◎藤原貞朗著『ルーヴル美術館』(講談社選書メチエ)
あろうことか、小学生の頃、通信簿で図工2をもらって意気揚々としていた銀河系一のぶきっちょの私めが、ルーヴル美術館に何の用だと言われそうだけど(え? そんなこと知らんがなってか)、実のところシュールリアリズムなどの特定の様式の絵画はけっこう好きで、都内でキリコ展だとかダリ展だとかマグリット展が開催されると見に行っていた。けっこう私めはハイソ(おっと死語か)なのよん! ちなみにわが訳書『誰も正常ではない』の表紙はルネ・マグリットの絵『ある聖人の回想』で、精神医学史の本の表紙がなぜマグリットなのか担当編集者のザ・リケジョさま(アメリカのアイビーリーグに属する大学の理系大学院卒なので、そんじょそこらのリケジョさまではないという意味で定冠詞がついている)に訊いてみたことがある。でもその答えは忘れてもた。え? なら書くなってか? すんましぇん。個人的な趣味ではイヴ・タンギーの『弧の増殖』みたいな、わけのわからん物体が生物的にわちゃわちゃと気色悪く増殖していくような、はっきり言って精神病的なイメージのほうがマグリットやキリコのようなスッキリした合理的?な絵より好みではあるんだけどね。映画において、そのような物体が増殖する感覚をみごとに捉えていたのが、リドリー・スコットの『ブレードランナー』だと言える。『ブレードランナー』のイメージ表現に関しては、表象論系の学者ビビアン・ソブチャックのSF論『Screening Space』(Rutgers University Press)が極めて興味深い。でも、しょっぱなからいきなり大きく脱線、てか暴走するわけにはいかないのでソブチャックのSF論は別の機会に紹介することにしましょう。
ということで『ルーヴル美術館』に参りましょう。まず「はじめに」に、著者がルーヴル美術館について書くことにした動機が次のように述べられている。「ルーヴルについての本はすでにごまんと出版され、玉石混交である。ルーヴル美術館の歴史、名画の紹介、初代学芸員の伝記、ルーヴルを舞台とした小説も漫画もいくつもある。しかし、ルーヴルがなぜこれほどの有名ブランドとなったのかを本格的に論じた本はないだろう。ルーヴル美術館の歴史は、一面において、ルーヴルという国際的巨大ブランドのブランディングの歴史にほかならない。こう捉え直すことで、新たなルーヴル本を加えることができるだろう(4頁)」。要するに、副題に「ブランディングの百年」とあるように、この本では、ルーヴル美術館のブランディングの歴史が中心に取り上げられている。そしてルーヴル美術館のブランディングの背景にはフランス政府の存在があったことが次のように述べられている。「外国人訪問客の激増と「ルーヴル・ブランド」の巨大化の背景には、明らかに、ルーヴル美術館、ひいてはフランス政府の積極的なプロモーション活動があったということだ。《モナリザ》をアメリカ合衆国や日本に持って行って展覧会をしたり、アブダビの美術館にルーヴルの名を与えたりすることは、当然ながら、一介の美術館学芸員や館長の仕事の領域をはるかに超えている。こうした決定は、文化大臣、さらには大統領の意向のもとに、いつもなされている(10〜1頁)」。要するに国策だということ。そう言えば映画『ダ・ヴィンチ・コード』の最後のそのまた最後のシーンで、マリアの棺が例のルーヴル美術館の「ガラスのピラミッド」の下に埋められているところがズームインしながら映し出されていたけど、あのピラミッドって当時のフランス大統領フランソワ・ミッテランが提案した「グラン・ルーヴル」計画によって建造されたんだったよね。おっと、ちょっと先走ったかも。
さらに著者は次のように述べている。「今日のルーヴル美術館の「成功」(ひとまずはこう言っておこう)は、ただなんとなく訪問客が増えて、知らない間に名声が世界に広まった結果ではない。美術館と行政家、さらには国の指導者が指揮する文化的かつ政治的な政策、いうなれば「ルーヴル・ブランド化政策」の積み重ねの結果である。このブランディングの歴史を本書は追跡してみようと思うわけである(11頁)」。成功にカギ括弧をつけてみたり、「ひとまずはこう言っておこう」などと余計な文句をつけ加えてみたりしているのは、ルーヴルのブランディング戦略を著者が必ずしも肯定的には捉えていないからなのですね。そのことは「モナリザ・バズーカ」なるケッタイな壁画が登場する「あとがき」を読むとよくわかるが、それについては最後に触れる。高尚なはずの美術が生臭い政治(国策)と結びついているというのは、まさにとんでもなく生臭い話であることに間違いはない。
