道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 嵐山・二瀬  ◆◆◆◆◆◆

二 瀬

ここは嵐山町菅谷館跡西側の道路を南に坂を下りたところで、槻川と都幾川が合流する地点にあたり「二瀬」と呼ばれています。この周辺は自然の景観が美しく、また史跡も多いところで散策するにはとても良いところです。左の写真の中央から奥に向かっての流れは都幾川です。遠くの山並みの手前の森の中には木曾義仲ゆかりの鎌形八幡神社があり、その近くには班渓寺という木曾義仲の妻、山吹姫の墓がある寺もあります。かつて畠山重忠は木曾義仲の軍と戦ったことがあり、菅谷の館から見える鎌形の地をどのように眺めていたのでしょうか。

嵐山町槻川と都幾川の合流地点の二瀬

下の写真の奥に流れる川は、右よりの山(大平山)の山麓方面から流れてきている槻川です。槻川は奥武蔵の東秩父村白石付近を水源とする川です。大平山の山麓には嵐山渓谷があり、天気の良い日には、川遊びやバーベキューなどを楽しむ人達で賑わっています。この二瀬から槻川の一つ上流の橋は槻川橋といい、その川端には新しい平成楼という温泉施設があります。大平山の北側の麓には、かって壮大な規模の寺院であった平沢寺の跡があります。

槻川と大平山

二瀬の橋の道路を北に上ると菅谷館跡の西側で、ここには鎌倉街道の石碑が建っています。この碑があるところには、南北に掘割状の遺構と思われる地形があり、かってはこの掘割状遺構こそが鎌倉街道跡の遺構であると伝えられていました。この遺構では昭和56年の春から58年の春までの2年間の間に埼玉県教育委員会により発掘調査が行われ、その結果でこの遺構は道路遺構ではなく、城郭の堀(その後城郭の堀とするのに疑問視する意見もあるようです)であることが確認されたそうです。予想外の結果が出たことで、この鎌倉街道碑は肩身の狭い思いをして傾いているように見えます。それではこの菅谷館跡近辺のどこに本物の鎌倉街道が通っていたのでしょうか・・・? しかしここの遺構も歴史の流れの過程で堀が道と代わり、後の時代に鎌倉街道と呼ばれるようになり本道ではないかも知れませんが、道として使用されていたことがあったのでしょう。鎌倉街道が幻の道として伝えられてきたエピソードとして何かロマンを感じさせられる話しでした。

菅谷館跡西側の鎌倉街道の石碑

ここの遺構が鎌倉街道跡でないとすれば、菅谷館跡近辺のどこを鎌倉街道上道は通っていたのでしょうか。『歴史の道調査報告書・鎌倉街道上道』では菅谷館東隣にある国立婦人教育会館の敷地内を通っていた説があげられています。実際以前にはその敷地内に掘割状遺構が残っていたということでした。大蔵の向徳寺東側辺りから学校橋の付近で都幾川を渡り、国立婦人教育会館の敷地内を抜け嵐山町の市街、菅谷神社の辺りを通っていたというルートが想定されるようです。

菅谷館跡西側の鎌倉街道碑がある付近には山王古墳群があり古墳時代終末期のものだそうです。また道向かいにはオオムラサキの森活動センターがあります。

鎌倉街道の石碑付近の掘割状遺構

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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