◎渡邉雅子著『共感の論理』(岩波新書)

 

 

この新書本を買った理由は三つある。まず著者の渡邉雅子氏の名前はどこかで見たなと思ってよく考えてみると、今年最初に取り上げた『論理的思考とは何か』の著者でもあったこと。もちろん、おもろかったからこの「ヘタレ翻訳者の読書記録」で取り上げたわけ。だから言い方は悪いけど、二匹目のドジョウがいるのではないかと思ったわけ。なお、『論理的思考とは何か』は二〇二四年一〇月一八日第一刷発行とあるから、著者の渡邉氏は一年以内に二冊の岩波新書を刊行したことになる。専門書ではなく新書本や選書本でも完成に何年もかけるのが学者先生様の常であるなかで(「あとがき」にそう書かれていることが多い)、これはきわめて珍しい。もしかすると最初は一冊にする予定だったのかもしれん(実際内容的に重なる部分もかなりある)。

 

二つ目の理由は、「おわりに」に次のようにあったこと。≪本書には、三つの目的があった。第一の目的は、近代の精査を通して、脱近代した新たな社会のビジョンを提示することである。第二の目的は、そのビジョンと比較研究の知見を踏まえ、近代の問題を克服するには日本の教育が大きな力を発揮すること、そしてこれまで通り行うことこそが有効であることを示すとともに、むしろこれまで行ってきたことを失うことの危うさに警鐘を鳴らすことだった。三つ目には、そこから次の社会と教育のあり方を示すことである(177頁)≫。翻訳者としては、ちょっと「こと」が多いのが気になるけど、まあそれはよしとしませふ。著者は、最後の著者紹介欄に「名古屋大学院教育発達科学研究科教授」とあるように基本的に教育学者のようだから、おもに教育に着目しているようではあるとしても、今後の国際化には日本の独自性を大いに生かすべきだと考えている私めには、同様のことが述べられているので強く訴えるものがあった。ちなみにそれについては、前回『世界秩序』を取り上げたときに、「欧米諸国のイデオロギーに右に倣えをして「グローバル・サウス」を始めとする他の国々との関係を構築・維持していくのではなく、またもちろん中国やロシアのような阿漕なやり方をするのでもなく、日本独自の、そして日本がこれまで育んできたやり方を踏襲しつつ、改善すべき点は改善しながらそうすべきなのですね。そうすれば日本は、欧米や中国やロシアにはとても無理な信用を勝ち取れるのではないかと、そしてこれが、日本が取るべき今後の〈国際化〉のあり方の一つになっていくべきだと考えている」と述べた。日本にはやたらに出羽の守がいるけど、その対象はつねに欧米諸国で、たとえば「ブラジル出羽」「メキシコ出羽」「ケニア出羽」「インドネシア出羽」などと言いたがる人はほとんど見かけない。つまり日本の出羽の守は、世界に目を向けているようで、実のところ欧米諸国に盲目的に追従しているにすぎない。しかもたとえば、「スイス出羽」「北欧諸国出羽」と言いながら、スイスが国民皆兵(ただし男性のみで女性は志願制のはず)であることや、北欧諸国の多くも徴兵制度を実施しており、確か国民皆兵ではなかったはずだが、つまり対象年齢の国民全員が徴兵されるわけではなかったと思うが、スウェーデンのように女性まで徴兵している国すらある(無差別的な男女同権を訴えるなら女性が徴兵されること自体は特に問題にならないのは確かだけどね)ことについてはまったくダンマリという都合のよさ。いずれにしても、日本には欧米諸国や、いわんや中国やロシアなどの専制国家にはないものがあるのだから、ネットの動画によくあるように「日本すごい」と言う必要はないとしても(その手の動画はほぼすべて、クリック数やインプレッション数稼ぎの作り話と考えてよいと思う)、逆に日本の独自性を無視してやたらに日本サゲをすることは国際化という意味でもまったく非生産的なのですね。この新書本では、そのことが教育という側面から語られているのだろうと思ったというわけ。

 

三つ目の理由は、タイトルに「共感」という言葉が含まれていること。わが訳書のポール・ブルーム著『反共感論』では、タイトルにあるように共感の問題が指摘されている。ただしそれは、公共政策の策定にあたって、認知的共感ではなく情動的共感を持ち込むことの危険性を指摘しているのであって、「共感」全般を否定しているわけではない。なお認知的共感と情動的共感の違いについてはあとで簡単に説明する。いずれにせよ、この新書本では「共感」がどのように扱われているのかが気になったのですね。

 

ということで新書本の内容に移りましょう。まず「はじめに」から。冒頭に次のようにある。≪世界の人々は今、漠とした不安の中にいる。その不安の原因は、これまでの経済一辺倒の価値観が行き詰まり、新しい価値観への転換と、それに即した社会の構築が必要であると感じているからだ。たとえば、新型コロナウイルスの流行は、私たちが本当に必要としないものに振り回されていた生活を見直す契機となった。さらに、経済格差の拡大、戦争や紛争の頻発、気候変動、生態系の破壊といった課題が、これまでの社会が抱える矛盾をもはや看過できないものにしている(…)。近代資本主義は、科学技術に支えられながら成長・拡大を続けてきたが、その矛盾は地球規模で顕在化し、いまや資本主義や科学の枠組みそのものが転換を迫られている。これとともに、私たちの世界観や哲学的な基盤もまた、近代とは異なる見方へと変化している(@頁)≫。ここまでは、昨今よく言われていることが述べられているにすぎないが、「地球温暖化」ではなく「気候変動」と記されている点は、あとで出てくる複雑系科学との関連で評価しておきたい。

 

次に著者の専門である教育について次のように述べられている。≪教育もまたこの大きな変化に直面している。近代教育は経済成長を支える役割を担ってきたが、その制度疲労は誰の目にも明らかで、近代教育の価値観は多くの矛盾を露呈している。この矛盾の解決には、小手先の修復では追いつかず、近代が前提としてきたものの見方や考え方から根本的に問い直す必要がある。(…)では近代の矛盾を解決するものの見方や価値観とは何か。その価値観を前提とする社会はどのような姿になるのか。そして教育はどう変わるべきか。あるいは何を変えてはならないのか。¶本書は、近代を支えた四つの主義――資本主義、科学主義、民主主義、国家主義――のうち、資本主義が抱える矛盾を、西洋の自然観に遡って捉え直し、これからの教育の構想へとつなげるものである。¶鍵となるのは、日本が育んできた価値観である。日本には、近代の矛盾を克服する価値観がすでに存在し、その価値観は逆説的にも「近代の学校」を通じて広く継承されてきた。その価値観の本質を、他国の教育原理と比較しながら明らかにしたい(A〜B頁)≫。教育に限定されるわけではないが、「群島文明」と「大陸文明」という概念で日本の独自性を論じた『日本群島文明史』はお薦めだよ〜〜ん。

 

