道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 将軍沢・掘割状遺構 ◆◆◆◆◆◆

将軍沢掘割状遺構

このホームページを作成時から、埼玉県教育委員会による『歴史の道調査報告書・鎌倉街道上道』に、笛吹峠から北の車道の東側と西側に掘割状遺構が確認されていることをホームページ作者は知っていました。その遺構を見るために車道脇の藪の中へ入って行きました。そして掘割りらしき地形は確認できましたが、あまりにも笹藪がひどくてその全体像がつかめず、写真も撮影することもできなかったのでした。そのことは鳩山・笛吹峠のページに書いてあります。

将軍沢の掘割状遺構

平成13年12月に、小川町と嵐山町に出掛けたその帰路に、しばらく振りで大蔵側から笛吹峠へと向かっていますと、将軍沢の前川の橋から上り道になり始めた付近の車道西側が以前と違う雰囲気であることに気がつきました。何が違うのかといいますと、以前は笹藪に覆われていたところが、藪が刈られていて綺麗にサッパリとなっていたのでした。その時は私は車でしたので、少し先まで進み車を止められるスペースがあるところに車を置いて、歩いて藪が刈られているところまで戻ってみました。

◆◆注意◆◆
ここの掘割状遺構は車道のすぐ脇なので、車から降りて拝見することができますが、ここの車道は車を止める余地は全くありません。しかも車道はカーブしていて、見通しがききません。路肩に車を止めることは交通の妨げになるばかりか、事故のもとにもなり兼ねません。車で見学にこられた方は、必ず笛吹峠の駐車場に止めて、ここまでは歩いて来てください。

将軍沢の掘割状遺構

日没の早い12月のことで、あたりは薄暗くなりかけていましたが、わざわざ先に車を止めて少し歩いて戻ってみたのは、そこが掘割状遺構があるらしいことを確認していた地点だったからなのです。もしかしたらその掘割状遺構が見られるかも知れないと歩いて戻ってみると、「・・・ある」、以前まで藪で入ることもできなかったここに、見事な掘割状遺構が姿を現していました。
(このページのこれらの写真が鎌倉街道の掘割状遺構で間違いないと断定はできませんが、『歴史の道調査報告書』に記されている遺構であることは、ほぼ間違いないと思います。)
ホームページ作者はその一週間後にデジカメを持って再び訪れました。写真はすべてその時に撮影したものです。

将軍沢の掘割状遺構

笛吹峠から北の将軍沢へ下る車道の西脇に鉄塔を見た後、西側に緩やかにカーブし始めます。その付近の西側山林内から掘割状遺構は始まります。遺構は車道と並行するように西にカーブしていて、峠道を下りきる少し手前で掘割の窪地は土橋状に埋められているようです。しかし、その土橋状のすぐ北側にも掘割りが続いているようです。土橋状のところから先は藪のままで、最終的にどこまで続いているのかははっきりしません。全体としては約200メートル位の長さで、幅は掘割の底が3~5メートル位で、埼玉県内の他の掘割状遺構とほぼ同じ位の幅と思われます。
これだけ見事な掘割状遺構はホームページ作者自身も久々に拝見するものでした。おそらく人為的に造られた切通し道の跡と思われます。ところでこの掘割りは現在の車道が出来る前の道であったのか、或いはもっと古い廃道跡なのか、そのあたりを知りたいところなのです。

将軍沢の掘割状遺構

『歴史の道調査報告書・鎌倉街道上道』によるとこの遺構の規模は上幅約10メートル、下幅約6メートル、深さは約2メートルを測り、約250メートルの長さであったと記されています。
ホームページ作者は笛吹峠の駐車場に車を止めて、この遺構まで歩いてきましたが、途中の、以前には確認できなかった、笛吹峠付近の車道東側の掘割状遺構と思われる地形も新たに確認できました。しかしそこは藪のままで遺構の中までは近づけない状態です。
ところで何故、今になって藪が刈られたのか、そして土地の人はここが街道遺構であることを知っているのかが気になります。ここの地形を壊すような開発があるとは思われませんが、個人的には鎌倉街道跡として整備保存して頂けると嬉しく思います。これだけの規模の遺構は大変貴重だと思います。できれば街道跡として調査なども行われれば良いのではないかと願っています。

将軍沢の掘割状遺構

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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