッとは分からないレベルも感じることができるらしい。驚きである。メジャーを持って計ってみたいぞ>自分。
ただ、僕は疑問を持っている。
ヒトは外見はシンメトリーのように思えるし、事実、そうなのだろう。だけど、体内では左右対称じゃない組織が存在するのである。そういう内容を骨格や筋肉、皮膚が左右対称に見えるよう押し込んでいるのである。きっと、どこかで破綻しているはずだ。ここら辺のことについては言及されていない。
まぁ、それはともかく、いろいろな研究結果から導き出される「シンメトリー=優れている」という、気が付いていなかったことに気付かされるのは、非常に興奮する。でも、顔の前に置いた鏡で左右どちらかだけで作りだした顔は、どうも気持ち悪いのだ。
20021104
- 『地下鉄100コラム』 泉麻人著 講談社文庫 い−52−11 590円+税
巷にある言葉をそのまま使うのではなく、一旦噛み砕いてから使いたいモノだ。
言葉としては知っていたり、あるいは初めて聞く単語だったり、消えゆく単語だったり、いろいろなパターンがあると思う。それらを取り巻く情報や、自分自身の経験、巷の噂などを総動員して解明したり納得したりする。と言えば大層に聞こえるが、実にさらりと読めてしまうから楽しいのだ。
例えば、最初のコラムのタイトルは『嗤う! 哭く!』。
何に登場するかと言えば中吊り広告である。『嗤う』なんて、僕は『嗤う伊右衛門』くらいでしかお目にかかったこと無いですよ。そんな言葉を使っている中吊りや週刊誌の言語感覚を分析するのだ。
言葉や単語は、それ自体に付随する雰囲気がある。日々作られる略語にだってある。大切なのは、気が付くかどうかであって、気が付かなかった読者にはどれだけ見過ごしているのかが分かってしまうガッカリと、それでも面白いモノを読んだという嬉しさの両方を感じるのだ。
なお、タイトルの『地下鉄100コラム』であるが、『ちかてつひゃくこらむ』と読むのではなく、『ちかてつひゃっこらむ』であった。これはあとがきを読むまで知らなかったぞ。ルビも振ってなかったし。
20021027
- 『追悼の達人』 嵐山光三郎著 新潮文庫 あ−18−6 819円+税
すでに『文人悪食』という快書がある嵐山光三郎。
食うことと死ぬことは対である。だから、当然の如く、出るべくして出たというべきものである。さらには、追悼文を書く人びとから文人の死を見つめるという、いかにもなところはさすが。
たとえば夏目漱石である。
漱石の解剖をした長與又郎の解剖所見もまた追悼となりうる、という著者の見方は数ある文人の中でも異彩を放っている。そういえば、以前に漱石の脳を見たことがある。
文人にも否応なく死は訪れるわけであるが、本文中にも何度か出てくる「○○に対する××の追悼文を読んでみたかった」というコメントを読むと、なるほどと思う。上手い追悼をする人が上手い追悼をされる人とは限らない。良くも悪くも関係の深かったお互いの追悼の順番は、一方通行なのだ。お互いがお互いの追悼文を読めないもどかしさ。
いつかは来る自分の死を、先に逝く人への追悼文に込め、さらにその先にある自分を感じている。
若くして死すものへの追悼が、天寿を全うした者へよりも優れている場合が多いのも、その先の時間への羨望が関係しているのだろう。もっとも、長生きするほど友は減っていくのだが。
20021026
- 『とんがらしの誘惑』 椎名誠著 文春文庫 し−9−18 448円+税
たとえば「音感後進国」である。
あちこちで流れるお節介音声。たしかどこかの大学教授が同じことを本にしていたなぁ、と思い出したら本文中に出てきていた。いらぬお節介だというところは僕も同じ。こういうことだから幼児化していくのを止められないんだよな。頭を使わなくなるし、どうせ同じようなコメントを出し続けられれば聞く方だってマスキングしてしまうのだから。
さらに何編か後には「状況判断」がある。
これも引き続きハゲシクまたスルドク悲観しているのである。もうこの流れは止められないだろうな。マニュアル社会で、臨機応変や多少の気の使いようなんてモノはどんどん排除されていくのだ。
そのあと「またがり岩巷伝」では、傍若無人な水上バイク。
何も考えていない、考えられない、考えもしない人びとの増殖には、何か対処のしようがあるだろうか。
一つあります。
「赤マント」シリーズを読むのです(笑)
20021006
- 『トンデモ一行知識の世界』 唐沢俊一著 ちくま文庫 か−40−1 580円+税
100字にも満たない、情報の断片。
でも、そこには脳ミソが吸い込まれるようなワクワクがある。
