◎渡邉雅子著『論理的思考とは何か』(岩波新書)

 

 

お隣のぷち紀伊國屋さんで手に取ったときには、「この新書本もよくある論理学入門の本なのかな?」と思った。ところが「はじめに――論理的思考はひとつなのか」の冒頭を立ち読みしただけで「これは買わにゃあかん!」と思ってレジに直行した。その冒頭の部分には次のようにある。「論理的に考えることは、学術のみならずビジネスや教育、日常の判断に至るまで幅広い分野でその重要性と必要性が指摘されている。世界共通で不変のように語られている論理的思考だが、そもそも論理的であるとはどのようなことなのか、論理/非論理の線引きは何によって行われるのか。論理的に思考する方法は本当にひとつなのか。¶本書はこれらの問いに、論理的思考が世界共通で不変という考えのもとになった論理学の「形式論理」に対して、論理には文化的側面があることを指摘し、それを価値観に紐づけられた「本質論理」と名づけて、思考の「基本パターン」の側面と「文化的」側面の両面から答えていきたい。¶思考する目的が異なれば、その手段としての結論を導く手続きが変わり、論理的であることの基準が変わる。目的に応じて異なる論理的思考法を使いこなすことが重要で、それこそがこれからの論理的思考であると指摘し、その道筋を示すのが本書の目的である。複数ある論理的思考を、目的に応じて選択して使いこなすことを本書では「多元的思考」と呼ぶことにする(@〜A頁)」。「論理には文化的側面がある」という言明には、驚くべきものがある。私めも、文化相対主義的な側面を一部に持つ本として、リサ・フェルドマン・バレット著『情動はこうしてつくられる』やバチャ・メスキータ著『文化はいかに情動をつくるのか』を訳しているとはいえ、それらの本のテーマは論理ではなく情動なのですね。情動の発露や他者が発露した情動の理解に文化が影響を及ぼすという提言は、そこまで過激には思えない。それに対し一般的に普遍的であると見なされている論理までが、文化の影響を受けるというのは、実に斬新に聞こえる。

 

それともう一点、昨日まで読んでいた『現代日本人の法意識』(講談社現代新書)という、元裁判官で現在は明治大学教授を務めている人物が書いた日本人の法意識に関する本を読んで、あまりにも普遍主義的、というか正確には欧米至上主義的で、「文化による影響を無視しても構わない」、「前近代意識にとらわれた、たこつぼ的なムラ社会の日本も欧米流のやり方を見習わねばならん」的な、いかにも出羽の守が言いそうなことが書かれていてうんざりしていた(それでも最後まで読んだ、エラい!)ところなので余計に新鮮に感じたこともある。ちなみに『現代日本人の法意識』の著者は、「村社会」ではなく「ムラ社会」などとカタカナ書きしているが、そこにすでに、特有のいやらしさというか印象操作を感じてしまうのは私めだけかな? 「べったりリアリズム」などといった、学者が使うとはとても思えないような、いかにもヘイト感満載の言い回しにも同じことが言える。普段は特に注目すべき点がないと感じた本に関しては、この「ヘタレ翻訳者の読書記録」には取り上げないことにしているけど、『論理的思考とは何か』の視野の広い柔軟な思考と、『現代日本人の法意識』の視野の狭い硬直した思考の著しい対比を、どちらの本も最近読んだばかりであることもあってとってもとっても鮮明に感じたので、『論理的思考とは何か』の特徴を浮き彫りにするために、この法学者の本をあえて取り上げたというわけ。ただし『現代日本人の法意識』については、いつものように付箋を貼り貼りしながら読んだわけではないので、この本からの引用は一切しないが、日本人の法意識=前近代的な意識にとらわれたムラ社会的な見方は最後の三章に明確に現れている。

 

法には確かにより普遍的な側面があってしかるべきであることは確かで(それについてはあとで述べる)、裁判官出身の著者が普遍主義に傾斜しても不思議ではない。だとしても、論理が文化の影響を受けるのなら、法も受けてもおかしくないよね。たとえば「汝殺すなかれ」(法ではないかもだけど)という言明でさえ、普遍的に当たり前田のクラッカーであるとは言えない。法的場面で言えば正当防衛で人を殺した場合がそれにあたる。正当防衛が認められるか否かは、文脈に参照するしかない。つまり普遍的に決められるものではない。文脈にはもちろん文化も含まれる。結局法といえどもその適用にあたっては、文化面を考慮せざるを得ないのではないか。そう思ったわけ。確かにムラ社会の日本には日本独自の問題がたくさんあるとしても、ムラ社会である日本独自の長所もたくさんある。逆に欧米社会には欧米社会独自の長所があるとしても、欧米特有の問題もある。それにもかかわらず日本に関しては短所だけを見て、欧米に関しては長所だけを見ていたら、それはそこらの出羽の守と同じ思考様式だと言われても仕方がない。そもそもアメリカのようななんでもかんでも訴訟に持ち込むような社会のほうが、な〜な〜で済ませようとする日本のムラ社会よりも絶対的にすぐれていると言い切れるのか否かはまったくわからない。法意識に関するこの件には、ムラ社会ということではないが、『イノベーションの科学』を先日取り上げたときに、ネット用語を借りれば伝統的に魔改造を得意としてきた日本は、シリコンバレー的な能力破壊型のイノベーションより、能力補強型のイノベーションを目指すべきだと述べたのと、かなり似たところがある。つまりどちらの件にも、文化や伝統をまったく無視するべきではないという点が当てはまる。確かに『現代日本人の法意識』であがっているような問題は実際にあるのだろう。でもだからと言って、この元裁判官のような文化の相違を軽視、あるいは無視した欧米至上主義的な硬直した考えを、普遍という名のもとに硬直的に日本に適用したら、社会の土台から崩壊するのがオチではないかという印象を強く受けた。

