頑固な文庫読者
この本を読んだぞ
本を買って読めればいいけど、時間がなかったり、読むタイミングを逸してしまったり、という難関を克服した完読本の感想をつらつらと書き込んでおります。
この中で「これはこれは」な本になるものが出てくればいいのですが。
完読本(2001/01〜)
- 『大東京バス案内(ガイド)』 泉麻人著 講談社文庫 い−52−10 629円+税
バスは苦手である。
原因は2つあって、一つは運賃の払い方、もう一つは路線の分かりにくさである。
いまもって解消されていないし、たぶんこれからも苦手な項目に分類され続けるだろう。
ところが、著者の泉氏は、大のバス好きだそうで、約50の路線が紹介されている。僕が良く通る道を走っているバスもあれば、いったいどこを走っているのか見当もつかないバスもある。
人の生活に最も近い乗り物としてのバス。
それぞれの路線を走るバスに実際に乗って、乗客やバス停の周囲の状況を見る。人がいて、バスに乗る目的があり、その先に生活がある。バスは電車や車にない「生活との密着間」にあふれている。
143ページで紹介されている炒り豆屋さんは、ぼくの「街中の劇物」でも紹介していますが、さすがに有名な物件だったんですね。たまたま泉氏の別の同傾向の単行本を立ち読みしていたら、そこにも載っていました。
この本を読み終わった後、本編で時々でてくる『東京都内乗り合いバス・ルートあんない』という路線案内本を買ってみようかと思い、実際に手にとってみました。だけど、最初に言った「路線の分かりにくさ」を助長(笑)することになってしまって、結局は棚に戻しました。
苦手意識は、そうそう抜けるものではありません。
2001224
- 『対岸の家事』 南伸坊著 新潮OH!文庫 127 505円+税
副題「シンボー主婦やってみた」
冒頭で語られるのは「楽しさ」の欠如である。例えば、僕のようなサラリーマンは、仕事をすることに楽しさを感じているのであろうか。少なくとも、全面的とまでは言わないが、楽しい部分が多いことは確かである。
家事は楽しいのであろうか。
著者であり、家事を体験した南氏は、やればできること、発見があること、おいしいこと、そして、それらが嬉しいことを知る。さらに、その結果に対して共に喜ぶ人の必要性を訴える。
美味しいものを食べることができる。部屋がきれい。糊の効いたシャツを着る。などなど。一人暮らしなら、最高の結果が出ても、味気ない。嬉しさも一瞬である。だからこそ、家族がいて、会話があることが大事なのだ。
さらに、この本の中には「なるほど!」と膝を打つような一言がたくさんある。
「だから今は、芳香剤が便所を臭くしているといってもいい」
「家事というのは、すこしやると『慣れて』『あたりまえ』になってしまう」
「全部が特別だったのだ。・・・特別でなくなれば、それが楽しくなくて当たり前である」
僕にとって、家事はまさに「対岸」にある。
2001223
- 『鳥頭対談』 群ようこ&西原理恵子著 朝日文庫 さ−29−2 460円+税
これだけ身内の人間を悪し様に言えるひとも珍しい。
それでも、笑い飛ばしているところが、なんとも大きさを感じさせます。
この二人、あれこれと僕の生活からは接点さえないだろうことをたくさん経験しているよな。例えば同じことを経験した加納朋子&美内すずえだったらどうだろう(たまたま本棚にあった名前を取り上げてみました(笑))。笑えない対談になるのだろうか。
この本は、今みたいな年末に読むのがいいんだろうなぁ。嫌なことや、面倒なことを誰かに向かってしゃべって発散できたら、どんなにか楽になるだろう。また、それらのことを自分の腹の中で醗酵させ、香しい匂いを発散させて周りの人びとを楽しませることができるようになったら、どんなに自分も楽しくなれるのだろうか。
それにしても、このごろ西原さんはブレイクしてるよね。ま、当然といえば当然か。
2001216
- 『寝ずの番』 中島らも著 講談社文庫 な−41−9 495円+税