次に著者は、日本、アメリカ、フランス、イランが体現する教育原理に言及し(この分類は『論理的思考とは何か』にあった論理的思考方法の分類と重なっている)、そのうちの日本の教育原理について次のように述べている。≪この教育文化のモデルにおいては、日本も一つの教育原理を体現している。むしろ日本が体現するこの原理こそが、近代の次の局面で強みを発揮し、世界の教育のモデル(基準・規範)となる可能性が大きい。その時に鍵となるのが、「個人主義と競争」を原理にしないことで発揮される日本の強み、そして日本がこれまで大切にしてきた「自然と人間との関係」に基づく価値観である。これまで当たり前だった近代教育の「前提」を変えると、これまで日本の教育の弱みだと思われていたことが、何よりの強みになる。手中にあるものの価値を認識し、これを手放すことなく新しい時代に生かす方法を考えることが重要だ。そこではじめて自己を拠り所にした教育が実現する。時流に合わせて後追いしながら変えることが効果的だった時代は過ぎ、新たな視座に基づく教育の構想が求められている(C〜D頁)≫。この提言は、教育のみならずあらゆることに当てはまると思う。今の日本の自称知識人がやっていることは、すでに述べたように≪手中にあるものの価値を認識し、これを手放すことなく新しい時代に生かす≫こととは正反対の自虐、つまり日本サゲであり、盲目的な欧米への追従なのですね。てか、自虐ですらなく、単に、いいところも悪いところも含めて普通に日本を評価している他の一般ピープルに、今風に言えばマウントを取って、自己の脆弱なアイデンティティーを必死に守ろうとする行為にさえ見える。

 

「はじめに」の最後のほうに、本書の結論を先取りする箇所があるので、その部分を引用しておきましょう。≪本書の結論を先取りすれば、人間と自然との関係を、自然を収奪の対象とする見方から、人間を自然の一部と捉える発想へと転換する必要がある。そしてこの新しい自然観に基づき、個人主義・利己主義的な価値から利他主義へと価値を転換することが、今、世界的に求められている。なぜなら、自然観に裏打ちされた価値観は、社会の規範や思考の枠組みを根底から規定するからである。一度自然観や価値観が定まれば、その後の社会的判断や制度設計にも一貫性と連続性が生まれる。西洋近代の個人主義から利他主義への転換は、近代の生んだ多くの矛盾を克服する鍵となる(F頁)≫。ここに書かれていることはありきたりだとは言え、重要なのはそれに対して日本の自然観や価値観がいかに貢献できるのかという点なのだろうと思う。

 

次は「序章 近代の矛盾とポスト近代の価値観」。序章では、近代になってから価値の領域が「経済」「社会」「規範」「政治」の四領域に分化したことが述べられている。内容的にはよくある分類なので、詳細はここでは取り上げないが、今後この四つの領域から成る分類に基づいて議論が展開されるので、ここではその点だけ念頭に置けばよいでしょう。

 

ただし「4 新パラダイムの社会像――近代の矛盾を超えて」で≪自然観の変化は、四つの領域すべてに転換をもたらす(17頁)≫として、科学におけるパラダイムシフトが取り上げられているので、ポピュラーサイエンス書の翻訳者としては言及せずにはいられない。ここでの科学におけるパラダイムシフトとは具体的に何かというと、複雑性理論と量子力学を意味する。量子力学についてはまったく頭がピーマンなので取り上げないが、複雑性理論についてはメラニー・ミッチェル著『ガイドツアー複雑系の世界――サンタフェ研究所講義ノートから』などという本を訳したこともあり、少しだけ取り上げてみたいと思う。ちなみにこの本は、ポピュラーサイエンス書としてはお初のわが訳書であった(訳書としては誠信書房から刊行されたアーサー・クラインマン著『八つの人生の物語』のほうがわずかに早かったが、そちらはポピュラーサイエンス書ではなかった)。この複雑性理論に関して新書本には次のようにある。≪「複雑性理論」と呼ばれる新しい研究領域では、生物を「いくつものパターンの相互作用から成るものとし、開かれて展開し、予測不可能だが、順応性をそなえ、自立している」ものとして捉える(…)。この理論では、相互作用によって生まれる予想外の結果を「創発特性」と呼んで、生物や宇宙を理解するための鍵と捉えている。生物や人間社会のような複雑系は、想定外の事態に直面した時、行動や形態を変える創発特性、すなわち創造力を持っている。その相互作用は正と負のフィードバックループによって制御され、行き過ぎや無秩序を抑制するが、全体を監視したりトップダウンで指示を出したりする機能はなく、あくまで「ローカル」な「ボトムアップの相互作用」によって制御されている。このような特徴を持つ複雑性理論は、機械とはまったく異なる「新しい種類(クラス)の秩序」を発見し、さまざまな生物系を記述することに成功した(19頁)≫。基本的にはそうだけど、≪全体を監視したりトップダウンで指示を出したりする機能はなく≫というくだりはやや気になる。というのも、たとえば脳という複雑系は、ボトムアップにもトップダウンにも機能し(これについてはぜひわが最新訳書、アンディ・クラーク著『経験する機械』を参照してね)、さらに両者が相互作用し合うことでさらに複雑さが増大しているから。ただまあこの新書本は科学書ではないので、あまり厳密に考える必要はないでしょう。というかあとのほうで、著者自身も≪創発によって生み出された新たな機能・形態・振る舞いが今度は環境に影響を与えて環境を変化させ、その変化を織り込んだ相互作用が繰り返されていく経過までもが[複雑系]研究の対象となる(20頁)≫と述べているので、ボトムアップとトップダウンの相互作用を無視しているわけではない。

 

さらに次のようにある。≪これらの複雑系(非線形)の現象には、構成「要素」ではなく、「システム」という「全体」が分析の単位となる。生態系破壊の危機によって注目を集めている「生態学」もまた、生物とそれを取り巻く環境との「関わり」や「相互作用」を明らかにすべく、生態系を構成する要素の一つ一つではなく、生態系という「システム全体」を研究対象にしている。¶システム理論は、要素還元主義とは逆向きの問いを立てる。要素還元主義は「全体はどのような部分から構成されているのか」を問うが、システム理論は「部分はどのようにして相互に結合し、自己を組み立て、自己組織化し、全体となるのか」と問う(…)(19〜20頁)≫。ちなみに私めは、この「ヘタレ翻訳者の読書記録」で、よく「地球温暖化」ではなく「気候変動」と呼ぶべきだと述べている。その理由はまさに、「地球温暖化」という言い方は、ある特定の事象にラベルを貼っただけであるのに対し、「気候変動」という言い方は、その背後に「複雑系」が関与していることを示唆しているからなのですね。だから「地球温暖化」は、実際に地球が温暖化しているという観測事実や、たとえば北極や南極の氷が融けているという状況証拠すらあればその正しさを主張できる。しかし、それが人為的に引き起こされているのか否かとなると話はまったく異なってくる。なぜなら、それには因果関係の証明が求められるから。だから地球大の気候の大局的な変化の裏には地球という複雑系が関与しているという意味合いを込めて「気候変動」と呼ぶべきなのですね。事実、「気候変動」は「地球温暖化」ではなく「地球寒冷化」という形態で顕現してもおかしくはない。

 

