◎鈴木崇志著『フッサール入門』(ちくま新書)
実はこの本は、この新書本の編集を担当している若手編集者のホープ(と書いておけばあとでなにかいいことがあるかも)、加藤氏からちょうだいした。実は加藤氏は、刊行日は未定だけどわが訳書アンディ・クラーク本の担当編集者でもある(翻訳は終わっていてすでに提出している)。実を言えばフッサールの著書は、どれだったか忘れたけどかつて読もうとして途中で放り出したことがある(昔からヘタレだったから仕方がない)。なのでフッサール自身についてはあまりよく知らないのでちょうどよかった。新書や選書レベルでは、ハイデッガーやメルポン、あるいは現象学全般の入門書はそれなりに出ていても、フッサールの入門書はあまりなかったように思う(竹田氏が出していたかも)。昨年、そのフッサールの入門書が、ちくま新書から出ることを加藤氏から聞いていて、しかもちょうだいできるということだったので書店で見かけても買わないでいた。そこへ送られてきたのでとってもとってもウレピかったのですね。どうでもいいことだけど、実はこの本、所沢の三菱UFJ銀行のATMで記帳したときに(未来都市入間の三菱UFJがなくなってしまったので、記帳はわざわざ所沢まで行かねばならなくなったのよね)、機械の上に置き忘れて一時間くらいアマテラス、もといエミテラス所沢をぶらついているうちに置き忘れに気づいた。「やべ!」と思ってUFJに取りに戻ったら、忘れ物として届けられていた。どうやらさすがに「フッサール入門」というタイトルを見て「ラッキー! 持ち帰るべ!」と思った人は誰もいなかったらしくほっとした。
ところで同じ筑摩書房から『ほんとうのフロイト』という選書本が最近刊行されていて、そのオビに「現象学から迫るフロイト思想の核心!」と書かれており、オビの文言は編集者が書いていることを知っているにもかかわらず、それにつられて嬉々として買ってもた。ところが最後まで読んでも、わざわざ「現象学」と銘打つほどの内容でもなく、一回読んだだけでは単なるフロイトの学説のわかりやすい解説にすぎないように思え、肩透かしを食らったように感じたことがある。まあ、日本の学者で言えば木村敏、ドイツの学者で言えばメダルト・ボス、ルードヴィヒ・ビンスワンガー、ヴォルフガング・ブランケンブルク、ウジェーヌ・ミンコフスキーらのような現象学的精神医学者の著書に似た記述を期待していた私めが間違っていたわけではあるのだが。ただその序章にある次のような記述が非常に気になった。「一般的に、意味は個別的で主観的な問題であり、客観性を重視する科学者からは普遍性がないと見なされ、研究の対象外だと考えられやすい。科学は様々な現象について、それが「どうなっているのか」という事実関係を解明することができるが、それは「どんな意味があるのか」については関わらない。そのような意味や価値は人によって受け取り方が違うため、主観的なものでしかない、と考えられてしまうのだ。¶しかし、人間を研究対象とするならば、意味や価値の問題を無視することはできない。たとえば、誰かがある行動を取った場合、実験や観察などの実証科学的な方法では、その行動の環境要因や生理学的なメカニズムを解明することはできても、その行動の意味を明らかにすることはできないだろう。無論、そうした事実を解明した実証科学の研究者が、独自に解釈を与えてその意味を述べる場合もあるのだが、その多くは私見に留まるものでしかない(同書15〜6頁)」。この引用文中に書かれていることは基本的に間違いではない。でも、これだと科学には意味や価値はまったく無縁であると取られる怖れがあるように思われる。科学は「「どんな意味があるのか」については関わらない」のはその通りだとしても、脳のいかなるプロセスを通じて意味や価値が構築されるか、あるいは意味や価値が脳内でいかに処理されているのかということには大いに関わる。つまり意味や価値の内容には関与しなかったとしても、意味や価値に関連する(脳の)メカニズムに関しては探究の対象になるのですね。要するに意味や価値を対象にした場合でも、「what」は扱わないにしても「how」は扱う。つまり科学は意味や価値を扱う学問と補完的な関係にあるのに、上記引用のような言い方をされると、科学に詳しくない人は、科学には意味や価値がまったく無関係であるように思ってしまうかもしれない。
わが最新訳書ジョセフ・ルドゥー著『存在の四次元』には、意味や価値に関連する記述がかなり含まれている。一つランダムに例をあげれば次のような記述が見られる。「ノエティックな意識の状態は、世界に関する意味的な事実や概念に基づく心的内容を保ち、スキーマが関与する場合が多い。スキーマとは、すでに見たように日常生活で遭遇する物体や状況に意味を付与するひな型をいう(同書268頁)」。なお、ここではルドゥー本の内容を解説することが目的ではないので、それこそ書かれている内容の意味がわからなくても一向に差し支えない。ただし一点指摘しておくと、ここで言及されている「ノエティックな意識の状態」とは、現象学で言うところの「ノエシス」に近いと見てよいだろうと思う。それについてはあとで新書本の記述と関連づけながら取り上げるつもりだが、とりあえずここで言いたいのは科学自体にも、現象学的な概念が応用されている部分があるという点。アングロサクソン系の科学者には主観を持ち込む結果になる現象学の概念を嫌う傾向があるのは確かとしても、わが訳書では『脳はいかに意識をつくるのか』のゲオルク・ノルトフ氏など、現象学から脳という科学的事象に迫るというアプローチを取っている科学者もいる。もちろん選書本の著者もその程度のことは百も承知で言っているのだと思う。でも上記のような書き方をしてしまうと(またこの選書本を通じて、科学的な実証主義と主観的な意味や価値の問題が相反すると受け取れるような記述が随所に見られた)、一般読者には、科学が意味や価値などの主観的な事象にはまったく無縁だと思えてしまうのではないだろうか。その点がとってもとっても気になったのですね。この選書本の批判がここでの目的ではないので、この本に関してはこれ以上触れないが、『フッサール入門』を読むにあたって特に留意したのが、まさにこのフッサールの概念と科学の親和性、あるいは補完性についてであったということをまず指摘しておきたかったので、冒頭でこの選書本にちょっとだけ言及したというわけ。
ということで、ここからいよいよ『フッサール入門』に入るわけだけど、前述のとおりフッサールの概念(志向性、直観、ノエマとノエシス、内在的知覚、把持と予持、間主観性など)と科学の親和性、補完性におもに注目しながら見ていくつもりなので、フッサールの提起する重要な概念をすっ飛ばす可能性も十分にある。したがって科学との関係ではなくフッサールや現象学それ自体に興味がある人は、ぜひこの新書本を買いましょうね。と、加藤氏に代わってアカラサマ、もといステマをしておきますら。その際、主としてわが訳書、とりわけ前述の『存在の四次元』と、アンディ・クラークの最新刊The Experience Machine: How Our Minds Predict and Shape Realityに言及するつもり。