やはり、冒頭から3連発の『寝ずの番』I、II、IIIであろう。
咄家の死に集う同門の兄弟子、弟弟子、そのほか。ただでは済まないのである。どういう風に済まないのかは、大体予想がつく感じだけど、中島らもである。そうは問屋が下ろさない。
この3連発のうち、どれをとるかと言われれば、やはりIIIであろう。下ネタ系ではあるが、そのやりとりがスピーディで、しかもオチで泣けるとは。
それ系な話はこれだけではなく、『仔羊ドリー』『黄色いセロファン』もあるのだが、どちらも最後にすとーんと落としてくれます。
ただ一つ『ポッカァーン』という話は、その元ネタの存在を知らないこともあって、今一つ乗れなかった。著者と僕は一回り以上歳が違うから、「ポッカァーン」がどれだけのインパクトがある言葉であり破壊力を秘めていたのか、分からなくても仕方がないとも言えるけど。
2001215
- 『老人力のふしぎ』 赤瀬川原平著 朝日文庫 あ−31−1 600円+税
「忘れ去ったものを深追いしない」
いきなり、序にこう書かれている。赤瀬川翁といえども、ちょっとこれは言い過ぎかなぁ。「忘れ去りそうなもの」くらいじゃないのかな。
『老人力』はいわばエッセイであるが、この本は対談集である。
中でも『老人力』でも言及されている東海林さだお氏との対談(2部構成で、最初はえのきどいちろう氏との鼎談)はスリリングだ。「老人力」のおぼろげな姿が、だんだんと輪郭がはっきりしてくる(ような)ところ。
この本には、「老人力」を別の言葉や現象で表してる部分が数多くある。
曰く「優柔不断も判断力のうち」。
曰く「人生観のスペアがいる」。
曰く「自分ではできない。・・・だけど、ほかの人に何をさせるかを決めることはできる」。
曰く「遺伝子にしてみると、どうだっていいわけです」。
並べてみると、なんて気持ちが楽になるんだと思いませんか。
僕なんかもう、若年性老人力を発揮しているようなもんだから、読み進めるだけで自信が付いてくるってもんだ。是非とも『老人力』とセットで読むべし。
2001209
- 『老人力』 赤瀬川原平著 ちくま文庫 あ−10−15 680円+税
帯の文句がいいねぇ。
「ますますパワーダウン。」
実はこの文言は、タイトルである「老人力」を言い表すのに適している言葉ではない。これは本文を読むと分かるのだが、パワーがダウンしているのではなく、アップしているのだから。老人力というパワーが。
だから、「老人力」=「パワーダウン」という式を当たり前のように飲み込んでしまう人は、言葉のみを見ているだけで、なんたるかを分かったのではないのだ。
本書の中で、老人力と路上観察の関係が明らかになっているが、なるほどと思う次第。さすが、赤瀬川翁、具現化した人物は本質を見通してしまっている。
それはさておき、老いは誰にでもおとずれ、多かれ少なかれその影響下で生きていく時期があるわけで、老いていない人びとがその影響を指弾すること自体が、のちの自分を指差していることに気が付いていない。あるいは、体力的な衰えは想像できても、精神的な変化は想像すら出来ないことに理由があるのだ。
だからこそ、老人力なる「呼び方はプラス、方向はマイナス」という概念を創り出す。
覚えることは困難だが、意識して忘れてしまうことはさらに難しい。人間は忘れることで新たに吸収することもできるし、「力の抜けた」力の入れ具合を体得できるのだ。
僕もきっと、そういう領域に達することが出来るだろうし、そういうときには、ほら、あれ、なんて言ったかなぁ、えーと。
「・・・・」
「そうそう、老人力」
ってなことになるんだな。楽しそうだな。
2001207
- 『本田宗一郎 夢を力に』 本田宗一郎著 日経ビジネス人文庫 ほ−1−1 648円+税
言わずと知れた世界に通用する企業であるホンダの創始者である。
まず、表紙の写真を見る。
有名な写真で、F1マシンに腰掛けて顔をほころばせている本田宗一郎の姿である。世の社長がみんなこんな顔をしているのであれば、今日の下り坂を転げ落ちているような日本にはならなかったであろう。
