◎マーク・ベコフ著『動物たちの心の科学』

 

 

わが家では十姉妹を飼っている。十姉妹は鳥のなかでももっとも小さな部類に属し、尻尾を除けば手のひらにすっぽりと包み込めるくらいの大きさしかない。それでも、部屋のなかで放鳥したあと、カゴに戻そうとして何かのはずみで強く握りすぎたりすると、普段は絶対に発しない「ギュイー」というつぶれた鳴き声をしぼりだすことがある。そう、手のひらにおさまり切るほど小さな十姉妹が、明らかに苦痛を感じているのである。鳥は基本的に表情を変えないが、声に関しては多彩な表現が見られ、彼らが苦痛を感じていることははっきりとわかる。

 

ところで訳者は、ヴィクトリア・ブレイスウェイト著『魚は痛みを感じるか?』(紀伊國屋書店、二〇一二年)を訳したが、この本はタイトルが示すように魚が痛みを感じているか否かを問う。魚は表情を変えないどころか、人間の耳に聞こえる鳴き声すらたてない。では、どうすれば魚が痛みを感じているかどうかを判定できるのか? 魚に心があったとして、その内容(クオリア)を人間が主観的に把握することは土台不可能だ。それは、何も魚に限った話ではなく、哺乳類にしろ、あるいは人間同士ですら他者の内面的なクオリアを直接体験することなどできない。「コウモリであるとはどのようなことなのか」は、私たち人間には決してわからない。では、どうやって判定すればよいのか? 一つは人間が痛みを感じる際に活性化する脳の器官と類似の器官を魚も備えているかどうかを調査することによってだが、もう一つは人間が痛みを感じるような特定の刺激を与えたときに、魚が行動を変えるかどうかを観察することによってである。もしそのような刺激によって魚が通常の行動を変えるとすれば、痛みと呼べるかどうかは別として、それは魚が何らかの不快な感情を経験している可能性が高いことを示唆する。そしてさまざまな実験の結果、著者は「魚は痛みを感じている」という結論を引き出す。

 

魚が痛みを感じているのなら、魚よりも賢いはずだと私たちが考えている哺乳類などの動物が痛み(やその他の情動、感情)を感じていないはずはない。その点を明確にするのが本書『動物たちの心の科学』であり、その主題は、鳥類や魚類に限らず、また痛みに限らず、動物は情動(emotion)や感情(feeling)を経験しているというものだ(「情動」と「感情」の意味は、分野によって、あるいは同じ分野でも研究者によってかなり異なる場合があるが、本書の著者の定義については第1章を参照されたい)。またその根拠として、ミラーニューロンや進化論などの構造的、生物学的な説明もあげられているが(第2、5章)、さらに重要なことに、著者自身やその他の研究者が実験室で、そしてとりわけ野外で実施した動物の行動様式の観察(認知行動動物学)を通して得た知識が豊富に提示されている(第2、3、4章)。

 

しかし、動物の情動を調査研究するにあたってのもっとも大きな障害は、「情動そのものは、客観的なデータとして定量化できない」という点である。だから先の魚の研究では、行動様式の変化を指標にするという間接的な方法がおもに採用されていたのである。『動物たちの心の科学』がユニークなのは、さらに大胆に、観察をベースとしながら(すなわちまったくの主観的な記述に陥るのを回避しながら)も、三人称的(客観的)ではなく、共感力に依拠する一人称的(主観的)な観点を重視し、従来は忌避されていた、逸話(Anecdote)、類推(Analogy)、擬人化(Anthropomorphism)という三つのAの積極的な活用を促している点だ(おもに第5章)。日本(あるいは欧米でも、現象学などの伝統がある大陸ヨーロッパ)では事情が異なるのかもしれないが、このような見方、あるいはそもそも動物の情動を研究対象として取り上げることは、とりわけ客観的な実証を第一とする英米では、無視あるいは拒絶されてきたいきさつがある。このような事情は、「まえがき」で動物行動学者のジェーン・グドールが雄弁に語っている。