まず、「はじめに」にある現象学とは何を探究する学なのかに関する次の記述を取り上げましょう。「現象学は、経験に沿って進められる。そしてここで念頭に置かれている経験とは、何かが私に対して現れ、私がそれと出会う場面のことである。現象学は、普段の私の生活のなかで何が起きているのかを描き出し、そこにおいて私が人びとやものごととどのように出会っているのかを明らかにしようとするのだ(11〜2頁)」。ひとことで言えば、私たちが日常生活を送るうえで、世界がどのように自分自身に対して開示されるのかを問うことがその目的だと言えるでしょう。実は、これは最近の脳科学や認知科学が解明しようとして問題でもある。アンディ・クラークの最新刊のメインタイトルが「The Experience Machine」、つまり「経験する機械」である点を考えてみればよい。この「経験する機械」とは脳のことなのですね。また副題を訳すと「私たちの心は、いかに{現実/リアリティー}を予測し形作るのか?」となり、心がいかにして世界を構築するのかがそこでは論じられている。ちなみにクラークは、経験は脳の予測処理によって構築されると考えている。次のようにある。「経験は感覚情報の入力から始まると一般に考えられがちだが、誕生しつつある予測する脳の科学は、それとは異なる見方を提起する。それによれば、感覚シグナルはすでに生じている情報に基づく推測(予測の試み)を洗練し修正するために用いられる。つまり、もっとも重要な仕事の多くは、予測処理が請け負うのだ。この新たな構図に基づけば、世界や自己や自分の身体に関する経験は、単なる外的な事実や内的な事実の反映などではなく、人間のあらゆる経験は情報に基づく予測と感覚刺激が合流する場所で生じると考えられる(同書xiv頁)」。ちなみに「脳の予測」という最近の脳科学の概念は、フッサールの「予持」という概念に関係しそうに思えるが、それについてはあとで取り上げる。以上『フッサール入門』とクラークのThe Experience Machineの文章を概観するだけでも、現象学と科学は補完し合うことがある程度わかってくる。この点に関しては、各章を取り上げながら折に触れて取り上げていくつもりなので、ここではそこまでに留めておく。
新書本に戻ると、「はじめに」の最後にある次の記述を取り上げておきましょう。「私[人間]は自分の外にある世界や自分の内にある体験などを知覚によって把握したり、それらが帯びた価値を感じ取ったりする。また私は、ひとりきりで生きているわけではなく、他者とさまざまな仕方で出会う。フッサールの現象学が記述しようとしているのは、決して浮世離れした抽象的な事柄ではなく、このような私たちの具体的な日常のありさまである。¶ただしこのことは、現象学の記述がごく当たり前の事実の再確認にすぎないというわけではない。私たちの日常の経験は、普段はあまりにも自明なこととされているために、ことさらに注意を引かない。現象学の記述は、そのように隠れていることを露わにするために行われる。するとそのとき、私たちが世界のなかの事物や価値や他者と出会うときに起こっていることについて、新たな発見が得られるかもしれない(16頁)」。もちろん自明なことがいかに自明なこととして成立しているのかを問うのは、現象学に限られた話ではなく、それ以外の哲学にせよ、社会学にせよ、心理学にせよ、同じ側面を持っている。あるいは脳科学や認知科学などの科学にすら、そういう側面がある。そのような自明性の存在は、自明性を構築し維持している脳のメカニズムが器質的に、あるいは心のメカニズムが機能的に破壊された場合に、言い換えると特定の精神疾患を発症した際に、逆の方向から浮彫りにされる。他の本を取り上げたときに何度も推薦してきたように、それに関してはみすず書房から刊行されているヴォルフガング・ブランケンブルク著『自明性の喪失』をぜひ読まれたい(これでみすずちゃんからも何かいいことがあるかも)。
ということで新書本の本編に入る。「第一章 他者と向き合うための孤独」については、『イデーンT』におけるフッサールの言葉に言及しつつ現象学の実践に関して述べた次の記述を引用するに留める。「この文章に登場する「永遠の相のもとで」という語句は、一七世紀のオランダの哲学者スピノザ(一六三二〜一六七七)が『エチカ』という著作のなかで用いたものであり、時間的にも空間的にも限定されていないところから真理を捉えることを表している。しかしフッサールによれば、そのような神の観点をとることは、現象学者には許されない。むしろ現象学者は、「自分たちの観点から」、つまり各人にとっての「今」と「ここ」に限定された観点から、実際に見たものを記述すべきだとされる。¶そのように限定された観点から一歩ずつ手探りで進んでいくときには、自分の歩みが最短距離でゴールに向かっているという保証はない。むしろ自分が足を踏み入れているのはとんでもない回り道かもしれないし、どこにも行き着かない袋小路かもしれない。こうして前人未踏の地に果敢に突き進んでいく(はまり込んでいく?)現象学者の姿は、探検家になぞらえられる(27〜8頁)」。「現象学者」とあるけど、特に専門家でなくても現象学的な見方を身に付けた人にも同じことが当てはまるはず。いずれにせよ重要なのは「「自分たちの観点から」、つまり各人にとっての「今」と「ここ」に限定された観点から、実際に見たものを記述すべき」ということで、いかに人間が世界を開示しているのかを、個人の主観的な観点から追っていくというのが現象学の実践方法になるということ。実証に拘るアングロサクソンの学者の多くが、現象学を忌避する理由もここにある。でも先にクラークの引用にも見たように、科学は確かに主観的に捉えられた経験の内容は問わないとしても(たとえばクオリアは哲学の問題であって科学の問題ではない)、最近の脳科学や認知科学はそのような経験が脳によっていかに構築されるかについて探究している。だから科学と現象学は補完的な関係にあると見ることができる。「限定された観点から一歩ずつ手探りで進んでいく」探検家としての現象学者というイメージは、のちの章の次のような表現にも見て取れる。「フッサールによれば、現象学は、定義を下すまでの探究の過程で「言葉を繋ぎ合わせてゆく」語り方をせざるをえないのだとされる。既存の言葉は、記述されるべき事柄にぴったり合うようにオーダーメイドで作られているわけではない。だからこそ、既存の言葉のなかから、だいたい当てはまりそうなものをなるべく多く選び、それらを並べて置いてみなければならない。画家が色を塗り重ねていくなかで徐々にモチーフを描き出すように、現象学者は、あれこれと言葉を連ねていくことによって、記述されるべき事柄を徐々に浮かび上がらせるのである(177〜8頁)」。
次に「第二章 経験の仕組み」の経験に関する次の指摘を取り上げましょう。「私は世界のなかで生きており、そこに現実に存在するものごとが何であるかは経験によって知られる。したがって経験の記述においては、そこで何が経験されているか(何が現実に存在するものとして受け取られているか)という点がまずもって考慮されねばならない(46頁)」。これはおそらく経験の内容を指しており、それに関しては、確かに現象学の対象ではあっても、前述のとおり科学の対象にはなり得ない。しかし、それに続いて次のようにある。「しかしそれだけに目を向けるならば、肝心の経験の記述は不十分なものになってしまう。というのも経験の全貌を解明するためには、何が経験されているかだけではなく、それがどのように経験されているかも重要であるはずだからだ。¶つまり、経験において私が何に出会っているかだけでなく、そのような出会いを成り立たせる経験の仕組みとは何であるのかが問われねばならないのである(46頁)」。現象学が経験に関して「what」のみならず「how」も扱うのに対し、科学は「what」は扱わないとしても「how」は扱う。なお、引用文中の「経験」を「意識」と置き換えれば、意識がいかに構築されるのかは、脳科学の重要なテーマの一つであり、ジョセフ・ルドゥー著『存在の四次元』の主題のひとつもそこにある。このような点において科学は現象学を補完できるし、現象学は科学を補完できると言える。著者も、このような科学と現象学の連携の可能性を念頭に置いているであろうことは、たとえば次のような記述にも見て取れる。「現れを説明するために感覚与件と意味付与作用という道具立てを用いることが適切かどうかは議論の余地がある。そしてこの問題は、現象学者が勝手に頭のなかで考えるだけでなく、心理学などの成果を活用しながら考えるべき問題だろう(91頁)」。ここでは「現れ」「感覚与件」「意味付与作用」などといった専門用語は無視しても構わないが、現象学的な概念の妥当性は、心理学などの科学を用いて補完される必要があると著者が主張している点に着目されたい。当然のことながら、「心理学など」には、脳科学や認知科学も含まれるはず。