ということでさっそく本論に参りましょう。第三章までは、ルーヴル美術館の創設から一九二〇年までのルーヴルの歴史が扱われていてブランディングとはあまり関係ない話が繰り広げられているのでワープエンジンを全開にして早送りで取り上げることにする。まず指摘しておくと、ルーヴル美術館が創設されたのは一七九三年なのだそうな。ただその当時は、現代の巨大なルーヴル美術館とは違ってぷち美術館だったらしく次のようにある。「創設時のコレクション数は絵画五百三十八点、彫刻百二十四点で、展示室は「サロン・カレ」と呼ばれた展示室と全長四百五十メートルの「グランド・ギャラリー(大回廊)」だけだった。現在のルーヴルに比べると展示作品数は〇・〇〇一パーセント、展示総面積は〇・〇〇四パーセントに過ぎず、おまけに、あの《モナリザ》も《サモトラケ島のニケ》も、《ミロのヴィーナス》も展示されていなかった。美術館を訪れる一般市民はあまりいなかったという。現在の「世界一」の美術館の姿はみる影もなく、世界ブランドとして誇れるところはどこにもなかった(19頁)」。また「フランス大革命によって新たに成立した第一共和制政府が、王室コレクションを「略奪」して公開したのが始まり(20頁)」で、「国王が占有したコレクションを「解放」して共和国市民の共有財産とし、公開することが宣言されたのである。(…)この宣言にしたがって、ルーヴル宮殿内のサロン・カレとグランド・ギャラリーが市民に公開され、「市民のための美術館」となった(20頁)」とのこと。でも、美術館を訪れる一般市民はあまりいなかったんだよね。まあフランス革命には相当に現実離れした部分があったわけだしね。
その後ナポレオンが登場すると、イタリアとの戦争で勝った彼がイタリアから美術品を運んできて「「市民の美術館」は「ナポレオン美術館」となった(24頁)」という。それからナポレオンが失脚して復古王政の時代に突入すると、「ナポレオン美術館」は「王立美術館」へと様変わりしたらしい。一九三〇年代に至るまでのその後の細かい推移はここでは省略するけど、一点指摘しておくと、その当時の美術館は(ルーヴルのみならず他のヨーロッパの美術館も)権力顕示の場所として機能していたらしく、次のようにある。「西洋の美術蒐集室や美術館は、美術品を所有する裕福な者たちや支配者が自らの権力を誇示する場であり、たとえて言えば、美術館は、近代の支配者が宗教に代わって見出した「芸術宗教」を顕示する「神殿」であった。権力者の威光を示して訪問者を圧倒するには、三段・四段掛けでこれでもかと美術品をみせつける威圧感のある展示が好ましかったといえよう。さらに、絢爛豪華で神々しい空間演出ができれば、なおのこと好ましかったに違いない。カオスの美に満ち溢れた空間であればこそ、支配者の聖性なり神性はさらに高まるというものである(65〜6頁)」。この選書本には、当時の美術館の展示様式が描かれた絵が何枚か掲載されていて、それを見ると確かに何段にも絵が掛けられていてえらくゴチャついている。でも、私めは整然としているより、半ばカオスに近い状態のほうが好きなのよね。だからわがマンションの部屋の中はカオスなわけ。それで思い出した。一〇年以上前にわが8階建て超高層ウルトラモダンマンションの隣にある、埼玉が世界に誇る丸広百貨店の地下食品売場が大改装されて整然としたレイアウトに変わってしまったことがある。それまでは迷路のようにゴチャゴチャしたレイアウトで、あたり一面に得も言われぬオーラが漂っていた。私めはそれがいたく気に入っていたのに、どこにでもあるような普通の売場に改装されてオーラがまったく消え失せてしまったのでガックリしたことを覚えている。いずれにせよ、コロナが流行していた頃、マスクをしていなかったせいで売場から追い出されて、お隣にもかかわらずそれ以来一度も行ったことがないので、今となってはどうでもいいと言えばどうでもいいんだが。え? 美術館とデパ地下を一緒にするんじゃねえってか? す、す、すんましぇん。
では気を取り直して先に参りましょう。実際フランスは美術館の他の欧米諸国と比べて近代化が遅れていたらしい。それに関して次のようにある。「十九世紀後半期、ヨーロッパには次々と近代国家が誕生し、新たに生まれた国家はナショナルに統一されたひとつの表象として、近代的な美術館を創設した。いち早く美術館の近代化に取り組んだのは隣国ドイツであった。ベルリンでは、一八九〇年に絵画館の館長となったヴィルヘルム・フォン・ボーデが、秩序ある先進的な美術館を作り上げていった(…)。古豪のイギリスも、アメリカもそれに続き、近代的な設備をそなえた美術館を誕生させていた。その結果、古老のルーヴル美術館は、他国の後発先進で近代的になった美術館から大きく後れをとることになっていたのである(71〜2頁)」。「後発先進で」の意味がイマイチよくわからないけど、「後発であるがゆえに先進的な設備を導入できた」くらいの意味なのかな?