二〇年くらい前に『デイ・アフター・トゥモロー』(米・二〇〇四年)というタイトルのハリウッド超大作SF映画があった。その内容は、温暖化のせいで南極の氷が融けて大海洋コンベヤーと呼ばれる海流のパターンが停止し、暖流が北大西洋に還流しなくなったために氷河期がやってくるという内容だった。さすがにハリウッド映画だから誇張もあるが(さすがに三日程度で氷河期になったりはしないでしょうね)、あのくらいの予算をかけた大作になると、サイエンスアドバイザー、つまり科学者が制作に参加するのでまったくの出鱈目にはならないのですね。『ジュラシック・パーク』(米・一九九三年)を始めとするハリウッドのSF超大作にサイエンスアドバイザーが関わっていることについては、かなり古い本ではあるけどデイヴィッド・A・カービー著Lab Coats in Hollywood: Science, Scientists, and CinemaThe MIT Press, 2011)に詳しい。あるいはノーベル物理学賞受賞者のキップ・ソーンは、The Science of InterstellarNorton, 2014)というカラー図版がたくさん入った豪華な本で、まるまる一冊をかけて自身がサイエンスアダバイザー(ウィキには「エグゼクティブ・プロデューサー」とあるけど)を務めたSF超大作『インターステラー』(米・二〇一四年)の宇宙物理学について説明していた。『デイ・アフター・トゥモロー』の話に戻ると、この映画でイアン・ホルム演じる科学者が論じていた地球寒冷化の根拠の説明は、地球化学者ウォーレス・ブロッカーらの海洋循環説に基づいていたはず。それによって言いたいのは、気候変動の問題には複雑系が関与しているため、絶対的な科学的な証拠が得られるまで待っていたら「時すでに遅し」になる可能性が高く、よってそこには政治的判断がどうしても必要とされるということ。言い換えれば、複雑系が関与する気候変動問題には予防原則を適用すべきなのですね。

 

ちなみに現在読んでいる伊勢田哲治氏の『倫理思考トレーニング』(ちくま新書)に、予防原則に関して次のようにあったので紹介しておきましょう。≪予防原則はいくつかのバージョンがあるが、よく使われるのは、結果が重大である場合には、科学的な証拠が不十分であることを対策をしない理由にしてはならない、というようなバージョンである(同書274頁)≫。あるいは≪科学的討論と政策決定の文脈では、何をするかしないかについてタイムリミットがあることが大きく違う。科学の観点からは何か結論を出すには不十分に見える証拠が、政策決定を求められる場面である政策を取るために十分だとみなされることがありうる。この差を具体化したのが(…)「予防原則」という考え方である(同書344〜5頁)≫。だからこそ、『シン・アナキズム』を取り上げた際に、気候変動懐疑論者の問題は、彼らがエセ科学をゴリ押ししているからというより(気候変動問題に関して言えば、エセ科学か否かは英語で言えばirrelevantだと言える)、むしろまったく逆で、科学至上主義に固執しているから(言い換えれば科学的討論と政策決定の差を考慮していないから)だと述べたわけ。私めが「ヘタレ翻訳者の読書記録」で、二〇〇八年に刊行された、科学書としてはかなり古い『疑似科学入門』(岩波新書)の次の文言を今でも繰り返し引用しているのは、まさにこれが言いたいがためなのですね。≪地球が複雑系であるために原因や結果が明確に予測できないとき不可知論に持ち込むのではなく、人間や環境にとっていずれの論拠がプラスになるかマイナスになるかを予想し、危険が予想される場合にはそれが顕在化しないよう予防的な手を打つべきなのである。それが複雑系の未来予測不定性に対する新しい原則で、「予防措置原則」と呼んでいる。たとえその予想が間違っていたとしても、人類にとってマイナス効果を及ぼさない≫。

 

例によって横道に逸れてしまったので新書本に戻ると、科学におけるパラダイムシフトのまとめとして次のようにあったので、ここに引用しておく。≪こうした科学の新しい発見の一群は、私たちのものの見方や思考法すらも大きく変化させる可能性がある。実際に『「複雑系」が世界の見方を変える』の著者であるニール・シースは、研究を進めるに従い、複雑系理論と仏教などの伝統思想の直感的な洞察とが「正確かつ明確に対応」していることに瞠目したと述べている(…)。シースが強調しているのは、科学的解明における「形而上学的洞察」――物質のレベルを超える世界の本質を摑む可能性――、平たくいえば人間の直感が持つ可能性であり、宇宙の全体から細部までを捉える人間の「認知」の力である。あらゆるものを捉え世界観を創る「認知の根源性」と言ってもよい。私たちが持つすべての知識は、人間の認知の内容以外の何ものでもないが、一人一人の認知(脳内の経験)がどのように、根源的な本質を認知できるのか。逆に言えば根源的な本質の認知は、どのように一人一人の人間の認知に変換できるのか。こうした形而上学的(非物質的)な問題に科学は答える方法を持たない。この問題に、科学と相補的な説明を提供できるのは哲学である(23〜4頁)≫。直感(私めなら「直観」と書くけどね)が持つ可能性は、私めも現在注目しているテーマの一つで、その点を指摘しているところは大いに評価できる。とはいえ二点指摘しておきたい。シースという人が書いた本は読んだことがないのであまり強くは言えないが、複雑系理論と仏教の正確な対応というのはなんとなく怪しく感じられる。複雑系ではなく量子力学を対象に似たようなことが書かれている『死は存在しない』(光文社新書)という本を読んで、怪しさ満点なので最後まで読めなかったという最近の経験があったからなのかもしれないけど。まあそれに、昔熱心に読んでいたトランスパーソナル心理学の怪しげな本を思い起こさせもするし。いずれにせよ、少し割り引いて捉えたほうがいいかも。それから、≪こうした形而上学的(非物質的)な問題に科学は答える方法を持たない≫とあるけど、確かに科学によっては、たとえばクオリアのような認知の対象(つまりwhat)に関する問題に答えることはできないとしても、そのような認知の対象がいかに構築されるのか(つまりhow)には答えることができる。まさにそれに取り組んでいるのが、わが訳書で認知神経科学者ジョセフ・ルドゥーが書いた本『存在の四次元』なのですね。この引用文中で著者が言っているのは「what」ではなく「how」の問題なので、それが科学によって解明できないというのは著者の単なる思い込みにすぎないと思う。ちなみに『フッサール入門』を取り上げた際に、フッサールが定義している概念を科学によって補完できることを示しておいたのでぜひ参照されたい。著者は教育学者だからか科学に関する認識が少々怪しいのではないかと思われる箇所が見受けられる。

 

