◎久保南海子著『イマジナリー・ネガティブ』(集英社新書)

 

 

まあ率直に言って認知科学の入門書といった感じで、商売柄この手の本をいつも読んでいる私めには「nothing new」という印象があった。それでも取り上げた理由は、この本の中心概念である「プロジェクション」が、現在翻訳中のアンディ・クラークのThe Experience Machine: How Our Mind Predict And Shape Reality の主題である「予測処理」に非常に近いように思えたからなのよね。というより、「プロジェクション」の基盤には、「予測処理」というメカニズムが働いていると理解すればよりわかりやすくなるような印象を持った。ということでクラーク本のスニークプレビューを兼ねて取り上げたというわけ。というわけで、入門書と見なせるこの新書本の内容を細かく説明するつもりはなく、わが訳書、とりわけアンディ・クラークのThe Experience Machineに関連する部分をおもに取り上げることとする。なおクラーク本から何か所か引用するつもりだけど(文の先頭が2文字分空白になっている段落がそれにあたる)、訳文は現在見直し中なので、最終的な文章とはやや異なるかもしれないので悪しからず。それから「イマジナリー・ネガティブ」というタイトルが、ねがちぶ思考の権化を自称する私めに、ぴったしかんかんじゃんと思ったこともある。

 

ということで、まずは著者の言う「プロジェクション」の定義から参りましょう。最初に次のような当たり前田のクラッカー的な記述がある。「自分の内的な世界とモノや他者といった外部世界を重ね合わせるようなこと、そのようなこころの働きをとらえる概念は、あまりにもあたりまえなこととして、これまでほとんど検討されてきませんでした。外部からの情報を処理して、世界を認識できたなら、すなわちそれが世界なのだろう、と考えるのは当然といえば当然でしょう。この時、外部からの情報(物理世界)と自分の認識(見え方)にズレはありません。もちろん、たいがいのばあいはそうなのですが、私たちの世界はそんなに単純ではありません(13頁)」。著者は「これまでほとんど検討されてきませんでした」と書いているけど、それは一般人の認識の問題としてはそうだったとしても、まさか哲学、心理学、認知科学などの学問の分野でそれが最近まで検討されていなかったなどということはあるはずがない。単純に、本書でも何度も使用されている「表象」という概念を取り上げてもそのことはわかる。わが訳書ではドナルド・ホフマン著『世界はありのままに見ることができない』が徹底的にこの問題を論じている。ちなみにホフマンは、「インターフェースとして機能する知覚系の役割は、実在の真の構造やメカニズム(実装)を開示することではなく、生き残って子孫を残す可能性を示す適応度を報告することにある」と主張している。だから知覚はインターフェースであり、そのインターフェースを介して心のなかに構築されるものとは、実在の写しではなくあくまでも代理的な「表象」なのですね。

 

ではこの文脈で「プロジェクション」とはいったい何を意味するのか? 次のようにある。「対象(世界)と自分の関係性において、自分がどのように対象(世界)を認識するかだけでなく、認識を自分はどのように対象(世界)へ付加していくのか? こころと世界はどのようにつながっているのか? あたりまえだと思われて見過ごされてきたけれど、このようなこころの働きにアプローチする研究の概念が「プロジェクション」です(15頁)」。これまた「あたりまえだと思われて見過ごされてきた」というくだりがあるけど、少なくとも学問分野で言えば、そもそもカントさんのコペルニクス的転回や、典型的な分野で言えば現象学は、人間が主観的に世界をいかに構成しているかを追究する試みであり、ある意味で「プロジェクション」の研究だったと見ることもできる。さらに次のようにある。「プロジェクションとは、二〇一五年に認知科学の鈴木宏昭先生によって、初めて提唱された概念です。鈴木先生は、「プロジェクションとは、作り出した意味、表象を世界に投射し、物理世界と心理世界を重ね合わせる心の働きを指している」と説明しています。つまり、自分のこころと現実世界をつなぐ働きをしているものに、プロジェクションと名づけたのです。¶人間は、自分をとりまく物理世界から入力された情報を受けとり、それを処理して、表象を作りだします。それは人間にとっての意味となります。けれどこのような情報の受容と表象の構成は、人間のこころの働きの半分でしかありません。もう半分では、作り出した表象を物理世界に映しだし、自分で意味づけした世界のなかでさまざまな活動をしているのです(16頁)」。つまり、心は世界を表象するだけでなく、その表象を逆に世界に投影しているということになる。