ここから先は、ブランディングの話が主体になる第四章以後を取り上げる。著者は第四章の冒頭でいきなり次のように述べている。「ルーヴル美術館のブランディングの歴史を辿ろうとするならば、三つの時期を画期として特筆せねばならない。ひとつは創設後百年が過ぎて行われた一九三〇年代の大改造、次いで第二次大戦後の一九六〇年代に「文化問題担当大臣」となったアンドレ・マルローが主導した文化政策、そして、フランソワ・ミッテラン大統領が大鉈を振るった一九八〇年代のグラン・ルーヴル(偉大なルーヴル)計画である。¶現在の巨大ブランド美術館となったルーヴルの直接の出発点は一九八〇年代のグラン・ルーヴル計画に求められるだろうが、多額の公的資金を投入してフランス文化をブランディングする手法は一九六〇年代のマルローの政策に遡る。そして、そのマルローの発想源となっていたのは、彼の思想形成期である一九三〇年代のルーヴル大改造であった(75頁)」。
三つの画期のうちまずは一九三〇年代の大改造から見ていきましょう。ブランディング政策に手をつけるためにはまず何を実行する必要があったのか? それについて次のようにある。「ルーヴルをフランス共和国の美術館としてブランド化するためには、共和国の政策を自由に実行できる体制を整えねばならない。美術館を国家の所有物とし、所蔵される美術品が共和国市民のものとなったという建前が必要である。美術館がはっきりと「{国有化/ナショナリゼーション}」されたことを示す必要があった(86頁)」。さらに次のようにある。「一九世紀までの美術館が政治的権力者の力を顕示するある種の「神殿」であったとするならば、一九三〇年代の新たなルーヴル美術館は、共和国市民のために美術館の「脱神殿化」を執り行ったといってよかろう。芸術を手の届かない神々しい存在として奉るのではなく、市民に手の届く存在、同胞たる市民に平等に分配され、共有される存在であることを強く印象づける場となったのである。¶こうして、ルーヴルは、特別な限られたエリートの個人コレクションの集積ではなく、国民全体が共有するナショナルな遺産(「国宝」)であると真の意味で理解されることとなる。この認識を基盤にしてはじめて、共和国は、ルーヴルをナショナルな遺産として積極的に活用しようという発想を持つこともできた。自由で大胆なブランディング計画を打ち出すことも可能となったのである(96〜7頁)」。
では、具体的には何をしたのか? そこでまず登場するのが、「サモトラケ島のニケ」像なのですね。ちなみにニケ像について、最初に次のようなトリビア的記述がある。「ルーヴル美術館が誇る数々のスター級の作品のなかでも、最もよく知られる傑作は《サモトラケ島のニケ》であろう。ルーヴルに行ったことがなくても、このニケ像、すなわち「勝利の女神」のイメージは、誰もがどこかで目にしたことがあるはずだ。¶古くはアメリカのミュージカル映画『パリの恋人』(一九五七年)のなかでニケ像のように両手を広げて大階段を駆け下りるオードリー・ヘップバーンの姿が印象的だった。また、映画『タイタニック』(一九九七年)のヒロインが舳先で両手を広げる有名なワンシーンもこの像を踏まえたものである。NHKテレビがルーヴル美術館を特集するときには必ずと言っていいほどタイトルバックとなる(99頁)」。「誰もがどこかで目にしたことがある」ってあるけど、彫刻や彫像には興味のない私めはまったく知らなんだ。「サルモレラ島、もといサルマタケ島、もといサモトラケ島のニケ像ですかあああ!」と思ったくらいだしね。ちなみに1950年代から70年代までのアメリカ映画が大大大好きでそれに関する自費出版本まで出した私めではあれ、ミュージカル映画は大大大嫌いなので(音楽が嫌いなわけではなく、セリフが歌で歌われるのがいやなのですね)、たぶん『パリの恋人』は観たことがないはずだし(少なくとも観たという記憶はない)、八九三より阿漕なNHKは一切観ない(てか、そもそもテレビがない)。で、例の『タイタニック』のシーンって、このサルモネラ島、もといサルマタケ島、もといサモトラケ島のニケ像を踏まえたものなのですか。知らなんだ。てかサルモネラ島、もといサルマタケ島、もといサモトラケ島のニケ像自体を知らなかったんだから当然と言えば当然だよね。『タイタニック』はアメリカ映画なんだから自由の女神を踏まえればよかったのにね。と言いつつ、自由の女神もおふらんすから頂戴したことに気がついた。
では、いかなる意味でニケ像がルーヴル美術館のブランディング戦略の嚆矢になったのか? その答えは次のようなものになる。「奇妙なのは、この彫像の展示方法である。大理石の白壁を背景にただ一体だけ、すっと屹立して観る者を見おろしている。加えて、威風堂々たるその雄姿の前には、大階段がひかえている。長い階段をのぼりながら、下から見上げられるようにこの彫像は設置されているのだ。明らかに「映える」展示が目指されている。普通の展示形式ではない。美術館の空間全体を特別に引き立てるための舞台効果がほどこされていると言うべきだろう。美術館がこの彫像をスター扱いしていることは明らかである(100〜1頁)」。オードリーがのちに映画『パリの恋人』でこの彫像と「共演」しているのは、むべなるかなって感じだよね。ハリウッド型ビジネスモデルとでも言うべきか。さらに著者は小説家アンドレ・マルローの著書『想像の美術館』に言及したあとで、次のように述べている。