◎上村剛著『アメリカ革命』(中公新書)

 

 

アメリカ革命とは、アメリカの独立、ならびに合衆国憲法の制定を指しているようだけど、あとで述べるようにこの言い方は個人的には違和感を覚える。とはいえ、著者がそのような言い方をしているので、ここでも「アメリカ革命」と呼ぶことにする。これを書いているたった今、この新書本にも一箇所言及のある歴史家ゴードン・S・ウッド氏の大著『The Creation of  the American Republic 1776-1787』を読み直しているところで、それとの関連で買ってみた。ではなぜこの大著を読み直しているかというと、フランス革命とアメリカ革命は決定的な違いがあると思っていて、それを確かめてみようと思ったわけ。その意味でも、「フランス革命」と等置するような「アメリカ革命」という呼び方は違和感を覚えざるを得ない(その理由についてはあとで述べる)。とはいえそれは私めの個人の感想にすぎないので、その点はいったん忘れることにした。ところでこのウッドの大著、1969年にノースカロライナ大学出版局から刊行されている(わが手元にあるのは1998年刊行のソフトーカバー版だけどね)。地方大学の出版局は、確か何たら法のせいで主たる顧客だった大学図書館からの購入が減ったおかげで軒並みつぶれたそうだが、ノースカロライナ大学出版局は生き残っているのだろうか? まあそれはそれとして、さっそく新書本に参りましょう。

 

最初に日本の話が出て来る。次のようにある。「西洋政治思想史におけるこの議論[社会契約論]の延長線上に、現行の日本国の始まりを社会契約というフィクションに求める立場もある。一九四五年八月を境にして、それまでの秩序が崩壊し、自然状態といってもいいような世の中が現出した。そのなかで国民は社会契約を交わしたとの論理立てで、日本国家を理解しうる。日本国憲法は前文で、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるもの」と述べている。この場合、国家の新たな始まりとは、法的な意味での{革命/傍点}である(6頁)」。これはどうみても左翼的な考え方に聞こえる。「現行の日本国」の始まりが一九四五年八月に成立したとするなら、現行の日本にはそれ以前の歴史が存在しないことになる。しかもそれを法的な意味での革命と見なすのは、まさに宮澤俊儀氏の八月革命説そのものではないかと思った人も多いかも。実はその直観は正しくて、読者の期待を裏切らず次のようにある。「より日本国憲法に沿って法学的にいうと、八月革命説という、一九四五年八月の敗戦によって主権者が国民に移動した、とみなす議論がある。第二次世界大戦後、日本国憲法は、戦前の明治憲法の改正というかたちで制定が進められたが、国民主権を原理とする日本国憲法へとどう改正できるのかうまく説明できなかった。明治憲法では国民主権がうたわれておらず、両者がまるで連続しないからだ。¶この矛盾を説明するために、一九四五年の八月にポツダム宣言を受諾した際、その内容に含まれていた国民主権原理をも認めた、そこで主権が移動したのだ、と考えるのが八月革命説である。つまり、戦前と戦後の日本には法秩序において断絶があり、新たな国家が始まった、というのだ(6〜7頁)」。著者自身がこのファンタジーのような学説をどこまで信じているのかは定かではない。私めは、「憲法を神聖不可侵なものと見なしている護憲派は、現行日本国憲法は明治憲法を改正したものであるにもかかわらず、なぜ明治憲法に戻すべきとは絶対に言わないのだろうか?」とつねづね思っている。でも少なくとも宮澤氏は、現行の日本国憲法と明治憲法のギャップを埋めなければならないことには気づいていた。ただ結局、八月革命という革命による両者の断絶を認めることによってしかそれをなしえなかったわけだけどね。つまり氏は、意図せずして憲法というものが決して神聖不可侵でないことを認めたことになる。この点で宮澤氏は、現代のガチガチの護憲論者とは違っていたと言えるのかも。その意味では、国際政治学者の篠田氏が何かの本で書いていたところによれば、宮澤氏は、憲法96条に従った憲法の改正には反対していなかったらしい。

 

もちろん新書本の著者は、「革命」によって新たな国家が開始される例の一つとして宮澤氏の八月革命説を持ち出しているにすぎないとしても、このあたりからなんとなく著者の言う「アメリカ革命」が私めが捉えているアメリカの独立や憲法制定とは異なっているのだろうという印象を受けざるを得なかった。まあ、それはそれでおもろいかもと思って読み続けることにした。するとさっそく、この新書本の目的が書かれていた。次のようにある。「もちろん、アメリカの独立によって人々の運命は激変した。しかしこれ自体は、多くの政変のいずれにも言えることである。なぜアメリカ独立は「革命」と呼ばれるにふさわしいのか? 何が政変とは異なるのか? アメリカ革命を考えるうえでは、そのような疑問に答えられなくてはならない。本書の答えは、連邦憲法という始まりである。これが統一した切り口になる(15頁)」。

 

それから「序章 国家が始まるということ」の最後にアメリカの司法に関する一種の豆知識があるので、それを取り上げておく。次のようにある。「現に今日のアメリカ合衆国でも、アメリカ革命はつねに彼らの政治的理念の原点になっている。連邦憲法が制定されたとき、その起草者は何を考えていたのだろうか。それをつねに問いながら合衆国の政治や司法を運用する姿勢は、保守派に多くみられる。現在の連邦最高裁判所でも、憲法を解釈する際に、憲法のオリジナルな意味は何だったかを重視して理解しようとする姿勢は強い({原意主義/オリジナリズム}と呼ばれる)(16頁)」。司法の場合にはむしろ、憲法のオリジナルな意味を重視する人々が保守派と呼ばれるのであって、必ずしも司法の保守派が、共和党サイドという意味での保守派とイコールになるわけではないはず。それで一つ思い出した。何年か前に、ニューヨーク市だったかが施行した、銃規制に関連する条例に対して連邦最高裁が違憲判決を下したというニュースがあった。日本のメディア(ネットに上がっている各局の切り取り映像だけしか見ていないが)はすべて、最高裁がおかしな判決を下したと報じていた。しかし、これはまったくの誤解か、あるいはすぐに述べるように一種の印象操作だったと言わざるを得ない。というのも、現在の連邦最高裁は、ここでいう意味での保守派が多数を占めているので、合衆国憲法に正確に照らせば、銃規制は修正第2条違反になるため違憲判決を下さざるを得なかったと言える。もし銃規制を認める判決を下してしまったら、最高裁自体が違憲判決を下したことになる。日本のメディアも、修正第2条について知らないはずはないので(知らなかったのなら、政治的な報道をする知識も権利もないことになる)、これは間違いなく印象操作だったのだろうと考えられる。というのも、これから見ていくように立憲政治の元祖であるアメリカですら憲法改正(アメリカでは修正条項の追加と言う形態を取るとしても)が喫緊の課題であることを認めてしまえば、日本でも憲法改正の必要性があることを視聴者に印象づける結果になってしまうから。実際にどうだったかは知らんが、ゆ〜ちゅ〜ぶにそれらの切り取り動画を流していた各局が、そのアドレスを付加してツイしていたら、コミュノートにめっかって背景説明を追加されて「役に立ちましたか?」と煽られるレベルだよね。もはや大手メディアは、その手の印象操作が通じるのが当然と思わないほうがいいべさ。信用をさらに失って、自分で自分の首を絞めているのも同然だからね。