他にも、前著の『論理的思考とは何か』を取り上げたときにも指摘したミラーニューロンに関する理解があげられる。次のようにある。現代では脳科学の分野で「ミラー・ニューロン」の存在が明らかにされ、自己と他者の行為を対応づけることによって、他者の行為の意味や意図を理解し「共感」が実現されるメカニズムが科学的に解明されるようになってきた(25頁)≫、あるいは共感の強みは、心学のいう「万人の中にある人間性(仏性)」と科学が証明した「人間が種として脳内にもつミラーニューロン」を利他の根拠にするため(…)(103頁)≫。まず指摘しておくと、「ミラー・ニューロン」とあったり、「ミラーニューロン」とあったりするけど、これは私めが誤記したわけではなく、もとからある表記の揺れなのですね。岩波新書の担当編集者さん、サボりましたね。ということで引用文以外では、「ミラーニューロン」で統一することにする。これはミラーニューロンの発見者の一人リゾラッティだったかによる宣伝を鵜呑みにしたとしか思えない。たぶんミラーニューロンを≪他者の行為の意味や意図を理解し「共感」が実現されるメカニズム≫とまで拡大解釈する科学者は今ではいないのではないだろうか(もちろん「ミラーニューロンなど存在しない」と主張する科学者もいないと思う)。とりわけ二番目の引用箇所は思わず頭を抱えたくなるくらいひどい。確かに科学はミラーニューロンの存在は証明したけど、それが利他の根拠となって、あまつさえ(でた! 訳書で使ったら確実に削除されるからここで使ってみたかったのよん)それが共感能力を高めているなどとは著者の頭のなかの妄想にすぎないよね? ミラーニューロンは「他者の行動を見て自分自身もその行動を実行しているかのように脳内で活動する神経細胞」のことにすぎないのだから、どうしてそれが利他などという恐ろしく高次の作用の根拠になるのかぜひ著者に尋ねてみたい。てか最低でも、共感を説明するために利他に言及するのではなく、利他を説明するために共感に言及するほうが、つまり「利他の強みは、(…)科学が証明した「人間が種として脳内にもつミラーニューロン」を共感の根拠にするため」と言ったほうが、科学的ではなかったとしても、まだ論理的、というか自然であったように思える。

 

いずれにせよ、ミラーニューロンの誤解釈や拡大解釈の問題に関しては、ダグラス・ヒコック著The Myth of Mirror Neurons: The Real Neuroscience of Communication and CognitionNorton, 2014)、つまり「ミラーニューロンの神話」などというタイトルの本もあるくらいだしね。実はこの本、某出版社からどうかと訊かれたことがあるが、前半に音韻論だったか、いかにもむずかしそうな言語学に依拠して書かれた部分があったから、「ボ、ボ、ボクには訳せましぇ〜〜ん!」と、すでにわがポケットマネーで買ってこの本を読んでいた私めは即座に答えたのを覚えている。その後、訳している人がいるという話を聞いたことがあるけど(てか、訳している当人から聞いたと思う)、ググると現在でも訳書は刊行されていないみたい。どうしたんだろう。ちなみにポール・ブルームはあとで取り上げるわが訳書『反共感論』で、ミラーニューロンの拡大解釈に関して、このヒコックの著書に参照しつつ次のように述べている。≪著書のタイトル[The Myth of Mirror Neurons]からわかるように、ヒコックはミラーニューロンをめぐって提起されてきた主張に批判的であり、また多くの研究者は、ミラーニューロンが過剰宣伝されてきたという見方に同意している。ミラーニューロンが道徳性、共感、言語などの能力を説明するという見方に対する強力な反論の一つは、ミラーニューロンに関する発見の大部分が、マカクザルの研究によってなされたものであり、そもそもマカクザルには道徳性、共感、言語の能力がほとんど備わっていないというものだ。ミラーニューロンはこれらの能力を支援しているのかもしれないが、それらを説明するに十分なものではあり得ない(同書81頁)≫。

 

と、少し些細な点に拘泥し過ぎた(とはいえポユラーサイエンス書の訳者としては看過できないところでもある)ので、新書本に戻ると著者は、それら「経済」「政治」「社会」の三つの領域において現在どのような変化が起こりつつあるかを論じている(「規範」領域については特に記述はなかった)。「経済領域」における変化については次のようにある。≪経済領域においては、経済活動の目的が変化する。すなわち、資本主義を回すための利益追求の経済から、生態系の維持と人類の生存、そして幸福を目指す経済へと、その目的が変化する。この変化を言い換えれば、計算に基づいて最適な手段を選択する「形式合理性」から、追求すべき価値を第一に考える「価値合理性」への転換である(…)。この転換によって、経済は目的ではなく、生態系の維持と人類の生存・幸福の実現のための一つの「手段」となる逆転現象が起きる。このような転換のもとでは、もはや経済の拡大・成長は必要とされず、持続可能な低成長が通常の状態となる(27頁)≫。人間の本性からして、この転換は言うは易し行なうは難しという印象を受ける。というのも、≪生態系の維持と人類の生存≫、≪持続可能な低成長≫などと言いつつ、それをアリバイにして裏では利権や利益の追求がなされているというのが実態であるように思えるから。その典型的な例がメガソーラーだと言える。あれは一種の気候変動対策、つまり生態系の維持を目的として設置されるようになったはずだが、実際にやっていることは利権にしがみつく悪徳業者たちが自然環境を破壊しているにすぎない場合が多い。この問題は、以前はネットでしか見かけなかったが、ネットに上がっている新聞社や放送局の記事や切り取り動画から判断すると、ようやく今になって少なくとも地方(たとえば北海道や福島)の新聞や放送局では扱われるようになっているよう。やはり地元は、自分たちが身銭を切らなければならない立場にあるからでしょうね。阿蘇山や釧路湿原がメガソーラーで破壊されつつあるところを示す、動画や画像はネットには無数にある。あるいはトランプ政権に弱体化される以前のUSAIDやそれが支援する活動家団体のように、開発途上国支援と称して、イデオロギーの拡散や利権の獲得に精を出している組織もある。要は高尚な掛け声は、それを好機として利権を作り出す名目にもなりうるし、メガソーラーのように実際にそれに類する事例もあるので、その裏を見る必要があるということ。

 

とはいえ次の指摘には完全に同意する。≪自然と生態系の維持、人々の生存と幸福の増進を目的とする経済は、地産地消や地域経済重視のグローカリズムへと移行する。このローカル経済は、近代以前の「地域に閉じられた自給自足」によって成り立つのではなく、グローバルな取引にも開かれているため「開かれた地域主義(グローカリズム)」とも呼ばれている。そしてグローバルに行われる経済取引においても、それぞれの地域の生態系の保護を優先させ、そこで暮らす人々の生活と働き方への配慮が、グローバル企業が果たすべき倫理となる(28頁)≫。グローカリズムという考えは、私めが高らかにぶち上げる縦糸・横糸理論にも整合する(縦糸・横糸理論については前回取り上げた『世界秩序』などを参照されたい[ページ内検索キーワード:縦糸or横糸])。ただし『世界秩序』でも取り上げたように、個人的には主権国家の存在を前提としそれによって多様性を担保する「インターナショナル(国際)」という概念と、主権国家を破壊して世界を均質化しようとする「グローバル」という概念を区別すべきだと考えている。したがってこの引用文中の「グローバル」は「インターナショナル(国際的)」に置き換えたほうがよいと思う。「グローカリゼーション」も本来は「インターローカリゼーション」とでも言い換えたほうがよいが、それではセンスがなさすぎるのでそのまま「グローカリゼーション」としておく。