「マルローにとって、顔と両腕を欠いた断片的な彫像は、オリジナルの完全な古代彫刻とは別種の、近代的な美を身にまとった新しい芸術作品であった。古代人が作り出した過去の芸術ではなく、近代人が創作した近代的な芸術と言うべきなのである。¶こう考えるならば、ニケ像を美術館の顔としたルーヴルの意図も理解できるのではなかろうか。顔のないニケ像は、近代人が創出した新たな美であったからこそ、大改造で生まれ変わろうとしていた一九三〇年代のルーヴルの象徴として、特別な意味を持ったのではないか。近代が創造した新たな美を有する顔のないニケ像であればこそ、新装開店しようとしていた美術館の顔にふさわしい。新たなルーヴルは、古代のニケ像を美術館のスターに祀り上げたのではない。二十世紀が創出したかつてなかった新しいニケ像を美術館のアイコンにしたのである(108頁)」。う〜〜ん、これだけでは私めにはあまり説得力があるようには感じられない。だって、そんなややこしい観念的な操作を加えなくても、当時の前衛芸術を展示すればもっと楽に同じイメージを醸し出せたように思えるからね。それに関連して言えば、ルーヴル美術館は、当時はまだ前衛と見なされていた印象派絵画を一九二九年から一〇年ほど展示していたとのことだけど(ルーヴルに印象派の絵が展示されていたのはその期間だけらしい)、それについてはあとで述べる。
ただいずれにせよ、ニケ像には「美術館の近代化」に資する別の側面もあったらしい。次のようにある。「まずは、「芸術の自立」の思想である。かつて、ニケ像の背景にはこれが勝利の女神であることを明示する壁画が描かれ、そして、隣のスペースには紀元前五世紀のデルフォイ遺跡の彫像と神殿のレプリカがあった。これらは古代ギリシャで制作されたニケ像の文字どおりの「時代背景」を解説していた。隣の彫像群と同じようにニケ像も古代に作られた異教の神であると観る者に教えていたのである。これらの存在によって、ニケ像の美術史的な理解は深まったはずである。¶ところが一九三四年の改編によって、これら歴史的なつながりのある類例作品は移動させられ、背景の解説的な壁画も取り除かれた。作品の美術史的理解という観点からは決して改善されたとは言えず、より不親切な展示となったと言わねばならない(110頁)」。そりゃあ、ニケ像を「近代人が創出した新たな美」として扱いたいのなら、それらの歴史的な情報はかえって邪魔になるからねえ。というか、これはいかにも、歴史を根こそぎ捨て去ろうとする流儀の、フランス革命のおふらんすそのものを象徴しているように思える。今の日本でも、進歩派を自称してそういうことをやりたがる人々がいるよね。
それから「美術館の近代化」の別の要素として「傑作主義」「作品展示の二分化」があるらしい。これは次のような作品展示方法を意味するとのこと。「「作品展示の二分化」とは、急増した美術館所蔵品への対処としてドイツのヴィルヘルム・フォン・ボーデやルーヴル美術館のサロモン・レナクらが提唱した方法で、展示作品を第一級の「傑作」とそれ以外の「副次的作品」に大別し、前者を一般観客のために目立つように展示する一方、後者は限られた専門家のみがアクセスするような奥まった場所に分離して一括展示するか、収蔵庫に収めるという考え方である、ニケ像の展示は言うまでもなく、前者の傑作の展示に対応している(112頁)」。つまり「上級作品」と「下級作品」に分けるってことね。なんか今どきの日本みたい。著者はさらに次のように述べている。「傑作主義の展示方法は、知識がなくても、誰がどう見ても他とは異なる際立った展示によって、これだけを見れば満足できるという場を訪問者に提供している。たとえが適切ではないかもしれないが、ディズニーランドのシンデレラ城のようなもの、あるいは、いわゆる「客寄せパンダ」のようなもので、そこで一枚記念写真を撮れば満足できる、そんなスペクタクル空間が用意されたと考えることができるだろう(116頁)」。たとえは適切でしょうね。そうだ! ディズニーランドで思い出した。最近、実写版『白雪姫』?に主演している、私めのよく知らない若い女優さんが、トランプ支持者をバカにしたとかでネットで炎上しているよね。ディズニーもルーヴル美術館以上に、ブランディング戦略を駆使して世界中で広く知られるようになったんだから、そのかつての努力を知りもしないでアメリカの観客の半分を失いかねないような発言をして炎上する無知な女優さんには、さすがのポリコレディズニーも頭を抱えているだろうね。ウォルト・ディズニーが生きていたらどう思うんだろうね? え? 彼は冷凍保存されていてまだ正式にお星さまになっていないべさってか? 私めはその陰謀論?を信じていないので・・・。