 

ということで、ここから本論に入る。ただし最初にお断わりしておくと、本書には歴史的な事実に関する記述も多いが、基本的にそれはここでは取り上げない。アメリカ史については、この本や他の本を読んでお勉強しましょうね。「第1章 植民地」は独立以前のイギリスの植民地時代のアメリカについて説明されている。ここは背景説明なので簡単に参りましょう。比較的最初のほうに「専門的なことを言っておくと、会社を起源として国家を理解することは、アメリカの国家の起源をめぐる理論的刷新につながる(29頁)」という意味深な記述がある。そのこころはどうやら、社会契約論を超越するという点にあるらしい。次のようにある。「これまでアメリカ合衆国の理論的根拠として有力視されてきたのは、人民(people)の契約というものである。自然状態においてまずは人々が集まって社会を形成し、そののち統治者を選んでそれに従うことに同意する。これが学校で習うような、よくある社会契約の理論である。しかしこれについては、自然状態なんてあるのか、とか、私は契約を結んだ覚えはありませんが、とか、いろいろな難点が指摘されてきた。¶これに対して、会社を典型とするような団体論では、特許状を通じてこの難点を回避できる。あらかじめ会社には構成メンバーがいて、彼らがどのような権限を会社に委ねているのかが、特許状を通じて明示される。その権限以外は構成メンバーに最終的な決定権が保持されている。これが団体論によるアメリカという国家の捉え方である。これによって社会契約という議論のもつどこかフィクションのようなストーリーを回避できる。そのうえ今日では国家と会社とは官と民というかたちで対比的に捉えられることも多いから、その根っこを共通のものとみなすのは面白い。近年このような議論が流行っているわけである(29〜30頁)」。「これが団体論によるアメリカという国家の捉え方である」とドヤ顔で言われても、なんかわかったような、わからないような・・・。なお「特許状」とは何かに関しては、次の節「特許状は武器である」を参照してくださいませませ。ここでは、最近は社会契約論より、会社に範を取った団体論によって国家を捉える見方がはやりらしいということだけ確認しておきましょう。

 

次は「第2章 独立」。最初に述べたように細かな歴史的経緯は省略し、興味深かった記述のみを取り上げることにする。まず「王党派革命」という議論があるという記述が目を引いた。次のようにある。「近年の研究で物議を醸した議論がある。それはアメリカ革命が「王党派革命(royalist revolution)」だった、というものである。今までアメリカ革命は、独立宣言で国王に対する異議申し立てをしたことや、独立後は君主を戴かなかったことから、共和政を打ち立てた革命であると考えられてきた。それに対して、あくまでアメリカの人々が反対したのは議会に対してであって、国王に対してではなかった、むしろ彼らは前の世紀の王様を理想として独立を果たしたのだ、と修正するような議論が登場した。それが「王党派革命」という語の意味である(65〜6頁)」。この説が興味深いのは、フランス革命も当初は王党派革命に近いものだったから。初期の頃活躍していたミラボーやラファイエット(彼はアメリカでも活躍した)は立憲君主主義者だったのですね。ところが次第に革命が煮詰まってくると、立憲君主主義者が退場して過激派が台頭して王様の首を刎ねてしまうわけ。つまり、アメリカに関する「王党派革命」説が正しいのなら、アメリカ革命も、当初のフランス革命も、君主政に特に反対していたわけではなかったことになる。ならば革命と君主制が相容れないという見方は、少し考え直したほうがいいことになる。そもそも、現代になっても、もっとも進歩的と見なされている北欧の三国(ノルウェー、スウェーデン、デンマーク)とベネルクス三国(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)にも王さまがいるくらいだしね。ただ残念なことに、著者によれば「王党派革命」説を支持する人は少ないらしい。でも、著者はそれに対して次のようにつけ加えている。「実際アメリカ植民地の人の多くは依然として遠く離れた国王に愛着があったし、表象としても、政治制度の点でもその影響下にあったという点を見逃してはならないのである。実際、国王ジョージ三世の肖像画や像が依然として植民地では広く存在していた。一七六八年にマサチューセッツ議会がとった態度はそのようなものへの典型的な反応を示している。彼らは本国に対する抵抗について検討するなかでなお、「我々の共通の長である国王」と表すことにためらいがなかった。それほど彼らの臣従はあつく、また内面化されていたのである(66頁)」とも述べている。このあたりにも、最終的に王さまの首を刎ねたフランス革命とアメリカ革命の違いを強く感じてしまう。もちろんフランス革命が国内の問題であったのに対し、アメリカ革命は植民地と本国の争いであって、さすがに植民地の住民がイギリスの王さまの首を刎ねるなどあり得ないことだったとしても。

 