次に現象学でよく聞く用語「志向性」について解説されているので、その部分を引用しておきましょう。次のようにある。「志向性というのは、私が何かを経験したり空想したりするときに、その何かと私のあいだに成り立っている関係性のことである。私の経験や空想は必ず何らかの対象(例えばリンゴの木やぼた餅)についての経験や空想であって、いかなる対象ももたない経験や空想は考えられない。そのようにして私が経験や空想において何かの対象に向かっているとき、経験や空想は、その対象への志向性をもつと言われる。¶志向性によって何かに向かうことは、物理的に何かに向かうこととは異なっている。フッサールはこの違いを「意識」の有無として理解した。(…)志向性をもつということは、(…)何かについて意識するという仕方でそれに向かうことなのである(53頁)」。ということは、フッサールは意識がなければ「志向性」は成り立たないと考えていたのだろうか? 思考に関しては確かにそうだろうと思うが、認知についてはどうか。認知も「何かについての」認知であって、対象のない認知などあり得ないように思えるが、実はルドゥーは『存在の四次元』で認知は意識的にも無(前)意識的にも作用すると主張している。フッサールが生きていた頃は脳科学が現代ほど発達していなかったことを考えれば(現象学的精神医学でも、科学的知見より臨床例に重きが置かれていたように思える)この疑問は些末なのでとりあえず脇に置き次に参りましょう。
著者は続けて次のように述べている。「志向性は、経験や空想のほかにも、私の遂行するさまざまな働きに帰せられうる。例えば、かつてあったことを思い出すという意味での想起は過去の対象への志向性を有しており、これからありうることを推測するという意味での予期は未来の対象への志向性を有している。また、聞き慣れない言葉を耳にしてそれが何かを――具体的な内容はわからないけれど、とにかく何かを――表現していると思うとき、すでに私の意識には、その不特定の何かへの志向性が生じていると言えよう(54頁)」。脳科学、認知科学に即して具体的に言えば「かつてあったことを思い出すという意味での想起」には記憶メカニズムが、また「これからありうることを推測するという意味での予期」には先述した脳の予測処理が関与している。まず記憶メカニズムについて言えば、脳科学者のルドゥーは意識(や認知)の働きにおける記憶の重要性を強調している。とりわけエストニア生まれの著名な心理学者エンデル・タルヴィングが提起した、意味記憶に依拠する「{認識的/ノエティック}意識」、エピソード記憶に依拠する「自己認識的/オートノエティック」意識」、手続き記憶に依拠する「{非認識的/アノエティック}意識」という意識の分類に基づいて、その脳/認知科学的な意義を検討した「第W部 意識的次元」は圧巻だと言える。そこには一箇所だけだがフッサールや現象学に関する次のような言及もある。「エトムント・フッサールやジャン=ポール・サルトルらの現象学者たちは、前反省的な状態によって反省的な自己認識が可能になると主張した。フッサールやサルトルの考えをもとに、ショーン・ギャラガーやダン・ザハヴィは、前反省的な状態が存在しなければ、反省的な意識と呼べるようなものは存在しなくなるだろうと述べている。アノエシスが一種の前反省的な状態であるとするなら、ギャラガーやザハヴィの考えは、「アノエティック意識が存在しなければ、ノエティック意識やオートノエティック意識と呼べるようなものは存在しなくなるだろう」と言い換えられるはずだ(同書 283頁)」。ショーン・ギャラガーはアメリカの、ダン・ザハヴィはデンマークの現象学者であり、知っている人はよく知っているはず。
「これからありうることを推測するという意味での予期」に関しては新書本に『東海道中膝栗毛』の喜多さんの体験をめぐるおもろい記述があるので、それを引用しておきましょう。次のようにある。「先ほど例にあげた喜多さんの経験のプロセスも、志向性に沿って記述できるだろう。夜中の宿屋で震えあがっている喜多さんに何が見えるかと尋ねれば、「白いものが立っていらあ」と答えるだろう。そして翌朝の茶店で立ち止まった喜多さんに何が見えるかと尋ねれば、「うまそうなぼた餅がある」と答えるだろう。つまりこれらの状況において、喜多さんの視覚経験は、白く浮かび上がった幽霊や美味しそうなぼた餅への志向性を有しているのである。そのような志向性が成立することによって、喜多さんに対して幽霊やぼた餅が現れ、喜多さんはそれらについての意識をもつ。¶ところで喜多さんの経験の進行において、幽霊やぼた餅だと思われていたものは、やがて襦袢として、あるいはぼた餅の看板(木製の食品サンプル)として捉えなおされる。ただし喜多さん自身も気づいているように、このとき外界のほうに決定的な変化が生じたわけではない(54〜5頁)」。これはまさに、クラークらが提起する近接未来に関する脳の予測処理によって説明できるのですね。襦袢を幽霊と、看板をぼた餅と見間違えたとき、喜多さんの視覚経験は、夜中であるだけに脳による誤った予測が、実際の感覚入力(与件)に基づいて予測エラーとして検知されることがなく、誤った予測がそのまま現実的な体験と化してしまったことを意味する。だから喜多さんの意識にとっては、その体験が現実なのですね。だが朝になれば、周囲が明るいのでそもそも誤った予測が発せられることすらなくなる。もちろん未来の予測をするためには、過去の経験に関する記憶も必要になる。さもなければ、幽霊やぼた餅ですら予測の対象になるわけがない。非常に単純な、というかごく当たり前の例とはいえ、このように志向性というフッサールの概念も、脳科学や認知科学の知見によって補うことができるのですね。
次は、これまた現象学でよく使われる用語「エポケー(判断停止)」について。次のようにある。「フッサールが遂行しているのは、自然的経験において与えられるものが存在しているという判断を全面的に停止するという操作である。この操作は、「現象学的エポケー」、あるいは単に「エポケー」と呼ばれる(エポケーとは、ギリシア語で「判断停止」を意味する)。これによって達成されるのは、自然的経験における「世界あってこその経験」というスローガンに含意されている。「経験に依存せずに、世界はそれ自体で存在している」という判断の停止である。¶なお、こうした判断を暗黙裡に受け入れているときの私たちの態度は、まさに自然的経験をしているときの態度であるという意味で、「自然的態度」と呼ばれる。したがってエポケー(判断停止)とは、自然的態度とることを一時的にやめるための操作であるとも言える。経験を停止することはできないが判断を停止することはでき、それによって私たちは自然的態度を一時的にやめることができるのである(66頁)」。ちなみにこの自然的態度を一時停止した経験のあり方は「超越論的経験」と呼ばれるのだそうな。たとえば絵画などのアートを観る際に得られる経験も、普段自明と考えていることを自明なものとして判断して見ることを一時停止する経験だと言えるのでしょう。あるいは前述したように、基本的には哲学にしろ、社会学にしろ、心理学にせよ、一般に人が自明なものとして認識していることがらの自明性をいったん捨象して、その自明性を成立させている根源的な要因やメカニズムを暴き出す営為と見ることができる。現象学が興味深いのは、その方法を理論的に明確化した点にあると個人的には思っている。
