道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 毛呂山・市場掘割状遺構  ◆◆◆◆◆◆

市場の掘割状遺構

毛呂山町の街道跡は高麗川と越辺川の間に挟まれた平坦な台地上に1キロメートル以上にわたり残されています。坂戸市の森戸から毛呂山町に入った街道は、西は市場・川角、東は西大久保・大類の境を越辺川岸まで続いています。この辺りはたまたま土地開発から逃れていて、埼玉県内でも鎌倉街道跡としては、最も良好な状態で現存しているところなのです。県道川越越生線の、北の水田地帯を流れる葛川という小川があります。その小川から200~300メートル北西には、小字大林坊と西大久保字谷ノ中の境の雑木があり、その雑木林内に南北に約200メートルに及ぶ鎌倉街道と伝わる掘割状遺構が残されています。

市場と西大久保の境の掘割状遺構の案内標示

ここの掘割状遺構は昭和56年(1981)に歴史の道調査の一環として発掘調査が行われています。調査では中世の道路遺構が検出され、掘割状遺構が鎌倉街道であった可能性が指摘されました。掘割状遺構という地表の姿は、中世の道がそのまま残っているということなのでしょうか。それは驚きを越えた神秘的なものに感じられるものです。

市場の県道川越越生線を西に2~3キロほど行ったところは『吾妻鏡』に出てくる毛呂氏の本拠地とされる地域です。重要文化財に指定されている社殿のある出雲伊波比神社は毛呂氏の氏神的存在であったと考えられています。また出雲伊波比神社では鎌倉武士の間で盛んに行われた流鏑馬の行事が毎年11月に行われています。

掘割状遺構

ここの掘割状遺構に入るには、北側の川越養護学校前、現在の町道が西から合流する地点(このページの一番上の写真のところ)にある鎌倉街道遺跡の案内標示が立っているところからで、山林の中を南へ踏み跡を辿って入って行くことになります。夏場は雑草が藪状に生い茂り、山林内ですのでヤブ蚊が多く、また蛇なども出て来るかも知れません。それなりの覚悟を持って入ることになります。自然の中で遊ぶことの少なくなった現在の若者達には、このような藪中に入ることは、ちょっとした勇気が必要かも知れません。また山林とはいえ、あくまでも他人の土地の中に入っていくのですから、それなりの道徳的心掛けは忘れないようにしてください。

掘割状遺構

先にも書きましたが、ここの遺構は昭和56年(1981)に発掘調査が行われています。報告書には、町道から南に28メートル地点と、90メートル地点の2カ所のトレンチ調査を行い、各遺構を横断する形で幅50センチメートルの発掘区を設定したとあります。現状での掘割状遺構は上幅10~12メートル、下幅5~7メートル、深さ0.5~2メートルを測るとあります。

第一トレンチでは東西に残る見かけの立上がり部分を含み、幅50センチメートル、長さ14メートルを設定しています。発掘前の形状は、西側が約1.4メートルの立上がりで、東側は約1メートルの立上がりを示していて、中央部は幅4メートルの平坦面となっていたそうです。土層は自然堆積で、トレンチの中央部は現地表面より30センチメートル部に幅3メートルの平坦面を検出し、平坦面の東西両側には溝が掘り込まれていたと書かれています。

掘割状遺構

第二トレンチでは第一トレンチ同様、東西に残る見かけの立上がり部分を含み、幅50センチメートル、長さ14メートルを設定しています。発掘前の形状は、西側が約50センチメートルの立上がりで、東側も約50センチメートルの立上がりを示していて、中央部は幅4メートルの平坦面となっていたそうです。覆土は自然堆積で、発掘により検出された平坦面は幅5メートルで第一トレンチ同様茶褐色を呈し、踏堅めたような状況は呈していなかったとあります。また平坦面の両側にはやはり溝が検出され、そのうち東側は並列した二条の溝が検出されたとあろます。
以上の調査結果から60メートル離れた両トレンチは、非常に類以した結果が指摘でき、両者とも両側の立上がり部に溝を所有し、平坦面と溝は同時に形成され使用された一体の遺構であることを示し、そしてそれは道路的意味合いを有する遺構と推測できると書かれていました。

掘割状遺構

現在埼玉県内を通る推定鎌倉街道上道には、次の掘割状遺構が確認されています。

掘割状遺構

掘割状遺構の残る雑木林の北側は、西側から合流する現在の道に繋がります。下の写真の道の奥の林が掘割状遺構があるところです。写真の道はその遺構からの続きと確認できる現在の道で、ここから先の北に向かう道沿いのところどころにも遺構のような地形が確認できます。写真の道の右手には県立川越養護学校があります。ここから北へ越辺川岸までは鎌倉街道そのものの道であると推測され、現在も未舗装の砂利道を歩くことが出来るのです。この道は毛呂山町の鎌倉街道散策のメインストリートであり、鎌倉時代から戦国時代の武者達等が通り抜けていったことを想像しながら、古道散策をしてみてはいかがでしょうか。

掘割状遺構の山林と養護学校前の古道

追記・・・
平成22年に毛呂山町市場・西大久保の境界にある掘割状遺構は、山林の西側の樹木が伐採されてしまいました。その後掘割状遺構の2地点でトレンチの発掘調査が行われています。調査の結果については具体的なことはわかりませんが、伐採後の掘割状遺構そのものは平成27年現在でもそのままの状態で残されています。

毛呂山町市場・西大久保境界の道路遺構-伐採

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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