あくまで技術にこだわり、目標を実現させていった手腕は、周りの人びとを巻き込んでいく。優秀な人材が集まり、それを生かせるような組織をつくる。単に、机にしがみついてあぁだこぅだ言う人とは違う。いつまでも、油に匂いの漂ってくるような人とでもいえばよいのだろうか。
本田宗一郎が研究所社長をバトンタッチするようにすすめられたときのくだりは、何度読み返しても泣けてくる。自分の時代が終わったことを潔く認めることは難しい。まして、技術を中心に据えてやってきた人間にとっては、まさに断腸の思いであろう。しかし、あっさりと承諾するところに、技術のホンダを生かすための方策がみてとれる。その後、本社の社長を副社長と共に交代したときにかわした言葉、
「まあまあだな」
はたして、仕事を終えたとき、この一言を吐くことが出来る技術者はいったいどれだけいるのだろうか。
2001202
- 『蕎麦ときしめん』 清水義範著 講談社文庫 し−31−2 400円+税
自分では「読んだ」と思っていたのだが、実は初読(汗)
裏表紙やあとがきによると、ここにある小説群がパスティーシュ小説だということが発見されたらしい。
後年、著者はパスティーシュ小説の大家として有名になるのだが、少なくともここにある小説群が、そうであろうが無かろうが、面白いことに相違ない。
ただ、僕もよく分からないが、文体の模倣なのか、書式の模倣なのか。それは元のサンプルについて僕自身が知っていないと分からないし、面白みも半減する。少なくとも『三人の雀鬼』は元ネタが『麻雀放浪記』くらいは分かる。(そちらも読んでいたので) あとは『猿蟹の賦』がだれかの文体の模倣なのであろうか。それ以外は書式の模倣およびそれに付随するもの、と考えられる。
繰り返しになるが、清水義範のパスティーシュ小説を本当に楽しむことが出来るのは、元ネタを知っている必要があるということだ。いうまでもなく、読者に「これは分かるかな?」と著者から挑戦状を突き付けられていることを楽しみ、「それはこれでしょう」と自分の引き出しからネタを取り出すことができるかどうかにかかっている。
2001201
- 『なんぞそれ神速なる』 伴野朗著 徳間文庫 と−2−16 514円+税
いつも思う。
中国歴史中のそれぞれの物語において、正しい行いをして、位を上げていくのは当たり前なのだが、最期には佞臣その他の策略によって失脚あるいは殺されてしまう、というパターンが多い。
それはそれで、人の恨みの恐ろしさや、継続性を表していて物語自体を引き締めていると言える。
例えば、本書の中の『蒼鷹』である。地位に惑わされず公正な判断を下す主人公であっても、外力によって命を落とすことになるとは、無情を感じざるを得ない。
もちろん、そういう話以外もある。
オススメは『邯鄲の夢』だ。
良く知られた話であるが、最期に一ひねり二ひねりあって、従来の物語を大きく変化させている。著者が「これはどうだ?」という風にニヤリとしているところが目に浮かぶようである。
もう一つは『皇帝をつくった男』。
前漢と後漢の間に挟まる「新」国を立ち上げた男。その男の陰の男。
僕は名前だけしか知らなかったが、短期間であっても国の頂点に立った男。実から虚に移行するまでの変遷は、実は弱さからきているのであった。そういう点では、悲しい話なのである。
2001125
- 『仙人の壺』 南伸坊著 新潮文庫 み−29−4 438円+税
中国の昔話が、南伸坊のフィルタを通り抜けると、こうなる。
なにしろ、取り上げられている話に意味があるのかないのかワカランところが重要である。僕みたいに、何らかの結論を求めたり、味わったことのない感動を欲しがったりしようとすると、足下をすくわれる。
しかし、一旦、その雰囲気に身を浸してみると、見事に気持ちが良くなってくるから不思議である。