 

この見方は冒頭で言及したアンディ・クラークの新刊で言えば、次のような見立てと同じだと言える。

 

知覚は全自動カメラによって撮影された写真より絵画に近い。つまり知覚は、自分自身のニーズや経歴に依存する創造行為なのである。この創造行為において、到来する{生/なま}のシグナルの完璧な描写などというものは存在しない。そうではなく、私たちは、到来する感覚シグナルに対して、自分自身の過去の経験や現在の計画を投影するのだ。つまりあらゆる人間の経験は、過去に浸透され未来を予期する予測によって形作られるのである。(同書142頁)

 

ここで最後の一文に着目されたい。つまりクラークは「プロジェクション」の基盤には「予測」のメカニズムがあると主張しているのですね。だから私めは冒頭で「「プロジェクション」の基盤には、「予測処理」というメカニズムが働いていると理解すればよりわかりやすくなると思う」と言ったわけ。

 

とはいえ私めには、ここまででは説明が足りないように思える。というのも、ある特定の環境で生きている人間は、その環境の表象を形成してそれに意味を与え、それを世界に投射して世界を再解釈すると言うだけでは、ひとたび表象が形成され、それに基づいて世界が再解釈されるようになれば、環境が変わらない限り表象も世界の解釈も永久に変わらないことになってしまい、環境に左右されるだけの受動的な存在として人間を捉えざるを得なくなってしまうから。では何が足りないかというと、人間は自分にとって意味のある世界で意味のある行動(たとえばクマちゃんを見たら逃げるなど)を実行して生存の可能性を高め、のみならず行動によって自己が生存しやすいよう環境を作り変えるということであり、まさにそのために、「作り出した意味、表象を世界に投射し」ているのですね。人間にそのような能力がなく、特定の環境にしか適応できなければ、人類はアフリカ大陸から出て世界各地に拡大することなどできなかったはず。このように知覚は、行動と関係してこそ意味をなすのですね。この見方は、最近の生物(脳)と心と世界(環境)の循環的な相互作用を強調する脳科学者、認知科学者、精神医学者が提起しているもので、私めの勝手な想像などではない。ブザーキらの脳科学者がその代表例になると思うが、わが訳書では、精神科医のスザンヌ・オサリバン著『眠りつづける少女たち』が生物と心と環境の相互作用という主題を扱っている(ただし行動面は、機能性障害の発症という側面でしか言及されておらずあまり強調されていない)。だからその行動面も視野に入れるためには、「プロジェクション」という概念は、「予測処理」という概念で補完される必要があるように思える。そうすれば、より統合的な見方を提供できるはずだしね。というのも「予測処理」の概念は、予測の結果として生じる「行動」や「反応」の存在を前提としているから。

 

ではこの「予測処理」とは何ぞや? そこで取り上げたいのが、アンディ・クラーク著The Experience Machineなのですね。クラークは、この本の第1章の冒頭で、自分が経験した鳥のさえずりの幻聴を紹介したあとで次のように述べている。

 

幻聴や幻視、さらには他の無数の興味深い現象は、最近になってはるかに大きな何か――人間のあらゆる経験の核心に横たわる何か――の兆候として捉えられるようになってきた。

その何か(本書の主題でもある)とは、「人間の脳は予測する機械である」というものだ。脳という器官は、予想と、現実に得られた感覚的証拠の絶えず変化する絡み合いから経験を構築したり、再構築したりするよう進化を遂げてきた。この見方に従えば、私が目覚める際に聞くであろうものをめぐる私自身の無意識の予測が、私の知覚を実際にそのように経験する方向へとわずかのあいだ誘導し、感覚器官を通じて新たな情報が得られやがて訂正されるまで、束の間の幻聴を引き起こしたのである。この新たな情報(鳥のさえずりなど存在しないという情報)は「予測エラー{信号/シグナル}」を生み、このシグナルは――少なくともこの事例では――私の経験を現実に引き戻してくれたのである。かくして幻聴は、「静まり返った寝室」という明確な経験に取って代わられたのだ。しかしこれから見ていくように、誤った予測が根づき、現実(現実とは複雑で論争の多い概念ではあるが)に回帰することが困難になる場合がある。それどころかその種の誤りがなく、ものごとを「ありのままに」見ているときでさえ、脳の予測が中心的な役割を果たしている。昨今では、予測と予測エラーは人間の脳の基準通貨であると、ますます認識されるようになりつつある。そして人間のあらゆる経験は、予測と予測エラーの絶えず変化するバランスのもとで形作られているのだ。