著者はフッサールの提起する志向性とエポケーの概念について次のように述べている。「フッサールの現象学においては、志向性という概念は、エポケーという操作と組み合わさることで真価を発揮する。経験が一般に志向性をもつというのはもちろん重要な事実ではあるが、それをただ指摘するだけでは議論を掘り下げることはできない。エポケーを施したあとの経験すらも志向性をもつという点を指摘することによって、その志向性が向かう対象の問題をめぐって、新たな議論の局面を開くことができるのである(なお「志向性が向かう対象」という言い方はやや冗長なので、以下でこれを「志向的対象」と呼ぶ)。¶では経験の志向的対象は、経験を超越したところではないとすれば、いったいどこに存在するというのか。この問題に対しては、今や「経験の内側に存在するのだ」と答えるしかない。ただし、ここではすでに外側の存在が保留されているのだから、目下問題になっている内側というのは、もはや内/外という二分法が意味をなさないような内側である。外側にとっての相対的な内側ではないという意味では、絶対的な内側と言ってもよいだろう(71頁)」。二段落目の記述(「¶」は段落替えを意味する)からもわかるように、ここには独我論に陥る可能性と、間主観性をそこからいかに確立するのかという問題が潜んでいるわけだが、それについてはあとの章で検討されているのでそこで取り上げる。いずれにせよ、そのようなフッサールの方法論の意図は次の点に求められる。「彼は、同じ経験を、二つの別々の態度のもとで捉えることを提案しているのである。経験は、日常的な態度(自然的態度)のもとでは自然的経験として捉えられている。しかし、その仕組みを解明する操作(エポケー+超越論的還元)を経て成立する新たな態度(超越論的態度)のもとでは、同じ経験が、それまでとは違った仕方で捉えられることになる。このようにしてフッサールは、カントとは異なり、経験の内部に徹底的にとどまりつづけようとする。¶このように経験の内部に徹底的にとどまりつづけようとするという点で、フッサールはカントからはっきりと区別される。経験の可能性の条件(経験の仕組み)を解明するためにいったんは経験の内容を度外視するカントに対して、フッサールは、かたときもその内容から目を離すまいとするのである(82〜3頁)」。「経験の可能性の条件(経験の仕組み)を解明するためにいったんは経験の内容を度外視する」のは何もカントさんだけでなく、すでに述べたように科学も「how」を解明するために「what」を捨象する。だから私めが、現象学は科学を補完できると述べたわけ。もう一箇所重要な指摘を引用しておきましょう。次のようにある。「超越論的還元は、世界を切り離すための操作ではなく、むしろ世界を、経験されているとおりのありさまで意識の側に引き戻すための操作である。また、それを通じて露わになる意識と世界の結びつきは、還元のあとで付け加えられた虚構ではなく、自然的経験のなかにすでに含まれていた関係である(86頁)」。
おっと! ここで、まだ90頁(全体のおよそ三分の一)にも達していないことにはたと気づいた。このペースで検討しているとワード文書で最終的には25頁にも達してしまうので、ここからは各駅停車ではなく、西武線自慢のレッドアロー号くらいのスピードで見ていくことにする。まああとで編集者の加藤氏に、「ごらあああ! 引用のしすぎじゃ!」とか怒られそうでもあるしね。
次に脳科学や認知科学との関係で取り上げたいのは、「第三章 経験の分類」で言及されている「直観」について。著者は、「私の人生のなかで起きるすべての出来事は「体験」であり、さらにその体験のなかでも志向性をもった体験(志向的体験)が「意識」である。そして意識のなかでも、顕在的に遂行されるものは、「作用」と呼ばれる(105頁)」としたうえで、この「作用」に「空虚な作用」なるものがあると述べる。「空虚な作用」の例として、著者はザワークラウトをめぐる自身の経験を次のように紹介する。「子どもの頃、読んでいた本のなかに、「ザワークラウト」という名前の料理が出てきたことがある。今となってはドイツ料理の酢漬けキャベツであることがわかるのだが、当時の私は何も見当がつかず、ただ登場人物がソーセージの付け合わせにザワークラウトを美味しそうに食べる様子を読み、未知の料理に思いを馳せたのだった。¶ザワークラウトに熱心に思いを馳せる少年の意識は、顕在的にザワークラウトに向かっており、したがって「作用」と呼ばれるに値するだろう。しかしこのとき、ザワークラウトは、「よくわからないけどとにかく何かの料理」として意識されているにすぎず、いかなる具体的なイメージにも結びついていない。そのようにザワークラウトを志向する作用は、そこにおいて当該の対象がいかなる姿でも与えられていないという意味で「空虚」であると言われる。これに対して、対象そのものが――単に言葉のうえだけでなく、その対象に固有の姿で――与えられるとき、空虚な作用は「充実」する(106〜7頁)」。そして著者によれば、「こうした作用の充実を説明するために持ち出されるのが「直観」という用語である。フッサールは、空虚な作用を充実させることのできる作用を、一般に「直観(Anschauung)」と呼ぶ(『論理学研究』第六研究第一〇節)。空虚な作用と直観が重なり合うことで、充実が生じるのである。¶フッサールの言う意味での直観を遂行することは、決して難しいことでも珍しいことでもない。「直観」という語は何やら{厳/おごそ}かで神秘的な雰囲気をまとっているが、ここではそのような含意はない。日々の生活のなかでものごとが具体的なかたちをとって現れるとき、すでに直観がなされているのである(108頁)」。
残念ながら、というか当然ながら、「空虚な作用」を充実させるという機能には言及されていても、「直観」がいかなるプロセスを介して作動するのかというメカニズムに関してはまったく言及されていない。ここで役立つのが脳科学や認知科学なのですね。もちろんフッサールの言うところの「直観」と、脳科学や認知科学で言うところの「直観」は異なる。たとえば「知覚もまた直観に分類されるが、知覚によってもたらされる充実は、他の種類の充実にはない特徴をもつ。それはすなわち、知覚による充実が私の知識を増やしてくれるという点だ(108〜9頁)」とあるけど、知覚を直観に分類する脳科学者や認知科学者がいるとは思えない。とはいえ、類似する側面もある。たとえば次のような記述がある。「こうして直観のなかには、知識の獲得につながるものとそうでないものがあることがわかった。前者の例としては知覚が挙げられたが、対象の種類に応じて、ほかにも諸種の作用がそのような知識の基礎づけに役立つと考えられる。¶そのような見通しのもとでフッサールはさらに探究を進めていくのだが、このとき、知識の獲得につながる直観は「根源的に与える直観」と呼ばれる。あらゆる直観は、対象を特定の姿で現れさせるという意味で、対象を与える(したがって予期や想起や空想も、それなりの仕方で対象を与える)。そのなかでも特に、知識の獲得につながるほどに対象を根源的に与える直観があると言うのである(109頁)」。知識の獲得が認知作用の結果であると捉えるなら、これはルドゥーが『存在の四次元』で、直観には認知的次元に属するものと、それ以下の神経生物的次元に属するものがあると主張している点に整合する(認知的次元と神経生物的次元とは何かに関しては長くなるのでここでは述べない。同書を買って読んでね)。つまりルドゥーの言う認知的次元に属する直観は、フッサールの言う知識の獲得につながる「根源的に与える直観」に相当すると見ることができる。それに対してフッサールの言う知識の獲得につながらない直観は、ルドゥーの見立てでは神経生物的次元に属すると見なせる。おそらくルドゥーはフッサールを読んでそのような分類をしたわけではないのだろうが、ここにはルドゥーとフッサールの平行性を見て取ることができる(ただし、ルドゥーの言う認知的次元は意識的次元とは異なり意識の存在を前提にしない次元なので、その点はフッサールとは異なるのかもしれない)。ここで重要なのは、したがって直観には、フッサールの言い方をすれば知識の獲得につながるものもある、あるいはルドゥー流に言えば認知的に作用するものもあるという点。なぜ重要かと言うと、一般に直観は原始的な働きで、知識の獲得や認知にはまるで関係がないと考えられているように思われるから。そのような一般的な見方は、ルドゥーやフッサールの見解に従えば、まったくの誤りなのですね。