 

ちなみにリサ・フェルドマン・バレットは、文化の影響を受ける情動と法の関係に関して前述した『情動はこうしてつくられる』で次のように述べている。「情動の科学は、法がこれまで長いあいだ抱いてきた、人間の本性に関するいくつかの想定を照らし出すための便利な懐中電灯になる。すでに述べたように、その種の想定は、人間の脳の構造に基づく裏づけがない。人間は理性という陣営と情動という陣営を抱え、前者が後者を統制しているのではない。判事は、そのとき感じている気分を脇に置いて、純粋な理性のみによって判決を下せるわけではない。陪審員は、被告に情動を検知することなどできない。もっとも客観的に見える証拠ですら、感情的現実主義に染まっている。犯罪行為を脳の特定のかたまりに位置づけることはできない。(…)要するに、他のいかなる場所とも同様、法廷で生じるあらゆる知覚や経験は、公正な手続きの結果として得られるのではなく、文化を吹き込まれ、高度にその人に特化され、外界からの感覚入力による訂正を受ける(同書410〜1頁)」。つまり、法廷における法の裁きでさえ、文化の影響を受けた情動を考慮に入れない限り、間違いを犯す可能性を格段に高めてしまうことになる。だからバレットは、「法制度はいずれ、経験や行動を導く概念や予測に対して文化が持つ巨大な影響力に対処しなければならなくなるだろう(410頁)」と主張しているわけ。『現代日本人の法意識』を一度読んだ限りでは、この元裁判官のような、日本人の法意識の問題を日本特有のムラ社会に求めるような考え方では、「経験や行動を導く概念や予測に対して文化が持つ巨大な影響力に対処」できるとは到底思えなかった。むしろ日本の社会がそういう社会であることを前提として考えていかない限り(ムラ社会を廃止するなど非現実的であるうえ、無理にそうすれば日本社会が持っている長所も一緒に捨て去ることになる)、現実的にその問題を解決することは無理でしょうね。

 

『論理的思考とは何か』に戻ると、著者はおもな論理的思考方法を次のように四つ取り上げる。「こうした論理的思考の方法は「無限に」あるわけではなく、いくつかのタイプを「型」として提示することが可能である。本書では「経済」(アメリカ)、「政治」(フランス)、「法技術」(イラン)、「社会」(日本)の四つの領域に固有の論理と思考法を、各領域で書いたり話したりする時の「型(構造)」に注目して提示する。政治、経済、法、社会の領域は、どこの国にも併存しているが、「どの領域の論理を使うのか」によって、その判断(結論)は変わってくる。このようなアプローチを取ることで、国ごとに無数に論理とその思考法があるとする文化相対主義に陥らず、有益かつ基本的なタイプを特定することができると考える(C〜D頁)」。「「どの領域の論理を使うのか」によって、その判断(結論)は変わってくる」という一文に注目しましょう。それから著者は、次のように述べる。「こうして四つの領域の思考法を明らかにしたところで本書がすすめるのは、目的と場面によって、四つの型を使い分けられるようになることである。それこそが、科学技術と資本主義に支えられ、ひとつの論理で押し通してきた次の時代の論理となり、また力となると考える。論理的思考から、多元的思考へのシフトである(H頁)」。これはまさに先の『情動はこうしてつくられる』で情動を対象にバレットが述べていることを、論理に関して述べているに等しいと見なすことができる。

 

次に「序章 西洋の思考のパターン――四つの論理」に参りましょう。この章では、準備体操として西洋、つまり欧米で主流になっている「論理学」「レトリック」「科学」「哲学」における四つの論理的思考について論じられている。本を持っている人は4頁から5頁にかけて掲載されている「表序−1 四分野の思考法の比較」を頁に穴があくほど見られたい。そのなかでも一点強調しておくと、「論理学」は演繹的推論、「レトリック」は蓋然的推論、「科学」は遡及的推論(アブダクション)、哲学は弁証法に基づいて推論が行なわれるとされている点に留意されたい。ここでそれぞれの論理を簡単に紹介しておきましょう。「論理学の論理(演繹的推論)」に関しては、たとえば三段論法などでよく知られているのでここではスキップする。「レトリック(説得)の論理(蓋然的推論)」とは何か? まず次のようにある。「レトリックは常識を基盤として、一般大衆に向けて説得的な弁論を行うための技術なのである(17頁)」。しかしこれだけだと、他者を説得するために意識的に行使されるのが「レトリック(説得)」ということになりそうだけど、個人的には最近の認知科学の知見を適用して自分自身に対する意識的のみならず無意識的な説得も、ここでいう蓋然的推論に含めたほうがよさそうな気もした。というのも、そのあとに次のような記述が見られるから。「レトリックにおいて重要なのは、「日常の論理」である。日常の論理を支えるのは、論理学の演繹的推論に対応させた「蓋然的推論」と、帰納に対応させた「例証」である。「蓋然的推論」の前提となるのは、人々の「常識」あるいは「通念」とも呼ばれる社会一般に共通して認められている考えである。蓋然知とは常識のことを指し、人々の日常生活の行動の規範であり、判断の拠り所でもある。(…)説得推論の真実らしさは、計測可能な蓋然性(確からしさの確率)とは異なる質的なものであり、「道理がある、もっともだ」の意味である。論理学的、科学的な確実さではなく、人間的な確実さ、社会的な確実さといえる(20頁)」。「人々の日常生活の行動の規範であり、判断の拠り所でもある」のなら、それは必ずしも意識的に作用する必要はないことになる。そもそも人が常識的な判断を下すときには、いちいち三段論法的なアルゴリズムに従って意識的に結論を導き出したりはせず、一気に無意識的に判断を下すのが普通であるように思われる。私めならこれは「直観」と言うかもしれない。無意識的に作用する直観は従来、認知的で合理的な能力だとは考えられていなかったとはいえ、最近の認知科学や神経科学ではむしろ認知的で合理的な能力として見なされるようになりつつある。たとえば認知科学者のヒューゴ・メルシエ&ダン・スペルベルが『The Enigma of Reason』でそのような議論を展開しているし、神経科学者のジョセフ・ルドゥーは最新刊の『存在の四次元』(今年3月に拙訳でみすず書房から刊行される)で、直観を認知的次元にも含めている。常識は、まさに無意識的な作用でありながらも認知的に作用しうる直観に訴える点にその力の源泉があると個人的には考えている。それからレトリックの特徴として、それが価値判断に関係することが次のように述べられている。「論理学では、文と文の関係は形式的に取り出すことで、文脈や価値観に左右されずに推論の形式から結論の真偽を決定する。それに対して、レトリックが扱うのは価値判断である。価値判断とは「事の優劣、適否、理〔道理〕の有無に関する推論」である(22頁)」。