本書は、このバランスについて探究し、世界の知覚に関する既存の概念の多くを覆す最新の科学を紹介する。この科学によれば、脳は、世界で生じている事象がいかに推移しそうかを、過去の経験から学習したことをもとにつねに推測している。私たちが見たり、聞いたり、触れたり、感じたりしていることのすべては、――この新たな科学が示唆するところでは――無意識裏に実行される予測が反映されている。期待の度合いが十分に強ければ、あるいは(鳥のさえずりの事例に見たように)感覚的な証拠が弱ければ、ものごとを誤って捉え、ものごとはかくあるべきだとする脳の最善の推測によって、現実の感覚情報の一部が実質的に上書きされる結果にもなりうる。(同書4〜5頁)

 

つまり予測処理とは、大雑把に言えば、過去の経験から学習したことを用いて、これから何が起こりそうかを予測し、その予測を各感覚器官から入ってきた情報と比べ、誤りが検知されれば予測のモデルをそれに従って訂正する脳のプロセスをいう。ちなみに誤りは低次の段階から高次の段階に至るあらゆる段階で検知され、誤りが検知された場合には、予測エラー情報のみがそれより高次の脳領域に送られ、生データは捨てられる。つまり予想外のできごとに関する情報のみが高次の領域へ送られることになり、予想されていた情報は途中で切り捨てられる(要するにJPEGやMP3などの圧縮技術と原理は同じなのですね)。そしてこの循環的なプロセスが繰り返されたあとで、知覚が成立する。この説明からもわかるように、予測処理では、外界(ならびに自己の身体)から脳へと感覚情報が送られるボトムアップの処理と、脳の高次の領域から低次の領域に向かって予測が送られるトップダウンの処理の両方がほぼ同時に循環的に実行されている。新書本のプロジェクションの説明では、物理世界からの情報の受容→表象の生成→意味の付与→意味を付与された表象の外界への投射によって意味づけられた世界が知覚されるという順序になっていて(16頁の図2参照)、あたかもその順番で処理が展開されるように見える。しかし予測処理の見方では、意味ある世界の知覚は、ボトムアップの処理とトップダウンの処理がほぼ同時に展開されることで、一挙になし遂げられる。ただし新書本の説明は、あくまでも入門書であるために、細かな機微は省略されているという可能性は考えられるけどね。

 

いずれにしても、もっと重要な相違は、予測処理の概念には新書本の著者が説明するプロジェクションの概念とは異なり、プロセスのなかに行動や反応も組み込まれている点にある(ちなみにこの新書本全体を通じて、表象のプロジェクションの話はさんざんされていても、行動や反応に関する記述はほとんどなかったように覚えている)。行動や反応に関してはクラーク本の第3章で詳しく取り上げられているけど、ここでは第3章の冒頭の部分と最後のまとめの部分、そして最終章の「結論」だけを引用しておく。冒頭部分には次のようにある。

 

脳の根本的な課題は、生き残れるようにすることであり、それは不確実さに満ちた複雑な世界で行動することを意味する。行動はタイヤが地面に接触する部分に相当する――脳は、高価な代謝コストを払うことで、進化の過程で得た地位を維持しなければならない。

意外に思えるかもしれないが、予測は行動のエンジンでもある。というのも、(予測処理に従う)日常の行動は、身体感覚の予測によって引き起こされるからだ。より正確に言えば、日常の行動は、まさにその行動が実行された場合に生じるはずの身体感覚の流れの予測によって引き起こされる。よって予測による行動制御には、一種の仮定的な性質がある。脳は、当該の行動を実行した場合にものごとがどう見え、感じられるのかを予測し、その予測をめぐって生じたエラーを減らすことで、行動や動作をもたらす。必殺のスマッシュやサーブを打ち込むことがどのように見え、感じられるのかを予測することで、まさにその必殺のスマッシュやサーブが放たれるのだ。だがこれは、「ポジティブ思考」の受け売りで言っているのではなく、脳がいかに身体をコントロールしているのかに関する詳細な分析を示している。ここで言いたいのは、行動の遂行には一種の自己充足的予言が関与するということだ。特定の動きが生む感覚的な効果を詳細に予測することで、まさにその動きが引き起こされるのである。