あるいはもっとドラスティックな提言をしているのは、認知科学者のヒューゴ・メルシエとダン・スペルベルで、彼らは共著The Enigma of Reasonで、合理的思考を直観的推論の一形態と見なしている。合理的思考は、前意識的な認知作用とは異なり意識的な作用なので、ルドゥーよりもさらにフッサールに近いと言えるのかもしれない。あるいは同書に次のようにある。「人間は他の動物と同じで、たった一つの一般的な推論能力ではなく、さまざまな特化したメカニズムを備えている。しかし人間においては、それらのメカニズムの多くは「直観的な」ものではなく、発達期に他者とのやり取りを通して後天的に獲得される。それでも後天的に獲得されたそれらのメカニズムのほとんどには、直観的な基盤がある。ウォロフ語や英語やタガログ語を話すことは直観的な能力ではないが、音声に特別な注意を向ける能力や、自分が属するコミュニティで用いられている言語を習得するのに必要な段階を踏む能力には直観的な基盤がある(同書6頁)」。言語的知識を含めた知識の獲得の基盤には「直観」が存在しているというこの主張は、フッサールの言う「知識の獲得につながる直観」という概念にも通じるものがあると言える。ただメルシエ&スペルベルは認知科学と進化科学に立脚して立論しているので、その点ではフッサールとは明らかに異なる。
さてここでフッサールの言う「根源的に与える直観」とはいかなる意味なのかをもう少し詳しく見てみましょう。次のようにある。「探検家が河の水源地を求めて奥地へと分け入っていくように、フッサールは、私たちの知識の起源を突き止めようとする。そしてフッサールによれば、知識の起源とは、当該の知識の対象が根源的に――つまり、それ以上さかのぼることができない仕方で――与えられる場面であった。たしかに私たちは、そのような場面に至らずとも、人から聞いた知識で満足することもある。しかしどんな知識についても、もとをたどれば、その対象が根源的に与えられる場面があると考えられる。¶そしてそのような場面において、対象を根源的に与えるのは「直観」であるとされる(110〜1頁)」。人から聞いた知識で満足するためには、それ以前にその知識で満足を感じさせるような直観が働いていなければならない。つまり合理的思考の対象たる知識を満足なものとして感じさせる、言い換えると「しっくりとしている」と感じさせるのは直観であることになる。実はルドゥーは、ノエティックな事実認識とオートノエティックな自己認識を「しっくりしている」と感じさせるのは、アノエティックな非認識的意識だと述べている。ただしルドゥーはこれら三種類の意識を、その名のとおり意識的次元に属するものと捉えているので、認知的次元に属する直観とは異なる作用として捉えてはいるが。いずれにせよ意識的次元に属するアノエティックな非認識的意識であろうが、認知次元に属する直観であろうが、それらをフッサールの言う「対象を根源的に与える」作用として捉えることはできるだろうと思う。
新書本には、さらに次のようにある。「こうした見解をまとめるかたちで、フッサールは『イデーンT』の第二四節において、次のような「すべての原理のなかの原理」(あらゆる原理のなかでも、特に原理と呼ぶに相応しいもの)を掲げている。¶根源的に与える直観は、どれもみな認識の正当性の源泉である。¶これまで述べてきたように、空虚な作用を充実することができる作用(直観)のなかでも、その作用の対象が現実に存在すると否応なく私に思わせる作用が、根源的に与える直観である。(…)認識とは、何かを知る作用(あるいはその対象となっている知識)のことであり、このとき知られていることは、通常は文のかたちで表される。例えば、「いま家の外では雨が降っている」「2かける2は4である」「あの人はくじ引きで景品が当たって喜んでいる」という文などを考えてみればよい。そのような事柄についての認識を正当化するというのは、言いかえれば、その認識が正しいということにしっかりした根拠を与えるということだ。先述の「すべての原理のなかの原理」によれば、その根拠は、つきつめれば根源的に与える直観なのである(112〜3頁)」。これはまさに、合理的思考を直観的推論の一形態と見なすメルシエ&スペルベルや、直観を認知次元でも作用するものと見なし、非認識的意識によって事実認識と自己認識に「しっくりしている」という感覚が与えられるとするルドゥーの見方に通じるものがある。しかもルドゥーは、それに関する脳のメカニズムを詳細に説明している(メルシエ&スペルベルは認知科学者なので脳のプロセスにはほとんど言及していない)。ということで、この「直観」に関しても、フッサールの考えと脳科学や認知科学の知見は互いに補完し合うことがわかったのではないか。それから「根源的に与える直観」に関して、新書本からもう一箇所引用しておきましょう。次のようにある。「根源的に与える直観は、そこで根源的に与えられる対象の種類に応じて分類することができる。そしてフッサールは、基本的に、個別的な対象を根源的に与える直観のことを、「経験」と呼んでいるのである。これに対して、普遍的な対象を根源的に与える直観は、「本質直観」と呼ばれる(124頁)」。ということは「経験」それ自体が「直観」の一形態だということなのかな? ならば、直観を軽視することは、経験それ自体を希釈することにつながる。ここまで述べたことに鑑みても、ルドゥーやメルシエ&スペルベルの提起する見方からもそれと同様の結論を引き出すことができると思う。現代人の多くは、その点を大きく考え違いしているのですね。
次に取り上げたいのはノエシスとノエマについて。まずこれらの用語の意味が次のように説明されている。「「ノエマ」は、もともとはギリシア語で「思考されたもの」を意味するが、フッサールの現象学においては、諸種の志向的体験(意識)が向かう対象、すなわち志向的対象を幅広く表している。したがって正確に言えば、知覚だけでなく、空想も、欲望も、感情も、例外なくノエマを有している。¶志向的体験(意識)の対象を「ノエマ」と呼ぶことの利点は、それが意識のはたらきとの相関関係にあることが見てとりやすくなるという点だ。ノエマとの関係を可能にする意識のはたらきは、ギリシア語で「思考すること」を意味する「ノエシス」という語で表される。これまでに述べてきた内容に即して言えば、感覚与件を把握するはたらきはノエシスの側に属する(139頁)」。要するにノエシスとノエマは「意識」が関与する事象、すなわちルドゥーの『存在の四次元』では、意識的次元に関する事象だとされている。すでに述べたように、ルドゥー(タルヴィング)は「ノエティックな意識の状態は、世界に関する意味的な事実や概念に基づく心的内容を保」つと述べている。新書本の引用にある「感覚与件を把握するはたらきはノエシスの側に属する」という記述は、ルドゥーの言うノエティックな意識の働きを指しているように思える。また、ルドゥー(タルヴィング)はノエティック意識を意味記憶に依拠するものとしてとらえている。それに関して『存在の四次元』に次のようにある。「意味記憶とエピソード記憶の区別が導入されてから一〇年ほどが経過した頃、タルヴィングは、これら二種類の記憶が二つの異なる意識的経験の基盤をなすと主張し、それらを「{認識的/ノエティック}意識」と「{自己認識的/オートノエティック}意識」と呼んだ(同書268頁)」。このノエティック意識が意味記憶に依拠するという考えは、新書本の次のような記述とも整合する。「ただ一点指摘しておきたいのは、ノエマの中心部分には「意味」と呼ばれる要素が含まれているということだ。これは先述の把握のはたらき[感覚与件を把握するはたらき]が「意味付与作用」とも言い換えられるものであったこと(…)を踏まえれば当然とも言える。感覚与件を把握する(そこに意味を付与する)はたらきがノエシスの側で遂行されるならば、それに相関して、ノエマの側は、「意味」という要素が成立するのである。¶ノエマの意味とは、私が対象をどのようなものとして意識しているかを決定する要素である。すると、同じ対象に向かう諸々の意識が、相異なる意味をもつこともありうる。例えば、同じ人物を「弥次さんの友だち」として意識する場合と、「襦袢を幽霊と見間違えたうっかり者」として意識する場合とでは、対象が同一人物(喜多さん)であっても、ノエマの意味はそれぞれ異なっている(140頁)」。こうしてみると、フッサールのノエシス、ノエマの概念は、ルドゥー(タルヴィング)の意味記憶に依拠するノエティック意識という科学的見解によって補完されることがわかる。たとえば同一人物であっても、ノエマの意味が人によって異なるのは、人によって持っている意味記憶が異なるからなのですね。