絵が伝える「あの頃の中国」と、添えられている文章の「抜け加減」が絶妙。余計な背景を排しているのは、南伸坊フィルタが話の本質(と言えばいいのだろうか)だけを通り抜けさせるから。(たしか、酒見賢一「墨攻」のイラストもそうだったような気がする)
そういえば、「あの頃の中国」のイメージにぴったりな絵ですねぇ。
深い霧の中にいて、だけど太陽の位置だけはぼんやりと分かるような本ですが(これは、この本について言えば褒め言葉です(笑))、「未来の巻物」と題された話には驚きました。
選ばれた話から、南伸坊本人の輪郭が見えてくるようです。ただし、それは霧の中で・・・。
20011118
- 『技人(わざびと)ニッポン』 日本経済新聞社=編 日経ビジネス人文庫 に1−3 600円+税
「技人」と書いて、「わざびと」と読ませる。
モノを作るということは、結局、人の力、技量、経験、がものをいうわけです。
この本を読めば、どんな分野で、どういう技術があり、世界に誇れるレベルでモノを作る、あるいはモノを作れるようにしているかが分かります。
細かいことは省略しますが、それだけの技術が一朝一夕に達成できることはなく、絶え間ない研鑽の上に成り立っていることは言うまでもありません。しかも重要なのは、その技術を次世代に伝えていくこと。昔ならば、徒弟制度のなかで行われてきたことも、現代ではできにくくなっているのかもしれません。でも、高い技術力を伝授するための必然として、本書の端々にそういう場面が登場するのも事実なのです。裏を返せば、技術は単なる手順ではなく、感覚を伴う作業が必要だからこそ、なのでしょう。
「技の継承には、経験の積み重ねが欠かせない」
この一言に収斂するのが、誇れる技と、その技を持つ人なのです。
20011113
- 『オルガニスト』 山之内洋著 新潮文庫 や−48−1 552円+税
「オルガニスト」と聞いて、最初は何のことだか分からなかった。
ピアノを演奏する人はピアニスト。だから、オルガンを演奏する人はオルガニスト。そんな簡単なことさえすぐに気が付かなかった僕は、それだけでもオルガン自体に興味がないことを露呈している。
本書のオルガン、奏法に関する記述はさっぱり映像として頭の中に浮かんでこないが(これは全く基礎知識がないため)、そんなことはお構いなしに読み進める。バッハの曲として知っているのも本の数曲のみ。でも読み進める。このとき、活字を追うことは音楽を聴くのと同じである。
狂言回しとしての音楽家テオ。学生時代の友人オルガニストのヨーゼフ。突如現れる天才オルガニスト、ハンス。ヨーゼフの師ラインベルガー。
成長の物語であり、推理小説であり、SF(?)
話の筋は全然違うけど、映画『アマデウス』を思い出してしまった。天才を知ることができる普通人。「それ」は分かるのに「それ」に届かないことも十分に分かるやりきれなさ。
そして、天才が天才を自覚し、さらに高みに昇ろうとするときの驚異。
天才の最期は、完璧な音楽、たるか。
20011111
- 『カメラが欲しい』 尾辻克彦著 新潮文庫 お−33−1 438円+税
文:尾辻克彦、イラスト:赤瀬川原平。
この尾辻克彦の文は、赤瀬川原平の書く文章と非常に似ている。ステレオカメラ好きも同じである。
なぁんてね。知ってる人はちゃんと知ってる、一人二名。
まずは、書かれているカメラの状況からいうと、オートフォーカス一眼レフ時代に突入する直前までである。本人は、当初、カメラに対してある程度の距離を取ろうとしているかのようであるが、後半になればなるほど、間隔を詰めようとしているみたいだ。それどころか、内部に入り込み、切り込みを入れ、関係する人々には無条件に崇拝してしまう。
僕もその傾向がある。好きな物事にはそれだけに留まらず、その周囲にも目が向くことを。関わる人物に興味を持つことを。
重要な指摘がある。
「日本のカメラ・フィルム業界を支えるためには、もっともっと赤ん坊が生まれてこないといけない。」