次に取り上げられているトピックは、前述した印象派の作品が一九二九年にルーヴル入りしたこと。著者は次のようにおどろおどろしく述べて読者の期待を煽る。「一九二九年にルーヴル美術館は、かつては「敵」であった印象派を迎え入れることになったわけだが、この決定にはどのような思惑と戦略があったのだろうか。これは、単純に、伝統を重んじるルーヴル美術館が方向転換をして、アヴァンギャルドの美術を歓待したということを意味してはいない。¶ルーヴルを見くびってはいけない。そんな単純で寛容な文化施設ではない。したたかで、恐ろしいほどに傲慢な顔を隠し持っている。そんなルーヴルがなぜ印象派を受け入れたのか。ここに一九三〇年代のルーヴルのブランディング戦略を読み解く重要な鍵が隠されている(122〜3頁)」。この思わせぶりな問いかけに対して、これまた思わせぶりな次のような答えが続く。「結論を先に言っておこう。ルーヴルは、印象派をモダンな新しい芸術として受け入れたのではなく、真逆に、ルーヴルにふさわしい古典性を備えた芸術に再解釈して受け入れを認めたのである。この近代絵画室をじっくり分析するならば、あらゆるものを古典化してしまうルーヴル美術館の魔力、ルーヴル・マジックを確認することができるのである(126頁)」。内容に関係のない些細な話だけど、翻訳者の私めには気になるので指摘しておくと、著者は「真逆」という言葉を本書で何度か使っている。「真逆」は最近の言葉であって(この記事を参照)、まだ話し言葉レベルにすぎないと考えたほうがいいと思う。私めもツイでは使っているけど、印刷されて販売される訳書では使わないようにしている(使ったらたぶん、学者先生にはおやさしくても翻訳者にはチビシイ編集者に直されるでしょうね)。まあそれはいいとして、ただ「あらゆるものを古典化してしまうルーヴル美術館の魔力、ルーヴル・マジック」というくだりは、「二十世紀が創出したかつてなかった新しいニケ像を美術館のアイコンにした」という先のニケ像に関する説明とは「真逆」に思えるのだが、いかがなものだろう。ちょっと全体的なロジックを追いにくい部分がある。
いずれにしても、印象派の「古典化」とは次のようなことらしい。「ひとたび、ルーヴル美術館のブランディングという視点に立てば、おのずと答えが見つかるだろう。ルーヴルが国際的な注目を集めてブランド化するためには、印象派のルーヴル入りが必要不可欠な最重要課題となったはずだからである。自国民はあまり好まないとはいえ、イギリス人もアメリカ人もドイツ人も大好きな印象派を迎え入れることなしに、ルーヴルの世界的名声と人気を勝ち取ることは難しい。(…)かくして、印象派はルーヴル入りと引き換えに、フランスの古典的芸術の歴史の一員へと転向を余儀なくされたのである(130頁)」。う〜〜ん、このやり方は、フランス革命のおふらんすらしくないように思える。単純に新しいものを新しいものとして展示しても、それが印象派の絵のように「イギリス人もアメリカ人もドイツ人も[そしてもちろん日本人も]大好きな」作品なら、ブランディング効果は十分に得られただろうしね。ただどうやら著者が言いたいのは、ルーヴルは特に意図せずとも必然的に「あらゆる芸術を古典へと保守化してしまう(132頁)」、あるいは「新しい芸術の価値も意味もルーヴルでは失われてしまう(132頁)」ということらしい。ならば、ルーヴル美術館は印象派の作品が本来的に持つ独自の価値を毀損する結果になることが分かっていたにもかかわらず、いやむしろ印象派の作品の独自の価値を脱色して手なずける効果も狙ったうえで、ブランディングのために印象派の作品を迎え入れたということになる。それが、ルーヴルが隠し持っている「恐ろしいほどに傲慢な顔」ということなのだろうか?
いずれにしても、印象派の作品はやがてルーヴルから退去し、一九三〇年代の方針が否定されるようになる。それに一役買ったのがアンドレ・マルローということらしい。次のようにある。「マネと印象派がルーヴルにあった一九三〇年代のミュゼオロジーを否定するにあたり、重要な役割を果たした二つの著作が、戦後十年の間に立て続けに出版されている。一九四七年にアンドレ・マルローが発表した『想像の美術館』と、一九五五年にジョルジュ・バタイユが発表した『マネ』である。いずれもマネを近代美術の英雄として称えている(156頁)」。一文目の「マネと印象派がルーヴルにあった一九三〇年代のミュゼオロジーを否定するにあたり」と三文目の「マネを近代美術の英雄として称えている」は一見すると矛盾しているように思えるけど、一九三〇年のマネ解釈が保守的であったのに対し、マルローやバタイユのそれは近代主義的だったということらしい。
おもしろいことに著者は前者の保守的な見方に近い見方として、図工2の私めでもその名を知っているアメリカの美術批評家クレメント・グリンバーグの「モダニズム絵画」論をあげている。次のようにある。「グリンバーグが一九六〇年に発表した評論「モダニズム絵画」は、マネの絵画を「最初のモダニズム絵画」と位置づけたこと、そして、その論拠としてモダニズム絵画の要件である「平面性」を特筆したことによって、つとに知られている。しかし、なぜマネの絵画でなければならなかったのか。マネの絵画程度の平面性であれば、ホイスラーにも顕著だし、またセザンヌやモネの方がもっと明快に平面的である。それにもかかわらず、グリンバーグはなぜマネを指名したのだろうか。¶これを理解するには、同じ批評で彼が「伝統」に言及している点に注目する必要がある。彼は、「モダニズム絵画は(……)伝統と固く結びついていることを明示する」と書いている。また、「モダニズムは過去との断絶を意味しない」とも述べている。グリンバーグにとって、モダニズム絵画はそれ以前の絵画の伝統と固く結びついている必要があった。ゆえに、古典的伝統とも所縁のあるマネが「最初のモダニズム計画」に選ばれたのである(158〜9頁)」。モダニズム絵画が伝統と固く結びついているという見方は矛盾にも思えるが、いずれにしてもこの考えは一九三〇年代のルーヴル美術館のミュゼオロジーとまったく同じだと言える。アメリカの美術批評家が、そのような見方を取るのはなんとなく理解できる気がする。というのも、『アメリカ革命』を取り上げたときにも述べたように、アメリカには、共同体的社会やその基盤となる伝統を重視する共和主義的傾向が建国以来脈々と続いているから。それに対してフランス革命のおふらんすを代表する美術館であるルーヴルが一九三〇年代にそれと同じような方針を取っていたことのほうが不思議で、だからこそそれを覆すマルローやバタイユが戦後に登場してきたのだとも言えるのかもしれない。