さて次に取り上げたいのは「内在的知覚」について。まず次のようにある。「まず確認すべきは、内在的知覚が、「反省」と呼ばれる作用の一形態であるということだ。反省とは、リンゴの木や雨のように私にとって超越的なものではなく、私自身の体験を対象にする作用である(150〜1頁)」。ということは、確信はないが、反省とはルドゥー(タルヴィング)の分類で言えば、エピソード記憶に依拠するオートノエティック意識に関するものと捉えればよいように思える。ただし「反省のなかには、過去の自分の体験に向かう反省と、現在進行中の自分の体験に向かう反省が区別される。前者は自分の体験をふたたび想起する作用であり、後者は自分の体験を知覚する作用、すなわち内在的知覚である(151頁)」とも述べられているので、反省作用の一形態である内在的知覚に関してはオートノエティック意識とは無関係という可能性はある。とはいえ、アンディ・クラークが主張するように、いかなる知覚体験も脳の予測メカニズムによって構築されるのであり、その予測には過去の自分の経験が多かれ少なかれ反映されるという点に鑑みれば、「現在進行中の自分の体験に向かう反省」にはオートノエティック意識がまったく関与していないとは言い切れないように思われる。喜多さんが、襦袢を幽霊として知覚し経験した例で言えば、そもそも幽霊をめぐって過去に体験したこと、学んだことが記憶に残っていなければ、幽霊にさえ見間違えようがないのだから。長くなりつつあるので、ここでは『存在の四次元』やクラークのThe Experience Machineからの引用は控えるが、興味がある向きは、とりわけ前者の「23 事実認識と自己認識」を読んでみてみて。
ということでやや尻切れトンボの感があるけど先に進みましょう。次に取り上げたいフッサールの概念は「把持」と「予持」。まず「把持」から参りましょう。なお引用文中にある図表とは、194頁にある図を指している。本を持っている人はそれを見ながら読みましょうね。本を持っていなくても、以下の引用の範囲内では、横線AEがAを始点、Eを終点とする線分であることをわかってさえいれば特に支障はないはず。次のようにある。「フッサールは、生じた瞬間の体験を、根源的な印象すなわち「原印象」と呼び、図表の横線AEを原印象の連続として描いている。例えば、お風呂に入って「いい湯だな」と感じるという状況に沿って考えてみよう。この感情は一瞬で過ぎ去ることなく、お風呂に浸かっているあいだは絶えず更新され持続する。そのような一連の「いい湯だな」という感情の始点をA、終点をEと表すことができる。¶ただし、もし始点で生じた「いい湯だな」という気持ちがただちに忘却されてしまうならば、私は「いい湯だな」という気持ちを時間的な幅をもったものとして感じることができないだろう。その場合には、「あ、今いい湯だな」「あ、今いい湯だな」……という刹那的な体験が断続するにすぎない。¶しかし実際の体験は、たいていの場合、時間的な幅をもって持続しうる。ということは、体験は成立した瞬間にすぐに消えてしまうわけではなく、次の時点においても、少し前に起きたこととして保たれると考えられる。そのように、ある時点において少し前の時点での体験を保つはたらきは、「{把持/はじ}と呼ばれる(193〜4頁)」。これを読んで私めは、「これはまさに、脳科学で言うところのワーキングメモリーの働きを説明したものじゃん!」と思った。ちなみに、ここでいう「ワーキングメモリー」とは、「七項目程度しか保っておけない短期記憶」などといった一般的に言われる概念とは異なり、それよりも範囲の広い、認知制御の基盤をなすシステムを指す。
ルドゥーの『存在の四次元』では、「ワーキングメモリー」は次のように定義されている。「ワーキングメモリー(WM)は、高次の認知作用の重要な側面の一つである。(…)それは情報の短期的な保管とトップダウン制御に必要な心のスケッチパッドの役割を果たす。WMの本質的な特徴は柔軟性である。それによって、感覚入力、意思決定、記憶などに関するさまざまな情報の、必要に応じた選択、維持、操作、読み取りが可能になるのだ(同書163頁)」。あえて言うまでもなく、脳科学者のルドゥーは、ワーキングメモリーの実際の基盤をなす脳領域の構造も実際に示している。そしてさらに次のように述べる。「実のところ、私たちは注意を払う、知覚する、思い出す、計画を立てる、意思決定を下す、行動する、自分が置かれた状況を評価する、などの際にワーキングメモリーを用いる。また自己に関する思考や感情を構築し、監視し、精査するためにもワーキングメモリーを用いる。自分自身の心の状態を認知的に理解するこの能力は、「メタ認知」と呼ばれている。また私たちは、自分自身の心に関する理解を用いて、動物を含めた他者の心の状態を推測する。この能力は「心の理論」と呼ばれる、メタ認知の一種である(同書163頁)」。「いい湯だな」と感じることは、「自己に関する思考や感情」の具体的な事例だと見なすことができる(新書本の著者自身も「いい湯だな」を感情の例であると述べている)。ルドゥーによれば、その構築(維持)、監視、精査にはワーキングメモリーが必要なのですね。なお、この引用文中にある「心の理論」は、あとでもう一度言及するので覚えておいてね。
次は「予持」について。次のようにある。「フッサールは、少し後に起こるはずのことを予期するはたらきを「{予持/よじ}」と呼んでいる。つまり過去方向の把持に加えて、未来方向の予持もあるというわけである。¶ただし、把持と予持のあいだには重要な違いもある。把持は、すでに起こったことを意識につなぎとめるはたらきなので、その内容はすでに確定している。これに対して予持は、まだ起こっていないことにあらかじめ意識を向けるはたらきなので、その内容は確定していない(196頁)」。これはまさしく、把持が脳のワーキングメモリーに依拠しているのに対し、予持は脳の予測メカニズムに依拠していることを意味する。とはいえ脳の予測は、まったく無の状態から発せられるわけではなく、過去の経験に基づいてなされなければならないわけで(さもなければいかなる予測も発せられない)、したがって記憶、ただしこの場合はおもに、短期記憶のワーキングメモリーよりも長期記憶に依存することになる。それに類似することは、新書本の著者も述べている。次のようにある。「もうもうと湯気を立てる小籠包を食べるときには、小籠包についての一般的な知識にもとづいて、「熱いスープが飛び出してくる」ことが口をつけた時点ですでに予持されているだろう。¶しかし当然のことながら、予持は、どれほど具体的な内容をもちうるとしても、完全な未来予知ではありえない。この小籠包から出てくるスープは思っていたほど熱くないかもしれないし、予想していたのとはまったく別の具材が入っているかもしれない。だがいずれにせよ、予持のはたらきがあるからこそ、私は未来に対して身構え、よほどのことがないかぎりはいちいち驚いたりせず、比較的安定した生活を送ることができる。やけどをせずに小籠包が食べられるのも予持のおかげなのだ(197頁)」。まず「小籠包って何と読むの? それってなあに?」と思ってまった。私めが無知なだけなのかもだけど。ググると「しょうろんぽう」と読み、中華料理の点心の一種だということがわかった。「いやはやギョーザくらいでもよかったのでは?」と思ってもた。まあそれはよしとして、「熱いスープが飛び出してくる」という知識は、過去の経験として、あるいは過去に学習したこととして長期記憶に蓄えられていなければならない。ただここで注意しておかねばならないのは、フッサールはどう考えていたかはしらんが、脳科学や認知科学の見方では、把持にせよ予持にせよ必ずしも意識の存在が前提条件になるわけではなく、意識的になされる場合もあれば無(前)意識的になされる場合もあるという点。意識的になされるのは特殊な場合で、その際には注意の働きが必要になる。著者も「私は未来に対して身構え、よほどのことがないかぎりはいちいち驚いたりせず、比較的安定した生活を送ることができる」と書いているように、安定した生活を送るためには、あらゆる事象を意識的に予期するわけにはいかないというのは当たり前田のクラッカーだと言える。