確かにその通りだろう。20年近く前に、既に業界不況の予言がなされていた。ただ、レンズ付きフィルムや、若年層の(より具体的には女性の)カメラユーザーが増えているはずだから、違う方向の発展をしているとも言える。さらには、人口ピラミッドの適正形状が崩れれば、カメラに限らずほとんどの業種がおかしくなる要因を含んでいるのだから、一般論としても適用できる。(ちょっと話がずれた)
本書の後、「尾辻克彦=赤瀬川原平」がどのようになっているかといえば、書店に並んでいるカメラエッセイの並んでいる棚を見ればわかるのだ。
20010922
- 『新宿熱風どかどか団』 椎名誠著 朝日文庫 し−16−5 600円+税
椎名誠が勤めていた会社を辞め、物書きとして一本立ちしていく過程の物語である。
椎名誠本人の書いたモノだけでなく、関係者がいろいろなところで断片的にまとめられているモノは読んでいるので、特に目新しいとは感じない。しかし、本書の中に書かれているように、この時期は、「パワー過剰の状態」であった。しかも「まぁいいか、どうだって」という状態と同居していたのである。
それにしても、物事の進め方がわりといい加減である。これは椎名誠本人だけでなく、それを取り巻く人々にもいえる。放つオーラがそうさせてしまうのだろうか。単に類は友を呼ぶからなのだろうか。
だから、はちゃめちゃな状態にもなるし、それでも成り立ってしまう関係がある。羨ましいぞ。
充満するエネルギーと、適度に放出しつつ表現域を広げていく様を、応援しながら読み進めるのである。それは、僕の世界と似ても似つかぬからでもある。
20010916
- 『8時だヨ!全員集合伝説』 居作昌果著 双葉文庫 い−25−1 524円+税
見ていたなぁ。
はっきりと思い出す・・・、とは言えないけれど、オープニングからエンディングまで、テレビの前で釘付けになっていたことを。
でも、重大な記憶違いに気が付きました。この番組はTBSだったんですね。今の今まで日本テレビだと思ってました。だけど、ドリフターズが3人になってしまったときのことは覚えています。これははたしてリアルタイムの記憶だろうか。それとも迷場面集なのだろうか。
この本は、番組を一から育て上げ、高視聴率が当たり前の状態を作りだしたプロデューサーの回顧録である。綿密に作り込まれたギャグ。真剣勝負。プロダクションとTBS。番組スタッフとドリフターズ。時には対立する構図をあらわし、しかし時間は刻々と迫り、会場には客が詰めかける。
懐かしいと感じるのは、実はほんの一瞬のことで、読者は作りあげられる番組の状況にぐいぐいと引き込まれていくはずである。現実が持つ力。それを16年間続けた力。現在のバラエティ番組に、それだけの地力はあるのだろうか。
なにしろ、賛否はあれ、今からすれば夢のような番組であったし、それを作っていた人びとにとっても「俺がこの番組を作っていたのだ」と言える数少ない例なのだろう。十二分にうかがえる本なのだ。
20010915
- 『異説 数学者列伝』 森毅著 ちくま学芸文庫 モ−6−1 900円+税
系統としては、今年初めに読んだ『心は孤独な数学者』と同じですが、そちらは3人、こちらは30人です。勝ってます(笑)
もちろん、一冊の本の中のことですから、その分密度は薄くなっているはずなのですけど、逆にエッセンスだけなので、どれもこれも強い印象だけが残ります。数学者の生き方は、数式の証明ほどに力強く完璧なものではない。むしろ、小学生が単純な計算を間違えるくらいの、方向違いや脱線をおこしている。
数学者が数学で生きていくための苦労も、数多く見ることができる。貴族との関係であったり、政治や宗教とからんでいたり。真理を求める作業が必ずしも一筋の道ではない。
単に、数学者の生い立ちと功績をまとめたからといって、面白く読める本になるのではない。ここにおそらく森節がからんできて、硬軟ないまぜにしたからこその結果であろう。その部分にはだれも異論はないはず。(といっても、著者の本を他にも読んだという記憶がないから、単なる推測である)
「ポアンカレ」の章で、このように書かれている。
