1949年12月横浜市鶴見区生まれ。36歳のとき転勤で宮城に移り住み現在もそのまま住み続けている。脳梗塞発症前の職業はフリーランスの翻訳者(主にIT関係-"Practical Java" by Peter Haggar 邦訳「Javaの鉄則」等)。2016年8月ウォーキング中に脳梗塞を発症。右脳であったため、左手足と左顔面に後遺症が残った。左腕はよいOT(作業療法士)さんに恵まれたにもかかわらず手のひらをテーブルに乗せて大きく円を描く程度の回復。一方左足は先生いわく120%の回復。これはひとえに熱血漢のPT(理学療法士)さんに恵まれたおかげだ。装具を装着し1点杖でかなり安定した歩行が可能になった。食べることも話すことも問題なくできた。注意力などに少し難があったがこれも優れたST(言語聴覚士)さんのおかげで徐々に回復。12月に退院した。車の運転も、ハンドルにノブを付ければ、妻の駅との送り迎えくらいはできそうだった。新たに付けた手すりを使って階段の上り下りもできるようになっていたから2階にベッドを置き生活できた。入院中に盲腸にクラス3の腫瘍(クラスとは腫瘍が悪性かどうかを判断する主な基準でステージではない)が見つかった(手術後一部がん化していたことが分かった)。今日、明日の問題ではないから、退院後に手術受けるようにいわれていたので、翌年1月に手術を受けた。内視鏡下手術で10pほど腸を切るだけで手術は無事終了。手術に際して、出血を多く伴うという理由から抗血小板薬ブラビックス(クロビドグレル)を手術の2週間前から休薬(どの資料でも休薬は手術の7〜14日前からで単剤の場合は7日前から)するように指示されていた。しかしブラビックスを再開する前に今度は左脳に梗塞を発症した。再発のリスクを考慮して7日前から休薬にしてくれれば結果は違ってたのではないかと思うがその頃は私自身休薬のリスクについて無知だった。なぜ医師が7日でなく2週間前にしたのか…今となってはどうしようもない。しかし頭の片隅には医師に対する不信感が残るのは不当なことだろうか。今度は相当重篤だった。急性期の地獄のような日々は思い出したくもない。担当看護師は前回と同じ方が担当してくれた。その方が、今度はもう家には帰れないだろうなと思ったそうだ。つまり施設で一生を過すことになる。医師もそのよういっていた、と後で妻から聞かされた。しかし前回と同じリハビリのスタッフ、看護師さんのおかげで、なんとかトイレは自立できるようになり、また不安定ながら多少は4点杖で歩行できるようになり、家に帰ることができた。しかし、左片麻痺のさらなる悪化と右側麻痺の結果、両側片麻痺により偽性(仮性)球麻痺の症状が出て重度の嚥下障害と構音障害、さらにが右顔面麻痺が加わった。両側片麻痺により体幹を支配する神経(随意運動に先行する予期的姿勢制御に関与する両側の皮質網様体路)もダメージを受けて体幹が弱って、4点杖でなんとか歩行できるが安定しない。経口摂取できないため胃ろうを設けて半固形栄養剤を経管注入している。構音障害で話せないからもどかしい思いをすることが多い。頭を支えるのもしんどいからついうなだれてしまう。嚥下訓練の際は不顕性誤嚥に気を付けなければならない。睡眠中も唾液の誤嚥による肺炎の恐れがある。とまあ、悲惨な状況だが寝たきりはごめんだから、なんとか踏ん張ってやってる。いつか脳の再生医療を受けて、また同じリハビリのスタッフの方々とリハビリに励む姿を想像して。再発の結果、脳梗塞の種類は、ラクナ梗塞とアテローム血栓性脳梗塞の中間のBAD(Branch atheromatous disease)と診断された。BADの和名はまだないそうである。
*唾液を十分飲み込めないため、小さいタオルを付けたストラップを首にさげているが、口をずっと閉じているのが困難だからときどきキーボードに涎をたらしながら、不甲斐ない自分の右指に苛立ちながらこれを書いてる。