 

お次は四つの論理のなかではもっとも扱いがむずかしい「科学的発見の論理(遡及的推論:アブダクション)」。なぜ扱いがむずかしいかというと、アブダクションは著者が述べるように「科学的発見の論理」であると同時に「欺瞞の道具」にもなるからですね。私めが考え違いをしていなければ、アブダクションは一般には「述語論理」と見なされ、たとえば次のように推理することをいう。「英雄は色を好む」→「俺は色を好む」→「ゆえに俺は英雄だ」などといったように、述語の共通性によって大前提と小前提の主語を結びつけるわけね。この誤謬推理では、英雄には色を好まない人がいるはずだから前提それ自体が間違っているという点はまったく関係がない。前提が間違っていようがいまいが、推論の形式が妥当でないから誤りなのですね(実際にすべての英雄が色を好んだとしても、色を好むヘタレもいる)。この例を見ればわかるように、このような推論が明らかな間違いであることはすぐにわかる。しかしこのようなロジックを巧妙に利用して、無理筋の議論で人を説得しようとするとんでもない輩がいる。たとえば「平和主義者はイヌをかわいがる」→「ヒトラーはイヌをかわいがっていた」→「ゆえにヒトラーは平和主義者だった」などといった感じ。ちなみにヒトラーがイヌを愛玩していたのは事実。この場合でも、この論理がいかにおかしいかはすぐにわかるが、巧妙に提示されるとなかなか見破れなくなる。たとえば次の例はどうだろう。「教養人はクラシック音楽を愛好する」→「ゲッペルスはクラシック音楽を愛好していた」→「ゆえにゲッペルスは教養人だった」→「ところで教養人は人を殺したりはしない」→「だから教養人であるゲッペルスがユダヤ人を殺せたはずはない」となると、ヒトラーとイヌの場合に比べれば、騙される人もそれなりにいると思われる。まあこれでも、ネオナチ以外の普通の人は騙されないだろうが、このような推論がもっと複雑化して、とりわけ最初のほうの推理の展開がいつのまにか当為と見なされるようになって信念や通説と化し(「ゲッペルスは間違いなく教養人だったのだ」など)、誤謬推理の部分が頭から消え失せてしまったうえで、それをもとに追加の推論が展開されるようになると、ネオナチでなくてもこの手の推論をいともやすやすと受け入れるようになってしまうことになろう。このようにアブダクションという誤謬推理は、イデオロギーのゴリ押しに用いられることが多い。ネットに上がっているオールドメディアの切り抜き動画などでも、これに近い論法が使われているのをたまに見かける。

 

でも、そのアブダクションは著者も言うように科学的発見の論理にもなる。著者による科学の発見におけるアブダクションに関する説明は次のようなもの。「演繹と帰納とともに、第三の推論とされるのがアブダクションである。アブダクションは遡及的推論とも呼ばれ、結果からさかのぼってその原因を推測する論理である。前提から結論を導き出す演繹的推論とは逆の経路をたどる。科学的探究の最初の段階である「仮説」(なんらかの現象や法則性を説明するのに仮に立てられた考え)を作る時に用いられる。科学理論や法則の発見のもとになる仮説の形成過程は、天才のひらめきによって説明されることが多かった。しかし、演繹や帰納との違いを強く意識しながら、その論理を表現したのが以下のアブダクションの推論の形式である。¶¶「常識では腑に落ちない驚くべき事実Bが観察される」¶「しかし、もしA(という原理・原因・条件)が正しいとすれば、Bは当然のことであろう」¶「よって、Aが正しいと考えるべき理由がある」¶¶この構造を論理学の一般的な形式に倣って書くと、¶¶「Bである」¶「もしAならばBである」¶「よって、Aは確からしい」(27〜8頁)」。さすがに後半のAやBの説明はわかりにくいからか、著者は米盛裕二氏の『アブダクション――仮説と発見の論理』から「海王星の発見」の例をあげている。これなら具体的でわかりやすい。次のようにある。「天王星の異常な運動という変則性に注目したイギリスとフランスの天文学者は、何が原因で起こるのかその可能な原因を調べ、熟慮の結果、天王星の外側に未知の天体が存在し、天王星の軌道に影響を与えているのではないかという仮説を立てた。そしてその仮説が真だとしたら、未知の天体の軌道要素はどのようなもので{なくてはならないか/傍点}を{計算で/傍点}求め、それをもとに未知の天体の位置を予測した(仮説の{必然的な帰結/傍点}として予測を行う推論と計算が演繹)。そしてその予測に従ってドイツの天文学者がベルリン天文台で観察したところ、一八四六年に海王星が確認された(経験による仮説の検証=帰納)(31頁)」。

 