 

次は政治領域における変化についてさらっと見てみると次のようにある。≪政治領域においては、地域の暮らしを重視する動きが強まる中で、民意が反映されにくくなった代表民主制に代わり、直接民主制参加型民主制が機能する仕組みが模索されている(29〜30頁)≫。これに関しては、そんな動きがあるとは初めて知ったとしかコメントできましぇん。

 

本書ではそれより重要な社会領域(何しろのちにその範例として日本が取り上げられている)に関しては、次のようにある。≪ポスト近代社会では、国家や職業にはとらわれない価値共同体への参加が個々人のアイデンティティ形成をより豊かなものにする可能性を開いた。それぞれの地域が歴史・地理的な個性を背景に文化的な独自性を追求したり、そこに固有の価値観を見出したりすると、地域共同体への一体感もまたアイデンティティの重要な構成要素になる。こうして、複数のアイデンティティから成り立つ自己は、より複雑で流動的なものとなるが、その芯になるものは、出自や競争によって社会で身につけた属性よりも、「どの価値観を選んでそれぞれが生きるのか」が重視されるようになると考えられる。自律的、理性的かつ統合された人格として捉えられていた近代の「自己像」とは異なる自己の形である(31頁)≫。引用文中にある≪価値共同体≫や≪地域共同体≫は、私めのいう「中間粒度」に相当する。この「中間粒度」が多様性を担保するのであって、世界を均質化しようとする「グローバリゼーション」は、まさにそのような構造を破壊しようとする。だからいつも、グローバリストが多様性を連呼するのは自己矛盾だと言っているわけ。

 

次に著者は、西洋ではプロテスタントが果たした勤勉や倹約の精神の涵養を、日本では石田梅岩を祖とする石門心学の倫理が果たしたことを次のように述べている。≪日本における勤勉と倹約は、江戸中期に石田梅岩(一六八五〜一七四四)を祖とする石門心学の倫理によって形作られた。心学においては、働くことが即仏行(修行)とされた。倹約貯蓄は長らく日本人の徳目とされてきたが、石門心学が広まる以前の江戸時代享保の頃までは存在しなかったという(…)。勤勉と倹約が日本に広がった背景には、現代と酷似した当時の社会的な状況と、宗教的ともいえる梅岩の思想があった(37〜8頁)≫。そして梅岩の文章を引用して次のように述べる。≪人々は約束を守り不正をしないという前提で成り立つ近代の契約社会における「信頼」がここには記されている。近代化をなし得なかった多くの国はここで躓くのである。こうした倫理観が明治以前に日本で生まれ、しかも商人であった梅岩の思想が、士農工商すべての身分、そして日本全国に広まって日本人の国民的倫理観を作ったということが世界史的に見ても稀有なことである。そうであるからこそ、非西洋の国である日本が近代化をいち早く成し遂げる文化的要因となったことは見過ごされるべきではない(…)。科学技術と政治や法などの近代制度の模倣のみでは、日本には近代化も資本主義の発展も起こり得なかった(41〜2頁)≫。≪人々は約束を守り不正をしない≫って当たり前田のクラッカーじゃんと思うなら、今の日本のどうしようもない政治家を見てみればよい。不正はし放題で嘘ばかり吐き、石なんちゃらとかいうソシオパスに至っては、「選挙公約を守る必要などない」みたいなことを国会で堂々と言い放っていた。日本は西洋の流儀を盲目的に模倣して、ついにここまで落ちぶれてしまったのですね。その象徴が石なんちゃらというソシオパスだと言える。

 

ということで「第1章 四つの教育原理」に参りましょう。章題の「四つの教育原理」とは何かを説明するために、著者は教育の目的として「技術目的対価値目的」、ならびに教育の手段として「経験知識対体系的知識」という二つの対立項を設ける。ではまず技術目的とは何かから説明しましょう。それについて次のようにある。≪技術目的は、当該社会で必要とされる知識の習得や技術の獲得を教育の目的に置く。社会で必要とされる技術や知識を帰納的に特定し、それらの技術や知識の獲得を可能にする教育内容を編成する。こうして特定された技術や知識の獲得は、この目的に照らして測定可能な行動目標を立てて達成度を測ることができる。このように技術目的の一つの特徴は、数値や数値と同等の機能を持つ明確な基準によって達成の度合いを測定できることである。確実な目的の達成を目指して「目的論的」に教育を設計するため、目的から遡って「逆向き」にインプット(教育内容・教授法)とアウトプット(評価法・成果)を設定する。目的と手段は直接的な因果関係で捉えられるため、目的達成のためのより効率的かつ確実な手段を比較考量して選択ができる。技術目的は、科学主義、行動主義、能力主義、テストによる測定主義、工学的アプローチと親和性が高い(60頁)≫。

 

次は価値目的。≪それ[技術目的]に対して特定の価値や理念の伝達、人格の形成や教養の獲得を目的とする価値目的は、理想であり理念的なものであるため、達成の可否を数値で測ることはできず、そもそも「完全な達成」も不可能である。特定の価値に沿った人格の形成には、教育の過程全体が視野に入れられ、その過程にはさまざまな相互作用や状況、たとえば教師との出会いや歴史的な出来事など偶発性が伴うため、教育のインプットとアウトプットを直接的な因果で結んで計画することは困難である。そのため、理想や理念に向かってひたすら努力する態度と価値観に合致した行為が評価の対象となる。したがって、目的の達成そのものよりも、そこに至る「過程」が重視される。目的に向かう過程における児童生徒の成長(変化)が価値目的の達成の目安となる(61〜2頁)≫。ちなみに最後にある≪児童≫は小学生を、また≪生徒≫は中学高校生を指すものと思われる。「思われる」と書いた理由は、私めがガキンチョの頃はそのような分類だったけど、現在でもそれが生きているのかはよくわからんから。

 

経験的知識と体系的知識については次のようにある。≪経験的知識は、個人の体験のみならず、統計的なデータや観察による科学的法則をも含む経験的に得られた知識を指し、基本的には個人の生きている時間と空間に制限されるものである。それに対して体系的知識は、世代を超えて継承され共有されてきた知識、ある秩序に基づいて個々の知識が一貫性を持って「全体を形成」するものである。たとえば学問領域をもとにした教科別に系統立てられた知識(数学や科学など)はその代表的なものである。¶経験的知識が人間の五感によって得られるもので、実証主義と深い関連を示すのに対して、体系的知識は、文献を通して伝えられ、文献の暗記や厳密な引用を通して知識が伝授・活用される文献主義と親和性が高い。経験的知識が個別具体的であるのに対して、体系的知識は抽象的であり秩序だった全体性を想定する。さらに、体系的知識は時間的な淘汰を受ける中で権威を帯びて規範的になり、外界からの影響(たとえば学校の外で起きる社会現象など)を受けづらいのに対して、経験的知識は外の影響や変化を取り込みやすい(64〜5頁)

 