予測を知覚と行動双方の共通の源泉にすることで、予測処理(能動的推論)理論は、心の働きの無意識的な統合を明らかにする。知覚と行動は、予測エラーを除去しようとする誘因によってともに調整されることで、一つの全体を形成しているのである。(同書70〜1頁)

 

また、まとめの部分には次のようにある。

 

予測処理理論は、知覚と行動制御のエレガントで一貫した見取り図――究極的には、コーヒーカップを見て口元に引き寄せることから、一生をかけた人生プロジェクトの実現に必要とされる複雑な行動計画の追求に至るまで、あらゆるレベルの事象を可能にする見取り図――を提供してくれる。また、一連の関連し合う(…)予測にすべてを基づかせることで、知覚、運動作用、長期的な目標指向的行動が互いに結びつき統合されていることを明らかにしてくれる。

その種の予測制御は、知覚と行動と好機が出会う場所でもある。心と身体と世界がこれほど接近する場所は、他にはない。(同書87頁)

 

最終章の「結論」には次のようにある。

 

だが予測処理理論は、単なる最新の知覚理論ではなく、行動に関する新たな理論でもある。非常に興味深いことに、予測処理理論は知覚と行動を完全に統合する初めての理論であり、感覚状態をめぐる予測エラーを最小限に抑えるという共通の目標を達成するために構築された能力として知覚と行動を捉える。知覚とは感覚的証拠にもっとも適合する予測を発見することであり、行動とは予測に沿うよう世界を変えることだ。つまり知覚と行動は、予測エラーに対処する相互に補完的な手段なのであり、つねに互いに影響を及ぼし合いながら機能しているのである。

拡張された心、すなわちツール、テクノロジー、私たちが生活している複雑な社会的世界によって拡張され増強された心を形作る完全に内的な器官として予測する脳を位置づける理由は、予測を司る脳領域と行動を司る脳領域のあいだに深い相互依存の関係が存在するからだ。予測する脳は、情報の状態を改善する行動を無意識的に探し出して、目標(予測される未来の状態)に近づくために不確実性を削減しようとする。それゆえ、拡張された心を築けるのだ。つまり情報の状態を改善する行動が、外界に対処するための手段として習慣システムの一部として組み込まれると、私たちは生物学的な脳の能力を超えた認知的能力を備えた存在になるのである。(同書212〜3頁)

 

これだけではわかりにくいので、一つだけ認識的行動と実践的行動に関する具体例をあげておく。次のようにある。

 

予測する脳は、深層における絡み合いを可能にする生物学的なエンジンだと言える。その様相を理解するためには、実践的行動と認知的行動の区別に立ち返ることから始める必要がある。

 私たちの生活は行動で満ちている。だが私たちは、たいてい実践的な目的があるものとして行動を捉えようとする。スクラブルに勝つため、混雑するバーでカクテルを出すため、などといった具合に。しかしもっと詳細に眺めてみると、(…)行動の多くは、それらの目的にごく間接的に、すなわち脳が利用できる情報の流れを改善したり、問題領域それ自体を変えたりすることで役立っていることがわかるはずだ。(同書154頁)

 

実践的な目的を直接的に実現する行動が実践的行動で、脳における情報の流れや問題領域を変えて、目的の実現に向けて間接的に貢献するのが認識的行動であることになる。とりわけ認識的行動には、プロジェクションが関わっていると見ることができる。なぜなら、目的に資する世界に関する知識や認識が先に存在し、それを世界に投射すること(プロジェクション)が前提になるので。しかし当然のことながら認識的行動は、最終的には目的を達成するための実践的行動として顕現する。では認識的行動はいかにして実践的行動に接合されるのか。そこに予測する脳が登場するのですね。それに関して、ベテランテトリスプレイヤーが、いかに認識的行動を実践的行動に結びつけているかという具体例を用いて次のように説明している。