彼らが立憲君主主義を擁護していた理由は、個人よりも共同体(社会)を重視する共和主義的傾向が色濃く見られるがゆえだろうと私めは考えている。確かにフランス革命で成立した政体は第一共和政と呼ばれているとしても、個人的な感覚ではフランスの場合、個人を重視する立憲民主政ではあっても完全な共和政とは言えないような印象を持っている。ちなみに「共和主義」という用語は、人によって異なる意味で用いられることが多いけど、ここではとりわけ個人より共同体を重視するという特徴に着目している(なお共和政の定義については『民主主義を疑ってみる』なども参照されたい)。それに対してアメリカでは、現代でもこの共和主義的な考えが濃厚に残存している。それは共和党のみならず、オバマまでの民主党にさえ見られた特徴だと言える(国境をユルユルにして自国の共同体を崩壊に導いているバイデン政権に、共和主義的要素が少しでもあるとはまったく思えないが)。民主党のケネディが大統領就任演説で述べた有名な言葉を思い出してみればよい。彼は「あなたの国があなたのために何ができるかを問うのではなく、あなたがあなたの国のために何ができるのかを問うてほしい」と述べた。個人よりアメリカという共同体を優先せよと述べた彼だからこそ、共和党支持者でも彼を批判する人はほとんどいない(だよね?)んだろうと思う。このJFKの言葉を現代の日本の自称リベラルが聞いたら、彼らの全身はさぶいぼ化するのではないか。このような見方こそがアメリカのよき伝統になっていると言えるでしょう。ちなみに最近、JFKの甥にあたるロバート・ケネディ・ジュニアが立候補を取り消してトランプ支援に回ったとして、民主党員やケネディ家の批判を浴びているというニュースがあった。その件で彼が「今のケネディ家はかつてのケネディ家とは違う」と言ったように、「バイデン/ハリスをトップにした今の民主党はかつての民主党とは違う」とも言える。というのも、かつては民主党にも見られた共和主義的な色合いが一ミリも見られなくなっているから。ジュニアはワクチンなどをめぐって陰謀論者だと言われることも多いみたいだけど(それに関する彼の見解はまったく知らないので個人的な判断は控える)、彼が自国第一主義を掲げ、共和主義的な側面が濃厚に見られるトランプの肩を持つことはよく理解できる。

 

ジュニアのお父っつあんであるロバート・ケネディに関して、コミュニタリアンのサンデル氏が述べていることをここで紹介しておきましょう。『サンデルの政治哲学』によれば、サンデルは、ロバート・ケネディ・パパを高く評価しているのだそうな。そこでも引用したけど、ここにもう一度引用しておく。「戦後の民主党の大統領とその候補者のなかで、オバマ大統領の前にサンデルが最も共感していたのが、ロバート・F・ケネディである。ジョン・F・ケネディについては、リベラリズムの流れに即した発言や政策を行った点で、リベラル派の側に位置づけていて、高く評価しているわけではない。しかし、弟のロバート・F・ケネディは大統領候補になりながら暗殺されてしまったが、一九六〇年代の正統的なリベラル派ではなく、すでにコミュニタリアニズム的なビジョンを提起していた。¶ロバート・F・ケネディは、公民性とコミュニティのビジョンを持っており、当時の騒然とした状況の中で、公民的生活を中心にする公共哲学への問題提起を行おうとしていた、という。彼は、個人と国家の間にあるコミュニティの衰退を嘆き、コミュニティ自体の自己統治の重要性を強調した点で、サンデルの考えに近かったのである(同書、292頁)」。どうやらJFKの大統領就任演説はなかったことにされているみたいだけど、それはまあよしとしましょう(よくはないけど)。だとすると息子のジュニアの変節?はよ〜〜〜く理解できる。要するにかつてのアメリカでは、民主党にさえ共和主義的な側面が色濃くあったのですね。そのアメリカに対し、フランスでは、現政体が第五共和政と呼ばれているとはいえ、パリ五輪の開会式で、自分たちの社会の基盤をなすキリスト教を揶揄するような演出をしてバチカンから批判されたことに象徴的に見て取れるように、共同体重視という側面から見た共和主義的な特徴が雲散霧消しているように思える。このような理由から、フランス革命やそれに影響を受けて実行されたさまざまな革命と同じようにも響く「アメリカ革命」という言い方に、たとえ間違いではなかったとしても、どうしても違和感を覚えてしまうわけ。

 

さてまた脱線してしまったので新書本に戻ると、次の連邦(連合)に関する記述は興味深かった。次のようにある。「各々の邦[連邦憲法制定以前の州を意味する用語]での憲法制定と並行して、それぞれの邦を束ねた連合(連邦federation)をどのように作るかも独立とともに検討された。(…)ここで提唱されたのは、邦同士の通商について課税権限を連合に与える、という案だった。戦争にかかる費用を捻出できないとの懸念があったためである。だがこれはそれまでの連合の意味合いから大きく逸脱していたため、反対にあい、撤回を余儀なくされた。¶それまでの連合とは、どういうものか。それは、今でいう同盟関係に近かった。ここで重要なのは、今日のアメリカの連邦の概念は、独立当時の連合や連邦といった言葉で意味されていたものとはかなり違う。当時はあくまで{一つ一つの邦が国家/傍点}として考えられていた。その場合、主権はあくまで各政治体にあるのであって、それを束ねるゆるやかな政治的、軍事的な協力関係が連邦だと政治思想史ではみなされてきた(78〜9頁)」。ある意味で昔は、現在で言えば国連と国家の関係に近いものとして、連邦と各邦の関係が捉えられていたということなのでしょう。個人的には、アメリカほど巨大な国家の場合、実際には昔のような考え方のほうがよりうまく機能しそうにも思える。ちなみにアメリカの大学って、陸海軍関係の大学を除けば、私学と、州立大学や市立大学から成る公立大学しかない、つまり日本の国立大学にあたる大学が軍関係以外存在しないのは、上記の昔の考えの反映であるようにも思える。

 