「古典とは時代にのりこえられることによって古典ともなるのである」
注意すべきは「時代をのりこえる」ことが古典の条件ではないことだ。古典は時代に押しつぶされることで古典になる、かもしれない、というわけ。これが森流の言い方なんだろう。
20010910
- 『逃げていく街』 山田太一著 新潮文庫 や−28−15 514円+税
ドラマが見たい。
山田太一のドラマが見たいと思った。
僕にとって「ふぞろいの林檎たち」が彼のドラマである。
TV自体を真剣に見なくなってから、というか、見る時間がなくなってから、どんなドラマをどんな日時にやっているかを気にしなくなっている。いかに優れた内容でも、その時見ていなければ、なんの意味もない。
しかし、この本を読むと、ドラマ自体が持っているエネルギー、ドラマの裏側にある(作る側の)熱さが、本物であるのか分かる。少なくとも山田太一のドラマは。
『美しい侍の死』の沢村貞子は、まさに山田太一が書いてもおかしくない話である。
山田太一のドラマには、常に自分を自分たらしめる関係が背景にある。ほんの些細なものから、基本的な関係である家族まで。
涙を止められないまま読み進めた『異人たちとの夏』(映像ではちょっとしか見たことがない)も家族の物語である。家族の延長上に新しい家庭であったり、恋人たちであったり、会社関係であったり。
山田太一のドラマは、消費されるドラマとは、きっと違う。
20010908
- 『幕末辰五郎伝』 半藤一利著 ちくま文庫 は−24−2 780円+税
最初の数ページを立ち読みしてから買った本。
辰五郎なる人物が、一体どういう役回りなのか、事前の知識が全くないと思っていたのですが、途中まで読み進んでいったあとに、本の最初に彼の写真があったことに気が付きました。キャプションに「新門辰五郎」とあって、どこかで聞いた名前だなぁ、と思い出そうとして気が付いたのは、NHKの大河ドラマ『徳川慶喜』の堺正章が演じていた役ではありませんか。そうだったのか(笑)
徳川慶喜と辰五郎が知り合ったのは、将軍になるずっと前。火消しの頭領と徳川家のつながりというのも不思議だが、幕末の政治も不思議なことばかり。たしか、前に『最後の将軍』を読んでいたはずなのだが、辰五郎とのからみは全く覚えていないし、幕末の政治動向もよく分からなかった。
でも、この本を読んだ直後は、この時期のこんがらがった動きも、解説風に分かりやすく書かれていたこともあり、これで幕末本もどんと来いだ、と思いました。(もう忘れちゃったけど)
「人をあざむいて手前の栄耀栄華をはかるなんざ、こりゃ外道の道でさぁ」
著者が辰五郎の口を使って言いたいことは、まさにこの一行だったのではないだろうか。
頭が切れて先が読めてしまう男徳川慶喜と、てっぺんからつま先まで江戸っ子気質の新門辰五郎。二人のからみが、絶妙の味を出している。それを取り囲む人びとの味も。
20010826
- 『コンセント抜いたか!』 嵐山光三郎著 朝日文庫 あ−30−1 600円+税
前に読んだ本と比べれば、砕けに砕けているから、本人同士で対談していただくのも面白いと思う。
冗談はさておき、現代の日本(といっても数年前までのことであるが)を批判しているのはこの本も同様である。しかし、より平易な文章で、分かりやすい内容だから、どちらをとるかと聞かれたら、当然こっちである。
分かりやすい、とは何か。そのキーワードはオヤジである。自分もその族の末席にいる(?)ので、書かれている情景も想像とはかけ離れていないし、むやみに一般論的に話を広げていないので安心して読める。ただし、安心して読めることが、すなわち、毒がないということではない。
例えば「台風は楽しい」。現在の台風情報放送を茶化している。定型化した台風情報を褒め殺しである。しかし、僕らが求めているモノは、ここに書かれているようなスタジオのアナウンサーであり、実況中継の様子であり、まさに定型的。これ、茶化しているのは中途半端な定型もどきであって、実はそれを極めよ、に等しい。柔軟さの否定である。