 

一九九〇年代に認知科学者のデイヴィッド・キルシュとポール・マグリオが行なった古典的な実験では、テトリス(コンピューターゲーム)のベテランプレイヤーが、いかに柔軟に認識的行動と実践的行動を結びつけているかが微に入り細を穿って示されている。それによれば、ベテランテトリスプレイヤーは、上から落ちてくるタイル(ゾイド)を、適切な空きスロットに落とすためではなく、どの空きスロットに落とせるかを認識しやすくするために回転させることがある。ベテランプレイヤーによる実践的行動と認識的行動の切れ目のない混合は、予測する脳によって提供される、たった一つの包括的な戦略が作用していることを示唆する。

 認識的行動が選択される理由は、私たちにとって本質的な価値があるからでも、特定の実践的な目標に物理的に私たちを近づけてくれるからでもない。それどころか一時的に私たちを物理的な目標から遠ざけることさえある。たとえば車を運転している最中に道に迷ったら、よく知っている場所まで戻ろうとするだろう。その場所から目標へと確実にたどり着ける経路を知ってさえいれば、たとえ方角がまったく違うとわかっていてもそのような戦略を取ろうとするのだ。この戦略は「沿岸航法アルゴリズム」とも呼ばれる。というのも船乗りは、目的地までの距離がはるかに長くなるとわかっていても、航路を見つけやすいという理由で沿岸を航海することがあるからだ。その種の戦略では、認識的行動と実践的行動の区別が際立つ。しかし他の多くの事例では(…)、認識的行動と実践的行動の差異はあいまいになり、完全に消失することもある。(同書155〜6頁)

 

 では予測する脳がいかにして認識的行動と実践的行動を結びつけるのかということになるが、それを理解するにはクラーク本の全体を読まないとならないので、ここでは「関心を持った人は、ぜひ刊行の暁には買ってくださいませませ」と言うに留めておく。いずれにしても、「イマジナリー・ネガティブ」というタイトルの、歪んだ知覚に関する本なので当然と言えば当然なのかもしれないが、私めがこの新書本にやや不満を覚えたのは、行動に関する記述がほとんど見当たらなかったことなのよね。結局、世界をいかに知覚するか、そしてその際人は、自分自身が意味づけた表象を世界に投影することで自分が意味づけた世界を見ているという、知覚や認識に関する記述しかなく、そこに行動や反応がいかに関わっているのかがまったくわからなかった。だからこそ、プロジェクションの概念の基盤をなすメカニズムとして予測処理の概念を取り入れれば、より包括的な理論になるのではないかと思ったわけ。まあこれもまた、入門書なので知覚的な側面に焦点を絞ったということなのかもしれない。ちなみにアンディ・クラークは基本的にAI研究者ということもあってか、予測を可能にする脳のメカニズムについてはあまり詳細に記述していない(ただし前著Surfing Uncertainty: Prediction, Action, and the Embodied Mindには詳しい説明があったかもしれないが、そちらは難解で翻訳もないので誰にでもお勧めというわけにはいかない)。わが訳書では、クラーク以外にはリサ・フェルドマン・バレット著『情動はこうしてつくられる』も、脳の予測処理を基盤に自説を展開している(とりわけ第6章)。

 

実のところこの新書本に関して言いたかったのは、ここまでに述べた「プロジェクションという概念の基盤に予測の概念を持ち込めば、行動や反応まで視界に収められる」という点に尽きる。なのでここから先は、とりとめのないことをいくつか指摘するに留める。次に目に止まったのは、少し飛んで炎上商法に関して。次のようにある。「炎上商法の成功例は少ないようです。炎上して関心を集めるところまではいいのですが、その後のコントロールがうまくいかないのです。なぜなら、炎上にいたったネガティブな要素によって、商品や企業の信頼性や好印象のイメージはかなり低減します。いったん注目されても、そこから次にポジティブな方向へ消費者の関心が動かないことには意味がありません。そして、なにより大きいのは、炎上によって「嫌い」になられてしまうことの影響でしょう。無関心なものへ関心を向けさせる、という狙いを超えて一気に嫌われてしまったら、それを反転させて「好き」にするのは至難の業です(54〜5頁)」。なぜプロジェクションの話に炎上商法が出て来るかというと、炎上商法とは他者のプロジェクションを操作しようとする戦略だからでしょうね。とはいえ炎上商法は一発逆転を狙った策謀なので、スタートアップや個人ならできても、すでに名声を確立した企業がやれるようなものではない。逆効果になるだけだからね。だからここに書かれていることは当たり前田のクラッカーだと言えば、当たり前田のクラッカーなのですね。