誰でも興味ある分野があり、他の人よりは広く深く知識を有しているものである。まったくの門外漢でも、たった一行で書かれている情報に驚かされ、感心し、笑いを誘ってしまうモノまで。分野だって、ありとあらゆるところから。
たとえば、僕が気に入った一行知識。
「サウジアラビアの国旗には裏表がある」
どうでしょう。国旗の裏側は表の裏側そのままだと思っていませんでしたか?かの国は違うらしい。(本当かどうかは確認してませんが(笑))
ここには書きませんが、本のタイトルについている「トンデモ」が何を意味しているのかは、読んでのお楽しみである。
さらに言えば、著者のHPでは、今なお「トンデモ一行知識」が収集されている(投稿歓迎らしい)ので、興味ある方はご覧あれ。
20021005
- 『チグリスとユーフラテス(上・下)』 新井素子著 集英社文庫 あ−48−1・2 上巻686円+税 下巻571円+税
目の裏側に、ラストシーンがとても鮮やかに浮かぶ。
とある惑星に移住した人びと。400年後には最後の子供が産まれる。はたして、移民は成功だったのか失敗だったのか。
人類が命をつないでいくことが成功だと定義すれば、その意味において失敗である。それでは、生命体が命をつないでいくことを考えたらどうであろう。
最後の子供ルナが、コールドスリープについている女性を起こしていく。歴史を溯っていく。実は、ルナの目を通してそれらの女性を見ていくことで、時を経るごとに精神的に幼年化していく世代が浮き彫りになる。(まぁ、そういう点では、現在の日本も同じ状況なのかも知れないが)
だから、最後に目を覚ます女性が、最後の子供ルナを大人の領域に引っ張り上げていくのだ。
注目すべきは、コールドスリープから目覚めるのは女性だけである点。彼女たちの記憶にある男性達の印象は(読者にとって)濃いとは言えず、逆に命を生み出すもの自身の重さを漂わす。ただし、人工子宮なる彼女たちの代替が登場する点で、それ自体を軽んず状態があったことを示している。
ところで、最後の一人、という点で『百億の昼と千億の夜(光瀬龍著)』のあしゅらおうを思い出した。
冷えていく世界の中でただ一人生き残ったあしゅらおうと、まだ暖かい世界にいるルナ。しゅらおうはおそらく死なない。だけど、ルナは死ぬ。どちらに救いがあるのかと言えば、後者であろう。生きていく孤独と、消滅する孤独。
しかも、生命体が命をつないでいくことは、すなわち、余地があることなのだ。人類が存在しなくても、余地の中に再びを信じてゆくことができる。
失敗とは、誰が何に対してなのかを考えることが必要だ。
この本のハードカバーをEさんからいただいておりましたが、文庫購入とともに、会社では文庫、家ではハードカバーというハイブリッド読書になりました。
ずいぶん本棚に入れたままになっていたものです。Eさん、どうもすいません(汗)
20021003
- 『わたしのグランパ』 筒井康隆著 文春文庫 つ−1−10 419円+税
刑務所から帰ってきた祖父(グランパ)。
家族やまわりの人びとには明らかにされないグランパの生活と過去。しかし、確実に浸透していく彼の人となりによって、ある時は事件のタネとなり、ある時は解決の決め手となる。
ふと見回してみれば、未だかつて、こんな人はいたことがない。
もちろん、聞いたこともない。
だからこそ、物語なのであるが、語り口のせいもあり、するりと世界に引き込まれてしまう。ジュブナイルというジャンルだからと言ってしまえばそれまでだけど、小難しい単語や文章が少ないと、かくも物語の浸透度が高くなるのかと、逆に驚いたくらいである。
「命がけなら何だってできる・・・」
物語中盤でグランパが語る言葉。最終的には象徴的なセリフになってしまうのだが、すべてはここに集約されるといえる。
何だってできることの幸せって、最近感じていないなぁ。何だってできた筈と思ってしまうこともあるが、それは僕が年を食ってしまったことの裏返しでもあるのだ。
20020929
- 『聖(さとし)の青春』 大崎善夫著 講談社文庫 お−89−1 648円+税
将棋の世界は時間との戦いでもある。その時間とは勝負の時間ではなく、名人に至るまでの時間である。
病と共に成長する彼にとって悔しいのは、自分の思い通りにならない時間であったろう。専門書や棋譜をひたすら読み、勝負をし、ひたすら上に昇ろうとする意志。自由にならない体。将棋を指すことによっても深いダメージを負い、どうにもならない日々を過ごす。
彼を支える家族や師匠でさえ、彼と彼の持つ時間をどうしてやることも出来ない。