ある意味でアブダクションには諸刃の剣的な側面があると言える。イデオロギーやプロパガンダでも、科学の発見でも利用できるわけだから。後者の側面に関して著者は次のようにも述べている。「すり足で進む演繹的推論では認められない、常には正しくない、論理の必然的な帰結として導かれるわけではない「非−論理的」な思考が、未知のものの発見という思考の飛躍を可能にするのである。科学という厳密な学問領域とは一見相容れないような「創造性」を積極的に受け入れる推論の形がアブダクションなのである(32頁)」。まさに「非−論理的」であるがゆえに、それを用いる人の意図によっては科学における創造的な発見のようにポジティブではなく、イデオロギーやプロパガンダの流布のような、ネガティブな目的にも利用されてしまうのでしょう。最後にアブダクションの実践的な意義について次のようにあるので引用しておきましょう。「この推論の形は、「間違う可能性」を「非論理」として退けるかわりに、その積極的意義を認め、人間の獲得する知識は決して最終的な真理と確定することはできず、むしろ常に誤りが見つけられ修正される可能性を残しておかなければならないとする「{可謬/かびゅう}主義」という新しい知識の見方を提示した。誤りを正す作業の蓄積によって知識は広がるのであり、科学はまさにそのような歴史の積み重ねによって発展してきた(35〜6頁)」。科学が絶対的な真理を表すと考える科学至上主義が誤りである理由の一つは、ここに見出せる。

 

お次は「哲学的探究の原理(弁証法)」だけど「正→反→合」という推論過程を踏む弁証法はよく知られているのでここではスキップする。ヘーゲルさんは、この本来無時間的な論理を歴史という時間的次元に持ち込んだということはあえて言うまでもないよね。まあ論理をアルゴリズムに展開したという点でヘーゲルさんはチューリングさんの先駆者というべきか? おっと! あまり変なことを言うとタコ殴りにされそうなのでこのあたりでやめておきますら。実はここまで紹介してきた序章は、西洋の思考のパターンを紹介しただけであって、文化によって論理的な思考のパターンが変わるというこの本の本来の主題からはややはずれていた。だから序章と銘打たれているわけね。したがってここからがいよいよ本番になる。

 

ということで次の「第1章 論理的思考の文化的側面」に参りましょう。冒頭に次のようにある。「グローバル化が進み、世界共通のビジネスモデルや教育モデルが示される一方で、文化の衝突は思わぬところで起きている。衝突の影響は極めて深刻なのだが、その実態は見えにくく、意識されずに過ぎてしまうことが多い。たとえば母国で優秀な成績を修めた学生が、海外の大学でつまずくことがある。言語や教育方法の違いがつまずきの理由に挙げられがちだが、母国と留学先の作文/小論文の「論理の展開の違い」に根ざした、思考法の違いが原因であることも多い(48頁)」。最後の文章にある「作文/小論文の「論理の展開の違い」」については、「第2章 「作文の型」と「論理の型」を決める暗黙の規範」で具体例をあげて説明されている。いずれにしても「文化の衝突」ということで最初に思い浮かぶのは「移民問題」だよね。その「移民問題」の原因の一つが、移民と受け入れ側の住民の情動的な実践、すなわち自分の情動の発露のあり方と、他者が発露した情動の解釈のあり方の相違にあることはバチャ・メスキータ著『文化はいかに情動をつくるのか』を取り上げたときに述べた。でもここでは、情動ではなく論理的思考法が関与する論文の評価に関してすら、留学元と留学先の国の独自の論理的思考法によってあつれきが生じうると主張されているわけ。確かに移民問題に比べれば深刻度は低いのかもしれないとしても、当の留学生にとっては大問題になりうる。

 

次のアメリカの応用言語学者カプランによる「英語・アングロサクソン」「セム語」「東洋」「ロマンス語」「ロシア語」の論理展開のパターンの図と説明はなかなか興味深い。本を持っている人は49頁の図に注目しませふ。この図に関して次のようにある。「世界に共通する普遍的な「必要な要素」とそれを並べる「順番」があるわけではなく、読み手がその社会・文化の中で馴染んだ型があり、そこにはいくつかのパターンが認められるということである。カプランが図で示した四つの[五つの?]パターンは、その型を視覚的に表現したものだった。「矛盾のないこと」が論理学の三原則のもとになっているように、前後の内容に矛盾がないことが作文でも重要である。しかし、その形式論理の無矛盾の原則を守った上で、読み手と書き手の間に作文に必要な要素とそれらを述べる順番についての合意が必要だということである。つまり論理的であることは、社会的な合意の上に成り立っているものだといえる。だからこそ文化圏によって違いが現れる。それは、言語や文化に左右されない論理学の形式論理とは異なる〈論理〉の考え方である(50頁)」。

 

また論理は文化によってのみならず、政治、経済、法、社会という領域によっても変わってくると主張される。その理由はそれぞれの領域にはその領域独自の価値観が適用されるからということらしい。次のようにある。「価値観とは、何を優先して何を後まわしにするか(犠牲にするか/切り捨てるか)、その順位づけに現れる。そして優先の順位づけは「何を目的とするのか」によって決まる。価値観に紐づけられた論理を考える時、「どのような論理が各領域で成り立つのか」、そして究極的には「{何のために/傍点}思考するのか」という問いが私たちに突きつけられる。確かに演繹や帰納などの推論の形式、つまり道具としての論理的思考は多様な場面で役に立つ。しかしより本質的なのは、「どの領域のいかなる価値観のもとで思考するのか」という価値の選択と、その価値に合致した論理の使用である。経済の問題として捉えるのか、政治の問題として捉えるのかによって正しい結論と結論に至る道筋は変わってくる。これを単なる制度(領域)の違い、制度固有の表現形式の違いとして受けとめると、私たちはどのような価値観に基づいて思考しているのか、どのような論理を論理的だと受けとめて思考し、判断しているのかに無頓着となり、予期せぬ文化衝突に遭ったり、判断を間違えたりする(54頁)」。まさに冒頭であげた元裁判官が書いた『現代日本人の法意識』は、法技術領域のなかでしかものごとを捉えずに、本来社会的な次元に属するはずの「現代日本人の法意識」を裁断している点に、私めは視野が狭く硬直しているという印象を受けたわけ。