さて、「戦後のルーヴル美術館のブランディングの歴史を語るにあたり、まず、特筆大書せねばならないのは、行動する文学者アンドレ・マルローである(163頁)」と著者が述べるマルローは、先述の著書を刊行する以外に何をしたのか? まず「マルローは一九五九年に創設された文化賞の初代大臣に就任(163頁)」し、一九六三年には「《モナリザ》とともにアメリカ合衆国へ渡り、アメリカ国民に向けてこのルーヴルの顔を展覧した(164頁)」ことがあげられている。文化大臣としてマルローに課された課題は、「文化的にも弱体化したフランスを救出し、「偉大なフランス」のイメージを再形成することであった(167頁)」のだそう。それから「文化会館」の創設があげられている。ただしそれはフランス革命が理想としたような社会主義的文化政策ではなく、「マルローの文化会館構想は、人民戦線の[社会主義的な]理念とは決定的に異なっていた。一見したところ、同じように「特権者のエリート集団」から市民に向けて文化を解放するという論理を用いてはいるが、新たな第五共和政政府は、それを根拠に、文化の問題を公教育省から切り離し、新設の文化省が取り扱う政治的問題へと変更したのである。そうすることで、政治家が文化政策に直接的に関与できるようにしたのだった(169頁)」。このような文化政策の政治化の問題に関して、著者は次のように述べている。「戦後、研究・教育の専門家集団の手を離れた文化政策は、たしかに、リベラルな芸術文化の復権という点では大きなメリットがあった。しかし、ひとたび文化政策が政治家の手に委ねられるならば、芸術文化が政治に取り込まれる危険が生じることになる。本来、芸術文化には、政治を批判するという大きな役割と機能があったが、それが決定的に失われてしまう可能性もある(171頁)」。私めには、政治を批判する役割と機能を果たすという考えは、結局特定の政治イデオロギーに取り込まれることのように思えるけど、それはまあよしとしましょう。プロパガンダ芸術は、まさに芸術という文化的活動の政治(イデオロギー)化だと見なせるよね? それについては、「あとがき」を取り上げるときに少し触れる。
さらに著者は、「現在、文化政策を研究する専門家たち、とりわけ日本の貧弱な文化予算を嘆く評論家の多くは、手厚い予算のもとで実行されるフランスの文化政策を称賛し、文化省の創設をポジティヴに評価する傾向にある。しかし、フランスでは、(…)戦後、政治家の手に委ねられた文化は、「もはや理性による共和主義的な礼拝」でも「美の礼拝」でもなく、「メディアの礼拝」と化した――つまり、文化が政治的な「情報」に「成り下がった」――と痛烈に批判する者も少なからずいる(171頁)」。なぜ「メディア」がいきなり出てくるのかはこの説明だけでは定かでないが、少しあとで取り上げる記述によってわかると思うので、しばし待たれい。では、そのことはルーヴル美術館のブランディングにどう関係するのか? その問いに関してまずは次のようにある。「政治家の手に渡った文化政策は、「フランスを再び偉大な国家とする」ド・ゴール主義の理想に接続され、戦後のルーヴル美術館のブランディングに大きな影響を及ぼしていく。¶初代文化大臣となったマルローの最大の貢献は、彼の手に託された「文化問題」を「偉大なフランス」のためにどのように利用するのか、とりわけルーヴルとそこに収蔵される美術作品をいかに活用するのか、その最初の手本を見事に示してみせた点にある(172頁)」。では、そのためにマルローは具体的に何をしたのか? その一つが、すでに述べた「モナリザ」とともに渡米したことだったというわけ。実のところ「モナリザ」はイタリア人のダ・ヴィンチの作品であるにもかかわらず、それがルーヴルのブランディングに大きく貢献することになった理由は、次のようなものだったらしい。「この渡米によって、ルーヴル美術館は新たな神話を獲得した。ルーヴルは、いつかは《モナリザ》を見るために訪れねばならない「世界一」の美術館である、という神話だ。マルローが仕掛けた《モナリザ》の渡米は、フランス文化の復興というド・ゴールのスローガンと、その支えとなるルーヴル美術館のブランディングに大きな成果をもたらしたのである(182〜3頁)」。さらに次のようにある。「文化大臣マルローの役割は、ルーヴル美術館とその所蔵作品をコミュニケーション・ツールとして積極的に活用し、世界と対話することにあった。大臣としてのマルローは、美術に通じた知識人というよりは、美術作品と戯れるパフォーマーないし文化スポークスマンと言うにふさわしい。¶一方、ルーヴル美術館は、マルローによって、ヨーロッパの古典的教養の宝庫から、グローバルな情報コミュニケーション・ツールへと変容を遂げたと言えよう。教養の対象から解き放たれた《モナリザ》をはじめとするルーヴルの傑作は、エッフェル塔やパリの凱旋門、あるいはフランスパンやクロワッサンと同じように、世界中の人がひと目で分かる「フランス代表」として、グローバルに活用される広報材料となったのである(183頁)」。前述の「メディア」とは、まさにルーヴル美術館が「グローバルな情報コミュニケーション・ツールへと変容を遂げ」、そこに収蔵されている有名な作品が「グローバルに活用される広報材料」になったことを指しているように思われる。