ということで、著者は「技術目的対価値目的」という教育目的の分類と「経験的知識対体系的知識」という教育手段の分類から、「技術目的+体系的知識」「技術目的+経験的知識」「価値目的+体系的知識」「価値目的+経験的知識」という四つの組み合わせを抽出する。そしてそのそれぞれにおける教育の特徴を次のように要約する(なお典型例を日本としている「価値目的+経験的知識」の社会原理は「第2章 共感の論理」に関係することもあり全文引用しておく)。ちなみにこれら四つの分類は、『論理的思考とは何か』の四タイプの論理的思考方法に正確に対応しているので、そちらも(本自体でもわがレビューでも)参照されたい。

 

1)「技術目的+体系的知識」=法技術原理(摂理と規範の伝授――求道者・遵法者の育成)(典型例:イラン)

中心的価値=真理。徳=規範への服従。知識=権威ある原典と教科書の知識。能力=暗記した知識を即座に取り出せる瞬発力。身体=スポーツ工学の理論に基づいた実践(72頁)≫

 

2)「技術目的+経験的知識」=経済原理(効率性の追求――労働者・生産者の育成)(典型例=アメリカ)

中心的価値=効率性。徳=節制。知識=科学的データ、統計の数字、過去の事例。能力=分析力と決断力。効率的な課題の達成。身体=体力と運動能力の向上(70頁)≫

 

3)「価値目的+体系的知識」=政治原理(公共の利益の追求――市民の育成)(典型例=フランス)

中心的価値=公共の利益。徳=個人的な利益よりも公共の利益を優先する。知識=政治的判断を行う議論の土台となる人文学の共通教養(哲学・文学・歴史)。能力=多様な視点をまとめあげる「構想力」と矛盾を解決する「総合力」。身体=私的領域のための公教育は基本的に関わらない(教育における公私の峻別)(71頁)≫

 

4)「価値目的+経験的司式」=社会原理(共感による連帯――共同体の構成員の育成)(典型例=日本)

≪教育の目的は、他者および自己とのコミュニケーションを通じて社会秩序を成り立たせる道徳心を「自己形成」の一環として養うことである。イデオロギーや理論にとらわれず、「状況に埋め込まれた活動」を学習方法として、対人的な相互作用と内省により体験を意味づける。社会原理では、児童生徒と教師の相互作用の「場」から、「即興的に」その場その場で目的と内容を修正し作り上げること、すなわち教育のいきいきとした「過程」が重視される。教育という相互作用により児童生徒が社会・道徳的な存在へと「変化」することに価値を置く。政治原理の教育が価値の達成のために理性を手段とするのに対して、社会原理は共感と内省を手段とする。デューイ(2004)のプラグマティズムに基づく子ども中心主義や、「日本のプラグマティズム」と評価される{綴方/つづりかた}の教育方法と理念(…)および、教育工学的アプローチと対極にあるとされる羅生門的アプローチ(文部省 1975)がこの原理を体現する。¶中心的価値=心技体すべてに関わる人格の形成と道徳の内面化。徳=利他的な行い。知識=経験的な知識。能力=場の読み取りと間主観の確立。身体=協働に反応できる身体の育成(72〜3頁)≫

 

ちなみに社会原理の詳細説明にある「羅生門的アプローチ」とは、ググると「複数の視点や解釈が存在する状況において、一つの「事実」を確定させるのではなく、それぞれの視点や状況に応じた多様な認識や解釈を受け入れる柔軟で即興的なアプローチ」とあった。なお個人的な見立てでは、この新書本のポイントは最後にあげた「社会原理」にあるので、そこに書かれていることを念頭に置きながら次の「第2章 共感の論理」に参りましょう。

 

第2章ではまず、作文教育の三つの教育的機能に関して次のようにある。≪第一に、作文を書くことを通して私たちの認知と思考の型が形づくられていく。私たちは日々の経験の中で、あらゆる情報をすべて受け取っているわけではなく、無意識のうちに重要な情報とそうでない情報を取捨選択しながら生活している。作文の型を学ぶことは、そうした情報をいかに「編集」し、「構成」するか、その型を身につけることでもある。学校で習う作文の型に沿って、私たちは情報を選び、それらをつなげて結論へと導く。その過程で「論理」の道筋を習得しているのである。このような論理の型は、私たちが世界をどのように見て、どのような視点から理解するのかといった世界観の形成にも深く関わっている(76〜7頁)≫。冒頭にある。≪作文を書くことを通して私たちの認知と思考の型が形づくられていく≫というくだりは、まさに最近の認知科学バージョンのナラティブ論に沿った見方だと言えるでしょう。それに関しては、ここでは理由があってこれ以上は述べない。いずれ適当な機会があったときに詳しく説明しましょう。

 

作文教育の第二の教育的機能については次のようにある。≪第二に、作文教育を通して、私たちはその社会における規範や価値観を学んでいる。作文における考え方の道筋や表現の仕方を習得することで、その社会で受け入れられやすい結論の形や、結論を導くために重要とされる情報の選び方、さらには他者の視点をどの程度取り入れるべきかを、子どもたちは身につけていく。また適切な感情表現は対立を避ける手段となるが、国や文化によっては、強く自己主張することが自立を示すものとされる。こうした作文の学びは、集団の中で尊敬され、受け入れられる人物像を教えることにもつながっている(78頁)≫。ここまで第一、第二の作文の教育的機能を見てきたわけだけど、著者は作文の内容ではなく、作文の形態形成的な力に着目しているということがそこから読み取れる。それを明瞭に示しているのが冒頭の≪作文を書くことを通して私たちの認知と思考の型が形づくられていく≫というくだりだとも言えよう。その意味において、これはマーシャル・マクルーハンのメディア論にも近い見立てと言えるかもしれない。マクルーハンの「メディアはメッセージである」という言葉をもじって言えば、「作文はメッセージである」とも言える(なんか誤解されそうでもあるけどね)。

 

作文の三つ目の教育的機能は次のようなもの。≪第三に、こうした作文法を通して形成される思考の型と適切な表現法は、能力評価にも大きな影響を及ぼしている(79頁)≫。著者は以上三つの作文教育の教育的機能を、枠で囲んで次のようにまとめている。≪作文教育は、1 個人の認知の型を形成する(情報の編集と構成法の規範を示す)2 社会規範を教える(適切な感情と自己表現の方法)¶3 能力発揮の方法となる(知識を能力に変換する装置となる)(80頁)≫。

 

さて次に著者は、第1章で導き出した四つの原理に対応する作文の型を取り上げる。具体的に言うと、経済原理ではアメリカの「5パラグラフエッセイ」、政治原理ではフランスの「ディセルタシオン」、法技術原理ではイランの「エンシャー」、そして社会原理では日本の「感想文」になる。これは前著『論理的思考とは何か』にもあった分類で、それを取り上げたときと同様、ここでは日本の感想文に関する記述のみを引用しておく。それについて次のようにある。≪社会原理を体現する日本の感想文は、序論で書く対象の背景と書き手が対象に対して持っていた感想(理解・知識・考え・感情)を書き、本論で対象を通した書き手の体験を述べ、結論で体験後の感想を述べる。体験の前後での書き手の気持ちや考えの「変化」を感想という形で述べさせるのは、体験を通した自己の成長の軌跡を描かせ、その体験を今後どう自己の行為や生き方に生かすのかを考えさせる目的があるからである。読書感想文はその典型である。感想そのものの質は「当事者性と切実性」を持って書けるかどうかによって決まる。つまり、自分の生活や生き方とどう関わるのかという視点を持つことが重要である。感想文で期待されているのは個人の体験・生き方を社会の構成員である他者と共有しうる「共通感覚」として表現すること、つまり「間主観」――個々の主観が他者との相互の修正を経て、複数の主観の間の一致をみること――の表現として提示することにある(83〜4頁)≫。まあ私めの「ヘタレ翻訳者の読書記録」も、もしかしてこうした日本の作文教育の影響を受けているのかなと思ってもた。なんか「それはあなたの感想ですよね!」とか言われそうなことも書いているしね(関係ないか)。