 

『論理的思考とは何か』に戻ると、著者は、次にこれら四つの領域における論理を「経済領域(形式合理性による主観的判断)」「政治領域(実質合理性による客観的判断)」「法技術領域(形式合理性による客観的判断)」「社会領域(実質合理性による主観的判断)」として解説しているけど、ここでは『現代日本人の法意識』にも関係する法技術領域と社会領域のみを取り上げる。他の二領域については、お薦め本でもあるしこの新書本を買って読んでみてね。法技術領域については次のようにある。「B法技術領域(形式合理性による客観的判断)¶目的も手段も個人から独立した集団、あるいは自然の摂理により所与のものとして客観的に提示される。自然法(自然界の一切を支配する理法、自然の法則、科学的な法則、自然に由来し古今東西を問わず当てはまる法律)。定言的命令として下される宗教の教義やイデオロギーなどを人間が従うべき絶対的権威と見る。これらの権威には絶対的な価値基準が存在し、目的と手段もそこから導かれているので、両方について人々はいつでも論理的に合意できる(Watanabe 2004)。所与の目的を達成するための手段も、所与のものとして一義的に決まるため、意思決定は技術的(テクニカル)なものとなる(Weber 1978: 65-67)。目的も手段も個人から独立して客観的に存在することがこの領域の特徴である(60〜1頁)」。『現代日本人の法意識』の著者は、ここに定義されているのとまったく同じ論理を展開している。だから冒頭で「法には確かにより普遍的な側面があってしかるべきなのは確かで裁判官出身の著者が普遍主義に傾斜しても不思議ではない」と書いたわけ。ところがとりわけ「現代日本人の法意識」のような、法技術的領域とともに社会領域にも関係する主題を論じるにあたっては、どちらの領域も正当に視界に収めなければならない。

 

そこで次に社会領域に関する記述を取り上げましょう。次のようにある。「C社会領域(実質合理性による主観的判断)¶価値の志向は個人の中にそれぞれ主観的にあるものなので、目的にも手段にも社会の構成員の間で明確な合意がない(Watanabe 2004)。しかしそれぞれの価値に基づき行動する個人から構成される社会が統制と秩序を保つためには、他者への共感を通して、明文化されない緩やかな価値(和の尊重や譲り合いの精神など)のもと、その価値に適合すると考える態度や行動を「状況に応じてその場その場で」個人が選択する道徳心が求められる。価値の到達のための手段には様々な行為が考えられるが、その行為によってどれほど価値が達成されたかの客観的な評価は困難なため、目的の達成よりも、価値に向かう正しい「態度」や「意欲」が重視される。政治領域とは異なり、他者を憐れむ感情や親切心、場における行為の適切さや他者の共感が得られる行為に価値が置かれる(61〜2頁)」。最後の一文の先頭には「政治領域とは異なり」としか書かれていないけど、法技術領域とも異なるでしょうね。だからこそ社会領域に関してタコツボ的なムラ社会だから日本人の法意識が欧米より遅れているのだと論じるだけでは不十分であり、そもそもほんとうに日本がタコツボ的なムラ社会であるのなら、そこには短所とともに長所もあったはず(短所しかないのならとうの昔に廃れていなければおかしい)。たとえばアジアで欧米的な文化や技術を真っ先に取り入れることに成功した国は日本なのであって、どうして単なるタコツボ的なムラ社会がそんな偉業を達成できたかが、ダメ出しするだけではさっぱりわからない。日本は社会領域を重視するからこそ、「和の尊重」、「譲り合いの精神」、「他者を憐れむ感情や親切心」、「場における行為の適切さや他者の共感が得られる行為」などといった心的態度や行動を重視するのであって、経済領域や政治領域や法技術領域を重視する欧米諸国を基準にして、それらの特徴を持つ日本の社会をタコツボ的なムラ社会と呼ぶことは、欧米にはあまり見られない日本の長所をまるごと切り捨てることに等しい。

 

このように、社会領域の要件がまったく不十分にしか考慮されていない、言い換えれば欧米的な法技術領域の主張でもって、日本的な社会領域の特徴を、悪い点ともども良い点も切り捨てているというという印象を、『現代日本人の法意識』を読んで強く受けたというわけ。そのような、社会領域内の問題をそれ自体として検討するというより社会領域をまったく別の領域である法技術領域の見方で裁断するやり方には、現実を歪曲する危険すらともなうようにすら思われる。そもそも日本は前近代的な意識にとらわれたムラ社会であるというよくある見方そのものが、「ムラ社会はXXだ(もしくはムラ社会にはXXをする習慣がある)」→「日本はXXだ(もしくは日本にはXXをする習慣がある)」→「ゆえに日本はムラ社会だ」というアブダクション的誤謬推理に基づく可能性すらあるのだから。『論理的思考とは何か』の第1章の末尾にも次のようにある。「これらの四つの領域は領域独自の「目的と手段」をセットとして持ち、「何を優先させるか」が明確なため、それぞれが固有の価値観(価値の基準)を持っている。この四つの領域を取り上げる意義は、多くの社会でこれらの領域は併存していながら、どの領域を優先させるかに社会の価値観が現れ、当該社会の文化的な色合いが決まることである(62頁)」。著者の考えによれば日本では四つの領域のうち社会領域が優先されるのであって、それを無視して「現代日本人の法意識」を論じれば、極めて非現実的な見立てしか得られなくなってしまう。『現代日本人の法意識』を読んだときには、まだ『論理的思考とは何か』を読んでいなかったわけだけど、前者に感じた強烈な違和感の少なくとも一部は、後者の論理によって説明できることに気づいたというわけ。ちなみに前述したように、法学者ではないが認知科学者のバレットも、『情動はこうしてつくられる』で、現代(アメリカ)の法実践、法意識が抱えている微妙な問題を指摘している。そしてそこでは、法技術領域と(情動という形態で)社会領域の両方がきちんと考慮されていた。