お次は「第3章 連邦憲法制定会議」。冒頭でこの会議の重要性が次のように述べられている。「今日、合衆国憲法制定会議、フィラデルフィア憲法制定会議、などといった名前で知られるこの会議は、独立宣言と並ぶ建国史のハイライトである。いや、独立宣言以上に重要であると言ってもよい。ここで作られた憲法こそ、その後今日に至るまで運用されてきたものであり、覇権国家アメリカを今なお支える屋台骨だからである(95頁)」。次にこの会議の流れが説明されているけど、基本的にその部分はスキップする。ただその初期の段階から生じた問題についてだけ取り上げておきたい。次のようにある。「まず、マディソンが考えた素案を検討する第一段階である。これは、邦議会の権力を制限し、大きな邦が連邦で大きな権力を持つような特徴を持っていた。しかし、議会と大統領とにそれぞれどれくらいの権力を持たせるか、誰が誰を任命するかをめぐって多くの議論がかわされることになった。¶そのような議論の最中に小さな邦(ニュージャージーとデラウェアが典型)が激しく反発し、大きな邦と小さな邦とが対立することで、第二段階に議論は移る。小さな邦は自分たちが他の邦に比べて弱いことを自覚しており、一つ一つの邦の独立度の高い連邦を望んだ。さもなくば、大きな邦が連邦政治で主導権を握り、最終的には自分たちの邦を消滅させるのではないかと懸念したのだ(102頁)」。これが、のちのフェデラリスト(連邦派)と反フェデラリストの反目に至るわけね。それから大統領を誰が選ぶのかももめたらしい。次のようにある。「大統領を選ぶのは議会か、人々の公選か。いったんヴァージニア案通り連邦議会による選出に落ち着いた。今日の制度では人々がまず選挙人を選出し、選挙人が大統領を選出することからわかるように、会議最終盤で激論のすえこれは変更される。ちなみにこれは最初にウィルソンによって六月二日に提案されるが、その際は否定されていた。七月の下旬に再度提案されることになる(109頁)」。まあこのときヴァージニア案が通っていれば、現在大統領選のたびに巻き起こるド派手な狂騒曲はあり得なかっただろうね。議会が大統領を選んでいる国の代表はドイツだけど、現在のドイツ大統領の名前を知っている人は少ないはず(歴代でも、首相はいくらでも思い出せても、大統領に関してはヴァイツゼッカー以外の名前を思い出せる人はあまりいないのでは?)。それだけ議会選出の大統領の権力は弱く、日本の天皇に近い象徴的な存在になっている。それからこれはよく知られている話だけど、日本国憲法では最初のほうの条項に登場する人権規定が、当初の合衆国憲法にはなく修正条項として追加されている。その理由の一つが、「すでに各邦の憲法で人々の権利が保障されているところが多いのだから、重ねて連邦憲法で明記する必要はない(128頁)」というものだったのだそうな。

 

かくして完成した憲法案の評判は、あまり芳しいものではなかったらしい。次のようにある。「このようにして完成した連邦憲法案に対しては、今日の高い評価とは裏腹に、会議参加者はみな不満を持っていた。マディソンもパリのジェファソンにあてて「連邦の形成目的を効果的に満たすわけでもなければ、邦の悪弊を防げるわけでもない」と嘆いている。ハミルトンもまた「自分の案が、他の誰よりもこの連邦憲法案とは遠く隔たったものだった」と、会議最終日に納得いかない様子をみせた。参加者の多くの連邦案の評価は、多くの人間が関わりすぎたがゆえの失敗作というものであった(130頁)」。ぬぬぬ、「失敗作」とは言い過ぎな気もするにせよ、元祖憲法とも言うべき合衆国憲法ですらそんな感じだったらしい。ましてやGHQが短期間で基本的な草案を作成したと言われている現行の日本国憲法が絶対的であるはずはないよね(ただ改憲派が押しつけ憲法論を根拠にするのは{戦略的に/傍点}悪手だとは思っているけど)。

 

次の「第4章 合衆国の始まり」では、かくして成立した憲法案を各州が批准していく過程が描かれている。細かくなるので詳細は省略するが、一点だけ取り上げておきましょう。それは三権分立に関して。次のようにある。「ここで問題になったのは権力分立をめぐる議論である。というのも、批准反対派はここでも『法の精神』に憲法が反していると主張したからである。同時期には『ブルータス』五編(一二月一三日)[『ブルータス』とは、ニューヨーク・ジャーナル紙に掲載された「カトー」、「ブルータス」のペンネームによる反対意見の連載を指す]も、類似の議論を展開していた。「大統領と上院との危険かつ早計な結合」と、上院における三権の融合が問題だと言うのだ。(…)そうだったからこそ、マディソンはこれに対しても反論を余儀なくされた。¶彼の反論は、権力分立とは、三つが完全に独立しているべきではない、というものだ。つまり、相互に不干渉なのではなく、他の部門が侵害してきたときに防御となるような手段を持つ、というのである。このような憲法構造をマディソンは抑制均衡と呼び、大統領と上院の関係もまたその意味で権力分立と言いうると考えていた。[『ブルータス』]五一編に一週間先立つ四七編(一月三〇日)では、モンテスキューもまた権力を分けるというとき、完全な独立を意味していたのではなく、部分的な重なり合いを前提に議論していた、と『法の精神』を解釈している(141〜2頁)」。「モンテスキュー解釈について現代日本では、このマディソンの理解を通じて捉える傾向が強い(142頁)」とあるように、私めもマディソン流の三権分立の見方を取っている。ところが現代の日本には、ときおり自分に都合がいいときだけ、三権がまったく独立していることを三権分立と呼ぶ人々がいる。でもそういう人々が、行政府の長である内閣総理大臣が立法府の議会で指名される議院内閣制を採用している日本やイギリス、司法府に属する最高裁判事を行政府の長である大統領が指名しているアメリカ、あるいは単純に知識不足で知らないのかもだけど、前述した議会が大統領を指名しているドイツを批判するのを聞いたことがない。だから「自分に都合がいいときだけ」と言ったわけね。なお三権分立についても、先にあげた『民主主義を疑ってみる』に多少書かれているのでそちらも参照されたい(ページ内で「三権分立」を検索すればすぐにいくつか該当箇所が見つかる)。

 