 

次に著者は日本の教育における独自の利他主義について次のように述べている。≪結論を先取りすれば、日本{以外/傍点}の利他主義は、「利己主義」を土台にした利他主義であり、近代の価値観から脱却できていない。脱近代を実現できるのは日本の利他主義とそれを育む教育である。新しいパラダイムにおいては、日本の教育が育んできた利他のあり方こそ、改めて評価されるべきである(95頁)。ここで≪脱近代≫と呼ばれているのは、≪コロナ禍は人類の生存に必要不可欠なものとそうでないものをはっきりと示し、近代化によって作られてきた私たちの「当たり前の暮らし」とものの考え方の根本的な見直しを迫った(94頁)≫という著者の見立てに基づいている。

 

では、日本を典型例とする社会原理に基づく≪利他主義≫とはいかなるものなのか? それに関して次のようにある。≪それは共感に基づく利他主義である。誰かが苦しんだり悲しんだりしているのを見た時、その人の状況に身を置き、自分ごととして苦しみや悲しみを感じて手を差し伸べる。(…)この利他のあり方は、(…)日常における他者との経験の積み重ねを通して、その時々の状況を捉えながら、私欲をとりはらって相手が何を望んでいるのかを瞬時に感じ取る共感による利他である。相手の苦しみを見て、居ても立っても居られず思わず行う利他である(99〜100頁)≫。ここでようやく本書のタイトルに含まれている「共感」という言葉が登場する。ただ私めは、この文を読んで非常に気になったことがある。というのも、著者は認知的共感と情動的共感を混同しているのではないかと思われるから。前述のわが訳書『反共感論』で、心理学者のポール・ブルームは共感を認知的共感と情動的共感に分けている(誰だったか忘れたけど、それに三種類目の共感を加える学者もいた)。ブルームによれば、情動的共感は「他者が感じていることを自分でも感じること」をいう。それに対して認知的共感は、「他者の立場に身を置いて、他者の視点でものごとを考えること」をいい、一般には「心の理論」とも呼ばれている能力を指す。してみると上記引用文で言えば、≪その人の状況に身を置き≫の部分は認知的共感を、≪自分ごととして苦しみや悲しみを感じて≫の部分と≪瞬時に感じ取る≫の部分は情動的共感を意味する。ところでブルーム氏はとりわけ情動的共感を公共政策に持ち込むことの危険性を強調している。というのも、情動的共感にはスポットライト効果があって、個人や非常に狭い範囲の集団に焦点が絞られるため、広い範囲の多様な集団が対象になる公共政策においては、バックファイアーする可能性がきわめて高いからですね。もちろん新書本の著者は特に公共政策について論じているわけではないので、情動的共感と認知的共感を同じ共感として一緒くたにしても直接的な問題はないと言えるのかもだけど、ただ教育の現場では将来政治家を目指す学生もいるだろうから、実際にブルームの見方を鵜呑みにしなかったにせよ、このあたりの議論は整理しておいたほうがいいのではないかと思った。

 

さらに著者は、「利己主義」を土台にした利他主義の限界について、「囚人のジレンマ」などのゲーム理論に言及しつつ論じる。ゲーム理論はよく知られているので細かい点はスキップして、次の結論だけを引用しておきましょう。≪自己利益のみを追求すると、かえって大きな利益を得ることはできず、他の選択肢を選べないすくみ状態になるのに対して、関係する人間の利益を考えた結果は、全体にとっても個人にとっても良い結果になる。囚人のジレンマから引き出せる知見は、利他主義が前提となると全体の利益の最大化が自然に達成できるということである。¶ゲーム理論から私たちが学べるのは、利他的に振る舞うことが全体と個人の両方の利益を最大化すること、そして「パレート最適」の例が示すように、誰かに犠牲を強いることなく個人も全体も最も利益を最大化できることである(106頁)≫。まあでも、これを読んでいて、日本型の利他主義の利点を強調するにあたって、「パレート最適」などといった言葉が連想させるように基本的に経済原理に属すると思われる概念を持ち出すのはいかがなものかなと思ってしまった。そもそも「囚人のジレンマ」を始めとするゲーム理論は、状況を極限まで単純化しているわけであって、それをきわめて複雑な現実的社会に適用することには無理があるような気もする。だからこのゲーム理論の話から演繹できるのは、せいぜい「「利己主義」を土台にした利他主義の限界」までであって、複雑な現実社会においても≪利他主義が前提となると、全体の利益の最大化が自然に達成できる≫という結論を「囚人のジレンマ」から引き出すことは、一度読んだ限りにおいては勇み足であるように思えた。これもミラーニューロンと同じで、著者は自分の考えを裏づけるために、科学(この場合は経済学?だけど)の知識を無理やり援用しているのではないかという印象を受けざるを得ない。

 

それよりも科学や経済学の理論に特に依存しない次のような記述のほうが、よほど説得力があるように思える。≪日本の国語教育では、他者に共感することとともに、相手を理解することで「自己が変わること」が重視されている。利他の行為もまた、受けた相手のみならず利他を行った自己も変わるものであると日本では考えられている。相手があるということは、想定外の可能性を受け入れ、自分のやり方に固執せず、相手と自分の変化をも受け入れる余白を残すことが重要であるという。良き利他とは、他者の可能性を引き出し、自分も変化していくものだと多様な利他の形を考察した伊藤[手の倫理』の伊藤亜沙]は述べている(…)。(…)日本の利他は、個々の利他の行為がめぐりめぐって社会に吸収されていくことが理想的な状態だと考える。日常で積み上げられた利他の行為が信頼を醸成し、それが社会秩序の基盤となる。さらにいえば、たとえ相手がいなくとも、個々人が自分の持ち場で「正直に、やるべきことをしっかり守って仕事をする」ことが、安全・安心な社会を作り、これが究極的な利他につながる。正直に行われた仕事は、物の安全性を高めたり、行き届いたサービスとなったりして、社会を構成する多くの人々の日常を支えるからである。心学でいうところの「正直」の実践である。評価や報酬にかかわらず誰も見ていないところでも、正直に行えることが、教育による子どもの社会化の成功である。それが倫理にまで高められた日本の価値観でもある。¶日本で目的論が嫌われるのは、目的を持って手段を選べば、人間も自然も操作可能だと考えられてしまうからである。そうなると、個人の目的のためには、人間も自然も操作してもよいということになる。しかし、利他に価値を置けば、利他の行為を行うこと自体が喜びになる。(…)ここにあるのは近代の目的合理性ではなく、価値合理性である(109〜11頁)≫。中国がいかに軍拡をしおじぇじぇ持ちになろうが日本に到底かなわないのは、まさに日本が持つ以上のような文化的、人的資産のゆえなのですね。移民を無闇に受け入れてはならない理由の一つは、日本の最大の特徴である文化的資産がそれによって破壊されれば、自分たちの最大の特徴を失うことになるからだと言える。結局、移民を大量に受け入れようとしている今の日本のまずさは、著者の言う意味での経済原理のみに着目して、社会原理の重要性をまったく無視している点にある。それではほんとうに日本は滅亡するよ! それに気づいていない政治家がうようよいる今の日本は、マジでやばい!