 

ということで次の「第2章 「作文の型」と「論理の型」を決める暗黙の規範」に参りましょう。この章は、序章と終章を含めた五つの章のなかでも、もっとも長い。ただ論文の書き方や構成が、適用される論理の違いによって大幅に変わってくることを、「経済領域:エッセイ(アメリカ)」「政治領域:ディセルタシオン(フランス)」「法技術領域:エンシャー(イラン)」「社会領域:感想文(日本)」に分けて細かく分析しているので、非常に粒度が細かくここではわが日本が関係する社会領域に属する「感想文」のみを取り上げる(アメリカとフランスでさえ論文の書き方が大幅に異なるというのは、まさに目からうどん粉ってやつだったけど)。エッセイ、ディセルタシオン、エンシャー、感想文はそれぞれの国の作文の型を意味する。ほんとうは法技術領域も取り上げたかったんだけど、イランのエンシャーというかなり特殊な例があげられているのでここでは割愛した。おそらく著者は、世俗的な法律よりも普遍的側面が色濃く現れるので、神学的な律法が流布しているイランの論文形式を取り上げたのだろうと思う。日本の感想文の話に戻ると次のようにある。「社会領域のレトリックも[イランのエンシャーと同様]論証の形を取らないが、ここで重視されるのは社会の構成員から「共感されるか否か」である。法技術領域に見られるような普遍的・絶対的な倫理ではなく、共同体を成り立たせる親切や慈悲、譲り合いといった「利他」の考えに基づく個々人の「善意」が社会領域の道徳を形成する。道徳形成の媒体となるのが共感である。¶社会領域のレトリックを体現するのは、日本の感想文である。(…)「子どもの作文」といわれ、日本人が論理的に書けない元凶と{揶揄/やゆ}される感想文だが、実は独自の論理を持ち、社会領域に特徴的で重要な役割を果たしている(114頁)」。これを読んでも、社会領域のあり方を、普遍的・絶対的な倫理などの法技術領域独自の考え方で一方的に裁断してはならない理由がわかる。(日本の)社会領域には(日本の)社会領域独自の論理性が作用しているのですね。

 

それからもう一点引用しておきましょう。次のようにある。「感想文で期待されているのは個人の体験・感情・生き方を社会の構成員である他者と共有しうる「共通感覚」として表現すること、つまり「間主観」――個々の主観が他者との相互の修正を経て、複数の主観の間の一致を見ること――の表現として提示することにある。ここでは、普遍的・絶対的な倫理というよりは、共同体を成り立たせる親切や慈悲、譲り合いといった「利他」の考えに基づく「善意」が間主観と道徳を形成する(120頁)」。間主観性とは現象学者がよく使う用語だけど、主観性を扱う現象学では、個人的な主観性からいかに人と人のあいだのコミュニケーションを説明するかが大きな問題になるからですね。現象学的社会学者のアルフレッド・シュッツらはまさにこの問いに答えようとしているわけね。実証を重視する英米では主観性を対象にする現象学を軽視する傾向があるように見受けられるが、そのような見方で日本の社会を分析したらまったく的はずれなものになる。前近代的な意識に支配されたムラ社会という日本社会の見立てにも、そのような英米の思想傾向の影響を受けていないかをまず吟味したほうがよいと思う。なお日本の感想文では起承転結が有効であるという次のような指摘はなるへそと思った。「もともと漢詩の構成法として日本に伝わった〈起−承−転−結〉は、物語のレトリックだと受けとめられているが、日本語による多様な語りを構造化する唯一の組織原理であるとされ(Hinds 1980)、感想文にも効果的である(117頁)」。ということは社会領域が重視されない文化のもとでは、日本の小中高では耳がタコピー(え? そのタコのことではないってか?)になるほど聞かされる起承転結はあまり重要ではない、あるいはむしろ有害だと見なされるということにもなる。とりわけ経済領域に属するアメリカのエッセイではそうなのでしょうね。途中でしびれを切らした先生さまに、「あんたいったい何が言いたいの?」とか言われそう。

 

それから「綴方」に関する指摘が非常におもろかった。ある年齢以下の人は、おそらく「綴方」という言葉すら知らないでしょうね。実はかく言う私めも、「綴方」とは正しい漢字で正しい文章を書くくらいの意味でしか捉えていなかった。実はそうではないことをこの本を読んで始めて知った。まず次のようにある。「感想文は第二次世界大戦後、新しい社会の作文の書き方として考案された日本独自の様式(ジャンル)である。一九五五年に青少年読書感想文全国コンクールが始まったのを機に、全国に広がり定着した。しかし感想文は、戦前の「綴方」なしにその成立は語れない。¶精神修養という価値的な目的のために、子どもの経験的叙述に徹底的にこだわって現実を認識する綴方は、[日本の]社会領域に独特の思考法と表現形式を形成してきた(128頁)」。で、鶴見俊輔氏によれば、「綴方は社会運動のひとつの形態として「日本のプラグマティズム」であると高く評価されている(131頁)」のだそう。では綴方の効能とはどこにあるのか? それに関して次のようにある。「時代に合わせて変化してきた綴方をひとつの継続的な教育実践として存続させた連続性とは何だったのか。これまで綴方の民主主義的、あるいは社会主義的な側面は多くの研究によって指摘されてきたが、見落とされてきたのは、綴方の教育理念と方法が「「近代化」に伴う「教育」概念登場以前の、前近代的・東洋的な人間形成思想を継承したものであるという視点であった」と芦田[芦田恵之助。綴方の基礎を築いた人物]の教育思想の研究者は指摘している(山田 2020:15)。序列や競争を廃し、児童ひとりひとりが持つ徳の種をそれぞれの内観によって自然に成長させるという芦田の教育観は、西洋起源の児童中心主義というよりは、近代以前に日本に浸透していた子ども観や自然観をより反映していると考えられる。人間を自然の一部とみなす東洋の自然観は性善説を取り、子どもをより自然に近い完全な者、かわいがるべき者と捉える。その自然観は、日常の生活の中から児童自身がそれぞれに学び得るものを学ぶという伝統的な教育観を支えている。自然と切り離された罪深い人間、あるいは自然と対峙し、科学技術によって自然を利用(搾取)する西洋近代の自然と人間の関係とは一線を画するものである(132〜3頁)」。

