道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 小川・天王原  ◆◆◆◆◆◆

下の写真は諏訪神社奉祀遺跡の南側の小道です。県道菅谷寄居線の奈良梨の交差点から少し北に行った付近から西に斜めに分かれる道があります。県道から分かれたこの道には万福寺と普賢寺の間に石垣の切通しなどが見られることから、ホームページ作者は以前にはこの道が鎌倉街道のルートではないかと思いこんでいました。しかし調べてみるとこの道は近世の川越・児玉往還であることがわかりました。この付近に諏訪神社奉祀遺跡への案内標示があり、行ってみると墓地の脇の砂利の小道の奥に石祠があり、それが諏訪神社奉祀遺跡であることを知りました。ここは普賢寺の北西にあり、その先にも小道が続いています。そして、この小道が鎌倉街道跡と思われるのです。

諏訪神社奉祀遺跡付近の旧街道

諏訪神社奉祀遺跡

天文11年(1542)信濃の諏訪氏は武田信玄に打ち滅ぼされてしまいました。この時諏訪家の姫が信玄の側室になり、後の諏訪勝頼を産んだ話はよく知られています。諏訪惣領家が滅ぼされた時に諏訪頼忠は難を逃れて武蔵国のこの地に流浪します。この時信濃一宮諏訪神社の御神体を頼忠は携えてきて、この地に奉祀したと伝えられ、それがこの諏訪神社奉祀遺跡です。御神体はその後に再び信濃に戻されたといいます。その後諏訪頼忠は後北条氏滅亡後に豊臣氏に属して、天正18年(1590)に一万二千石を与えられて奈良梨に陣屋を構えたといいます。

諏訪神社奉祀遺跡

奈良梨の天王原は諏訪頼忠の居址があったと伝えられているそうです。奈良梨から伊勢根に掛けて「千野」という姓の家が何軒かあるそうで、元は「茅野」と称して諏訪氏の家臣で頼忠と共に信濃より移り住んだと伝えられているようです。

奈良梨の天王原付近には街道散策にはとても良い道が残っています。そしてここより北には県内でも毛呂山町に次ぐ鎌倉街道掘割状遺構が雑木林の中に今も残させています。

奈良梨天王原付近の街道跡と思われる道

天王原の掘割状遺構

諏訪神社奉祀遺跡から北に向かった小道はやがてT字路になり写真の馬頭観音尊の前で終わっています。この馬頭観音尊は、つい最近(平成12年)迄はコンクリートの上の部分の青石のみが地面に立てられていて、草の多い時は草に隠れて見逃してしまうほどでしたが、今では綺麗に整備されたコンクリートの土台の上に立てられていて立派なものに変わっていました。
この馬頭観音尊の後ろの林は、この北にある低地へと下る地形になっていますが、よく見るとここには鎌倉街道跡の特徴である掘割状遺構が確認できます。『歴史の道調査報告書』によると遺構は上幅10メートル、下幅約6メートル、深さ約1.2メートルを測り、長さは約40メートルにわたって残っていると書かれています。ここの遺構は山林の中に入っていかなくても、道路から見ることができます。

天王原の掘割状遺構と馬頭尊

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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