矛先は等身大であって、その点で言えばオヤジ以外でも割とすんなり読みこなせるはず。もちろん、嵐山流話芸であるからして、すべてが納得できるのではなく、ビールを2本程度聞こし召した頭にちょうどいい感じ。
20010819
- 『書字ノススメ』 石川九楊著 新潮文庫 い−48−3 552円+税
書家である著者が、手と手で書くことから、手を喪失した現代の日本を批判する。
と書いてはみたものの、正直言って、何をいわんとしているのかまで読みとることができませんでした(汗)。気になった文章にはさむ付箋紙の枚数はたくさんある。だけど、僕の考えと異なる、あるいは、感覚が古い(失礼)と思われるところに集中している。
例えば、「デイ・パック」と題された章。デイ・パックをランドセルと同一視したり、手ぶらのサラリーマンを皮肉ったりしているのはどんなものか。守旧と合理性が相反するのは良くあることであるが、それさえ余裕を持って見ることができないのであろうか。手ぶらはいけないのだ、という根拠さえ、昔は貴族でさえ笏や扇を持っていた、という例を出されても納得できない。手ぶらのサラリーマンに片手で新聞を持て、と言ったところで、それがなんなのだ。
繰り返しになるが、生活様式が変わり、それに適した道具が生まれてくるのは合理性を追求している部分があるのは異論がないところだろう。ただ、生活の変化を考慮せず、批判の根拠を昔の様式に拠るとは、ちょっと短絡的ではあるまいか。
かくいう僕は、サラリーマンのデイ・バック利用者である。僕の手は萎え、錆びついているのだろうか。
20010818
- 『異色中国短篇傑作大全』 宮城谷昌光他著 講談社文庫 み−34−17 695円+税
宮城谷昌光、伴野朗、井上祐美子、藤水名子、田中芳樹ほか、多数の作家の短篇を集めている。11編。読み応えあります。
この中で、ひとつをあげるとすれば『茶王一代記』(田中芳樹)であろうか。
木工を生業とし、客先でたまたま茶を勧められ、茶に心を奪われた男、馬殷。乱世の中で「家族でお茶を飲めるような世に」と。そして、あれよあれよという間にそれを実現してしまうことに。
いわゆる英雄譚にしては粒が小さいと思うが、逆に、どろどろとした部分が省かれているので、この男の純粋な望みが浮き上がってきており、非常に爽やかな印象を受けます。正直言って、今までに読んだことの無いような爽やかさ。
他にも、男女の情愛、親子の誤解、とんち、冒険、美醜、英雄の周辺、ミステリなどの、数々のパターンを楽しむことができます。これを読んで、好きな作家や、好きな分野を見つけて、そちらに進むのも一つの手でしょうね。
20010729
- 『わたしの流儀』 吉村昭著 新潮文庫 よ−5−40 400円+税
今年の前半に読んだ『街のはなし』と同様、著者の主観が前面に押し出されているエッセイ。(といっても、もともとエッセイとはそういうものだが(笑))
小説家として、言葉を大切に扱う立場から『ノンキ』『鳥肌』。
幅広い視野から『赤信号』『サンドイッチ』。
数多くの旅から『ほのぼのとした旅』。
歳を重ねた厚みから『母と子の絆』『時間の尺度』。
などなど、本当は誰でもそういう思いになるであろう話がたくさん。でも、自分で気が付くことの難しさは、こういう本を読んだときに「そうか」「そうだったな」と口をついてしまう場面の多さにつながるのである。
感じることができるのに、それさえも分からずにいること。
あらためて、損をしていると思うのである。詰まらないことを追いかけ、無駄なことに時間を費やしている自分に行き着きます。
中に、こういう文章があった。
「幸せだから、腹をたてることはめったにない。電車の中で隣に坐った男が携帯電話をかけはじめても、ただ席を立って・・・」
ここだけは引っかかりました。
腹をたてることを避けているのではないか、と。僕は、幸せであることと怒ることは相反するものではないと思う。だけど、それが吉村昭だといえば、確かにそうなのだ。
20010728