 

ところで、すでに名声を確立した企業がやるのはむしろブランディングで、このブランディング戦略も、炎上商法同様、他者のプロジェクションを操作するということに変わりはない。ちなみに先日取り上げた『ルーヴル美術館』は、ルーヴル美術館が行なっている、顧客のプロジェクションを操作するブランディング戦略について詳しく説明されていた。さてなぜ炎上商法やブランディングなどといった些細なテーマに着目したかと言うと、実はすでに言及したドナルド・ホフマン著『世界はありのままに見ることができない』のアカラサマ、もといステマをしたかったから。ホフマン本は前述したように、知覚の役割を、生き残って子孫を残す可能性を示す適応度を報告することにあると捉えている。実は、著者のドナルド・ホフマン氏は、その観点から企業のマーケティング活動の支援をするという実践的な活動も行なっている。つまり知覚の持つ性質を最大限に活用するブランディング戦略の企業への導入を促進しているのですね。日本にはあまりいないのかもだけど、アメリカには彼のような商売精神が旺盛な科学者がけっこういるようですね。彼のそのような活動の一端は同書の「第8章 ポリクローム インターフェースの突然変異」と「第9章 精査 人生でもビジネスでも必要なものが手に入る」を読めばある程度わかる。

 

それから、わが訳書にはまったく関係ないけど、「アポロ月面着陸は捏造である」という陰謀論では、アブダクションと呼ばれる誤謬推理が悪用されているという記述がある。ちなみにこの陰謀論を扱った1970年代の映画『カプリコン・1』はけっこうおもろくて何度か観たことがある。アブダクションそれ自体については、『論理的思考とは何か』で詳しく取り上げたのでここでは説明しない。このアポロ陰謀論におけるアブダクションの悪用について次のように述べられている。「アポロ月面着陸の映像を見て、旗が揺れているということは風が吹いているのだろうと推測されることは、実は「論理的{誤謬/ごびゅう}」です。(…)風が吹くと旗が揺れる、というのは物理的に正しい事実ですが、旗が揺れているなら風が吹いている、というのが正しいとはかぎりません。なぜなら、旗が揺れる物理的な要因は、手で持って揺らす、物があたって揺れるなど、風以外にもたくさんあるからです。けれど、ふだんから手で揺らすよりも、物があたって揺れるよりも、風が吹いて旗が揺れる光景を見慣れている私たちは、つい「旗が揺れているということは風が吹いているのだ」と思いこんでしまうのです(108〜9頁)」。これはまさしくアブダクションの説明であり、「@風が吹いていれば旗が揺れる」→「Aアメリカ国旗が揺れている」→「Bゆえに風が吹いている」という述語論理になっているわけ。もちろんアブダクションそれ自体は、反証が一つでも出ない限り間違いとは言えない。したがって、このケースで言えば、旗が手で動かされたという証拠をあげるまではこの陰謀論を言下に否定することはできない。それに関しては数ページあとで次のように説明されており、実際に旗は人為的に動かされたということらしい。「月面上でアメリカ国旗が掲げられている時に揺れている理由は、星条旗を月面へねじこむ時にポールを動かすので真空でもその反動で旗が動いたからだそうです。真空では空気の抵抗が存在しないため地球上よりも旗が動きやすく、一度動きだした旗は慣性の法則でなかなか止まりません(114頁)」。もちろんこれは陰謀論者の「旗が動いているから」という主張の誤謬を指摘しただけであって、それだけで100%陰謀論者が間違いであることの証明にはならない(もちろん私めはこの陰謀論を信じているわけではないけどね)。

 