同時期に羽生善治や谷川浩司といった、現在の将棋界を引っ張る人物もいる。彼らに破れるごとに、ジリジリとする想いを感じたであろう。
僕も将棋はかじったことがある。TVで彼を見ていたかも知れない。きっと見たことがある。
彼はいなくなっても、棋譜という形で彼の時間は凍結され、この本と共にいつまでも生き続けるのだ。とは言うものの、それさえ忘れ去られていくのだ。時間とはそういうものだ。
読み返すごとに涙があふれる。結末の分かっている物語であっても。
20020818
- 『奇天烈な店』 村松友<示見>著 小学館文庫 む−1−1 476円+税
実在すると言われたって、全然想像つかない。
石ガレイの胆汁、アナゴの塩辛、イカの眼球を支える筋肉、・・・。
見たことも聞いたこともない食材や調理方法が飛び出してくる鮨屋。鮨を出さない奇天烈な店にやってくる不思議な客達。
誰もが自分をさらけ出すことなく、だけど、雰囲気に酔い、舌の幸せを味わう。その裏にある秘密は、すべては明らかにされない。
どちらかというと外で飲んだり食べたりするのは苦手な部類になるので、こういう小説を読むと半分羨ましく、半分鬱陶しい。あとがきにもあるが、「カウンターの店は、他の客の横顔を味わう空間」であるらしい。正面からは見ず、裏の顔を覗くこともない。そんな微妙な距離感を感じることが楽しいようだ。
鮨をめったに出さない鮨屋が客に出すとき、それは特別なこととなり、非日常的な料理を出されることよりも鮮烈な出来事となる。
20020818
- 『Y』 佐藤正午著 ハルキ文庫 さ−4−2 648円+税
人生の中で、選択を強いられる時がある。
人生の中の、特定の時を再び生きることが出来る。
とまぁ、簡単に言うとこういう物語なのだが、どうもいかんかった。
Yとは、選択をすることにより二つの方向に分かれてしまう人生のこと、らしい。と、知った時点で、何となく嫌な感じを抱いてしまった。大体において、人生とは常に選択を強いられていることであって、何ら特別なことではないはずなのだ。だから、「Y」というより、銀杏の葉っぱのような、あるいは、扇のようなものの筈だ。
ラブ・ストーリーであるらしい。
上記のような理由で、読み始めからケチを付けた形になったので、物語に没入することが出来ないまま読み終わってしまった。
タイムスリップやタイムトリップという要素とラブストーリーの組み合わせでは、北村薫の「ターン」が最近では印象に強い。もっと前では、タイムマシン一連の広瀬正作品など。それらに比べれば、物語のポイントとなるタイムスリップの重要度は低いのかも知れない。
多分、世の評判からすれば、誠にピンと外れなことを書いていることになるのだろうけど、たまにはこんな事もあるさと、思うのである。スマン。
20020813
- 『重耳(上・中・下)』 宮城谷昌光著 講談社文庫 み−36−6〜8 各563円+税
春秋の覇者、晋の重耳。
覇業を達成するまでには、それこそ、国を追われ、人びとの離合集散を見、他国の間を翻弄されつつ、じっと我慢の連続であった。もともと君主になる順位からすれば第2位であったことと、その人柄から望み薄ではあったのだ。
結局は、晋の国を背負うことになるのだが、ひとえに「人」の繋がりに負うところが大きい。人との繋がりとは、人脈でもあるし、人を通して「学ぶこと」でもある。祖父、父、師、臣、兄弟、妻、王室、敵。すべて、良くも悪くも人を通して生き方を学び、その時々に適した判断行動をする。
成功は適正に分配し、失敗は失敗とし再起を期す。重耳の行動は敵味方を問わず、彼以外の人びとに影響を及ぼす。
僕は、この生き方を読んで、どうすればよいのだろうか。
時代が全然違うから参考にはならない、とは言わない。
師の言葉を噛み砕き、自分の脳ミソに再構築するのだ、とも言えない。
なんらかの立場のトップになることが目標なのだ、とも言わない。
主役は重耳であるが、この物語に登場する準主役や脇役たち、誰かが自分に似ているのかを見つけることができるかもしれない。しかし、誰に似ていなくても全然構わないのだ。所詮、たかだか3冊の本に登場する人物なんて、例えば日本人でさえ1億超もいるのだから、かすらなくたって当たり前。
なんか、なにを言いたいのか分からなくなってしまったなぁ。それもその筈、この本を読み終わってから1月以上経っているのだった(爆)
でも、これだけは言えます。
人は良い意見は吸収し、悪い意見には従わないこと。
そして、大事なことは、何が良くて何が悪いのかを判断する力を養うことなのである。
20020728