次は「第5章 党派の始まり」。党派と言えば、現在のアメリカで言えば、共和党と民主党がおもに該当する。その源泉はすでに建国当時からあったことが次のような記述によってわかる。「民主政という私たちにとって馴染み深いこの概念が、合衆国建国当時、肯定的に捉えられていたわけではないことは、もっと強調されてもよい。もちろん、人々の自治といったような考え方がなかったわけではないが、それは「民主政」という言葉で理解されていたわけでは必ずしもなかった。民主政はあくまでも政治体制の一つであり、多くの人々の政治参加はアナーキーに至るものとされ、否定的に捉えられた。マディソンが『フェデラリスト』一〇編で共和政と民主政とを対照的に捉え、共和政を称揚したのはその代表例である(173頁)」。それに対して民主政を擁護する人々については次のようにある。「この前後[およそ建国時ということでしょう]、アメリカ国内では、フランス革命の大義を支持する協会が各地で結成されたことも見逃してはならない。これは、君主政や貴族政を過去のものとして否定的に評価し、それに代わって民主的な政治原理を訴える、人々の自発的な結社である。ワシントン[初代大統領のことでせふ]の批判も辞さない急進的なものだった。¶彼らは民主政を肯定的に捉えた。例えば一七九四年、ニューヨーク市の民主協会は声明を発表し、そのなかで自分たちを民主派だと名乗る。『フェデラリスト』の共和政/民主政の概念は誤りであり、両者は同義語であると論じながら。そして自分たちこそが「憲法の真の原理とアメリカ革命のもともとの意図」にのっとった存在だと力強く主張したのである(174頁)」。こうしてみると、「フランス革命」と等置するような「アメリカ革命」という言い方に私めが違和感を覚える理由も、私めがアメリカという国が抱く基本的な考えをマディソン流に捉えているからこそだということが見えてくる。「共和政/民主政の概念は誤りであり、両者は同義語である」と主張する民主政擁護者の立場からすれば、アメリカの独立と憲法制定はフランス革命にたとえられるべきものなのかもしれないとしても、マディソン流の観点からすればその見方はどこかがおかしいと感じられるのは当然なのですね。そして両者のギャップは建国当時からすでに存在していたことになる。

 

それから党派には関係ないと思うけど、先住民との関係に関して「帝国」という用語が使われているのはおや〜〜んと思った。次のようにある。「南部と北西部で合衆国の先住民に対する権限がある程度安定して確立されると、一七九六年に、連邦政府は六年前の、交易ならびに通商の法をアップデートし、先住民との境界線を確定した。これは、それ以降の先住民の排斥と西部開拓の礎石になったもの、と考えられる。¶以上のような抗争は一七九六年以降も続いていく(第6章)が、大きな流れは、彼らを永続的なマイノリティとして国内に押し込めていくというものだ。このような先住民の「内なる他者としての隷属化」を押し進めたのは、公的な主体だけでは決してなく、むしろ利益を求める民間の商人たちだった。軍隊と、会社、そして多くの入植者たちが手を取り合ったり相互に対立したりしながらも、結果的には先住民の排斥への道筋を作ってしまった。このようにしてアメリカ合衆国は、「帝国(empire)」としての道を歩んでいく(189頁)」。「それって国内の話なんだから、帝国って言えるの?」という疑問が出て来ることを予想してか、それに対する理由づけがちらと書かれている。この点に関しては引用部にあるように第6章でも説明されているのでそこで検討するつもり。

 

だがそれに続く次の記述には、ちょっと横槍を入れたくなる衝動に駆られた。「このような研究の展開は、従来のアメリカ国家論を覆すものである。今までアメリカ合衆国とアメリカ人に対するイメージとしてよくあったのは、連邦国家は弱く、人々は自分の自由を守るために自由を{恃/たの}む、というものである。西部開拓はその例である。のちの時代の西部劇を思い浮かべれば、国家権力は弱く、法律は浸透せず、人々は自分で自分の身を守っていた、といったイメージが容易にわかるだろう。¶だがこのようなイメージ自体、二〇世紀の冷戦構造のなかで作られたものかもしれない。自由の国アメリカ、強大な国家権力を否定し、自由をなによりも大事にするアメリカ人、という冷戦イデオロギーが合衆国初期の国家像に逆流していた可能性も大いにありそうだ。『駅馬車』や『シェーン』といった古典的名作映画において繰り返し再生産されてきた、「白人男性の自由」という固定観念をとっぱらってアメリカ建国を捉え直したとき、そこで明らかになってくるのは国家一丸となって、先住民に対して強硬な迫害を推進した、アメリカ帝国の実像なのかもしれない(190頁)」。私めは、この文章を読んだ途端、「あらら! この著者、みごとにやらかしおった!」と思ってしまった。だってそもそも「冷戦イデオロギー」とか言いながら、戦前の1939年に制作された『駅馬車』を取り上げるのは完全におかしいからね。のみならず著者が言及しているような類の西部劇が戦前にもたくさんあったことは、私めが勝手にアメリカ史のルネ・ジラールと呼んでいるリチャード・スロットキンの著名な三部作のうちの一冊『Gunfighter Nation』に書かれている。ちなみにこの本で扱われている西部劇の題名、配給会社、監督、制作年は820頁からの「Selected Filmography」に一覧されている。ちなみにスロットキンの三部作はお薦めだけど、いずれも大著で、しかも刊行がオクラホマ大学出版局であるため、冒頭で述べた理由ですでに廃本になっているのかもしれない。

 

しかし『駅馬車』は「冷戦イデオロギー」の例としては時代錯誤だべさというだけの話なのに対して、『シェーン』は著者の論旨全体にとっても完全な的はずれで、「あのあのあの! 「白人男性の自由」とか、「国家一丸となって、先住民に対して強硬な迫害を推進した、アメリカ帝国の実像」とかおっしゃっていますが、『真昼の決闘』なんかと同じで、基本的に『シェーン』には白人しか出て来ないんですが…。ピックアップする映画を完全に間違えているべさ」と言いたくなった。新書本の著者があげている『駅馬車』のような西部劇がかなりあるのは確かとしても、彼自身が、「西部劇とはすべからくして、インディアンを卑怯で残忍な民族に仕立て上げて、白人がそれを成敗するという白人至上主義的なとんでもない映画なのだ」という、左に偏向したクリーシェに染まっているという印象を受けざるを得ない。『シェーン』は明らかにその範疇には入らない。だってインディアンが一切出て来ないんだから(ただ会話の話題には登場したかもしれない)。それだけでは不十分なら、『シェーン』の本質を論じた専門の学者の見解を二つほどあげてみましょう。瑕疵とも言える著者の記述をもとに長々と講釈を垂れるのは公平ではないとはわかってはいるけど、有名な映画であるにもかかわらず『シェーン』を誤解している人はかなりいると思うので、ちょうどよい機会なのでこの場を借りて少し長く紹介しておきましょう。

 