次に取り上げたいのは、「風評被害」について。次のようにある。「風評被害とは、安全であるにもかかわらず、根拠の不確かな{噂/うわさ}や科学的根拠にもとづかないデマなどによって被害を受けることを指します。経済的被害だけでなく、風評を受けた人々への差別や名誉棄損等の人権侵害も含まれます。特に、汚染との関連では、二〇一一年に発生した東日本の大地震を発端とした福島第一原子力発電所事故が原因で、放射性物質に関連するさまざまな風評被害がありました。¶風評被害の問題に詳しい社会心理学の{関谷/せきや}直也先生は、東日本大震災から五年後の時点で、もし放射性物質との関連で[福島県産水産物の]購入を躊躇するようなばあいは、少なくともいまの福島県の検査体制や検査結果の事実は知ること、科学的にそれらを拒否する合理的な根拠はすでにないと理解することを奨励しています。そして、それらを承知したうえで躊躇するのであれば、それは少なくとも消費者自身の「感情」の問題であることを自覚する必要がある、と指摘しています。「福島県産」と名前がつくだけで売れないのならば、福島県沖でとれた魚介を近隣県の港で水揚げして「○○県産」とする、などという措置は、魚介そのものにはまったく違いはないのですから、まさにプロジェクションの問題です(147〜8頁)」。風評被害とはプロジェクションの問題だということ。それにもかかわらず、いまだに日本産の魚介類を輸入禁止にしている国があるは(解禁してたっけ?)、それどころか風評被害を広めているアホな日本の政治家すらいる始末。そういう輩は自分のイデオロギーに基づいてプロジェクションをしているからきわめて悪質なのですね。ヒューゴ・メルシエ著『人は簡単には騙されない』によれば、とりわけイデオロギーのような反省的に保たれている信念は、開かれた警戒システムのチェックを受けないので(詳しくは同書を参照されたい)、それに基づくプロジェクションはきわめて危険なものになりうる。事実や科学や論理すら無視してイデオロギーでものごとを考える輩を政治家にしてはならないのは、イデオロギーを現実にプロジェクションして現実を歪めて見るため、現実社会を混乱に陥れてしまうからなのですね。ましてや現実問題を解決することなど絶対にできない。

 

メルシエの言う反省的な信念は、新書本では「非合理的な思いこみ」と呼ばれている。次のようにある。「「あの人の機嫌が悪いのは、自分がなにか気にさわることをしたからに違いない」「私はあの人に嫌われているのではないか」などということがグルグルと頭を回っていると、とても疲れます。そういうことを自分が考えているだけで、実際のところは確かな根拠もないのであれば、それは非合理的な思いこみです(176頁)」。これはもちろん、イデオロギーに関する説明ではないが、事実や科学や論理に基づく根拠が何もないという点では、イデオロギーも「私はあの人に嫌われているのではないか」という思い込みも大差はないのですね。ただしイデオロギーは社会全体が関わる話なのに対し、単なる思い込みは個人的なものだという違いはある。いずれにしてもその種の反省的に保たれている信念はきわめて有害であることに間違いはなく、前者は社会の病理に、後者は個人の病理につながりうる。

 

最後に一点だけ、本書の主題にはまったく関係のない実にくだらないことを取り上げて終わりにする。それは「課金」という言葉に関して。著者はホストクラブの話を持ち出して次のように述べている。「ホストのお客には、担当のホストの店での順位をあげる、という使命が課されます。課金額が大きいほどホストの順位は上がるので、お客はそのために店で多額の注文をします。実際にお金がなくても、借金をしたり売掛金として処理したりして工面をします。なぜそこまでして課金をするのか(183頁)」。さて一年前の私めなら、この文章の意味がまったくわからなかったはず。なぜなら、「課金」という言葉のこのような使い方は、去年の夏まで知らなかったから。「課金」とは、まさしく「金額を課す(英語で言えばcharge)」という字面をしており、よってその頃の私めであったら、店が客に対して「課金」するのであって、客が店に対して「課金」するとはいったいどういうことかと思ったはず。ゲームなどに関してゲーマーがゲーム会社にアイテムの料金を払うという逆方向の意味でも「課金」という言葉が使われているのを知ったのは、実は去年の夏にバチャ・メスキータ著『文化はいかに情動をつくるのか』の校正作業をしていたときなのですね。編集者(というかチェックを依頼した業者の提案ということだったらしいが)にその提案をされたとき、私めは頭が完全にピーマンになり、それからしばらくまったく嚙み合わないやり取りが続いたことをよく覚えている。だって私めは、客が店におじぇじぇを払うという意味でも「課金」という言葉が使われているとはまったく知らなかったから、噛み合うはずがないのですね。結局、私めのような今浦島の読者もいるはずだから、「課金」という言葉はやめて別の表現を用いることにした。ところでパリオリンピックで「無課金おじさん」なるおっさんがネットでバズってたよね。最初は「え? この人無料で仕事を請け負うボランティアなの? 射撃の選手らしいから、もしかしてボランティアの殺し屋なの?」と半分マジで思ったくらいだし。この新書本でも、「ゲーマーが課金する」と同様の意味で「課金」という言葉を使っているけど、私めのような今浦島の読者が読んだらきっと意味がよくわからないだろうと思うべさ。え? あんたみたいなガラパゴスが読むことは想定していないってか? そうですか。すんましぇん。