 

ここでまず、綴方は「前近代的」と評されていることに着目しましょう。ところがこの引用の後半を読めばわかるように、その「前近代的な」綴方には日本独自の目標があるのですね。それを無視して、日本の文化的習慣や意識を「前近代的な意識に支配されたムラ社会」の産物として、当然のことのように切って捨てるのなら、そのような思考様式は、非現実的な妄想を生む結果につながると言わざるを得ない。前述のバチャ・メスキータ著『文化はいかに情動をつくるのか』では、欧米的なMINE型インサイド・アウト情動と東洋的なOURS型アウトサイド・イン情動が区別され、とりわけ欧米では後者が軽視もしくは無視されていると指摘されている。欧米的なMINE型インサイド・アウト情動と東洋的なOURS型アウトサイド・イン情動に関しては、ここでは前者は個人を重視し、後者は文脈(文化、宗教、人間関係)を重視するとだけ述べておく。詳しくは同書を参照されたい。メスキータ氏は欧米人(オランダ人)であるにもかかわらず、その彼女ですら欧米流の思考様式を批判的に見ているのですね。それにもかかわらず、日本人が日本人の文化を正当に評価できていないのには驚きを禁じ得ない。

 

『論理的思考とは何か』に戻ると、著者は感想文の究極的な利点を次のように述べている。「感想文を通して養われた思考法の強みは、自己と他者の間に共通の主観を構築し、この「間主観性」を内面化することで、外からの強制がなくとも、それと意識することなくあらゆる場面で間主観を思考と行為の指針とすることができることである。状況(場)の変化に柔軟に対応しながら、間主観的に状況を捉え譲り合う「利他」の精神が道徳の中核をなし、それによって強権的なルールやイデオロギーに頼らず社会秩序が形成・保持される。共感と善意による秩序の保持は社会領域の特質である。¶社会秩序の維持に多くの国が莫大な資金を注ぎ込み、対処的なプログラムが試行されながらもいずれも機能しない現状を考える時、感想文は社会秩序の形成・維持という点から再評価されるべきであろう。秩序が保たれ安心して暮らせる社会があってこそ、政治的な安定と経済活動が成り立ち、安全で文化的な生活が営める(134頁)」。「秩序が保たれ安心して暮らせる社会」とは私めが言う「中間粒度の安寧」に他ならない。また私めなら、「政治的な安定と経済活動」というくだりは、「法の遵守」を加えて「政治的な安定と経済活動と法の遵守」とするでしょうね。第2章の最後には、『イノベーションの科学』で述べられていた、日本のイノベーションがシリコンバレー的な「能力破壊型」ではなく「能力増強型」であるという論点を裏づける次のような主張がある。「日本の理由づけは、古いものを捨ててしまわず折衷的に付け加えていくことで、古いものと持続性を保ちながら、それらの関係性の中から新たな創造を生み出していける可能性があり、日本のイノベーションのひとつの型を示している。効率性を犠牲にするからこそ見えてくる世界と、発見の形がある(136〜7頁)」。要するに欧米は欧米独自の長所と短所があり、日本には日本独自の長所と短所があるということ。それにもかかわらず欧米のやり方ばかり称賛して日本のやり方は無視、あるいは軽視するなら、英語の表現を借りれば、赤子とともに産湯を捨てる、もとい産湯とともに赤子を捨てる結果にもなりかねない。

 

次は「第3章 なぜ他者の思考を非論理的だと感じるのか」。この章では経済領域、政治領域、法技術領域、社会領域のそれぞれの内部から見た場合、他の三領域の論理が非論理的に見える理由が、たとえば「経済領域から見た政治領域の論理」などといったように、個別的に検討されている。非常に興味深い指摘も多いが、長くなるので『現代日本人の法意識』との関連で「法技術領域から見た場合の社会領域の論理」についてのみ取り上げる。ただし前述したように、著者は法技術領域の説明としてイランの例を取り上げており、どうやら一般的な法律より神学的な律法に焦点を絞っているため(前述したように、神学的な律法のほうがより強烈に法的側面が顕現するからだと思われる)、やや割り引いて捉えた方がいいのかもしれない。次のようにある。「法技術領域から見る日本の感想文の限界は、まさに「今・ここ」の刹那に縛られ、自らの限られた体験と感情のみに、生きる指針を求めなければならない点にある。エンシャーにおいては、あらゆる体験と自然の営みの背後に神の目的という揺るぎない秩序を見、ことわざの背後に社会の普遍の真理をありありと見ることができるのである。(…)ひとりひとり違っているように見える人間の体験や個性などというものは、表面的なものに過ぎない。歴史は個人や国民という主体によって動かされるものではなく、人間の外にあるより大きな力によって動かされ、偶発性は否定される。時間とともに移りゆく「変化」よりも、「法則性」や「普遍性」に注目し、ものごとの根拠は過去に求められる。それこそが法技術領域の作文におけるリアル――現実であり真実――なのである(154〜5頁)」。作文とあるところは「思考様式」と置き換えればよいでしょう。また「日本の感想文」は「前近代的な意識に支配されたムラ社会的思考様式」とでも言い換えればよい。かくしてこの引用文を読み換えると、『現代日本人の法意識』の著者が、普遍主義の高みから日本人の法意識を貶める理由は、このような性格を持つ法技術領域の範疇に絡み取られてものごとを見ているからだろうということに気づくことができる。