 

しかしこの傾向は最近になって、進化生物学の発展などとともに変わりつつある。というのも、進化論的な自然選択という観点から見た場合、闘争・逃走反応など、情動が個体の生存に重要な役割を果たしていることが明らかになりつつあり、また「情動は何もないところから突然に発生するのではなく、ある一定の文脈のもとで生じ、原因や結果を伴う。ストーリーを語るとは、まさにそれらを正しく記述することだ」(第5章)と著者が主張するように、情動を対象に研究を行なうためには必須の手段として、一人称的な観点が要請されるからである。個人的な見解を言えば、著者の主張の根本には、動物生態学には動物生態学が対象とすべき粒度があるのであって、三人称的(客観的)な観点を絶対視する、より細かい粒度の方法よりも、そればかりでなく一人称的(主観的)な観点も考慮する、もっと中間的な粒度の方法も必要とされるという考えがあるように思われる。

 

そして著者は、最終的に、というよりも動物に情動能力を認めることの必然的な帰結として、実験室、畜産場、動物園、そして自然環境(野生)における動物の福祉の問題を取り上げる(第6章)。これに関して圧巻なのは「不安や退屈を感じている動物を対象に得られた情報は、同種の個体の正常時の行動を理解するのにあまり役立たない」「動物の福祉に留意し、それに何が必要なのかを正しく把握する努力によって、同時に科学研究の質の向上がもたらされる」(第6章)などの主張からもわかるとおり、動物の研究において科学の客観性を保つためには、つまり科学たるための必要条件を満たすためには、まさしく情動を考慮に入れ、さらにそのためには、動物に対する配慮が不可欠だということが指摘されている点である。

 

このように述べると、本書は動物の研究方法に関する問題提起に終始する専門書であるように聞こえるかもしれないが、そうではない。もちろんその側面もないわけではないが(ことに第5章)、ストーリーを重視する著者の方法によって、一般の読者が読んでもきわめて面白く、かつ読み易い本に仕上がっている。さらに言えば、とりわけ第6章で取り上げられている動物の福祉の問題は、研究者や動物園の管理者のみならず、われわれ一人一人が考えていかなければならないものでもある。

 

ここで簡単に参考図書を二、三あげておく。本書第3章で取り上げられているように、動物が経験している情動は何も痛みや苦しみなどのネガティブなものに限られるわけではなく、それには愛情や喜びなどポジティブなものも含まれる。この点に関して是非推薦しておきたいのが、本書にも言及がある動物行動学者ジョナサン・バルコムが著した『The Exultant Ark』(University of California Press,2011)である。現在のところ邦訳は出ていないが、動物が喜びを表現するところを撮った豪華なカラー写真がふんだんに挿入されており、文章を読まずとも十分に楽しめ、それと同時に「動物は喜びを表現する能力を持つ」という事実を、ゴージャスなビジュアルを通してまさに一人称的に理解できるはずである。またこの一人称的観点に関しては、古典的なところでは、ヤーコプ・フォン・ユクスキュル、ゲオルク・クリサート著『生物から見た世界』(日高敏隆,羽田節子訳、岩波書店、二〇〇五年)を、また新しいものでは、これまた本書にも登場するアレクサンドラ・ホロウィッツの『犬から見た世界――その目で耳で鼻で感じていること』(竹内和世訳、白揚社、二〇一二年)を推薦しておく。またベコフの著書で、本書よりあとに刊行されたジェシカ・ピアース(彼女も本書に登場する)との共著『Wild Justice』(University of Chicago Press,2009)では、おもに本書の第4章の内容(動物における道徳や公正の感覚)が発展拡張されているので参考にされたい。既に邦訳されているベコフの著書には、『動物の命は人間より軽いのか――世界最先端の動物保護思想』、(藤原英司, 辺見栄訳、中央公論新社、二〇〇五年)がある。なお本書にまえがきを寄せているジェーン・グドールに関しては、共著も含め、邦訳が何冊か出ている。

 

 

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