一つは先に紹介したリチャード・スロットキンの『Gunfighter Nation』で、それによれば、『シェーン』に描かれているホームステッダーたちは、経済的な進歩(economic advancement)と政治的なデモクラシー(political democracy)を象徴しているのだそうな。たとえば、ライカー一味が武力を前提とした脅しで物事を解決しようとするのに対して、ホームステッダーたちは、ジョー(バン・ヘフリン)を中心として会合を開き、話し合いで万事を解決しようとするわけ。つまり、そこには新規参入者であるホームステッダーたちと、インディアンとの戦いなどを通じて暴力の時代を生き延びてきた先住者(原住民のことではなく、ホームステッド法が施行される前から西部に来ていた白人という意味)との基本的な考え方の相違が、この映画の主題の一つになっている。アラン・ラッド演じる風来坊のシェーンは、表面的にはいかにもアメリカの「白人男性の自由」を体現するキャラクターに見えないことはないとしても、彼が根無し草であることを示す有名なラストシーンからもわかるように、それを礼賛しているわけではない。確かにホームステッド法自体は、先住民の土地を取り上げて白人(や黒人)にばらまくという、連邦政府による強権的かつ非道なバラマキ政策であったと言える。ちなみにホームステッド法では、公有地に五年間住んで土地の改良を行なった開拓者に、一六〇エーカーの土地を払い下げると規定されていたのだそう。でも『シェーン』は、西部開拓をバラ色に描いているのではなく、このホームステッド法のせいで生まれた白人同士の争いを描いているのであって、この法の施行によって生じた問題の一つをテーマにしているのですね。そこを勘違いしてはならない。

 

二つ目の専門家の見解は、コロラド大学名誉教授で映画論を専攻するウィル・ライトの『Sixguns & Society』によるもの。まず指摘しておくべきは、ウィル・ライトは、サヨナラ、サヨナラのおっちゃんや小森のおばちゃんのような単なる映画評論家ではなく学者なのでクロード・レヴィ=ストロースの構造分析やヴラディミール・プロップの物語理論などに依拠して自説を展開しており、西部劇を「クラシカル・プロット(Classical Plot)」タイプ、「復讐バリエーション(Vengeance Variation)」タイプ、「過渡期テーマ(Transition Theme)」タイプ、「プロフェッショナル・プロット(Professional Plot)」タイプの4つに分類している。その具体的な内容は長くなるため説明しないが、『シェーン』は「クラシカル・プロット」タイプに分類されていることを念頭に置かれたい。さて彼によれば、『シェーン』に見られる対立の構図は「白人」対「先住民」なのではなく(先住民が一切出て来ないんだから当たり前田のクラッカーだわな)、「内部」対「外部」、「善人」対「悪人」、「強者」対「弱者」、ならびに「荒野」対「文明」というものになる。ここで同書に沿って一つずつ説明していきましょう。

 

「内部」対「外部」の区分は、ヒーローを社会から区別するための区分であり、「シェーン」の場合で言えば、社会の外部に位置するシェーンと、社会の内部に位置するホームステッダーたちが区別されている。「クラシカル・プロット」タイプでは、ライカー一味や雇われ殺し屋のウィルソン(ジャック・パランス)のような悪漢の占める位置は微妙であり、ときに社会の外部に位置することもあれば、社会の内部に位置することもある。ウィル・ライトによれば、「内部」対「外部」の区分は、「シェーン」の中では、流浪のイメージ(外部)と、家族とともに暮らす定住生活(内部)のイメージによってコード化されているとのこと。住む家を持たないシェーンには、家族も友人もいないのに対し、ジョーらのスターレット家は、家族で定住生活を営んでいる。重要な点を指摘しておくと、そのような両者の違いが、視覚表現によって冒頭から映画鑑賞者の心の中に強烈に刻み込まれるのですね。たとえば、この作品は、たった一人で馬に乗って山から下ってきたシェーンが、煙突からは煙がたなびく生活臭に溢れたスターレット家の、フェンスで囲まれた敷地内を横切ろうとするシーンから始まる。このような視覚イメージを通じて、シェーン(外部)とスターレット家(内部)の間にある違いが鑑賞者に強く印象付けられるわけ。また、そのことは会話にも当てはまり、たとえば、冒頭、山を下りてきたシェーンは、「このあたりに私有地があるとは思っていなかった(I didn't expect to see any fences around here)」と言いながら、ジョーに通行の許可を得ようとする。また、その直後の食事シーンでは、どこへ行くのか尋ねるジョーに対して、シェーンは、「気の向くまま。見知らぬ土地へ(One place or another, someplace I've never been)」と答える。それに対してジョーは、「ここを出て行く時は棺桶の中だ。・・・。ここに骨を埋める覚悟ってことさ。・・・初めてのわが家だ(The only way they'll get me out of here is in a pine box.・・・We've got our roots down here.・・・It's the first real home we've ever had)」と、自分に言い聞かせるように答える。また、シェーンは当初、村人が誰も着ていない鹿皮(buckskin)の服を着ている。つまり、映像、会話のあらゆる細部にわたって、シェーン(外部)とホームステッダーたち(内部)の差が際立たされているのですね。

 

次は「善人」対「悪人」という区分について。「クラシカル・プロット」タイプの西部劇においては、ヒーローももちろん前者に含まれるとはいえ、善人のおもなメンバーは、社会のメンバーということになる。ここで、「「クラシカル・プロット」タイプの西部劇においては」と但し書きを沿えたのは、たとえば「プロフェッショナル・プロット」の場合には、もはやヒーローが社会的な秩序を遵守する人であるとは必ずしもいえないから。一例を挙げると、ウィル・ライトが「プロフェッショナル・プロット」タイプに属する西部劇の典型例の一つとして挙げている『明日に向かって撃て!』のヒーロー、ブッチ・キャシディ(ポール・ニューマン)とサンダンス・キッド(ロバート・レッドフォード)は強盗であり、彼らは社会的な秩序を遵守する人たちではまるでなく、むしろそれを破る人たちなのですね。『シェーン』の場合には、「善人」対「悪人」という区分は、「ホームステッダー/ライカー一味」という対立構図に集約されている。ちなみにシェーンは前者に、ウィルソンは後者に属するとはいえ、この区分においては、むしろこの両者は、付随的な役割を果たしているに過ぎないと考えるべきでしょうね。

 