 

ということで最後の「終章 多元的思考」に参りましょう。前半はここまでの章のまとめのような記述が続いているので割愛し、「多元的思考の時代」という節から見ていくことにしましょう。まず次のようにある。「近代の次の時代をひとことで象徴するのは、価値の多様性とその独立性を認める「多元多極主義」である。大国の傘の下で結束したり、無理な合意形成を目指したりするのではなく、個人と共同体が価値を選び取り、ローカルに独立して生きることを指す(168頁)」。ここまでは私めが中間粒度という言葉でいつも述べていることと同じですね。ただし著者はそれに続けて「こうした状況で合意形成が行えるとしたら、「どの領域を優先させて考えるのか」をめぐってである(168頁)」と述べている。つまり四つの領域のすべてを考慮に入れたうえで、そのなかでもどの領域を特に優先するのかを決め、さらには自分が特定の領域を優先していることを自覚することが重要だということになる。『現代日本人の法意識』の著者の大きな問題は、自分が法技術領域を優先している(それ自体は批判されるべきものではない)ことを自覚しないまま、現代日本人の法意識という、日本における社会領域の問題を取り上げてそのあら捜しをしている点にある。その種の傾向について『論理的思考とは何か』の著者は次のように述べている。「自分の常識はどの論理によって作られているのかを知れば、常識という自分の期待が裏切られた時に湧き上がる「相手の非論理性、非合理性」への怒りの感情を抑えることができるだろう。立ち位置を変えて見た時、いかに他領域の論理が非論理的に映るかを理解することで、四つの領域を「俯瞰的に見る」視点を獲得できると考える。(…)鏡なしでは自分の姿を見ることができないように、自己が拠って立つ領域は盲点となって見えない。しかし、四分割表[141頁に掲載されている「表3−1 四領域の価値観、論理、思考法」を指す]の全体の中に位置づけることで自分自身を観察し分析する基準と視点を獲得できるのである(171頁)」。「前近代的な意識」「ムラ社会」「べったりリアリズム」などの言い回しは、まさに日本の社会領域の「非論理性、非合理性」に対する怒りの感情が抑え切れていないという印象を受ける。

 

最後に著者は社会領域が持つ価値について次のように論じる。「自由という名の下の個人主義や競争は、もはや拠るべきただひとつの原理にはならない。社会領域の論理と思考法の果たす役割は、今後ますます大きくなるだろう。なぜなら、社会領域のみが、自然の一部として人間を捉える自然観と、利他主義をその原理の中に組み込んでおり、そのような自然観とものごとの判断基準が、地球規模で複雑に絡み合った問題の解決の{緒/いとぐち}となる可能性に満ちているからである。政治的な駆け引きや経済的利潤、そして宗教・イデオロギーの正当性が激しくぶつかりあう時、科学的データや権威ある書物、そして分析や批判的視点がもはや役に立たない局面もある(173〜4頁)」。本書の主張に対してはここまで全編を通じて同意できたんだけど、最後の最後になってズコーとずっこけてしまった。というのも次のようにあったから。「脳科学によれば、利他主義を支える共感は、人間の脳内のミラーニューロンによって可能になり、これは人間が本来持っているものである(174頁)」。でましたね「共感−ミラーニューロン」説が。この説は発見者の一人であった商売上手のリゾラッティだったかが、マスコミを通じて広げた都市伝説であり、現在ではおそらく共感をミラーニューロンに結びつける科学者はほとんどいないのでは? その種のミラーニューロン神話については、そのものズバリのメインタイトルを持つ『The Myth of Mirror Neurons: The Real Neuroscience of Communication and Cognition』(Norton, 2014)などを参照されたい。なお参考文献を見ると、2014年に刊行された岩波講座の本を著者は参照しているらしい。さすがに脳科学や認知科学は進歩が速いので、専門書でも10年前では古すぎる。『現代日本人の法意識』でも、法学者の著者がベンジャミン・リベットの大昔の実験を取り上げてリベット自身でさえ否定している論拠として用いていたけど、文系の学者には、けっこう科学の問題含みの古くなった発見を取り上げようとする傾向があるように見受けられる。いずれにしてもミラーニューロンに関するこの時代遅れの記述が『論理的思考とは何か』の価値を損なうはずもなく、言いたがりの私がちょっと知ったかぶりをしたかっただけなので気にせんといてね。

 

ということで年末に『現代日本人の法意識』を読んで何でこんな短絡的な議論をするのかとうんざりしていたところに、新年になってこの『論理的思考とは何か』を読んでわが心が快晴になったのでとってもとってもよかった。でも個人的な感想は別としても、この新書本は圧倒的に万人に薦められる。ただし論理学入門なのかと思わせるタイトルは、もう少し工夫したほうがよかったのではないかと思うけどね。そのせいで、タイトルを見ただけで「つまんなそう」と思う人も出てくるだろうから。そんなことは絶対にないことを、ここで私めは保証する(「つまらなかったから、金返せ!」と私めに言われても困るけど)。

 

 

一覧に戻る

※2025年1月4日