ということで次は「グラン・ルーヴル」計画に参りましょう。「グラン・ルーヴル」計画とは何か? まず次のようにある。「ルーヴルを「世界一の美術館に仕立てあげる」というアンドレ・マルローの一九六〇年代の目標は、基本的にはイメージ戦略にとどまっていた。世界の隅々にまでルーヴルの存在を知らしめたとはいえ、具体的に展示環境が世界一良くなったわけでも、入場者数が世界一になったわけでもない。ヴァーチャルなイメージ空間での話である。¶しかし、一九八〇年代、フランソワ・ミッテラン大統領と文化大臣ジャック・ラングが主導した「グラン・ルーヴル」計画によって、ルーヴル美術館は真の意味で「世界一の美術館」となる。リシュリュー翼を占めていた財務省の移転という念願を果たし、建屋すべてが美術館となるとともに、地下の大工事を行い、収蔵庫や研究室などの諸設備も整えた(191頁)」。ということは、一九八〇年代になるまでは、ルーヴルには財務省が間借りしていたということなのね。ちなみにミッテラン政権は社会党政権だったわけで、「グラン・ルーヴル計画に代表される強力な文化政策も、大統領を中心とする「大きな政府」主導の社会主義的政策として理解できる(193頁)」とのこと。財務省の移転に関しては次のようにある。「ミッテランが最初に財務省の移転を発表したのは、ルーヴルへの回帰とブランド化に向かって、これが大きなメッセージ力をもつと考えていたからであろう。政治経済の上で権威のある財務省の意志よりも、ルーヴル美術館という美術文化の力を優先する、フランスはお金より文化だ、というメッセージを打ち出したのである。もちろん、これじたい政治的パフォーマンスというべきで、しだいに明らかになってゆくように、ルーヴルは大統領と文化省の力を表象する政治的マシーンと化してゆく(200頁)」。要するに、ルーヴルのブランディング戦略が次第に政治化していったということになる。
ところでこの「グラン・ルーヴル」計画によって建設された箱モノの一つが、『ダ・ヴィンチ・コード』のラストシーンの舞台となる「ガラスのピラミッド」だよね。この「ガラスのピラミッド」は地下へと降りる入場口なのだそうで、その地下の巨大な空間には、収蔵施設以外にも、様々な施設がつくられ、「観光バス八十台、一般車両約千台を収容できる巨大駐車場、そして、「ショッピングセンター」まで備えるという(202頁)」計画だったそう。著者はこの一種のレジャーランド化計画を次のように揶揄している。「これらの計画は、ルーヴルの展示と収蔵の環境改善という美術館本来の問題からは明らかに逸脱していた。地下からのアクセスが合理的であるとしても、その入り口に巨大なガラスのピラミッドを建設する必然性はないし、駐車場は必要かもしれないが、ショッピングセンターは美術館には不要である。新たな計画をみれば分かるように、ミッテランはルーヴルを単なる美術館以上の存在に成長させ、一大「観光地」へと進化させようとしていた。ガラスのピラミッドという象徴的モニュメントもあれば、旅土産を購入することのできるお買物スポットもある。そんな、パリ観光のハイライトともいえる空間を、地下大工事によって実現したいと考えていたのである(202頁)」。社会主義政権ではないけど社会主義国はやたらに壮大な、無駄の権化のような箱モノを作りたがるよね。たとえば鉄道動画で、ロシアやウクライナ、あるいは東欧のかつて共産主義圏だった国々の路線を見ていると、「こんなド田舎にこんな壮大な駅舎を建てたのか!」と驚くことが多い。ちなみに現在では利用者が少ないのか、ボロボロになっている駅舎も多い。資本主義社会であれば、そんな無駄な箱モノは作らないだろうね。
ということで「グラン・ルーヴル」計画に戻ると、詳細は省略するけど、この計画はスキャンダルや非難の的になったらしい。地下計画全体が「カルチャー・ドラッグストア化」とさえ呼ばれたとのこと。しかし著者によれば、「スキャンダルという負の出来事もまた、ルーヴルの名を押し上げるブランディング戦略としては、重要な一要素となったことは間違いない(207頁)」。ちなみに今ではそういうのを「炎上商法」と言うんだけどね。それからグラン・ルーヴル計画が完了した一九九〇年以降のルーヴルの「進化」が論じられている。ただしその詳しい経緯はここには取り上げない。とりわけ二〇〇〇年以降は「レジャーランド化」していると批判されているにもかかわらず、「ルーヴルは、いまや、この比喩をネガティヴな批判としてではなく、逆にあたかも誉め言葉と理解しているかのように、積極的にレジャーランド化の道を選択しているようにみえる(220頁)」のだそう。これも一種の炎上商法かな。次に「ルーヴル美術館展」の歴史が紹介されているけど、個人的にあまり興味がないテーマなのでスキップする。