ここで脳の予測メカニズムに関して、クラークのThe Experience Machineから一箇所だけ引用しておきましょう。次のようにある。「予測する脳は、私たちの周囲の世界、あるいは少なくとも自分にとって重要な世界を四六時中シミュレートしている、一種のシミュレーション装置だと言える。到来する感覚情報は、予測を感覚的な証拠と比べ、両者が整合しない場合には予測エラーシグナルを生むことでモデルの信頼性を保つために用いられる。これから見るように、恒常的な予測は、配線にコストがかかるにもかかわらず効率の面で多くの利点をもたらす。またおそらくはさらに重要なことに、当面の課題や状況が課す要求をより柔軟に反映するようなあり方で、私たちの反応を環境に適応させることを可能にする。外界から大量に押し寄せて来る感覚的な手がかりをもとに、着実に外界の豊かな絵を抽出していくのではなく、絶えず変化する外界に関する豊かな絵が先にあり、感覚情報はその絵を検証、精査、微調整するために使われると考えるのだ。つまり予測する脳は、新たな感覚シグナルが到来する前から、もっともありそうな外界の豊かな絵を描くことに専念しているのである(同書9〜10頁)」。予測する脳は、世界を四六時中シミュレート、すなわち予持しているのですね。このように、フッサールの「把持」と「予持」の概念も、前者はワーキングメモリー、後者は脳の予測処理という脳科学の知見によって補完あるいは補強できることがわかる。
ということで、次は「間主観性」の問題を取り上げましょう。すでに述べたように、フッサールの考えは独我論に陥る可能性を孕んでいる。だからそこからいかにして他者、すなわち間主観性を導き出すかが一つの大きな課題になる。著者は「第六章 私から他者」への冒頭で、次のように述べることでこの問題を再提起している。「フッサールの現象学は、すべての対象を私の意識のなかに引き戻して、そこでの対象の構成のされ方を問うという手順をとる。したがって(…)、現象学は、少なくともその出発点においては、どうしても独我論的であらざるをえない。超越論的現象学の出発点は私たちではなく私であり、私から他者へ至る経路もまた私の側からたどりなおされねばならない。¶つまり、他者もまた経験のなかで出会われるものであるとすれば、他者が私に対して与えられる経験が特定され、そこにおいて他者がいかにして構成されるのかが問われねばならないのである(219〜20頁)」。フッサールはこのような他者経験の基盤を「エンパシー」、つまり共感に見出しているらしい。次のようにある。「ここまで論じてきたのは[この議論の詳細についてはここでは重要ではないので省略する]、最も基礎的なレベルでの他者経験、すなわち他者の物体的な現れを通じて、そこに感覚や感情があると見なすことであった。フッサール自身、このレベルでの他者経験が私と他者を結びつける「最初で最低の段階」であると明言している(『デカルト的省察第五六節』)(241頁)」。ということは、フッサールの言う「エンパシー」とはどうやらもっぱら情動的共感を指すらしい。しかし現代の認知科学の知見からすれば、「エンパシー(共感)」には情動的共感のほかにも認知的共感がある。情動的共感が他者の情動(感情)を自分でも経験すること、つまり感情移入を意味するのに対し、認知的共感は他者の立場に立ってものごとを見ることを意味する。後者は心理学や認知科学では「心の理論」と呼ばれることもある。つまり情動的共感は情動作用に関するものであるのに対し、認知的共感は認知作用に関するものである。このあたりは、わが訳書ではポール・ブルーム著『反共感論』に詳しいので、そちらも参照されたい。新書本では、エンパシー(共感)に関する記述が全体を通じて二箇所ほどあったが、それらのいずれにおいても、一見するともっぱら情動的共感が論じられているように見受けられた(「エンパシー(感情移入)」と記されてもいるし)。
でも実のところ、フッサールの言う他者経験とは、この意味での情動的共感ではないらしい。次のようにある。「「感情移入」は、一般的な言葉づかいにおいては、自分も相手と同じような気持ちになるという含意が含まれている。「映画の主人公に感情移入して、ラストシーンでは思わず泣いてしまった」といった言い回しは、日常的にもよく用いられる(242頁)」。このような用法は単に日常的であるだけでなく、心理学や認知科学における「情動的共感」の意味でもある。ところが著者によれば、フッサールが論じているエンパシー(共感)はそうではないらしい。続けて次のようにある。「フッサールの言う意味でのEinfühlungは、あくまで相手の側に一定の感覚や感情があると見なすはたらきであって、自分も同じ感覚や感情をもつことまでは含意していない。¶したがって例えば、相手が悲しんでいることはわかるが自分はまったく悲しくないという場合であっても、Einfühlungは成立しているのである(242〜3頁)」。そうなってくると、その種の共感はむしろ認知的な判断の範疇に入り、よって情動的共感であるより認知的共感に近いと捉えたほうが妥当であるようにも思えてくる。実のところ個人的には、ここで言うエンパシー(共感)は、認知的共感として捉えたほうがここまでの議論からしても都合がよいと思っている。というのも、すでに述べたようにフッサールの提起する「把持」の概念が、脳科学的観点からすればワーキングメモリーによって説明できるのであれば、そのワーキングメモリーが可能にする「心の理論」、つまり認知的共感を対象に論じたほうが現象学としても妥当であるように思えてくるから。
とはいえいずれにしても、個人的には、この新書本に書かれているエンパシーに関する論理でどうして間主観性の問題に答えられるのかよくわからなかった。実際新書本でも、「反論@――対比は本当に起こっているのか」「反論A――他者は結局のところ私のコピーなのか」として二つの反論が取り上げられている(ここでは、その内容は説明しない)。むしろアルフレッド・シュッツらの現象学的社会学者の記述のほうが納得できる部分があったように覚えている。ただ著者によれば、フッサールはエンパシーを「最初で最低の段階」として捉え、他者経験をエンパシー以外の要因、具体的に言えばコミュニケーションによっても説明しようとしていたらしい。つまりフッサールは、他者経験を二つに分類していたとのこと。「【他者経験】の分類」と題するシャドーがかかった部分に次のようにある。「・他者経験@(エンパシー)¶何かを伝えようという意図を欠いた他者の身体の現れを通じて、そこに付帯的に現前するかぎりでの感覚や感情が他者の側にあると見なすこと。¶・他者経験A(コミュニケーションにおける他者経験)¶何かを伝えようという意図をもって他者が発した表現を通じて、それによって表現されるかぎりでの任意の体験が他者の側にあると見なすこと(254頁)」。さらには次のようにある。「何かを伝えようという意図を受け取ることによって始まる「私」と「君」のコミュニケーション関係を、フッサールは「社会的」と形容することがある(『フッサール全集』第一五巻、第二九番草稿)。たしかに表現(言葉や身振りなど)を介したコミュニケーション関係のなかで諸種の社会的活動(契約、対立、協働など)が可能になっている以上、コミュニケーション関係こそが社会的関係の基本形態であると言えよう。¶するとこのとき、何かを伝えようという意図を受け取ることは、他者経験@から他者経験Aへの移行を可能にするもの、すなわちエンパシー関係からコミュニケーション関係(社会的関係)への移行を可能にするものとして位置づけられる(257頁)。