 

さらに新書本とはまったく関係なくなるんだけど、ついでに述べておくと、私めが気になっているきょうびの言葉のおかしな使い方に、「撃沈」を自動詞で使っているケースをあげられる。翻訳者でさえその例外ではない。そもそも字面からして「撃って沈める」だから、正式には「撃沈」を自動詞では使えないはず。英語の「sink」が自動詞(沈む)でも他動詞(撃沈する)でも使えるのとは違うのですね。ちなみに私めはがきんちょの頃から、「決断」というテレビ漫画シリーズにかぶれたせいで戦記物をよく読んでいたんだが、撃沈を自動詞で使ったケースには一度も遭遇したことがない(はず)。遭遇していればそのとき変だと思ったはずだしね。だから「ドイツの戦艦ビスマルクは、主砲の一斉射撃によってえげれすの戦艦フッドを撃沈した」、あるいは「えげれすの戦艦フッドは、ドイツの戦艦ビスマルクの主砲の一斉射撃を食らって撃沈された」とは言えても、「えげれすの戦艦フッドは、ドイツの戦艦ビスマルクの主砲の一斉射撃を食らって撃沈した」とは絶対に言えないのですね。自動詞を使いたければ「えげれすの戦艦フッドは、ドイツの戦艦ビスマルクの主砲の一斉射撃を食らって沈没した」と言わなければならない。あるいはフッドの場合は火薬庫に引火したために大爆発を起こして速攻で沈没したから「えげれすの戦艦フッドは、ドイツの戦艦ビスマルクの主砲の一斉射撃を食らって轟沈した」という言い方もできる(戦記物ではそう記述されるのが普通)。ただし「轟沈」は、魚雷やら爆弾やらが命中して決定的な打撃を受けてから沈没するまでの時間が30秒だったか3分だったか忘れたけど短くなければならない。だからたとえば「轟沈」という用語を軍艦以外にも使えたとして(多分軍艦以外に使ったためしはないと思うが)、「タイタニック号は氷山と衝突して轟沈した」とは言えない。映画『タイタニック』を始めとする英米のタイタニック映画を観ればわかるように、タイタニック号は氷山と衝突してからしばらく沈没しなかったからね。軍艦でも、「戦艦武蔵は魚雷19本を食らって轟沈した」とは言わなかったはず。アホな米軍は両舷に向けて等しく魚雷を放ったせいで、武蔵はそれだけの数の魚雷を食らっても、バランスよく浸水したおかげで沈むのに時間がかかってしまったというわけ。それを学習した米軍は戦艦大和を雷撃したときには、確か左舷に魚雷を集中した。だから大和は9本の魚雷が命中しただけで沈没したというわけね。それでも轟沈と言えるか否かは戦記にもっと詳しい人に聞いてくださいませませ。いずれにせよ「客が店に対して行なう課金」も「自動詞の撃沈」も誤用から特殊な文脈で使われるようになったのでしょうね。翻訳者としては、さすがにこういう用法は会話文以外では使えない。

 

ということで、この新書本は、プロジェクションというテーマに特化した認知科学の入門書なので、その方面に関心があってこれから勉強しようと思っている人は、おもしろく読めるのではないのでしょうか。

 

 

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※2025年2月22日