次は「強者」対「弱者」という区分。この区分は、ヒーローと悪漢という強者と、社会という弱者を区別する。言うまでもなく、『シェーン』では、シェーンとライカー一味が強者に、またホームステッダーたちが弱者に対応する。あたかもその事実を強調するかのように、ライカー一味のメンバーは、ほとんどが強壮な若いカウボーイであるのに対し、ホームステッダーたちの多くは、老人や女性たちであり、たとえ若者でも銃すら扱ったことのないような人々なのですね。人口統計学的に考えればこれほどアンバランスな構成になることはまず考えられないので、明らかに意図的にそのような配置がなされていることになる。しかも、ジョーを除くホームステッダーたちのなかでただ一人、腰にガンベルトを巻いて強がっていた若いトーリーも、ウィルソンを前にしては赤子も同然のように撃ち殺されてしまうわけ。

 

最後に「荒野」対「文明」という区分について。この区分は、ヒーローを、社会と悪漢から区別する。「civilization」なので「文明」と訳したけど、実際は「社会」に近いと考えた方がよいかもしれない。でもそうすると、この区分と「内部」対「外部」区分とどこが違うのかということになるかもだが、それについてウィル・ライトは、次のように説明している。「内部」対「外部」区分でいうところの社会の「内部」とは、ある人が社会のなかで出自、職業、責任を明確に持つことを意味するのに対して、「荒野」対「文明」区分で言うところの「文明」とは、ある人が金銭、あるいは工業製品などの(アメリカ)文化の恩恵を受けていることを意味する。従って、たとえば、ウィルソンは、前者の意味では、とても「内部」に属しているとは言えないのに対し、後者の意味では、明らかに「荒野」ではなく「文明」に属していることになる。鹿皮の服を着たシェーンは、作品全体でただ一人「荒野(wilderness)」を象徴するのに対して、都会のギャンブラーのような出立ちをした賞金稼ぎのガンマンであるウィルソンは「文明」の側に属していることはその服装からも明確化されている。

 

詳細は省略するが、まさにこの「荒野」の持つ神話的なイメージは、西部開拓史、及びそれを題材とした映画や文学の中で極めて重要な要素として機能しているのであり、前述したリチャード・スロットキンの西部開拓史三部作の大きなテーマの一つもそこにある。『シェーン』は、主人公のシェーンが山(荒野)の方角からやってくるシーンから始まり、彼が山(荒野)の方角へ去っていくシーンで終わる。まさに、シェーンの姿を借りて、西部開拓史における荒野の神話が、しかと体現されていると見なすことができる。『シェーン』では壮大な山々の姿がしばしばバックグラウンドとして映し出されるけど、それはまた主人公のシェーンを象徴するイメージでもあるのですね。ウィル・ライトによれば、『大いなる西部』が興行に失敗したのは、東部出身の都会人を主人公に据えたからだと述べている。それとは対照的な『シェーン』の成功は、鑑賞者の期待を決して裏切ることなく、西部開拓史の荒野の神話がまさに余すところなく描かれているところにある。ただし個人的な見解としては『大いなる西部』の失敗は主演のグレゴリー・ペックにもあると見ている。彼はよく言えば朴訥で、悪く言えば大根っぽい役者だから、東部からやって来た紳士というタイプにまったくそぐわないのですね。『ローマの休日』のペックの役をもし当初言われていたとおりケーリー・グラントが演じていたら、今に残る名作にはなっていなかったかもしれない。というのもケーリー・グラントは、ケーリー・グラント的イメージを強烈に画面に投影してしまうところがあって(それを本人自身も嫌っていた)、間違いなくオードリーを完全に喰ってしまっていたはずだから。あの映画のペックの役は目立っていてはいけないのですね。だからローマという瀟洒な都会を舞台にした映画であっても、ケーリー・グラントより、朴訥なイメージを与えるペックのほうがはるかによかったわけ。それ以外の都会を舞台にするペック主演の映画(『灰色の服を着た男』や『バラの肌着』など)が軒並みコケたのには、彼が与えるイメージが都会にはそぐわないという理由があったのだと思う。おっと! 脱線に脱線を重ねてしまった。ちなみにストットキンやライトがみごとに分析しているような「荒野」のイメージが失われたことを象徴的に示しているのが、一八九〇年に宣言された、当時の歴史家フレデリック・ターナーによる「フロンティアの消滅」だったと言える。これについては『〈選択〉の神話』も参照されたい。長大な脇道をしてしまったが、1950年代から70年代のアメリカ映画のファン(ただし西部劇はあまり好きではないが)としては、著者の記述は明らかに誤解を招く怖れがあるので黙ってはおられず、西部開拓史の専門家の意見も紹介しておくことにしたのですね。

 

ということで、次の「帝国化と民主化の拡大」に参りましょう。まず現在の共和党と民主党の起源が次のように説明されている。「一八二四年以降、徐々に民主共和派の凝集性も弱まり、一八二五〜二九年のアダムズ政権ののち、ジャクソンが第七代大統領に就任。選挙権の大幅な拡大を背景に、ジャクソニアン・デモクラシーと呼ばれる民主政治の発展をもたらしたとされる。ジャクソンは一八三七年まで大統領を務めた。この間、大統領選の勝利を目的に民主党が結党されると、ジャクソンに反発する側もウィッグと呼ばれる政党を結成した。のちに共和党にとって代わられるが、今日のアメリカの二大政党制もここらへんに源流がある(198頁)」。と、述べたうえでさらに次のようにある。「この時代の大きな流れとしてまず押さえておくべきは、アメリカの「帝国」化と民主政の進展とが、同じ事象の表裏として展開されることである。前者の背景にあったのは、ヨーロッパ列強との確執が解消されていき、合衆国が連邦国家としての地位を国際的に確立していくことだ。ヨーロッパ列強とはフランス、イギリス、スペインである。これらの国々はこの頃、複雑な対立状況に置かれており、アメリカもそれに対応せざるをえなかった。つまり、ナポレオンの台頭によって、イギリスを除くヨーロッパ各国をフランスが攻め落としていく、という展開である(198頁)」。もちろん著者は、帝国化と民主政のあいだに因果関係、あるいは相関関係すら見出しているわけではないとしても、少なくとも民主政によって帝国化が防がれるわけでは必ずしもないことがわかる。ところでナポレオンに言及されているのであえてつけ加えておくと、ナポレオンは、フランス革命によって成立した国家を維持、つまり保守し、拡大しようとしていたのであり、フランス革命の申し子だったとも言える。それに対して、フランス革命前の絶対王政への回帰を目指した、ナポレオン後のウィーン体制は「保守反動」と呼ばれている。どちらも「保守」と呼べるにもかかわらず、内実はまったく逆なわけ。このように「保守」という用語は、何を保守するのかという内実を抜き取って用いられることが多々あるので注意したほうがよいでしょうね。