このくだりを読んだ私めは、間主観性をコミュニケーションの問題として捉えるのであれば、進化科学に言及したほうがより明確になるのではないかと思った。その一つとしてここで取り上げたい本は、わが訳書のマイケル・トマセロ著『行為主体性の深化』なのよね。この本は行為主体性(Agency)がいかに進化したかをあとづける本で、脊椎動物の段階で目標指向的行為主体性が、哺乳類の段階で意図的行為主体性が、類人猿の段階で合理的行為主体性が、そして人類の段階で社会規範的行為主体性が進化したと論じている。ここでは差し当たって、人類が進化させた社会規範的行為主体性に的を絞る(それ以外の行為主体性については、この本を買って読んでみてみて)。この本の「第6章 社会規範的行為主体――太古の人類」に次のようにある。「人間独自の心理的能力のほとんどは、多かれ少なかれ、共同的行為主体もしくは集合的行為主体への参加を可能にした適応に由来する。それらの行為主体への参加を通じて、人類は次の二つの特殊なスキルを進化させたのである。(1)協働を行なう際に他者と心的に連携するスキル。このスキルによって、特定の視点から再帰的な、最終的には客観的な認知表象が形成されるようになった。(2)協働する際に他者と協力的な関係を結ぶスキル。それによって、いかなる行動が客観的に正しいか、もしくは間違っているかに関する規範的な価値観が形成された。かくして「客観的な」規範的基準に照らして自己の思考や行動を自己調節する個人、すなわち社会規範的行為主体が誕生したのだ。そしてこの社会的規範行為主体は、社会的な視点を備えた新たな形態の意識、つまり自己意識と呼べるものによって特徴づけられるだろう(同書195〜6頁)」。トマセロは「スキル」と記しているけど、これは「認知能力」と読み替えても構わないのだろうと思う。するとここで前述した一般には「心の理論」と呼ばれる認知的共感(エンパシー)能力が関係してくる。また、ここで言う認知能力は意識的であると述べられている点にも注意しましょう。このように考えてくると、科学的知見を参照すれば、フッサールの考えていた他者理解におけるエンパシーとコミュニケーションの役割がより整理された形で見えてくるように思える。
ただしトマセロの問題は、それがいかなる脳のメカニズムによって実現されているかに関する記述がまったく見られないこと。そもそもトマセロは脳科学の専門家ではないはずだし、そこまで深堀りしていたら『行為主体性の進化』は専門家向けの恐ろしく浩瀚な書物と化していたはずだしね。だからその点を明確にするためには、さらに粒度の細かな脳科学の知見に参照する必要がある。そこで取り上げたいのは、すでにあげたアンディ・クラークのThe Experience Machineで展開されている脳の予測処理に関する記述。実は脳の予測処理には、行動によって環境に働きかけるという要素が含まれる。ここで言う環境には他者も含まれる。これに関しては『イマジナリー・ネガティブ』を取り上げたときにも、かなり細かく引用したけど、ここでもう一度引用することにする。まず次のようにある。「脳の根本的な課題は、生き残れるようにすることであり、それは不確実さに満ちた複雑な世界で行動することを意味する。行動はタイヤが地面に接触する部分に相当する――脳は、高価な代謝コストを払うことで、進化の過程で得た地位を維持しなければならない。¶意外に思えるかもしれないが、予測は行動のエンジンでもある。というのも、(予測処理に従う)日常の行動は、身体感覚の予測によって引き起こされるからだ。より正確に言えば、日常の行動は、まさにその行動が実行された場合に生じるはずの身体感覚の流れの予測によって引き起こされる。よって予測による行動制御には、一種の仮定的な性質がある。脳は、当該の行動を実行した場合にものごとがどう見え、感じられるのかを予測し、その予測をめぐって生じたエラーを減らすことで、行動や動作をもたらす。必殺のスマッシュやサーブを打ち込むことがどのように見え、感じられるのかを予測することで、まさにその必殺のスマッシュやサーブが放たれるのだ。だがこれは、「ポジティブ思考」の受け売りで言っているのではなく、脳がいかに身体をコントロールしているのかに関する詳細な分析を示している。ここで言いたいのは、行動の遂行には一種の自己充足的予言が関与するということだ。特定の動きが生む感覚的な効果を詳細に予測することで、まさにその動きが引き起こされるのである(同書70〜1頁)」。また、次のようにある。「だが予測処理理論は、単なる最新の知覚理論ではなく、行動に関する新たな理論でもある。非常に興味深いことに、予測処理理論は知覚と行動を完全に統合する初めての理論であり、感覚状態をめぐる予測エラーを最小限に抑えるという共通の目標を達成するために構築された能力として知覚と行動を捉える。知覚とは感覚的証拠にもっとも適合する予測を発見することであり、行動とは予測に沿うよう世界を変えることだ。つまり知覚と行動は、予測エラーに対処する相互に補完的な手段なのであり、つねに互いに影響を及ぼし合いながら機能しているのである(同書212〜3頁)」。「行動とは予測に沿うよう世界を変えることだ」というくだりに着目されたい。この「世界」には、他者の心や思考や行動も含まれる。予測処理理論がほんとうに正しいのか否かは脇に置いておいたとしても、このような脳(や身体)と心と環境(や他者)の循環ループ/相互作用は、最近の脳科学や認知科学の主要なテーマの一つになっている。さらに言えば、行動には反応も含まれるわけで、たとえば精神病の発現(現象学的精神医学の主要テーマの一つ)もそれに含まれる。拙訳、スザンヌ・オサリバン著『眠りつづける少女たち』では、この循環ループが毀損するといかなる奇怪な精神症状が現れうるかが具体例を用いて論じられている。また脳科学者で現象学者でもあるゲオルク・ノルトフ氏は冒頭であげた『脳はいかに意識をつくるのか』で、たとえば統合失調症患者ではいかに「世界−脳」関係が崩壊しているかが論じられている。このように間主観性の問題に関しても、現象学的知見と科学的知見は互いに補完し合うのですね。
ということで、ここではおもに本書で提示されている現象学的概念(志向性、直観、ノエマとノエシス、内在的知覚、把持と予持、間主観性など)が、いかに科学的知見によって補完することができるかに焦点を絞ってきた。その際、アカラサマ、もといステマを兼ねて、おもにわが訳書を取り上げてきた。実を言えば加藤氏からこの新書本をちょうだいした折に、加藤氏が「「経験の仕組みを解明する」という点で、思いがけずアンディ・クラークの論点と重なる部分があるかもしれません」と述べられていたので、それに対して私めは「クラークの能動的予測という概念は、カントのコペルニクス的転回から現象学に至る、主観によって世界がいかに構築されているかを探究する哲学とも、確かに関連する部分はあるでしょうね」と答えた。メールだったのでもちろん、その詳細は述べなかったわけだけど、このレビューによってクラーク本のみならず他の最近の脳科学、認知科学本も援用することで詳細を明瞭にしようと考えたというわけ。そのような意図もあったため、脳科学や認知科学との接点が、少なくとも現時点では見出せなかった記述にはあまり触れなかったので、現象学それ自体に興味がある人は、ぜひこの新書本を読んでみてみて。ちなみに最後に現象学関連の「読書案内」もあるよ! 一つだけ余計なことを言うと、「あとがき」に「いまだに私は原稿用紙の愛用者(279頁)」とあるのには驚かされた。1988年生まれの著者が原稿用紙を愛用しているというのは、去年の末から年金をもらうようになった(まだ厚生年金分だけだけど)私めからしても驚きとしか言いようがない。翻訳者たる私めはいつも、「ワープロがない時代だったら、とても私めには翻訳者は務まらなかっただろうな!」と思っているくらいだし。何せワープロを使えば、修正なんか修正液を使わずとも簡単にできるんだからね。
※2025年4月21日