 

ということで次は「第3章 教育のグランドデザイン」だけど、この章ではここまでの議論に基づいて実際の教育の「グランドデザイン」が検討されている。著者は教育学者なのでこの章は必須なのであろうことは容易に想像できるが、個人的にはあまり教育の具体的な側面に関心があるわけではないのでスキップさせてもらうことにする。ただ次の指摘は、今後の個人的な探究のテーマとしておもろそうに思えたので引用しておく。≪江戸時代の思想は、明治以降の近代化の過程で、克服すべき旧体制の思想として切り捨てられるか、「前近代」という枠組みに押し込まれて解釈されてきた。しかし、現代の日本の慣行や倫理観、ものの見方や考え方、さらには自然観を理解するには、江戸時代の思想が重要な手がかりとなる。そもそも日本が近代化を遂げることができたのは、江戸時代における社会的、精神的、文化的な成熟があったからである(Bellah 1985(1957))(153頁)≫。最後にあるように、これはアメリカ人のロバート・ベラーの見解のようで、アメリカ人のほうが日本をよく見ているというのは、現代の日本人の多くがいかに欧米にかぶれて出羽の守化しているかを如実に物語っているように思えてしまう。

 

次は「終章 日本から始まる新しい秩序」。まず日本の教育における多元的性格について次のように述べられている。≪日本の教育は、利他主義を育むと同時に、利己主義を学ぶ機会も提供している。受験制度は競争というモードを教育の現場に持ち込み、それが契機となって利己的な思考や行動が学ばれるため、利他主義と利己主義という二つのモードを持つことになる。一人の人間が利他と利己という異なるモードを持つことは、決して否定されるべきことではなく、むしろ重要だ。利他主義者と利己主義者が取引すると、利己主義者が一人勝ちすることは、ゲーム理論でも明らかになっている(第二章参照)。自分とは異なる価値観や行動原理を持つ他者、とりわけ国外の利己主義者と交渉したり取引したりするような場面においては、利己的な論理を理解し、それに対応できる視点を備えておくことが求められる。また、競争に勝つために戦略を練り、工夫を重ね、目的に向かって粘り強く努力しなければならない局面も人生には存在する。しかし、あくまでも利他主義が主で利己主義が従である(169〜70頁)≫。日本が利他主義と利己主義という二つのモードを持っているのは、前述の『日本群島文明史』の用語を使えば、日本には「群島文明」という側面がありながらも「大陸文明」を柔軟に受け入れてきた歴史があるからなのだろうと思う。この点はいくら強調しても強調しすぎることにはならない。

 

それから次の指摘は非常に重要。≪近代では計算に基づき即断即決することが競争に勝つ有効な手段だったが、これからは状況の展開をじっくり観察しながら、危険を避ける小さな判断を積み重ねていくことが合理的な行動になると考えられる。目的論的ではない、文脈依存の判断の方法である。決断に時間を要することは、これまで日本の短所とされた。しかしグローバルに相互依存する世界では、一つの判断の誤りが多くの国や人々に影響を及ぼす(170〜1頁)≫。≪グローバル≫という言葉は、私めなら、すでに述べた理由によって「インターナショナル」に置き換える。それはまあいいとして、≪目的論的ではない、文脈依存の判断≫という文言に着目されたい。21世紀のような、世界が複雑化した時代にあっては、理念を一方的に現実に押し付けるととんでもないことが起こる可能性が高い(というか、そのような事態はすでに20世紀から起こっていたことではあるけどね)。だから≪目的論的ではない、文脈依存の判断≫が、これまで以上に必要とされるようになってきている。続けて次のようにある。≪経済原理の「即断即決」の代わりに「熟慮」が求められるが、政治原理の熟慮は否応なく過去の理念に縛られる。(…)しかし多様な文化的背景を持つ人々の相互作用によって成り立つポスト近代の世界では、理念の共有は困難である。特定の地域の歴史的経緯によって作られた理念ではなく、刻々と変化する場や状況を読み取る判断が有効になる。ここで社会原理の思考法が力を発揮する(171頁)≫。この見立てには完全に同意する。

 

そして日本と日本人に関して次のように結論している。≪私たち日本人は、自らの価値観に基づいて、これまでと同様に安全・安心な社会の構築に努めることで、次なるパラダイムのモデルとなり得る。それは世界の希望となる。経済も政治も、社会秩序があって初めて円滑に機能する。文化の継承や衣食住の充足による幸福もまた、秩序に支えられてこそ実現される。¶日本は、開発援助に多額の資金を投じるよりも、安心・安全な社会の維持という実践を通じて、地球と世界に対して大きな貢献ができると考えられる。日本の開発援助を否定するものではない。日本が誠実に積み重ねてきた地道な援助は、多くの国で感謝と共感を得ている。日本の建設した橋は壊れず、鉄道は安全であり、手間のかかる農業指導も多くの地域を救ってきた。宗教対立により出動が難しい中東地域においても、NPOを含めた援助活動は、日本への信頼を築いている。ここで強調したいのは、地球規模の複雑で困難な問題が山積みする中、日本が「安心・安全な社会」を維持していること自体が、希少かつ意義深いという点である(172〜3頁)≫。要するに開発途上国の支援は、石なんちゃらみたいにおじぇじぇをバラまけばいいというものでもなく、ましてや日本の国土の一部を「ホームタウン」として自ら献上するという、世界でもかつて例を見ない愚行を行なえばいいというものでもない(JICAにその意図はなかったとしても、そう取られてもまったくおかしくはない)。結局、地元の人々の立場に立った、すなわち途上国の人々を対象に、情動的共感ではなく認知的共感を働かせることが第一に必要なのですね。

 

ということで『共感の論理』は、『論理的思考とは何か』に続く著者の好著だと言える(重なる部分もかなりある)。ただしミラーニューロンの拡大解釈については、科学的裏づけが欲しかったということではあろうが、すでに述べたように科学では非常に論争の多いテーマであり、下手をするとかえって印象を悪くする可能性大なのでなかったほうがよかったと思う(少なくともポピュラーサイエンス書の訳者である私めは頭を抱えてもた)。科学的裏づけがなかったとしても、十分に通用する内容なんだからね。

 

 

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※2025年10月13日