ということで何度か言及した「あとがき」に参りましょう。最初に、「モナリザ・バズーカ」と呼ばれる、「ロケット・ランチャーを片手に、微笑みながら戦争に臨む《モナリザ》が表現されている(251頁)」ケッタイな壁画が紹介されている。ちなみに本を持っている人は253頁に掲載されている図版を参照しましょう。持っていない人は「モナリザ・バズーカ」でググれば画像が何枚か検索されてくる。この壁画に関して著者は次のように述べている。「ここになにより読み取るべきは、政治でも、文化の世界でも、やりたい放題の戦争を仕掛ける大国の姿ではなかろうか。一見、私たち日本人にはお馴染みの勧善懲悪の「戦闘美少女」のようにみえるが、表現されるのは真逆の意味である(252頁)」。おやまた「真逆」が登場しましたね。まあそれはよしとして、「日本人にはお馴染みの勧善懲悪の「戦闘美少女」」ってモモレンジャーとかああいうやつのこと? そう言えばJKちゃんたちをパンツァー戦車に乗せるなんていうとんでもないアニメもあったんだよね(見たことないけど)? しっかしナチスドイツの象徴の一つであったパンツァー戦車にJKちゃんたちを乗せるなどというアニメを、ユダヤ人たちが観たらどう思うのだろうか? 無神経すぎるよね? まあそれもよしとして、その直後に著者はちょっとおもしろいことを書いている。次のようにある。「じつは、本書の脱稿が近づいてきたとき、私は、このモナリザを本書の表紙にしたいと思っていた。このイメージ以上に、本書にふさわしいものはないと思ったからだ(252頁)」。ただし著作権の問題で表紙に使うことはあきらめたのだそうな。いずれにしても、この一文からは、冒頭で述べたようにルーヴル美術館のブランディング戦略に著者が批判的であることがよくわかる。やはり芸術に政治を持ち込んでいるところが気に入らないのでしょうね。
ここからあとは個人的な見解になるけど、私めも芸術に政治を持ち込むべきではないと思っている。いつだったか、愛知うんちゃらナーレで、詳細は覚えていないが、昭和天皇の写真を燃やすところを写した写真(ビデオ?)が展示されてネットで物議を醸したことがあった。擁護者は「表現の自由」を盾に取ってそれを正当化していた。しかし個人的には、直近では『国家の尊厳』を取り上げたときに述べたように無条件の表現の自由など存在しないと思っている[ページ内検索キーワード:表現の自由]。でももちろんそれは私めの個人的な考えであって、無条件の「表現の自由」はあると考える人がいても、もちろんそれはそれで構わない。でもその場合、たとえば極右が戦争を煽るような絵を描いて美術展に出展してもギャーギャー騒いではならない。だって「表現の自由」は無条件に保証されていると考えているのだからね。まあ表現の自由を声高に叫ぶ人ほど、自分の気に入らない表現や見方は叩きまくる傾向が見受けられるしね。要するに、そういう人にとっては「表現の自由」ではなく「自分が固く信じているイデオロギー」のほうが重要なのでしょう。かたや昭和天皇の写真を燃やす写真の出展は称賛しても、一方で極右が描いた、戦争を煽るような絵の出展にはギャーギャー騒ぐのなら、それはダブスタでしかない。個人的には、とりわけ公立の美術館や公的な支援を受けている美術展への出展はどちらも認められるべきではないと思っている(個人が自費でやるのなら勝手だとしても)。どちらのケースでも、芸術に政治イデオロギーや政治的プロパガンダを持ち込んでいることは明らかだからね。
「いやいや、国民全体を悲惨な状況に追い込む戦争を煽るのと昭和天皇という一個人をヘイトするのではその影響がまったく異なる」と言い出す御仁も出て来るだろうから、愛知うんちゃらナーレが関連する別の例をあげておきましょう。この美術展が物議を醸していた頃、「プロパガンダ芸術って言葉があるのを知らんのか」という主旨のツイを見かけた。それを見て私めは、「結果から判断すればプロパガンダ芸術の範疇に入るであろうイタリアの未来派の画家たちは、戦争を礼賛し、ファシズムに加担していたことを知らないのかな? 愛知うんちゃらナーレを擁護している人たちはたいてい自称リベラルのはずで、彼らはそもそも絶対平和主義者のはずではないのか? 単に無知なのか、それとも自称リベラルのいつものダブスタなのか?」と思ってしもた。ちなみに未来派に関してはウィキに次のようにある。「未来派(みらいは)とは、フトゥリズモ(伊: Futurismo、フューチャリズム、英: Futurism)とも呼ばれ、過去の芸術の徹底破壊と、機械化によって実現された近代社会の速さを称えるもので、20世紀初頭にイタリアを中心として起こった前衛芸術運動。この運動は文学、美術、建築、音楽と広範な分野で展開された。1920年代からは、イタリア・ファシズムに受け入れられ、戦争を「世の中を衛生的にする唯一の方法」として賛美した」。これだけを読むと未来派がファシストに受け入れられただけであるかのように思えるかもしれないが、実際にはボスのマリネッティを含む未来派のメンバーにはファシスト運動に参加した画家もいた。次のようにある。「未来派の芸術家たちの一部はやがて、好戦的で戦争や破壊を新しい美とする部分の認識で共通していたファシズムの政治運動とも関わりを深めていく。首唱者のマリネッティ自身も、右翼行動団体「戦闘ファッシ」(イタリアファシスト党の前身)の一員だった」。芸術に政治イデオロギーやプロパガンダを持ち込むと、こういうことになるという好例の一つだと言えるでしょうね。
ということで最後はちょっとエグい話になったけど、ルーヴル美術館の歴史、それもブランディングの歴史に関する本は、著者も冒頭で述べているようにほとんどないようなので、その意味では貴重だと言えるでしょう。ただ二、三指摘したように、論理的によく分かりにくい箇所もあった。
※2024年12月12日