 

では、帝国化と言うのなら、モンロー主義という引き籠り主義はどう捉えればいいのかということになる。モンロー主義に関しては次のように書かれている。「この際[ハイチ独立後、相次いでヨーロッパの植民地が独立運動を起こしていた際]、神聖同盟と呼ばれるフランス、ロシア、オーストリア、プロイセンといった大国が独立運動に対して介入してくるとの噂が流れた。これを{牽制/けんせい}しようとしたのがイギリスである。つい数年前までさんざん争った敵国アメリカに、しれっと「対等なパートナーとして、新大陸に介入するなという共同声明を出しましょう」とお世辞とともに持ちかけてきた。むろん、腹のなかでは他のヨーロッパ諸国を押しのけて、中南米に大英帝国の影響力を拡大しようとする企みである。¶アメリカの政治家たちは、うろたえた。カルフーンはイギリスの要求をのむように主張。モンロー大統領にアドバイスを求められたジェファソンとマディソンも同種の意見だった。だがモンローは、アダムズ国務長官の{毅然/きぜん}たる意見に従った。つまり、イギリスとの共同声明ではなく、単独で、イギリスを含め、ヨーロッパは新大陸に介入してくるな、と表明したのである。これが、モンロー・ドクトリンと呼ばれるものである(210〜1頁)」。つまりモンロー主義とは、新大陸に対する欧州列強の介入を阻止しようとする主義であり、自分たちの拡張政策、帝国化とは表面上は無縁であることになる。だが著者は、モンロー主義による欧州列強からの外交的独立は、話半分にすぎないとして次のように続けている。「以上のようにしてアメリカは徐々に欧州列強から外交的独立を果たした、とここまでのストーリーをまとめることができる。ある種のサクセスストーリーである。¶しかしこれは表半分の話に過ぎない。裏半分は何か。欧州列強の影響力が徐々に排斥され、それまでの政治権力に空白が生じ、北アメリカ大陸の権力バランスが崩れたことだ。その結果生じたのが、先住民の迫害の激化と、彼らの土地が白人(やあるいは解放された黒人の)入植者によって奪われていく、{西漸/せいぜん}運動と呼ばれるものである。これを支えたのが、強い連邦国家であり、連邦憲法である(211〜2頁)」。先にも述べたとおり西漸運動を帝国化に結びつけるのはやや強引な印象を受ける。ただし次の事実は考慮しておく必要があるでしょうね。北米大陸内での帝国の拡大は、拡大する土地があってこそ可能になる。ところがこれも先述のとおり、1890年には「フロンティアの消滅」が宣言される。つまり北米大陸内にはもはや拡大すべき土地が存在しなくなる。すると海外に目を向けざるを得なくなる。そしてモンロー主義は、欧米列強の新大陸への介入を阻止しようとする試みであるにすぎず、自分たちが海外に出て行くことを防ぐものではない。その意味では、西漸運動は帝国化の初期の段階として見なしうるように思える。

 

最後に著者は「アメリカ革命の終わり」という節で、思想家で詩人のエマソンを引き合いに出して次のように述べている。「アメリカの民主政は、アメリカ人自身にとっても高く評価されるようになった。アメリカの「知的な独立宣言」とのちに評価されるエマソンの「アメリカの学者」(一八三七年)は、その最も有名な例だ。¶「生まれ合わせたいと願うような時代があるとすれば、それは革命の時代ではないでしょうか。……古い時代の歴史的栄光を、新しい時代の豊かな可能性が補うことのできる時代にこそ、生まれたいと願わないでしょうか。」¶エマソンはそのように訴える。エマソンいわく、今日の時代の兆しとしてあるのは、個人を重視する動きだという。栄光ある過去を闇雲にありがたがらず、自分で前に進む。自分自身の足で歩け、自分自身の手を動かせ、自分自身の心を語れ――エマソンはハーバード大学に集まった聴衆を前に、そう語った(223〜4頁)」。エマソン自身の言葉に関しては「古い時代の歴史的栄光を、新しい時代の豊かな可能性が補う」とあるので、必ずしも既存の社会を無視した個人優先主義を唱えているようには聞こえないものの、三番目の段落(¶が段落替えを意味する)の説明は、フランス革命には当てはまっても、著者の言うアメリカ革命にはそぐわないという印象を受けざるを得ない。そこにはJFKが大統領就任演説で述べた言葉が示すような共和主義的要素がまるで見られないからね。余談になるけど「自分自身の心を語れ」というのは、いかにも欧米的な見方で、わが訳書『文化はいかに情動をつくるのか』の著者バチャ・メスキータは、そのような考えが欧米特有のMINE型インサイド・アウト情動に基づくものであって、日本を含めた、欧米以外の諸国で見られるOURS型アウトサイド・イン情動と決定的に異なると論じている。なおMINE型インサイド・アウト情動とOURS型アウトサイド・イン情動とは何かについては同書を参照して頂きたいが、ここではとりあえず前者は個人を重視し、後者が文脈(文化、宗教、人間関係)を重視するとだけ述べておく。

 

あとは「終章 南北戦争へ」が残っているけど、たった5頁しかないこの章はスキップする。ということで、最後まで「アメリカ革命」という言い方に対する違和感は消えなかったけど、それは個人の印象に過ぎないし、「アメリカ革命」と呼ぶ場合も多々あるので、私め以外の読者は、そこは気にせんでもいいでしょうね。あと、本書にとって大きな意味があるとも思えない『シェーン』に関して長々と書いたのは、この映画がアメリカ開拓史の重要な側面を捉えていると私めが考えているからであって、著者の批判を最終目的としているわけではないと述べることで、この本に関しては終わりにしましょう。

 

 

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※2024年9月5日